七章・狭間の旅(2)
冷たい何かが指先に触れる。
「……んん……?」
あれから数時間、外が明るくなり始めたと思った頃、異変は起きた。先に気付いた雨楽は事態を把握して飛び起きる。
「あ、雨音ちゃん起きて! 水が入って来てる!!」
「え!?」
同じように眠れなかったのか、それとも寝起きが良いだけか、彼女はすぐに反応した。
たしかにウロの中に水が流れ込んで来ている。まだ下についた手の平が濡れるくらいで済んでいるが徐々に水位が上昇しつつあるようだ。
「行きましょう!」
非常時とあっては嫌な相手も見捨てたりできない。彼女は雨楽の手を引き、先に立って走り始める。だが彼の方は足を止めた。
「待って!!」
「なんですか!? 急がないと!!」
「食べ物っ!!」
「あっ」
たしかに迂闊。雨楽のおかげで思い出した彼女は、彼の手を離すと足元に浮かんでいた木の実を拾って持ち上げる。三つが限界。腕の長い雨楽は四つ持った。リュックか何かがあればもっと持っていけるのに。どうにかして作っておけばよかった。
「気を付けてついて来てください!!」
「う、うん」
今度こそウロから脱出する二人。すでに膝下まで水位が上がっている。重いそれを足でかき分け、急いで樹上へ続く階段を目指す。
途中からは泳ぐことになってしまった。星憑きとして超人的な身体能力を持つ雨音には大した話でもない。だが体力の無い雨楽にとっては大変な作業だ。それでも彼はなんとか木の実を抱えたままで泳ぎ切る。
「こっちに」
「お、お願い」
階段の上から手を差し伸べた雨音に木の実を渡す。それから自力で這い上がろうとするものの、腕立て一回が限界の腕力では自分の体重すら持ち上げられない。見かねた雨音が手伝ってくれた。いくら同年代の成人男子の平均より軽いとはいえ、大の男を中学生の子が事も無げに引っ張り上げる。
「すごいね……」
「あなたが腕力無さすぎなんですよ、まったく」
それだけ言うと、彼女はまた自分の分の木の実を抱えて上り始めた。水位上昇はなおも続いている。逃げ場は上にしか無い。
雨楽も四つの実を拾い上げると、寝不足のせいでふらつきながら後を追った。
しばらく上り続けた二人は、やがてどちらからともなく足を止め、彼方を見る。
「あれか……」
「な、なるほど……はぁ……はぁ」
水位上昇の原因がわかった。遠くで雨が降っているのだ。雲などどこにも見当たらないのに。
その雨がだんだん近付きつつあることに気付き、雨音は再び急かす。
「早く行きましょう。もっと上まで行かないと安心できません」
「うん……」
そうしてまた延々と幹沿いに階段を上って行く。引き返せないのだから、この先に何があるとしても、何も無いのだとしても上を目指すしかない。
雨は一向に降りやまず、ついには直接降り注いで来た。水位の上昇も止まらない。より過酷になった環境で命がけの追いかけっこは続く。
どんどんせり上がって来る水に追いつかれないよう足を動かし続け、ある程度の距離を稼いだら休憩。そしてまた追いつかれる直前で移動を再開。その繰り返し。
発見した時には人工物だと思った階段は、しかし間近で見ると本当にそうなのか怪しい代物だった。木そのものが変形して階段状になっているからだ。
誰かがそうなるように手を加えた結果か、それとも偶然の産物なのか、二人に知る術は無い。
幅はかなり広く、二人で並んで歩いてもまだ一人分ほど余る。ただし手すりは無いので足を滑らせたら真っ逆さまに転落するだろう。
樹上から見える景色は、どの高さでも、どの方角でも変わりなかった。延々と同じ風景だけが続いていて時間の感覚も狂い始める。
あのウロを出てから何時間経った? まだ数分のようにも数日のようにも思える。
寒い。この雨は海水より冷たい。このままでは自分はともかく雨楽が危険。そう思った雨音は古い樹皮を剥がし、即席の雨がっぱを作って彼に渡す。
「あ、りがとう……」
彼は震えていて唇も紫色。低体温症の症状が出始めている。すぐにどこかで身体を温めなければならない。
「そうだ」
思いついた雨音は立ち止まり、その場で残った木の実を全部開いた。そしてそのうちの一つだけ中身を全部くり抜き、他の実の分も合わせて種を詰められるだけ詰め込む。それを二つ合わせて蓋をすると一旦足下に置いた。
「なにを……」
「私が雨楽さんを運びます」
「で、でも……」
「もう歩く力も残ってないでしょ! こうするしかないんです!!」
苛々しながら背中を向け、屈み込む彼女。雨楽は少しの間だけ戸惑っていたが、実際に他の選択肢は無いのだと悟り、五歳年下の少女におぶさる。
彼女は彼から借りた服の下に一応そのまま着込んであった病衣を脱ぎ、ロープ代わりにして彼を自分の背に固定する。こうでもしないとこの貧弱な青年は振り落とされてしまうだろう。
「急ぎますけど、吐いたりしないでくださいよ!!」
「……」
答える余力も無いのか雨楽は無言。本当、自分とは双子みたいなものなのに、どうしてこんなに弱々しいのか。
下に置いてあった木の実を拾い上げ、雨音は雨を避けて休める場所を目指し上へ上へと走り出す。腹立たしさゆえか、その足取りはひどく乱暴だった。
