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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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ホワイトデーの逆襲と、消えた「黄金のガナッシュ」

 三月半ば。あかね商店街のアーケードには、卒業式の帰りと見ぼしい学生たちの姿がちらほらと混じり、どこか少しだけ、せわしなくもセンチメンタルな空気が漂っていた。だが、その空気を一瞬でぶち壊すのが、この街の「男たちの悲鳴」である。

「助けてくれ、弦! ホワイトデーや! バレンタインに魚の干物をもらったばっかりに、俺の懐が今、マイナス三万キロカロリーなんや!!」  

 魚屋の茂雄が、喫茶「夕凪」のカウンターに突っ伏して叫んでいる。

「……何や、その意味不明な単位は。……やかましいわ」  

 店主の弦は、いつも通りネルドリップの準備をしながら、茂雄を一瞥した。

「……干物のお返しなら、海にでも帰ればええやろ。……それより、お前のその生臭い法被。……店の空気が濁る。……表へ出ろ」

「冷たいこと言うなや! 俺だけやない、正蔵も、おヨネさんの孫に何返せばええか分からんくて、さっきから電球の在庫を全部ピンクに塗り替えとるんやぞ!」

「……街全体がピンクになれば、立派な公害や。……やれやれ」

「弦ちゃん、そんなことより大変やねん!」  

 そこへ、トレイを抱えた陽菜が爆風のようにバックヤードから飛び出してきた。

「弦ちゃんが今朝から仕込んでた、例の『究極のホワイトデー・ガナッシュ』のレシピ……消えてるで!!」

「…………。……何やと?」  

 弦の瞳が、一瞬で氷点下まで下がった。


「『黄金のガナッシュ』……。……俺が豆の油分とカカオの比率をコンマ一グラム単位で調整した、あのレシピか」  

 弦がカウンターを飛び越え、バックヤードへ向かう。そこには、いつも置かれているはずの、使い古された「レシピノート」がなかった。代わりに残されていたのは、一粒の「サクラの花びら」と、小さな「足跡」だった。

「泥棒や! 弦の秘伝の味を盗んで、高値で売り飛ばそうとしとるに違いない!」  

 茂雄が、自分のことを棚に上げて鼻息を荒くする。

「……違う。……この足跡、それからこの匂い。……これは、ただの泥棒やない」  

 弦は、空中に鼻をひくつかせた。

「……陽菜。……お前、今朝、誰か怪しい奴を裏口で見かけんかったか」

「えっと……そういえば、ランドセルを背負った男の子が、えらい必死にレシピを覗き込んでたような……」

「……決まりやな。……犯人は、小学生か」

「小学生が、弦ちゃんのレシピを!? 何のために!?」

「……知るか。……だが、あのレシピには『劇薬』……やなくて、『猛毒』に近い隠し味を書き込んであった。……素人が適当に作れば、キッチンが爆発するぞ」

「なんでそんなもん書いてんねん!!」


 ここから、あかね商店街を舞台にした「ホワイトデー・レシピ奪還大作戦」が始まった。弦を先頭に、陽菜、そしてなぜか「お返しのアドバイスが欲しい」という下心でついてきた茂雄が、アーケードを激走する。

「見つけた! あそこの公園のベンチや!!」  

 陽菜が指差した先。そこには、一人の小さな男の子が、レシピノートを広げながら、地面に置いた「携帯用カセットコンロ」で何かを必死に溶かしていた。

「コラァー! 坊主! 弦ちゃんの魂のノートで何してんねん!!」  

 茂雄が「ダイビング・フィッシュ・アタック」の体勢で突っ込む。

「……待て、茂雄さん!」  

 弦が、間一髪で茂雄の襟首を掴んで止めた。少年の手元では、チョコレートが……いや、チョコレートに似た「何か黒いドロドロ」が、不気味な煙を上げていた。

「……あ、あう……。ごめんなさい、おじさん……」  

 少年は、弦のあまりの迫力に、今にも泣き出しそうだった。

「……おじさんやない。……マスターや。……で、その地獄の釜みたいな中身は何や。……毒ガスを生成しとるんか」

「……うぅ……。……僕、今度引っ越しちゃう隣のクラスの女の子に、どうしても『最高のお返し』をしたくて……。……でも、僕には何にも作れなくて。……あかね商店街で一番美味しいお店のレシピがあれば、僕にもできると思って……」


