激辛の恵方巻と、世界一不機嫌な赤鬼
二月初旬。あかね商店街のアーケードには、「鬼は外! 福は内!」という威勢の良い掛け声……ではなく、「ギャァァー! 辛い! 水、水持ってこぉぉーい!!」という断末魔のような悲鳴が響き渡っていた。
「ひっひっひ! どうや、俺が開発した新メニュー『阿鼻叫喚・マグマ恵方巻』の威力は! 厄除けどころか、体中の悪いもんが全部毛穴から噴き出すでぇ!!」
魚屋の茂雄が、真っ赤なハバネロパウダーを振りかけた巨大な太巻きを掲げ、悪魔のような笑い声を上げている。
「茂雄さん! 加減って言葉知らんの!? 試食した正蔵さん、さっきから水道の蛇口に口つけて離れへんねんで!」
陽菜が、鬼の角のカチューシャを激しく揺らしながら叫ぶ。
「……やかましい。……朝から地獄の釜が開いたような騒ぎをしおって」
喫茶「夕凪」のカウンターで、豆の選別に没頭していた弦が、不機嫌そうに顔を上げた。
「……茂雄さん。その巻物、食品衛生法以前に、人道的にアウトや。……そんなもんを食わせるくらいなら、最初から毒薬でも配っとけ」
「何を言うか弦! これはな、今年の恵方『南南東』を向いて、無言で完食すればどんな願いも叶うっていう……」
「……その前に、全員救急車で運ばれて終わりやろ。……それより陽菜、お前がさっきから握りしめているその『抽選箱』は何や。……嫌な予感しかせんぞ」
「あ、バレた? 今日の『あかね商店街・豆まき大会』の鬼役を決めるくじ引きやねん! ほら、弦ちゃんも引いて!」
「……断る。……俺は今、エチオピア産の豆と対話しとるんや。……鬼ごっこに付き合っている暇はない」
「ええから引けぇぇー!!」 陽菜の剛腕が、無理やり弦の手を箱の中に突っ込ませた。
一分後。静まり返った店内に、弦の乾いた声が響いた。
「…………。……白紙やな。……よし、不成立や」
「嘘つけ! 真っ赤な紙に、黒々と『特大の鬼』って書いてあるやんか!!」
陽菜が叫び、茂雄が「よっしゃぁー!」とガッツポーズを決める。
「……ハメたな、お前ら」
弦の瞳が、本物の鬼より鋭く光る。
「弦、往生際が悪いぞ! 商店街の伝統や。……ほら、衣装はこれや!」
正蔵が持ってきたのは、どこで調達したのか、やたらとリアルな筋肉の造形が施された赤鬼のスーツと、本物の毛皮を使った虎柄のパンツだった。
「…………。……これを穿けと?」
「そうや! 弦ちゃん、背が高いから絶対似合うって! 子供らも泣いて喜ぶわ!」
「……泣くのは、俺のプライドや。……絶対に嫌や」
「……あ、そう。じゃあ、今月のアイスクリームの仕入れ、全部『激辛ハバネロ味』に変えてもええねんな?」
「…………。……陽菜、お前はいつからそんな悪魔になったんや」
十分後。そこには、全身真っ赤なタイツに身を包み、虎柄パンツを穿き、手には巨大な金棒(段ボール製)を持った、「世界一不機嫌で、世界一スタイルの良い赤鬼」が誕生していた。
商店街の広場。
「さあ、みんな! 悪い鬼を追い払うでぇー!!」
茂雄の合図とともに、待ち構えていた子供たちが一斉に豆を投げつける。
「鬼は外ー!!」「鬼は外ー!!」
パラパラパラッ!! と、弦の顔面に無数の豆が直撃する。
「…………。……痛い。……おい、そこのガキ。……スナップを効かせるな。……それは豆まきやなくて、ただの遠投や」
「弦ちゃん、もっと鬼らしく暴れてぇな! 『ガオー!』とか言わなアカンで!」
陽菜が横から野次を飛ばす。
「……ガオー。……これで満足か。……腹立つわ」
そんな茶番が続く中、事件は起きた。茂雄が誇らしげに展示していた、景品の「純金(風)の延べ棒(中身は最高級の羊羹)」が、一瞬の隙に消え失せたのだ。
「…………ない! ないぞぉぉぉーーー!! 俺の、俺が自腹で買った(大嘘)黄金の羊羹がおらんようになっとる!!」
「泥棒や! 鬼に紛れて、本物の悪党が潜り込んどるんや!!」
正蔵が叫ぶ。
「……チッ。……結局こうなるんか」
