春の健康診断と、戦慄の「脱走おじさん」
四月半ば。あかね商店街は、春の陽気に包まれて……いるはずだった。だが、アーケードに漂うのは、いつものたこ焼きの香ばしい匂いでも、揚げたてコロッケの誘惑でもない。それは、どこかツンと鼻を突く「消毒液」の匂いだった。
「嫌や! 俺は絶対に行かへんぞ! 健康診断なんて、病気を見つけに行くようなもんやないか!!」
魚屋の茂雄が、自分の店のシャッターを必死に掴んで叫んでいる。
「茂雄さん、往生際が悪いって! 市の集団検診のバスがもう広場に来てるんやから! ほら、正蔵さんも観念して連れて行かれたんやで!」
陽菜が、茂雄の法被の裾を掴み、力任せに引きずろうとしている。
「……やかましいな。……朝からジェット機のような声を出すな。……近所迷惑や」
喫茶「夕凪」の店先。弦が、白いエプロン姿で腕を組み、冷ややかにその様子を眺めていた。
「弦! お前からも言うてくれ! 俺は健康や! 毎朝、魚のウロコを剥いでるから握力は八十キロあるんやぞ!」
「……握力と中性脂肪に何の関係がある。……茂雄さん、あんたの顔色は、今朝並べてた『腐りかけのサバ』と大差ないぞ。……さっさと行って、自分の内臓に謝ってこい」
「サバ言うな!! 弦、お前、冷たすぎるわぁー!!」
その時だった。
「大変やぁぁーー!! 正蔵さんが、正蔵さんが脱走したでぇーー!!」
広場の方から、受付担当のボランティアの女性が悲鳴を上げて走ってきた。
「えぇっ!? 正蔵さんが!? なんで!?」
陽菜が驚いて手を離した隙に、茂雄も「今やぁー!」と脱兎のごとく路地裏へ消えていった。
「あーっ! 茂雄さんまで!! 弦ちゃん、どうしよう! 商店街の重鎮二人が、健康診断からバックレたで!!」
「……フン。……いい大人が揃いも揃って、注射の一本が怖くて逃げるとは。……情けない」
弦は呆れたように溜息をついたが、彼の鋭い眼光は、正蔵が脱走した方向――「あかね天満宮」の裏山を捉えていた。
「……陽菜。……お前は茂雄さんを追え。……あいつは単純やから、どうせ『源さんの居酒屋』の床下か、パチンコ屋の裏に隠れとる」
「弦ちゃんは!?」
「……俺は、あの『電気屋の老いぼれ』を捕まえに行く。……あいつ、さっきバリウムを飲んだ直後に逃げたらしい。……そのまま放っておいたら、腹の中で餅が固まるぞ」
「怖っ!! はよ行ってあげてぇー!!」
あかね天満宮の裏山、通称「迷子山」。新緑が生い茂る山道を、弦は驚異的なスピードで駆け上がっていた。
「……正蔵さん。……隠れても無駄や。……あんたが踏んだ落ち葉の音、五百メートル先まで響いとるぞ」
「…………。……チッ、耳ざとい男やな」
大きな岩の陰から、真っ白な液体を口の端に付けた正蔵が、観念したように姿を現した。
「……正蔵さん。……電気屋のくせに、自分の体の配線ショートしとるのを放置するつもりか。……さっさと山を降りろ」
「……嫌や。……弦、お前には分からん。……俺はなぁ、怖いんや。……もし、もし重い病気が見つかって、この街の連中と酒が飲めんようになったら……。……そう思うと、足がすくむんや」
正蔵の瞳には、いつもの威勢の良さはなく、小さな子供のような不安が揺れていた。弦は、一歩だけ歩み寄り、ポケットから一粒の「ミントタブレット」を取り出して自分の口に放り込んだ。
「……正蔵さん。……あんた、この街の街灯、誰が直してると思ってんねん」
「……え? そりゃ、俺やけど……」
「……あんたが倒れたら、あかね商店街は真っ暗や。……俺は、暗い中でコーヒーを淹れる趣味はない。……あんたが百歳まで街灯を灯し続けるのが、この街の『不文律』やろ。……病気を見つけるのは、それを守るための『修理』や」
「…………」
「……ほら、立て。……バリウムが固まって、あんた自身が『石像』になる前に戻るぞ」
一方、商店街の路地裏。
「捕まえたぁぁーー!! 茂雄さん、覚悟ぉーー!!」
陽菜が、ゴミ箱の陰に隠れていた茂雄の足を掴んで引きずり出していた。
「離せぇー! 俺はまだ、孫の結婚式を見るまでは死ねんのやぁー!」
「やから検診行くんやろ! ほら、弦ちゃんも正蔵さん連れて戻ってきたで!」
広場に戻った一行。弦に首根っこを掴まれた正蔵と、陽菜に羽交い締めにされた茂雄。その様子を見て、検診バスの医師も苦笑いしていた。
「……さあ、二人とも。……最後は、これや」
弦が差し出したのは、検診の結果……ではなく、喫茶「夕凪」特製の「秘密のいちご大福」だった。
「……なんや、これ。……ご褒美か?」
茂雄が、恐る恐る口に運ぶ。
「……あ、甘い……! いや、違う、この苦味は……!」
「……それは、俺が厳選した『肝機能に効く成分』を配合した特製の餡や。……お前らの腐った根性を叩き直すための味やな」
「弦ちゃん! また変なもん混ぜたん!? でも、これ……美味しい!」
一週間後。喫茶「夕凪」に、検診結果の通知を持った茂雄と正蔵がなだれ込んできた。
「弦! 見ろ! 俺の肝数値、奇跡のA判定や! 医者が『サバの化身か』って驚いてたぞ!」
「俺もや! 血圧、完璧や! これも全部、あの山での『説教』のおかげ……はへんけど、まぁ、感謝しといたるわ!」
二人は、さっそく「お祝いや!」と言って、隣の居酒屋へ駆け込んでいった。
「……ったく。……結局、酒を飲む口実が増えただけやないか。……やれやれ」
弦は、カウンターの中で、自分専用の深煎りコーヒーを啜った。
「弦ちゃん、お疲れ様。……でも、あんたの検診結果はどうやったん?」
陽菜が、意地悪そうな笑みを浮かべて覗き込む。
「……俺か。……俺は『鉄人』や。……医者が、俺の血管を流れるのは血液やなくてコーヒーやないかと言うとったわ」
「嘘つけ!! ほら、見せてぇな!」
陽菜が弦のポケットから結果表を奪い取る。
「……あーっ!! 弦ちゃん!! 『運動不足による筋肉の凝り』って書いてあるやん! 『もっと笑いましょう』って、精神面まで心配されてるでぇーー!!」
「……黙れ。……それは、お前の声がデカすぎてストレスが溜まっとるだけや」
「なんでやねん!! 私のせいにせんといて!!」
あかね商店街、四月の夕暮れ。
健康診断という嵐が去り、またいつもの騒がしい夜がやってくる。
へんこつ店主の毒舌と、看板娘のツッコミ。そして、元気すぎるおじさんたちの笑い声。
この街の「健康」は、最新の医療機器よりも、案外、こんな「なんでやねん」の応酬によって保たれているのかもしれない。
「……陽菜。……明日から、お前の賄は野菜中心にする。……『糖分の摂りすぎによる知能の低下』を防ぐためや」
「ひどぉーい!! 私、元気やもん! 肉食わせろぉーー!!」
商店街の夜空に、また一つ、正蔵が修理したばかりの街灯がパッと灯った。
その光は、どこまでも明るく、そして温かかった。
(第四十一話 了)