「…………」  

 現場に、奇妙な沈黙が流れた。陽菜が、鼻をぐずぐずと鳴らし始める。

「……弦ちゃん。……この子、一生懸命やったんやね……」

「……バカか。……一生懸命やれば、毒を作ってええわけがないやろ」  

 弦は、少年の手からそっとレシピノートを取り上げた。

「……いいか、坊主。……料理は『模倣』やない。『対話』や。……相手が何を欲しがっているか、それを自分の腕でどう表現するかや」

「……でも、僕、お菓子なんて作ったことないし……」

「……なら、今から教えろ。……俺のレシピを盗んだ『罰』や。……あかね商店街のルールを、体に叩き込んでやる」

「えぇっ!? 弦ちゃん、教えてくれるん!?」  

 陽菜が、パッと顔を輝かせる。

「……やかましい。……お前も手伝え。……茂雄さん、あんたは『特製の箱』を調達してこい。……見た目だけは、世界一にしてやる」

「おうよ! 任せとけ!!」


 喫茶「夕凪」のキッチン。弦の厳しい指導が始まった。

「……温度が三度高い。……攪拌のスピードが遅い。……そんな腰の入ってない混ぜ方で、女の心に届くと思うな!」

「は、はい! マスター!!」  

 少年が、顔にココアパウダーをつけながら、必死に泡立て器を回す。

 数時間後。そこには、弦の「黄金のガナッシュ」とは少し違う、不揃いで、どこか不格好な、だが宝石のように輝くチョコレートが完成していた。

「……できた……。……これ、僕が作ったんだ……」

「……フン。……俺の指導が良かっただけや。……さあ、冷めないうちに……やなくて、固まる前に行け。……お前の『春』が、待っとるんやろ」

「ありがとう、マスター! ありがとう、お姉ちゃん、魚屋さん!」  

 少年は、誇らしげに箱を抱えて、商店街を駆け抜けていった。


 夜。ようやく静寂を取り戻した喫茶「夕凪」。

「……ふぅ。……ホワイトデーなんて、ろくなことがないわ」  

 弦は、自分専用のブレンドを淹れ、一息ついていた。

「……でも弦ちゃん。……あの子、きっと上手くいくよね」  陽菜が、カウンターの端っこで、なぜか「期待の眼差し」を向けている。

「……知るか。……結果より過程や。……それより陽菜。……お前、俺が今朝、お前の分だけ別に仕込んでいた『特製ケーキ』のこと、いつまで気づかないフリをするつもりや」

「……えっ!? ……えぇぇぇーーー!!? 弦ちゃん、用意してくれてたん!? なんでそれを先に言わへんのよ!!」

「……騒がしいわ。……お前があまりに『収穫』とか物騒なことを言うから、出すタイミングを失っただけや。……ほら、食え。……賞味期限は、あと五分や」

「五分!? 無理やんか!! ……もー、ほんまに可愛くない男やねぇ!!」

 陽菜が、文句を言いながらも幸せそうにケーキを頬張る。  

 あかね商店街の三月。  

 冷たい風の中に、甘い香りと、人々の温かい体温が混ざり合う。  

 へんこつ店主の毒舌は、今日もこの街の「思い出」を、より一層深みのある一杯に仕上げていくのだった。

「……あ、弦ちゃん。茂雄さんと正蔵さん、お礼にって店先で『ホワイトデー記念・全裸ダンス』始めようとしてるで!」

「……通報しろ。……今すぐ、保健所と警察を呼べ!!」


(第三十九話 了)

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