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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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七夕の短冊と、消えた織姫

 七月。大阪の空は、フライパンの底で熱せられたような暴力的な青さに包まれていた。あかね商店街のアーケードには、各店舗が競い合うように巨大な笹飾りを設置し、色とりどりの短冊が熱気を含んだ風に揺れている。

「あーっ、もう! 暑い暑い暑い! 弦ちゃん、冷やし中華ならぬ『冷やしコーヒー』、一気飲みさせて!」  

 陽菜が、浴衣の試着中なのか、少し着崩れた姿で「夕凪」に飛び込んできた。

「……だらしない。浴衣を着るなら、うなじから背筋まで一本の線を引くように立て。……それから、うちにあるのは『アイスコーヒー』や。一気飲みするような下品な輩には出さん」  

 弦は、いつものように低い声で嗜めながら、カウンターで古い「土佐日記」を広げていた。彼はこの時期、湿度と気温の相関関係を計算し、ネルフィルターの透過速度を秒単位で管理する。

「もー、相変わらず堅苦しいなぁ。見てぇな、今年の商店街の七夕、豪華やで。特賞はなんと『天神祭の特別観覧席ペアチケット』! 茂雄さんが鼻息荒くして短冊書いてたわ」

「……あの欲深い男が書く願い事など、想像がつく。『宝くじ一等』か『内臓脂肪ゼロ』のどちらかやろ」

 弦が冷たく鼻で笑った、その時だった。店の入り口に置かれた「夕凪」専用の笹飾りに、一枚の「真っ白な短冊」が紛れ込んでいるのに陽菜が気づいた。

「あれ? 弦ちゃん、これ見て。……文字が、めっちゃ綺麗……」

 その短冊には、墨の色も鮮やかに、流麗な変体仮名を交えた「古風な和歌」が記されていた。

『久方の 天の河原に 渡る舟 君を待ちつつ 夜は更けゆくらん』

「…………」  

 弦の手が、ぴたりと止まった。万葉集、大伴家持の歌。だが、ただの引用ではない。筆跡には、現代人とは思えないほどの「覚悟」と、どこか追い詰められたような「震え」が混じっていた。

「……陽菜。この短冊、いつ吊るされた」

「え? さっきまでは無かったと思うけど……。あ! 弦ちゃん、見て! あそこの角を曲がった人、私と同じ浴衣着てへん!?」

 陽菜が指差した先。人混みの中に消えていく、桃色の金魚柄の浴衣。それは、今まさに陽菜が着ているものと全く同じ――だが、その立ち居振る舞いは、どこかこの世の者とは思えないほどに優雅で、そして寂しげだった。


「追いかけるぞ、陽菜。……その『織姫』、ただの迷子やない」

「ええっ!? 弦ちゃんがそんなにやる気になるなんて珍しい! もしかして、好みのタイプやったん!?」

「……アホか。言葉を汚す奴は許せんが、言葉に命を懸けとる奴を見捨てるのも、俺の流儀に反する」

 二人は店を飛び出し、炎天下の商店街へ駆け出した。だが、あかね商店街は今やカオス(混沌)の極致。七夕セールの呼び込み、たこ焼きの焼ける匂い、そして――。

「おぉーい、弦! 陽菜ちゃん! どこ行くねん、一緒に短冊書こうや!」  

 案の定、茂雄が「一攫千金」と書かれた巨大な短冊を抱えて進路を塞ぐ。

「どいて、茂雄さん! 今、偽物の陽菜……やなくて、本物の織姫を探してるんやから!」

「なんや、織姫!? ベガか!? ベガが商店街に降りてきたんか!?」  

 茂雄の勘違いに正蔵も加わり、事態はさらにややこしくなる。

「……茂雄さん、正蔵さん。……その織姫は、桃色の金魚柄の浴衣を着て、おそらく『古い言葉』を呟いとるはずや。……見かけたら、無理に止めずに、行き先だけ教えろ」

 弦の指示に、商店街のネットワークが動き出す。魚屋の源さんは「あぁ、あっちの路地裏へ入っていったで!」と叫び、電気屋のトメさんは「なんだか、泣きそうな顔してたわよ」と証言した。

