七章・狭間の旅(1)
一時間ほど大樹の下を見て回ったものの、階段以外の人工物は一つも見当たらなかった。とはいえ、まだほんの一部を捜索しただけ。この巨大な木の周りをぐるりと一周するには休まず歩き通したとしても数日かかるだろう。探し続ければいつかは何かが見つかるはず。そう信じて二人はとりあえず休もうと決めた。
見上げれば、空は赤くなり始めている。
「太陽が無いのに夕暮れはあるんだ……」
「夜になる前に、ゆっくり休める場所を見付けないとですね」
幹に沿って移動を続けた二人は、やがて階段の始点と、その近くにある八畳間くらいの広さのウロを発見した。
「あそこから登れるね」
「このウロ、寝床に良さそうですよ。下に剥がれた樹皮が重なっててフカフカです。虫もいないみたいですし」
「虫というか、生き物がこの木以外に見当たらないよね……」
「動物性のタンパク質がとれませんね」
不満顔で一粒、種を口に放り込む雨音。あれ自体は気に入ったようだけれど、育ち盛りだしやはり物足りないのだろう。
苦笑しながら彼女の見つけたウロを覗き込む雨楽。野宿の経験なんて無いが、たしかに虫のいないこの世界でなら悪くなさそうだ。
が、足下を覆う樹皮を見て首を傾げる。自然にそうなったのかもしれない。でも誰かが敷いたように見えなくもない。
「ここ……もしかして、僕ら以外の人が前に使ってたんじゃないかな」
「言われてみれば……」
眉をひそめて、ハッと表情を変える雨音。
このウロにほど近い場所から外の階段が始まっている。それはつまりここを拠点にしていた誰かが、あの階段を造ったということでは?
その考えを雨楽に話すと、彼も「そうかも」と言って頷いた。
雨音はさらに想像を膨らませてみる。
「多分、木の周りでは何も見つからなかったんですよ。だから階段を造って木の上の方を探してみたんじゃないでしょうか?」
「上の方に、この世界の出口があるってこと?」
「それはわかりませんけど、下に何も無かったら後は上を探すしかないでしょ? それに高い場所へ行けば遠くまで見渡せますから、どこかに陸地か何かを見付けて移動したとも考えられます」
「そっか……」
賢い子だなと感心する。自分なんか次々現れる不思議な光景に驚くことしか出来てないのに。
「あっちに別の小さいウロがありました。あれはトイレにしましょう。雨楽さん、お先にどうぞ」
「え? いや、君が先に……」
──言いかけて気が付く。おそらく彼女は自分の出した物を見られたくないのだろうと。
僕も嫌なんだけどな……などと思いつつ、それでもたしかに男である自分から用を足すべきだと察したので、雨楽は先にもう一つのウロへ向かった。
僕も嫌なんだけどな……などと思いつつ、それでもたしかに男である自分から用を足すべきだと察したので、雨楽は先に問題のウロへ向かった。
幸いというか、大きい方をしたいという感覚は無く、尿意だけだったため手早く排出を済ませる。
そこで気が付いた。こちらのウロにも剥がした古い樹皮が重ねて置かれていることに。
「これって……」
表面が意外と滑らかなので、千切ればトイレットペーパー代わりに使えるかもしれない。それに千切らなければ……彼は座布団ほどのそれを今しがた自分が用を足した所に被せて置いた。これで多少は恥ずかしさが軽減されるし、後から使う相手の不快感も和らぐ。
そして、その行為の後でまたも気が付いた。あちらの大きなウロに敷かれていた樹皮は、まさか……。
「……いや」
すでに夜が更ける直前。照明になるような物を何も持っていない以上、これから別の寝床を探すのも厳しい。
不快な臭いなどはしなかったし、深く考えないことにして、彼は少女の待つ大きなウロへ戻った。
木の上に登るとなると、この先、食料は貴重かもしれない。そう考えた二人は例の種をそれぞれ三粒だけ食べ、残りは明日からの分と決めると、他にすることもなく早々に眠りに就いた。
当然眠れない。雨楽はこんな状況ですぐ眠れるほど太い神経をしていないし、彼に比べればマシでも雨音とて無神経なわけではない。ましてや一夜を共にする相手が年上の異性ともなれば、彼女の方こそ強く意識せざるを得なかった。
だからか、暗闇の中、自分から話しかける。
「雨楽さんって何歳なんですか?」
「……二十歳だよ」
「じゃあ五歳違いですね。並行世界の同一人物なのに生まれた年が違うんでしょうか?」
「何年生まれ?」
「平成十三年です。西暦だと二〇〇一年。二十一世紀になった年ですね」
「じゃあ同じだよ。僕もその年の六月九日生まれ」
「えっ? 生まれた年も誕生日も同じ……ということは、世界によって時間の流れる速度は違うとか?」
「そうなのかな……?」
横向きに寝転がりつつ眉をひそめた雨楽は、以前レインから強制的に刷り込まれた異世界に関する知識を思い返してみる。しかし、あの時は簡単に浮かんで来た情報が今はなかなか思い出せない。
これは、もしかしてネットワークから切断されている? それとも単に自分の記憶力が悪いだけ?
