新春の餅つき大乱闘と、消えたポチ袋
一月三日。大阪・あかね商店街は、冷たく引き締まった空気の中に、蒸し上がったばかりのもち米の甘い香りが漂っていた。新春恒例の「あかね商店街・餅つき大会」。アーケードの下には、巨大な臼と杵が鎮座し、法被姿の大人たちが朝から酒を煽りつつ、気勢を上げている。
「ええか、正蔵! 餅つきってのはなぁ、『力』やない、『愛』なんや! お前みたいなヘロヘロの突き方じゃ、餅も愛想を尽かして固まるでぇ!!」
魚屋の茂雄が、顔を真っ赤にして叫んでいる。
「何を言うてんねん茂雄! お前こそ、勢いだけで中身がスカスカやないか! 去年のお前の餅、腰がなさすぎて『飲み物か!』って苦情が出たのを忘れたんか!」
電気屋の正蔵も、杵を杖のように突きながら一歩も引かない。
「……正月早々、視界がうるさいな。……やかましいわ」
喫茶「夕凪」の入り口で、腕を組んで冷ややかに眺めていたのが、店主の弦だ。
「……茂雄さん、正蔵さん。……餅を突く前に、その沸騰した頭を冷やせ。……あんたらの飛沫が飛んだ餅なんか、保健所が黙ってへんぞ」
「弦ちゃん、そんな冷めたこと言わんと! ほら、弦ちゃんも突いてぇな。あんた、怒らせたら一番力あるんやから!」
陽菜が、華やかな振袖姿……ではなく、動きやすさ重視の「もんぺに割烹着」という、昭和の肝っ玉母さんのような出で立ちで現れた。
「……誰が突くか。……俺は今から、今年最初の『完璧な一杯』を淹れる仕事がある。……バカ騒ぎに付き合っている暇はない」
「そんなん言わんといて! ほら、あそこの子供たちを見てぇな。みんな弦ちゃんの『本気の餅つき』楽しみにしてるんやで!」
陽菜が指差した先には、近所の子供たちが目を輝かせて待っていた。弦は、舌打ちを一つ。
「……チッ。……一回だけや。……腰を言わしたら、お前の給料から整体代を引くからな」
弦が渋々、杵を握ったその時だった。
「…………ない! ないぞぉぉぉーーー!! 俺の、俺の大事な『魂のポチ袋』がおらんようになっとる!!」
茂雄の絶叫が、アーケードを震わせた。
「茂雄さん、何やねん急に! ポチ袋って、お年玉?」
陽菜が駆け寄る。
「そうや! 孫のために、一ヶ月間酒を断って……はへんけど、コツコツ貯めた大金が入ったポチ袋や! 腹巻の中にしっかり仕舞うてたはずやのに!」
茂雄が腹巻をめくると、そこにはただの、だらしない脂肪だけが鎮座していた。
「泥棒や! この中に、俺の孫への愛を盗んだ不届き者がおるんや!!」
「……バカバカしい。……お前のそのガバガバな腹巻から、勝手に滑り落ちただけやろ」
弦は呆れ顔で指摘するが、茂雄はもう止まらない。
「嫌や、絶対誰かが抜いたんや! そうや、さっきから俺の周りをチョロチョロしてた正蔵! お前やろ、基盤の修理代に困って……!」
「何やと!? 濡れ衣も大概にせえ! お前の金なんか、こっちから願い下げじゃ!!」
正月早々の小競り合いが、一瞬にして大喧嘩に発展した。茂雄が杵を振り回し、正蔵が蒸したてのもち米を投げつける。
「食らえ、あかね流・粘着弾!!」
「あーっ! 餅で遊んだらアカンって! 弦ちゃん、止めてぇ!!」
ヒュッ、と空気を切り裂く音がした。
「……喧嘩なら、外でやれ。……食べ物を粗末にする奴は、俺の街におる資格はない」
弦が、茂雄の振り下ろした杵を、片手でがっしりと受け止めていた。その瞳は、北極の氷山よりも冷たく、そして鋭い。
「……茂雄さん。……そのポチ袋、色は赤か」
「……え、あ、あぁ。真っ赤な、金色の龍が描かれたやつや」
「……なら、犯人はあそこにおるぞ」
弦が顎で指差した先。商店街の野良猫「トラ」が、真っ赤な紙切れを口に咥えて、アーケードの梁の上を悠々と歩いていた。
「あーっ! トラや! アイツ、赤いもんが好きなんよね!」
陽菜が叫ぶ。
「待てぇーー!! トラぁーー!! それは俺の、俺の血と汗の結晶やぁー!!」