 弦は、頭の中で商店街の地図と、あの和歌の「意味」を重ね合わせた。

「……『天の河原に渡る舟』。……この商店街で『舟』と言えば……」

「……あっ! 昔の運河の跡地、今は親水公園になってるところや!」  

 陽菜が叫ぶ。


 公園の片隅。かつて荷積み用の舟が行き交ったという古い石段に、その女性は座っていた。陽菜と瓜二つの顔。だが、瞳には深い知性と、それゆえの孤独が宿っている。

「……ようやく見つけた。……『久方の』の主さん・・・」  

 弦が、荒い息を整えながら声をかけた。

 女性は驚いたように顔を上げ、弦と、自分と同じ姿をした陽菜を交互に見た。

「…………。……驚きました。……私の拙い歌を、読み解いてくださる方が、この騒がしい街にいらっしゃるとは」

 彼女の正体は、若き天才女流歌人として知られる「瀬戸内 栞」。あまりの人気の過熱と、古典を軽視する出版業界の姿勢に絶望し、執筆途中の長編小説を抱えたまま、自身の「ルーツ」であるこの商店街に逃げ込んできたのだという。

「……私の書く言葉は、もう誰の心にも届かない。……みんな、速くて、軽くて、安っぽい言葉ばかりを求めている。……私は、もう筆を折りたいんです」

「……筆を折る? 笑わせるな」  

 弦は、一歩前に出た。

「……あんたの歌は、この街の熱気の中でも死んでへんかったぞ。……陽菜みたいな、古典の『こ』の字も知らんアホの心さえ動かした。……それは、あんたの言葉が『本物』やからや」

「ちょっと、弦ちゃん! さりげなく私をディスらんといて!」  

 陽菜が割って入る。

「でも、栞さん。私、その歌の意味は分からんかったけど、見た瞬間になんか……胸がギュッとしたんよ。……『誰かを待ってるんやなぁ』って、切なくなった。……それって、届いてるってことやん?」

「…………」  

 栞の瞳に、涙が溜まる。


 だが、ドラマチックなシーンは長くは続かない。  

「いたぞ! 瀬戸内栞だ!!」  

 公園の入り口に、黒塗りの車と、カメラを抱えた数人の男たちが現れた。栞を連れ戻しに来た、大手の編集者とパパラッチだ。

「栞さん、戻りましょう! 次の締め切りは明日です。……あんな『古典風の古臭い話』はボツにして、もっと売れる『現代風の不倫モノ』を書き直してください!」

 編集者の言葉に、栞の顔が再び強張る。

「……待てや。……あんた、今、『古臭い』と言ったか」  

 弦の声が、極限まで低くなった。それは、彼が一番怒っている時の、静かな火山の咆哮だった。

「……言葉はな、生き物や。……千年前の言葉が今も俺たちの心を震わせるのは、そこに『普遍の真理』があるからや。……それを軽んじるあんたに、彼女の言葉を扱う資格はない」

「何だと!? 貴様、ただの一般人の分際で……」

「……ただの一般人やない。……俺は、ここの『用心棒』や。……陽菜、準備しろ」

「合点承知!!」

 陽菜がどこからか取り出したのは、商店街の七夕祭りで余った「大量の紙吹雪」と「水風船」。

「あかね商店街特製、夏の大掃除やぁーー!!」

 バシャッ! パラパラッ!  

 商店街の仲間たちも加わり、編集者たちを「お祭り騒ぎ」の渦に巻き込んで追い出していく。茂雄の「ダイビング・タックル」が炸裂し、正蔵の「お説教メガホン」が響き渡る。

「くそ、覚えてろよー!!」  

 捨て台詞を残して去っていく黒塗りの車。


 静かになった親水公園。栞は、初めて心からの笑顔を見せた。

「……ありがとうございます。……私、自分の書きたいものを、もう一度信じてみます。……この街のように、騒がしくて、でも温かい言葉を」

「……それがええ。……腹が減ったら、店に来い。……ナポリタンの味に文句を言わんのなら、いくらでも書く場所を貸してやる」

 数日後。喫茶「夕凪」の隅の席で、一心不乱に原稿用紙に向かう栞の姿があった。その横には、弦が淹れた「苦味の後に、ほのかな文学の香りがする(自称)」特別な深煎りコーヒー。

「弦ちゃん、見て。栞さんの新しい短冊、笹の一番高いところに吊るしたで」  

 陽菜が指差した先。

『あかねさす 街の灯火に 生かされて 筆の運びも 弾む夏かな』

「……フン。……少しは前向きな歌になったな」

「弦ちゃんは? 弦ちゃんは何て書いたん?」

「……俺か? ……俺はこれや」  

 弦が掲げた短冊には、ただ一行。

『陽菜のドジ、一切無きを、願うのみ』

「……なんでやねん!! せっかくの七夕やのに、仕事の愚痴かーい!!」

 陽菜のツッコミが響き、あかね商店街の七夕の夜は更けていく。

 言葉は巡り、思いは重なり、また新しい一杯の奇跡が、琥珀色の湯気の中に生まれていく。


(第三十一話 了)

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