エイプリルフールの嘘と、消えた「夕凪」の看板娘
四月一日。大阪・あかね商店街の頭上には、春の柔らかな日差しと、今にも零れ落ちそうな桜の花びらが舞っていた。だが、この街において「四月一日」は、ただの爽やかな春の日ではない。一年に一度、合法的に「人を担いでええ日」――エイプリルフールという名の、大真面目な悪ふざけの日である。
「弦ちゃん、ちょっと話があるねん……」
喫茶「夕凪」のカウンター。いつもは騒音レベルで明るい陽菜が、今朝はどういうわけか、消え入りそうな声で俯いていた。
「……何や。……朝から湿っぽい顔しおって。……コーヒーに湿気が混ざるわ」
店主の弦は、不機嫌そうにネルドリップの準備を続けていた。
「……うちな、この商店街を出ることに決めた。……実は、アメリカの超有名パティシエからスカウトされたんよ。……明日、成田から発つねん」
「…………」
弦の手が、ピタリと止まった。
「……アメリカ? パティシエ? ……お前、ホットケーキを焦がす天才のくせに、何がパティシエや。……嘘をつくなら、せめてもう少しマシな嘘をつけ」
「嘘ちゃうもん! これ、契約書やもん!!」
陽菜が差し出したのは、英語でびっしり書かれた(ように見える、落書きだらけの)紙だった。
「……ふん。……勝手にしろ。……せいぜい、自由の女神にたこ焼きでも食わせてこい」
弦が鼻で笑った、その時。店の扉が勢いよく開き、魚屋の茂雄と電気屋の正蔵がなだれ込んできた。
「弦! 陽菜ちゃん! ほんまなんか!? 陽菜ちゃんがアメリカに行って、二度と帰ってぇへんって聞いたぞぉぉーー!!」
「えっ、茂雄さん、なんでそれを!?」
陽菜が目を丸くする。
「商店街の掲示板に書いてあったんや! 『陽菜、世界へ羽ばたく。夕凪は今日で閉店。明日はあかね商店街でお別れパレード』ってな!」
「……誰や、そんな尾ひれをつけた奴は」
弦が苦々しく吐き捨てるが、時すでに遅し。商店街の伝達スピードは、光速を超える。五分後には、アーケード中に「陽菜、ハリウッドデビュー」だの「陽菜、アメリカ大統領の専属料理人に」だの、原型を留めない噂が駆け巡っていた。
「よっしゃ! 陽菜ちゃんの壮行会や! 街中の赤飯を買い占めて、だんじりを出せぇぇーー!!」
茂雄がメガホンを片手に絶叫し、正蔵が「陽菜ちゃんサヨナラ」と電光掲示板に打ち込み始める。
「ちょ、ちょっと待って! 茂雄さん! あれ、エイプリルフールの……!」
陽菜が必死に止めようとするが、街の人々はもう止まらない。
「陽菜ちゃん、これ持っていき! アメリカは寒いって聞くから、腹巻三枚や!!」
「これ、うちの店で一番高い漬物や! 向こうのパンに挟んで食いなはれ!」
八百屋もおヨネさんも、涙を流しながら次々と「餞別」を持って現れる。
「……弦ちゃん、ど、どうしよう……。嘘やなんて、もう言える雰囲気ちゃうで……」
山積みになった腹巻と漬物に囲まれ、陽菜が青ざめた顔で弦にすがりつく。
「……自業自得や。……お前が吐いた嘘やろ。……腹を括って、今すぐ成田へ走れ」
「冷たすぎるわ! 助けてぇな、弦ちゃん!!」
その時。商店街の広場から、地響きのような音が聞こえてきた。
「わっしょい! わっしょい!!」
見れば、茂雄たちが本当に「だんじり」を引っ張り出してきた。しかも、だんじりの屋根には「祝・世界進出! 陽菜」という巨大な垂れ幕が踊っている。
「……チッ。……バカ共が。……収拾がつかんようになっとる」
弦は、不機嫌そうにエプロンを脱ぎ捨てると、カウンターを乗り越えて外へ飛び出した。
「おい、茂雄! 正蔵! 手を止めろ!!」
「弦! お前も陽菜ちゃんとの別れが寂しいんやな! わかるぞ! さあ、一緒にだんじりを引いて、港まで送るんや!!」
「……港はあっちやない、逆方向や! ……いいか、全員聞け! 陽菜が行くのはアメリカやない。……『地獄』や!!」