茂雄が猛追を開始する。トラは「フン」と鼻で笑うようにして、屋根伝いに逃げていく。
「……やれやれ。……陽菜、準備しろ。……新春・猫捕獲大作戦や」
「合点承知!!」
ここから、あかね商店街を舞台にした、全速力のドタバタ追走劇が始まった。トラは逃げ足が早い。八百屋の段ボールを飛び越え、散髪屋の看板を蹴り、路地裏の奥へと消えていく。
「追い込め! 袋小路や!」
正蔵が軽トラのクラクションを鳴らし、茂雄が「待て待てぇー!」とたこ焼きのソースをぶっかけようとする(意味不明)。
「茂雄さん、ソースはアカン! 汚れるだけや!」
陽菜が、もんぺの裾をまくり上げ、驚異的な跳躍でゴミ箱の上を飛び越える。
「……陽菜、右や! 正蔵さん、網を構えろ!」
弦は、最短距離を予測し、古びた物置の屋根へと駆け上がった。その身のこなしは、普段の「へんこつ店主」からは想像もつかないほど軽やかだ。
ついに、行き止まりの空き地でトラを追い詰めた。トラは、咥えていたポチ袋をポイと地面に落とし、「シャーッ!」と威嚇する。
「よし、今や! 茂雄さん、行けぇ!!」
「おうよ! 孫の笑顔は、このじいじが守るぅ!!」
茂雄がヘッドスライディングでポチ袋に飛びつく。だが、その瞬間。
ベチャッ!!
茂雄の顔面に、なぜか上空から「巨大な餅の塊」が直撃した。喧嘩の最中に誰かが打ち上げた餅が、ちょうどこのタイミングで落下してきたのだ。
「……ぶはぁっ!! なんや、前が見えへん! 顔が、顔が真っ白や!!」
「あははは!! 茂雄さん、鏡餅みたいになってるで!!」
陽菜が爆笑し、正蔵も地面を叩いて笑い転げる。
騒ぎが収まり、ポチ袋は無事に茂雄の手に戻った。中身も無事。茂雄は餅まみれの顔で、ポチ袋を愛おしそうに抱きしめている。
「……ったく。……世話の焼ける連中や」
弦は、屋根から飛び降り、エプロンの汚れを払った。
「弦ちゃん、ありがとう! やっぱり頼りになるなぁ」
陽菜が、弦の肩を叩く。
「……触るな、粉がつく。……それより、餅つきを再開するぞ。……冷めて固まったら、ただの石や」
境内に戻った一行。弦は、再び杵を握った。今度は、迷いも雑念もない。
「……行くぞ。……よいしょぉ!!」
ドォォーン!!
地面が揺れるほどの衝撃。弦の突き出す杵は、正確無比に臼の真ん中を射抜き、もち米を最高の弾力へと変えていく。
「よいしょ!」「よいしょ!」
陽菜の小気味良い合いの手と、弦の力強い音が響き合い、商店街の人々がいつの間にか手拍子を始めていた。
出来上がったのは、雪のように白く、赤ちゃんの肌のように柔らかな、最高級の餅。
「……美味い!! 何やこれ、弦! 魂が震える味や!!」
茂雄が、顔の餅を拭い去り、一番乗りで出来立てを頬張る。
「……フン。……火加減と蒸し時間を計算すれば、当然の結果や。……味に文句を言う奴は、うちにコーヒーを飲みに来る資格はない」
おヨネさんも、子供たちも、みんなで輪になって餅を食べる。喧嘩していた茂雄と正蔵も、いつの間にか「お前、さっきの餅の食らい方、面白かったで」と笑い合っている。
「……弦ちゃん、いい正月やね」
陽菜が、自分の分のお雑煮を弦に差し出す。
「……甘いな。……もう少し出汁を効かせろ」
そう言いながらも、弦は一口、その温かい汁を飲み干した。
「……まぁ。……一年の始まりとしては、悪くない」
「あはは! 弦ちゃんが素直やなんて、明日は大雪やなぁ!」
「やかましい。……さあ、店を開けるぞ。……正月早々、うだうだしている暇はない」
あかね商店街、一月の空。
冷たい風の中に、笑い声と、湯気と、そして誰よりも熱い「人情」が立ち上っていた。
へんこつ店主の新しい一年は、こうしてまた、騒がしくも温かい一杯のコーヒーと共に始まっていく。
「……あ、弦ちゃん! 茂雄さんがまたポチ袋失くしたって騒いでるで!」
「……もう、放っておけ。……次はトラではなく、俺が没収してやる」
(第三十七話 了)




