盆踊りの怪談と、帰ってきたアイツ
八月十五日。大阪の街は、もはや「空気」ではなく「熱せられた鉄板」の中にあるようだった。あかね商店街のアーケードの下、風鈴の音さえも「暑苦しいわ!」と一蹴したくなるほどの猛暑。そんな中、喫茶「夕凪」のカウンターで、弦は涼しげな顔で古い『方丈記』をめくっていた。
「……『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』。……この酷暑も、宇宙の長い歴史から見れば、ほんの一瞬の火照りに過ぎん」
「弦ちゃん、その悟り開いたみたいな顔、余計に暑苦しいからやめてぇな!」
陽菜が、首から冷やしタオルをぶら下げ、巨大なうちわをバタバタと仰ぎながらなだれ込んできた。
「見てぇな、外! 盆踊りの準備でみんな死にかけてるで。茂雄さんなんて、櫓の上で『俺はもう、たこ焼きの具になるんや……』ってうわ言言うてはるわ」
「……あの男は年中、具みたいなもんやろ。それより陽菜、お前がさっきから仰いでいるその風、全部俺の方に来とる。コーヒーの香りが散る。あっちへ行け」
「冷たいなぁ! あ、冷たいと言えば弦ちゃん、聞いた? 今夜の盆踊り、本物の『幽霊』が出るって噂」
弦の手が、ぴたりと止まった。
「……幽霊? 水無月の次は、葉月の幽霊か。この商店街は、年中行事のごとく死人が帰ってくる場所なんか」
「それがな、ただの幽霊やないねん。十年前、この街から忽然と姿を消した、伝説のテキ屋……『火の玉の銀次』やないかって言われてるんよ!」
「……火の玉の銀次?」
弦の脳裏に、古い記憶が蘇る。かつてこの商店街で、誰よりも熱く、誰よりも騒がしく、そして誰よりも「言葉が乱暴」だった男。弦がまだ若かりし頃、正しい日本語の使い方で三日三晩論争を繰り広げた、宿命のライバル(と弦が勝手に思っている)男だ。
「そう! 盆踊りの太鼓が鳴ると、どこからともなく現れて、誰よりも上手く踊って、そして消える。……茂雄さんも正蔵さんも、昨日それを見て腰抜かしたんやから!」
「……バカバカしい。死人が踊る暇があるなら、成仏して極楽の蓮の上で正座でもしとけ。……どうせ、暑さで見間違えた幻覚や」
弦が冷たく言い放った、その時。店の外から
「うわぁぁぁーーー!! 出たぁぁぁーーー!!」
という、茂雄の悲鳴が商店街に響き渡った。
「ほら、出た! 行くで、弦ちゃん!」 「……おい、俺の『方丈記』を栞も挟まずに閉じるな!」
二人が外に飛び出すと、そこには異様な光景が広がっていた。設営途中の盆踊りの櫓の周り。提灯が激しく揺れ、まだ誰も叩いていないはずの太鼓が、「ドンドコ、ドンドコ」と腹に響くリズムを刻んでいる。そして、その櫓の頂上で、一人の男が踊っていた。
ボロボロの法被を羽織り、麦わら帽子を目深に被った男。その動きは、キレッキレなんてレベルではない。まるで重力を無視したかのように軽やかで、それでいて力強い。
「……あれは、まさしく銀次の『河内音頭』や……!」
腰を抜かした正蔵が、震える指で男を指差す。
「……おい、そこの踊り子。……お前のその足運び、『不自然極まりない』ぞ」
弦が、群衆をかき分け、櫓の真下まで歩み出た。
櫓の上の男が、ぴたりと動きを止めた。
「…………。……相変わらず、理屈っぽい声やな、弦の坊主」
男が帽子を脱ぐと、そこには十年前と変わらない、野性味溢れるニヤけ面があった。
「銀次さん!? ほんまに生きてたん!?」
陽菜が目を丸くする。
「おう、陽菜ちゃん。相変わらず騒がしい娘やな。……死んどらんわい。ちょっと西成のあたりで、風の向くままに生きてただけや」
「……西成を『風の向くまま』と形容するな。ただの放浪やろ」
弦が、腕を組んで睨みつける。
「……で、何しに帰ってきた。十年間も音沙汰なしで、今更この街の土を踏む資格があると思っとるんか」
「……資格、か。相変わらず言葉にうるさい野郎だ。……俺はなぁ、この街の『盆踊り』が、最近しおれてるって聞いたからよ。……魂を注入しに帰ってきたんだよ!」
「魂を入れる前に、お前が壊した太鼓の弁償をしろ! それから、その法被の着こなし……日本語として正しく言うなら『着だらしない』! 襟を正せ!」
「うるせぇ! 踊りに理屈はいらねぇんだよ!」
銀次が櫓から飛び降りた瞬間、あかね商店街を舞台にした「十年前の続き」のドタバタが幕を開けた。
「捕まえろ! 銀次を捕まえて、商店街の連合会費十円分を徴収するんや!」
茂雄が先頭に立って叫ぶ。もはや幽霊への恐怖は消え、金への執着が勝っている。
「逃げるが勝ちよ! ハッハー!」
銀次は身を翻し、魚屋の源さんの店先を跳び越え、八百屋の茂雄のトラックの屋根を走り抜ける。
「おい、銀次! 逃げるのは『卑怯者のすること』や! 正々堂々と俺の言葉の修正を受けろ!」
弦も、エプロンをなびかせながら、驚異的な脚力でその後を追う。