──しばらくして雨楽が目を覚ますと、またどこかのウロの中にいた。衣類を脱がされ、やはり全裸の雨音と抱き合っている。予想外のシチュエーションに再び気絶しそうなほど驚いた。
だが、すんでのところで悲鳴を飲み込む。
「……んん」
彼女は眠っていた。いくら超人でも連日の過酷な旅に加え、自分を背負いながら階段を駆け上がったのだから疲れて当然だろう。なるべく起こさないようにしたい。
震えはもう止まっている。きっと、もう何時間も経ったのだ。体の上には何枚も重ねた樹皮。これを毛布代わりにしたらしい。火を熾せない以上、冷えた身体を温めるには他に方法が無い。やっぱりこの子は賢い。
裸の少女と抱き合っていても興奮したりはしなかった。まだ命の危険が去っていないからだと思う。震えは止まっていても、芯に冷えが残っている。
雨音の体も冷たい。自分が体温を奪ったせいで。
「ごめんね……」
謝りながら腕を背中に回し、抱き寄せる。年上なのに助けられてばかりだ。こんなことになったのだって、元はと言えば自分が勝手なことをしようとしたから。あの時、彼女に相談してから跳躍を行っていれば、こんなことにはならなかった。
(あっ、そういえば……)
今さらながら思いつき、雨楽は例の“橙”の力を使った。毛布のように巻きつけられた樹皮の中でオレンジ色の光がぼんやりと灯り、二人の体を温める。やっぱり、この力にはこういう使い方もあったのだ。
「……私の、お母さんは」
「えっ」
橙光の中、眠っていたはずの雨音が瞼を開く。わずかな間、微睡んでいただけだったのかもしれない。
「お母さんは、私が二歳の時、亡くなりました」
衝撃的な事実を聞き、身を強張らせる。
なんと返せばいいのだろう?
戸惑う彼に構わず、雨音は続ける。
「だから私は、母のことを写真でしか知りません。あなたを初めて見た時、お母さんだと思ってしまったのはそのせいです」
ギュッと、まるで母にそうしたかったのだと伝えるように、さらに強く雨楽に抱き着く彼女。雨楽も無言のまま腕に力を込める。
「……でも、あなたは、お母さんじゃない」
そう呟いた声には隠し切れない失望が混じっている。
亡き母に瓜二つの顔。だから彼女は、初めて会ったあの時から親身に接してくれていたのだ。
けれど、その相手はとんでもない卑怯者だった。がっかりするのは当然。彼女は何一つ悪くない。
(また傷付けちゃった……)
雨楽の心に去来したのは諦め。自分は、どうしたって他人の心を傷付けずにいられない人間なのだと改めて悟る。そうありたくはないはずなのに。
「強くなってください……私のお母さんは、とても強い人だったと……昔から父に聞いていたんです」
ごめん──心の中で謝る。その願いに応えることは出来そうにない。自分は鏡矢 静流ではなく浮草 雨楽だから。己の弱さを恥じる以外、何一つ出来やしない。
その弱さを象徴するように、涙が一粒零れ落ちた。
さらにしばらく経ち、どうにか体力を回復させた二人は生乾きの服を着てウロの外へと出た。まだ雨は降り続いているが、雨音の作ってくれた樹皮の雨がっぱのおかげで今度はもう少し長く頑張れそうだ。
種もいくつか食べて栄養補給を済ませてある。水はいくらでも降って来るから飲み放題だし、疲れや冷えは“橙”を使えば緩和できるだろう。
二人は互いの、自分と瓜二つの顔を見て頷く。
「行きましょう」
「うん」
そんな短いやりとりを交わし歩き出した後、また無言の行進が続いた。裸で抱き合ったところで親しくなれたわけでもない。むしろ両者の間に漂う冷たい空気はさらに冷え込み、意固地になっていく。
彼等の悲しみに連動しているかのように、雨も止むことを知らない。
(ずいぶん頑張ってくれたんだね……)
あれだけ休んだのに水面はまだ遥かに下だった。雨音が相当な無理をして時間を稼いでくれたことは想像に難くない。
(彼女だけなら簡単に一番上まで行けるんじゃ……?)
一瞬そんなことを考えたが、雨音は自分を置き去りにはしないだろう。そういうことの出来ない性格なのだ、彼女は。
だったらこっちは、せめてこれ以上負担をかけないよう自分の足で歩き続けるしかない。幸い、疲れを癒す方法なら見つけ出した。雨楽は定期的に“橙”の光を自分自身に当てて体力を回復する。雨音にも疲れが見えてきたら、座って休ませ光をかざした。
橙光を浴びるうちに徐々にその顔色が良くなっていく。
「便利な力ですね」
「うん」
褒められたけれど、素直には喜べない。雨音の声や表情にはトゲがある。努力して手に入れたわけでもない力で調子に乗るなと、そう言われているような気がした。
そんな調子で二人は上を目指し、ひたすら階段を上り続ける。やはり延々と同じ景色が続き、時間の感覚は希薄になるばかり。一分一秒が永遠になるかのような錯覚。
それは逆に、この世界そのものの終焉が近付いているような、そんな不吉な予感も抱かせた。自分達は今、死の間際に走馬灯を見ているのではないかと。
やがて、その嫌な予感が実体化する。
「な、なに、あれ……?」
「ここで待ってください……あれはきっと、私でないと無理です」
雨楽を待機させ、一人階段を上がる雨音。二人の視線の先には、不気味な黒い影が槍を持って佇んでいた。




