お月見の泥棒と、消えた月見団子の謎
九月。大阪の空は、昼間の苛烈な陽光を少しずつ夜の静寂へと明け渡し始めていた。あかね商店街のアーケードには、ススキの飾りが揺れ、和菓子屋「辰巳屋」の店先からは、蒸したての団子の甘い香りが漂っている。
「あーあ、もうお腹ぺこぺこ! 弦ちゃん、今夜の『お月見交流会』、楽しみやなぁ。辰巳屋さんの特製月見団子、十五個は余裕でいけるわ!」
陽菜が、エプロン姿で「夕凪」のカウンターを叩きながら叫んだ。
「……浅ましい。十五個も食えば、お前の胃袋は中秋の名月というより、ただの満杯のゴミ箱や。……それより陽菜、お前がさっきから零しているそのお喋り、言葉の端々が濁っとる。……『お月見』の『お』を、もっと丁寧に発音しろ。……尊敬と感謝が足りん」
弦は、いつものように低い声で嗜めながら、カウンターで『徒然草』の注釈書をめくっていた。彼はこの時期、空気の乾燥に合わせて豆の焙煎時間をコンマ五秒単位で短縮する。
「もー、相変わらず言葉にうるさいなぁ! でも今夜は特別やで。あかね天満宮の境内に、商店街のみんなで集まって、満月を見ながら団子を食べる。……これぞ日本の心やん!」
「……日本の心、か。……なら、その『心』のありかを確認してこい。……外が妙に騒がしいぞ」
弦が指差した先。商店街の広場から、悲鳴に近い絶叫が上がった。
「ない! ないんや! 俺たちが精魂込めて並べた団子が、一粒残らず消えてしもたぁぁーー!!」
現場となったあかね天満宮の境内には、呆然と立ち尽くす茂雄と、腰を抜かした正蔵の姿があった。三方に美しく積み上げられていたはずの、合計百個近い月見団子。それが、祭壇の皿だけを残して、跡形もなく消え失せていたのだ。
「泥棒や! 月見泥棒のレベルを超えとる! これはもう、組織的な『団子強奪事件』やで!」
茂雄が、自分の腹を叩きながら鼻息を荒くする。
「……騒がしい。……茂雄さん、その腹に隠しとるんやないやろな」
弦が、群衆をかき分け、祭壇の前に立った。
「何言うてんねん弦! 俺はまだ一粒も食うてへんわ! ……でもな、弦、これを見てくれ。……団子の代わりに、こんな妙な紙切れが置いてあったんや」
茂雄が差し出したのは、筆でサラサラと書かれた一枚の懐紙だった。そこには、一首の短歌が記されていた。
『月影の 照らせし道に 惑いつつ 白き宝を 持ち去りしかな』
「…………」
弦の瞳が、一瞬にして冷徹な「プロフェッサー」のそれに変わった。
「……五・七・五・七・七。……リズムは悪くないが、第三句の『惑いつつ』が甘い。……迷っている者が、これほど淀みのない筆跡で歌を書けるはずがない。……これは、嘘の歌や」
「えっ、弦ちゃん、それだけで犯人が分かるん!?」
陽菜が身を乗り出す。
「……犯人は、言葉を武器にする者や。……だが、言葉の『重み』を知らん。……陽菜、この墨の匂いを嗅げ。……これは、ただの墨やない。……商店街の裏にある、書道教室の『特製墨』の匂いや」
「書道教室……ってことは、お習字の先生のところの子!? でも、あそこの生徒さんたちは、みんな良い子ばっかりやで?」
「……子供の仕業やない。……この文字の『はね』と『払い』を見ろ。……権威を欲しがり、それでいて自分の正体を見せるのを恐れとる。……典型的な『文学気取りの小心者』の筆跡や」
弦は、懐紙をポケットにねじ込むと、足早に商店街の裏路地へ向かった。
「……茂雄さん、正蔵さん。……あんたたちは、商店街の出口を固めろ。……陽菜、お前は俺についてこい。……言葉の迷宮に、終止符を打つぞ」
ドタバタと走り出す一行。あかね商店街の路地裏。そこは、昭和の香りが残る迷路のような場所だ。弦は、一歩も迷うことなく、ある古い蔵の前で足を止めた。
「……出てこい。……『月影に惑う』ほど、あんたの心は純粋やないはずや。……筆の跡に、あんたの『傲慢』が滲み出とるぞ」
蔵の扉がギィと開き、現れたのは、最近商店街に越してきたという、自称・売れないミステリー作家の男だった。男の口の周りには、真っ白な上新粉がついている。
「……ハッハー! 流石ですね、喫茶店のマスター。……まさか、僕の『最高傑作のダイイング・メッセージ』ならぬ『強奪メッセージ』を読み解くとは!」
「……メッセージやない。……ただの『下手なポエム』や。……で、団子はどうした。……まさか、全部一人で食うたとは言わせんぞ」