弦は、重い金棒を放り投げると、赤タイツのまま驚異的なスピードでアーケードの出口へと走り出した。
「待て、弦! どこ行くねん!?」
「……犯人は、豆に滑って転んどるはずや。……さっき、一人だけ不自然な動きをしとった奴がおる」
あかね商店街の裏路地。そこには、風呂敷包みを抱えて必死に走る、一人の若い男がいた。だが、弦の予想通り、路地に散らばった「豆」に足を滑らせ、派手に転倒していた。
「……痛たた……。なんだよ、この街……豆ばっかり落ちてやがる……!」
「……『福』を盗もうとする奴に、豆が味方するわけないやろ」
背後から響く、冷徹な声。男が振り返ると、そこには夕闇の中で真っ赤に輝く、巨大な鬼が立っていた。
「ひ、ひぃぃぃー!! 本物の鬼だぁーー!!」
「……本物やなくて、ただの不機嫌な店主や。……さっさとその包みを置け。……さもないと、本気で『地獄』を体験させてやる」
弦が、赤タイツのまま一歩踏み出す。その威圧感は、段ボールの金棒を持っていなくても十分すぎた。男は腰を抜かし、風呂敷を投げ捨てて一目散に逃げ去っていった。
「……逃げ足だけは一流やな。……情けない」
弦は、泥のついた風呂敷包みを拾い上げた。中には、無傷の「黄金の羊羹」が入っていた。
「弦ちゃん、お疲れ様! さすが最強の鬼やね!」
広場に戻った弦を、陽菜たちが拍手で迎える。
「……二度とせんぞ。……このタイツ、股下が食い込んで歩きにくいわ」
「まぁまぁ、そんな固いこと言わんと! ほら、茂雄さんからお礼に、特製の恵方巻やで!」
茂雄が、例の『マグマ恵方巻』を誇らしげに差し出す。
「……いらんと言ったやろ。……俺は、自分で淹れたコーヒーで口直しを……」
「ええから食え! これを食わんと、あかね商店街の春は来ぇへんのや!」
陽菜が、弦の口に無理やり恵方巻を突っ込んだ。 しかも、今年の恵方である南南東を向かせたまま。
「…………(ムグッ!?)」
弦の目が、カッと見開かれた。次の瞬間、彼の顔は赤タイツの色を通り越し、紫、そして白へと変わっていく。
「……(…………辛っっっっっ!!!!)」
声を出してはいけないという「恵方巻の掟」と、あまりの激痛に叫びたい「生存本能」が、弦の脳内で火花を散らす。震える手。噴き出す汗。だが、弦は意地でも飲み込んだ。
「……ごくん。……茂雄。……明日、お前の店に『最高に苦い豆』を百キロ送りつけてやる。……覚悟しろ」
「あははは!! 弦ちゃん、完食したぁー!! 今年も安泰やね!!」
夜。喫茶「夕凪」の店内は、ようやく静寂を取り戻していた。弦は、虎柄パンツを脱ぎ捨て、いつもの黒いエプロンで、自分専用の極上のブレンドを淹れていた。
「……ふぅ。……舌の感覚が、ようやく戻ってきたわ」
「ごめんね、弦ちゃん。ちょっとやりすぎた?」
陽菜が、カウンターの隅で申し訳なさそうに、余った豆をポリポリと食べている。
「……いつものことや。……お前たちの暴走に付き合うのが、俺の『厄払い』みたいなもんやからな」
「……それ、どういう意味よ!」
「……そのままの意味や。……ほら、これ飲め。……胃の粘膜を保護するミルク入りのやつや」
弦が差し出したのは、温かくて優しい香りのするカフェオレだった。陽菜は、それを一口飲んで、ふにゃりと笑った。
「……あったまるぅ。……やっぱり、あかね商店街の春は、ここから始まるんやね」
「……やかましい。……さあ、閉店や。……明日は、店中の豆の匂いを取らなあかん。……お前も手伝えよ」
「えぇー! 明日はデートの予定が……」
「……誰とや。……どうせ、商店街の犬の散歩やろ。……却下や」
あかね商店街、二月の夜。
冷たい風の中に、笑い声と、少しだけ鼻につくハバネロの香りが漂う。
へんこつ店主の日常は、こうしてまた、騒がしくも愛おしい「春」を呼び込んでいく。
「……あ、弦ちゃん。虎柄のパンツ、洗い替えにもう一枚買っておいたで!」
「……捨てろ。……今すぐ、捨てろ!!」
(第三十八話 了)