「……はぁ!? 地獄!?」
商店街の動きが、一瞬だけ止まった。
「……あぁ、そうや。……陽菜は、アメリカのパティシエを装った『悪魔のスカウトマン』に騙されたんや。……あいつを今すぐ連れて行かんと、この街に呪いが降りかかる。……だから、今すぐ全員、店に戻って塩を撒け!!」
「…………」
静まり返る商店街。
「……弦、お前、何言うてんねん。……それこそ、どえらい嘘やろ」
茂雄が呆れたように鼻を鳴らす。
「……嘘やない。……証拠は、あそこの木の上や!!」
弦が指差した先。そこには、さっきの「嘘のスカウト状」を咥えた野良猫のトラが、不気味に目を光らせていた。
「あーっ! トラが契約書を!! やっぱり悪魔の使いやったんやぁー!!」
陽菜が、弦の意図を察して、狂ったように叫び始めた。
「助けて! 私、地獄に連れて行かれるぅぅーー!!」
「なんやとぉぉー!? 陽菜ちゃんを悪魔には渡さんぞぉぉー!! 追え! トラを追えぇぇーー!!」
ここから、あかね商店街を舞台にした、全代未聞の「悪魔(猫)追跡ドタバタ劇」が始まった。茂雄が網を振り回し、正蔵が「除霊用」のライトを点滅させ、街中の大人が猫一匹を追いかけて路地裏を爆走する。
十数分後。商店街の面々が、猫を見失って息を切らして広場に戻ってくると、そこには平然とコーヒーを淹れている弦と、神妙な顔で立っている陽菜の姿があった。
「……あ、弦! 悪魔はどうした!? 陽菜ちゃんは無事なんか!?」
「……あぁ。……俺が今、この『究極の魔除けコーヒー』をトラに飲ませて……やなくて、地面に撒いて追い払った。……もう大丈夫や。……ただし、呪いを解くために、陽菜は今後十年間、この街から一歩も出てはいけないという託宣が降りた」
「……えぇっ!? 十年も!? ……まぁ、陽菜ちゃんが無事なら、それでええか!」
茂雄が、これまた単純に納得して胸を撫で下ろす。
「……すんません、皆さん。……うち、しばらくこの街で修行し直します……」
陽菜が、必死に笑いを堪えながら頭を下げた。
「そうか、そうか! 良かったなぁ、陽菜ちゃん! さあ、地獄払いの宴会やぁー!! 余った赤飯、全部食えぇぇー!!」
こうして、あかね商店街の「お別れパレード」は、いつの間にか「生存を祝う大宴会」へと姿を変えたのだった。
夜。ようやく静寂を取り戻した喫茶「夕凪」。
「……ふぅ。……エイプリルフールなんて、二度と来るな」
弦は、山積みになった「餞別の腹巻」を片付けながら、深い溜息をついた。
「……ごめんね、弦ちゃん。まさか、あんな大芝居打ってくれるなんて思わへんかった」
陽菜が、カウンターの隅で申し訳なさそうに、余った赤飯を食べている。
「……お前の嘘を上書きするには、もっとデカい嘘をつくしかなかったんや。……おかげで、俺まで変人扱いや」
「……でも、弦ちゃん。……『十年は街を出るな』なんて、ちょっと長すぎへん?」
「…………」
弦は、コーヒーミルを回す手を止め、背を向けたまま静かに言った。
「……お前がおらんと、この店のコーヒーは……少しだけ、苦くなりすぎるからな」
「…………。……えっ、今なんて!? 弦ちゃん、それって、私のこと……!」
「……耳の掃除をしてこい。……『赤飯の小豆が歯に詰まって、喋りにくい』と言っただけや。……さっさと食って、閉店準備しろ。……明日は、エイプリルフールやない。……ただの、騒がしい四月二日が始まるんやからな」
「もー! ほんまに、最後まで可愛くないんやから!!」
あかね商店街、四月の夜。
舞い散る桜の下で、へんこつ店主の「優しい嘘」が、夜風に溶けていく。
この街のドタバタは、きっと明日も、明後日も、満開の笑顔と共に続いていくのだろう。
「……あ、弦ちゃん。茂雄さんが『悪魔の再来』に備えて、店の周りに一トンの塩を撒いてるで!」
「……通報しろ。……今すぐ、警察を呼べ!!」
(第四十話 了)