「……団子? 僕はただ、この街に『本物のミステリー』が必要だと思っただけだ! 団子を隠し、暗号を残し、名探偵が現れるのを待っていたんだよ!」
「……アホか。……そんな暇があるなら、正しい助詞の使い方でも勉強しろ」
弦が、一歩前に踏み出す。
だが、事態は思わぬ方向へ。
「逃がさへんでぇーー!!」
陽菜が、蔵の横に置かれていた「巨大な餅つき用の臼」をなぜか持ち上げ、男の進路を塞いだ。
「ええい、邪魔だ!」
男が逃げようとすると、背後から茂雄が「ダイビング・団子ガード!」と叫びながら、大量の月見ススキを抱えて突っ込んできた。
「うわぁぁぁーーー!!」
男、茂雄、そしてなぜか巻き込まれた正蔵が、路地裏で団子状態になって転がる。
「……やれやれ。……陽菜、その臼を置け。……お前の力加減の方が、ミステリーより恐ろしいわ」
弦が、転がった男の襟首を掴み上げた。
「……おい、作家。……団子をどこへやった。……正直に言えば、『文章更生プログラム』一ヶ月分で勘弁してやる」
「……くっ、蔵の中だ! 蔵の中の冷蔵庫に入れてある……。……冷やし団子の方が、保存がきくと思って……」
蔵の中を確認すると、そこには丁寧にラップに包まれた、百個の団子が鎮座していた。
事件は解決したかに見えた。だが、境内に戻った一同の前に、一人の老婆が現れた。商店街で最も長く一人暮らしを続けている、おヨネさんだ。
「……あぁ、団子、あったのかい。……良かった。……実はね、今夜は私の亡くなった主人の、大好きだった満月の日なんだよ。……みんなで一緒に食べられるのを、主人が一番楽しみにしてたからねぇ」
おヨネさんの寂しげな、だが温かい笑顔。それを聞いた瞬間、団子を盗んだ作家の男が、深々と頭を下げた。
「……すみませんでした。……僕は、ただ注目されたくて……。……この街の『人情』を、物語のネタにしようとしていただけでした」
「……あんた。……ペンを握る前に、箸を握れ」
弦が、静かに言った。
「……食べ物は、人を繋ぐためにある。……言葉も同じや。……誰かを傷つけたり、困らせたりするための言葉は、ただの『ノイズ』や。……本当の言葉は、おヨネさんのような、静かな願いの中に宿るもんや」
弦の言葉に、境内が静まり返る。そこに、茂雄の「お腹の虫」が盛大に鳴り響いた。
「グゥゥゥーーー。……おい弦、ええ話はええけど、俺はもう限界や! 団子、食うてええか!?」
「……あはは! 茂雄さんは相変わらずやなぁ!」
陽菜が笑い、商店街の面々が次々と団子を手に取る。
月が、あかね商店街を真上から照らしていた。見事な満月。弦は、境内の一角で、自分専用のネルフィルターを使って淹れたコーヒーを、おヨネさんに差し出した。
「……おヨネさん。……このコーヒーは、少しだけ甘みを強くしてあります。……団子の後に合うように」
「……ありがとう、マスター。……あんたは、本当に優しいねぇ。……言葉はキツいけど、味は誰よりも甘いんだから」
「……フン。……気のせいです。……豆の配合を間違えただけや」
弦は、月を見上げながら、自分も一粒の団子を口に運んだ。もっちりとした食感。鼻に抜ける米の香り。そして、その隣で。
「弦ちゃん、見て! 団子で『ウサギ』作ったで! 可愛いと思わへん!?」
陽菜が、三つ子の団子を組み合わせて、不気味なクリーチャーを錬成していた。
「……それはウサギやない。……未知の生命体や。……美意識の欠片もない。……作り直せ」
「なんでやねん!! せっかくのセンスやのに!!」
あかね商店街、九月の夜。月明かりの下で交わされる、騒がしくて温かい言葉。へんこつ店主の心にも、少しだけ「秋の丸み」が宿ったような、そんな一夜だった。
「……あぁ、マスター。……さっきの短歌、直すならどうすれば良かったんですか?」
反省した作家が、メモ帳を手に近づいてくる。
「……まずは、その『かな』という古臭い結びをやめろ。……現代に生きるなら、今の言葉で、目の前の景色を写せ。……例えば……」
弦は、コーヒーの湯気越しに、月を見つめて呟いた。
「『月見れば 団子も騒ぐ この街の アホな笑顔に 幸多かれと』。……これくらいやな」
「弦ちゃん……! 今の、めっちゃええやん!!」
「……やかましい。……さっさと食って、片付けをしろ。……明日も、店は開くんや」
(第三十三話 了)