(もしも接続が切れてるなら、ここで死んだ場合、僕も元の世界に戻れないかも……)
押し黙った彼に、また雨音の方から質問する。
「えっと、じゃあ宝くじの当選番号とかわかります?」
「わかんない、ごめん……」
「冗談だから真に受けないでください。そもそもうちは大金持ちです」
そうだった、この子は鏡矢の家の子だった。並行世界の自分とはいえ、それぞれの世界での立ち位置は大きく違う。
ふと、脳裏に母の従妹の顔が浮かぶ。
「そっちの世界にも雫さんはいる……?」
「いますよ。日華おじさんと結婚して駅前で本屋さんを経営してます」
「にっかおじさん……?」
「え? もしかしてそっちにはいません? ものすごく背が高くて鬼みたいにごっつい人ですよ。ほら、あの白髪混じりで、いつも怪しいサングラスをかけてる」
「知らない……」
そんなインパクトの強い人と面識があったら絶対に忘れたりしないと思う。
「うわあ、いないのか……じゃあ、そっちの世界の雫さんって結婚は……」
「してないよ。まだ独身」
「やっぱり……」
雨音のその呟きは、本人が聞いていたら怒っただろう。かなり失礼だ。そもそも自分が知らないだけで恋人ならいると思う。あんなに美人なんだし。
「雨楽さんには、彼女さんとかは?」
なんだかすっかり修学旅行の夜みたいな雰囲気だと思い、訊ねる雨音。しかし雨楽にはそのノリはわからなかった。彼は修学旅行に一度も行ったことがない。
「いないよ……僕は……」
「あっ」
彼が対人恐怖症だという事実を思い出したのだろう。返答に窮した雨楽と同様、雨音も口を噤んでしまう。
それからしばらく気まずい雰囲気が流れ、今夜はこのまま眠ることになるのかなと覚悟した途端、また問いかけられた。
「どうしてですか?」
「……」
「どうして人が怖くなったんですか? 私とはもう、普通に話せていますよね」
「それは……」
自分でも意外な話だ。彼女が並行世界の同一人物だからなのか、それとも単に同じ顔をしているからか、理由はよくわからない。ただ、たしかに雨音に対する恐怖心や警戒心はほとんど無くなっている。
あるいは、彼女が自分の中の“理想”そのものだからかもしれない。
浮草 雨楽は、鏡矢 雨音のような少女として生まれて来たかった。そしたら、きっとあんなことには──
胸が締め付けられる。どうしようもなく、溜め込んだ感情を吐き出したくなった。
「僕には……一人だけ、仲の良い幼馴染がいたんだ」
ここなら他に人はいない。聞くのは並行世界の自分だけ。だからなのか口が勝手に語り出してしまう。今まで両親にだって話したことの無かった秘密。対人恐怖症になった本当の理由を。
「海棠 秋人……ずっと、あっちゃんて呼んでた」
浮草 雨楽にとって海棠 秋人は特別な存在だった。彼は同世代の中では飛びぬけて体が大きく、わんぱくで、リーダーシップに溢れていた。力自慢だが決して弱い者いじめはせず、逆にいじめの現場を見かけたらすぐに割って入るような正義感の強い少年。幼い頃の自分達にとってヒーローだった。
雨楽が彼と仲良くなったのだって、女の子にしか見えない容姿をからかわれていた時に助けてもらったことがきっかけだ。それ以来ずっと傍で守ってくれていた。彼の庇護下にあったおかげで、いじめっ子達のターゲットにならずに済んだ。
けれど、秋人のその善意が単なる正義感からでないことがわかったのは、小学五年生の二学期。
急に校舎裏に呼び出されたと思ったら、告白された。
「オレ、お前のことが好きだ」
初めて会った時からだと言われた。彼自身、その感情をなかなか認めることが出来ずに何年も苦しんでいた。けれど、やっと覚悟を決めて打ち明けたのだと。
生まれて初めて明確に他者から向けられた恋愛感情は同性からのものだった。その事実に雨楽は当然、困惑した。
そして返事を先延ばしにしてしまった。だから余計に状況が悪化した。
彼がなかなか答えを出せなかったことで、秋人には苛立ちが募っていたのだろう。それまで友達を守る立場だった彼が、一人のクラスメートを標的にいじめを始めた。たまたま悪いタイミングで雨楽の容姿をからかってしまった春咲 潮という少年がいたのだ。
彼へのイジメがどんどんエスカレートしていくのを雨楽は止められなかった。幼馴染が陰湿な人間に変わっていく様を、ただ震えながら見ていた。
そして、ついには逃げ出した。幼馴染が勇気を振り絞った告白に答えず、自分のせいで辛い目に遭っているクラスメートを助けることもせず、ただその場から姿を消して家の中に引きこもった。
それから十年、浮草 雨楽は何一つ成長せず、無為な時間を過ごしている。
「……あれ以来、あっちゃんにも、春咲君にも会っていない。あっちゃんは何度か会いに来てくれたし、あっちゃんの両親や、学校の担任の先生も心配して来てくれたけど、僕は一度も顔を合わせなかった」
その時から他人の目を見ることが出来なくなっていた。
そこに映る自分の姿を見たくなくて。
「僕は……」
何かを言いかけて、続く言葉が思い浮かばず、沈黙する。代わりに一拍置いて雨音が口を開く。
「卑怯者ですね」
その声からは、さっきまで無かった嫌悪感がハッキリ感じ取れた。暗くて表情は見えなかったが、見なくたってどんな顔をしているかはわかる。
「うん……」
雨楽は素直に認めた。自分は最低の卑怯者だ。だから死にたい。
さらに卑劣な行いだとわかっていても、人生から逃げ出したい。
誰にも見られずに消えてしまいたい。
「……」
それっきり、今度こそ本当に二人とも沈黙を保った。
雨音は眠ってしまったのか、それとも怒りに燃えているのかわからない。
雨楽はずっと、暗闇を見つめて自分の過去を振り返り続けた。
己を罰するように。