「弦ちゃん、待ってぇな! なんで二人ともそんなに早いの!?」
陽菜も必死に追いかけるが、二人のスピードは常軌を逸していた。
活劇の舞台は、商店街の迷路のような裏路地へ。銀次が物干し竿を棒高跳びのように使って屋根へ上がれば、弦は『古事記』の一節を叫びながら(精神統一のためらしい)、壁を蹴ってそれを追う。
「……銀次! お前が十年前、最後に俺に残した言葉……『あばよ、言葉の亡者』! あの『あばよ』は、去り際の挨拶としては余りにも語彙が乏しい! もっと情緒のある別れの言葉を教え込んでやる!」
「知るか! 俺は『あばよ』で十分なんだよ! 粋ってのはなぁ、短い言葉に込めるもんだ!」
二人の追いかけっこは、いつの間にか商店街を一周し、再び盆踊りの会場へ。そこには、町内会の人々が困り果てた顔で集まっていた。
「……あぁ、もうダメや。銀次さんが暴れたせいで、櫓の提灯が全部落ちてもうた……。これじゃ今夜の盆踊りは中止や……」
その言葉を聞いた瞬間、銀次の足が止まった。
「……中止? 冗談じゃねぇ。俺が何のために、西成から徒歩で三日かけて帰ってきたと思ってんだ」
銀次が、真剣な顔で崩れた提灯を見つめる。
「……お前の不始末やろ。……自業自得、因果応報や」
弦が追いつき、肩で息をしながら言った。
「……弦。……お前、この街の子供たちが、一年に一度のこの日をどれだけ楽しみにしてるか分かってんだろ。……俺のことは後でいくらでも吊るし上げろ。だが、踊りだけは……踊りだけはさせてやってくれ!」
銀次が、あかね商店街の地面に額を擦り付けて土下座した。あの傲慢で、自由奔放だった銀次が。
「…………。……陽菜、店から『予備の麻紐』と『強力なガムテープ』を持ってこい」
弦が、静かに指示を出した。
「えっ、弦ちゃん? 修理するん?」
「……当たり前や。……不完全な設営は、美意識に反する。……それに、この男に『正しい謝罪の言葉』を教える前に、舞台がなくなっては困るからな」
「弦……! お前、やっぱり最高の『理屈屋』だぜ!」
そこからは、商店街総出の復旧作業が始まった。弦が物理的な構造を指示し(「ここを支点にすれば、力学的に安定する」)、銀次が驚異的な身のこなしで高い場所に提灯を吊るしていく。陽菜は冷たい麦茶を配り歩き、茂雄は「俺が音頭を取る!」と張り切ってマイクを握った。
夜。あかね商店街の夜空に、黄金色の提灯が浮かび上がった。
「ドンドコ、ドンドコ」
茂雄の(意外と上手い)太鼓が鳴り響き、街の人々が輪になって踊り始める。
その輪の中心で、銀次が誰よりも激しく、誰よりも美しく踊っていた。そして、その傍ら。弦は踊りこそしなかったが、うちわを手に、銀次の踊りのリズムに合わせて、小声で和歌を口ずさんでいた。
「……『久方の 光のどけき 春の日に……』。……秋ではないが、この賑わいもまた、一瞬の輝きやな」
「弦ちゃん、何かっこつけてるん! ほら、銀次さんに呼ばれてるで! 『弦も踊れ!』って!」
「……断る。俺が踊れば、この街の知性の平均値が下がる。……それより陽菜、お前のその踊り……右手の角度が五度低い。修正しろ」
「なんでやねん!! 今は楽しければええねん!」
祭りの喧騒の中、銀次はふと、弦の耳元で囁いた。
「……弦。……ありがとな。……また、風の向くままに消えるが……次はちゃんと、『情緒ある挨拶』、考えておくわ」
「……二度と『あばよ』とは言うなよ。……次は『さらば、愛しき日々よ』くらいは言ってみせろ」
「ケッ、お前らしいぜ。……じゃあな!」
銀次は、祭りのクライマックス、最後の太鼓の音が響き渡ると同時に、人混みの中に消えていった。まるで、本当に夏の夜の夢だったかのように。
翌朝。喫茶「夕凪」には、祭りの後の、どこか寂しくも清々しい空気が流れていた。
「……結局、銀次さんはまた居なくなっちゃったね」
陽菜が、カウンターで冷めたコーヒーを飲みながら呟く。
「……『去る者は追わず、来る者は拒まず』。……だが、あの男の法被が、うちの笹飾りに一枚残っとったぞ」
弦が差し出したのは、古い布切れ。そこには、銀次の乱暴な字でこう書かれていた。
『来年も、踊りに来るぜ。言葉の亡者へ。』
「……フン。……相変わらず、文法が無茶苦茶や。……『来年も』の後は、『踊りに来る』ではなく、『参じる所存である』と書くべきや」
「あはは! 弦ちゃんの赤ペン先生、来年までお預けやね!」
「……やかましい。……さあ、陽菜。祭りの後の片付けや。……店の前の打ち水をしてこい。……水は『均等に』撒け。……一箇所に溜めるのは、美しくない」
「はいはい、分かりましたよーだ!」
あかね商店街、八月の風。
琥珀色のコーヒーは、祭りの余韻を優しく包み込み、また新しい一日の始まりを告げる。
へんこつ店主の日常は、これからも、この騒がしい「人情」の中で続いていく。
(第三十二話 了)




