六章・空と海と大樹(2)
しばらくして、ようやく泣き止んだ雨音は手の甲で涙を拭い、立ち上がった。その目はすでに次の目標を見据えている。
「すいません、お待たせしました。行きましょう」
「えっと、大丈夫……?」
「心配いりません。自分がやるべきことを再確認しただけです」
雨楽を無事連れ帰ること。そして父を病から救ってもらう。それが父に未知の病原体を感染させてしまったかもしれない自分の役割。だから今は、そのために出来ることを一つずつやっていく。
「あの木まで行きましょう」
「うん」
雨楽も十分に休息できた。立ち上がり、その拍子に何かを思いついて雨音が捨てた木の実の殻を拾い上げる。
「そんなの拾って、どうするんですか?」
「いや、思ったんだけどこれ、いきなり落ちて来たでしょ?」
「はい」
「だから、こうしようかなって」
そう言って中の果肉を適度に減らし、頭に被る。少しばかりベチャッとしているけれど仕方が無い。安全のためだ。
「万が一にも頭に落ちてきたら怖いから、ヘルメット」
「な……なるほど」
納得しつつも抵抗感を抱く雨音。差し出された片割れを受け取り、じっと見つめたまま硬直する。
ぶっちゃけて言うと格好悪い。でも安全を考えると、たしかに被っておいた方が良いのだと思う。
散々葛藤した末、結局彼女は断ると決めた。自分は星憑きで頑丈だから必要ありませんとでも言えばいい。
ところが、その言い訳を繰り出す直前、すぐ横で立つ水柱。
プカリと木の実が浮かび上がる。
「……そうですね、安全のためです」
幸運に恵まれた彼女は、そう言って頭を守った。
さらに数時間後、やっと辿り着いた巨木の前で二人は同時に嘆息する。
「大きい……」
「なんてもんじゃありませんね……」
それはもはや木でなく、どこまでも高くそびえ立つ壁だった。あまりに大きすぎて近くでは平面のように見える。
「どうしようか……」
「まあ、まずはもっと近付いてみましょう」
今のところ何も見当たらないが、もっと近くで観察すれば違うかもしれない。再び歩き出す二人。途中に例の木の実が落ちていたので両手で抱えられるだけ拾っておく。
そのたびに地面、ならぬ絡み合う木の根を見下ろすことになった雨楽は、ふと違和感を覚えた。
「太い根が無い……」
「あっ」
雨音もその呟きを聞いて気が付く。たしかにこれだけ近付いたのに木の根が細い。通常、根というものは幹に近付くほど太くなるはずなのに。
「この細い根の下に太い根があるんでしょうか……?」
「そうかも……」
海に浮かんでいるのか、海底からそびえ立っているのかわからないが、太い根はもっと下の方に存在していて、軽くて細い根だけが海面近くまで浮かび上がり足場になっているのかもしれない。二人はとりあえずそう仮説を立てる。
さらに近付くと、また新たな発見があった。しかも予想外の大発見。
「あ、あれって……」
「階段!」
幹のかなり高い部分に表面に沿って設置された階段が見えた。どう見ても人工物。
「ここにも人がいるんだ」
「人間かはわかりませんけど、ああいうのを造れる何かがいるか、いたということは確実ですね」
希望が見えて来た。人が生きられる世界なら自分達もしばらくはここで生き延びられるはず。時間さえ稼げば脱出の糸口を掴めるかもしれない。
(レインさん達も探してくれてると思うし……)
元来た方向を振り返り、早くも懐かしく思えて来た金髪のメイドを思い出す。彼の手を掴んだ雨音は階段の下っていく方向を指差した。
「向こうに行ってみましょう。ここから見えない場所に街があるのかも」
「う、うん」
彼女には対人恐怖症のことを話したはずだが、それでも構わず接してくる。雨楽も雨音に対する恐怖心は薄れつつあった。
(同じ顔だからかな?)
妹のように思えるのかも──彼は一人で納得した。
一方その頃、雨龍は雨楽が期待した通りレインや他の協力者と連携を取り二人の捜索を続けていた。ところがあれから丸一日経とうとしているのに、手がかりは何一つ得られていない。
焦りが募る。不幸中の幸いは、それぞれの世界で時間の流れる速度が違うこと。
「レイン、雨楽の親の様子は?」
『あちらではまだ半日しか経っていません。警察が二人を捜索中ですが、大きな騒ぎにはならずに済んでいます。マスコミはまだ知らないようです。おそらく、鏡矢一族が圧力をかけているのでしょう。あの世界の彼等は秘密主義ですので』
「たしか、向こうじゃ雫さんが当主だったな」
『ええ、おかげで浮草家と鏡矢家の関係も比較的良好なようです』
「珍しい世界もあったもんだ」
『並行世界の数は膨大ですし、たまにはそういうこともあるでしょう』
「まあな」
とりあえず雨楽の世界は大丈夫そうだ。
では、雨音の世界は?
『彼女の世界も、今のところは落ち着いています。鏡矢の掟がありますからね』
「滅火を扱える人間は問答無用で当主になるってやつか」
『それがある限り雨音様のお父様が害される可能性は低いでしょう。ただし、あまりにも長引けばわかりません。雨楽様の世界以上に時間の流れが遅く、まだいくらか猶予はあるでしょうが、彼等にしてみれば“現当主”失踪から三日目。不穏な動きを見せる輩が現れてもおかしくない頃合いかと』
「やだねえ、金持ちってのは……」
自分も一応、鏡矢の血を引いている。だが分家の娘がさらに一般家庭に嫁入りして生まれた子供なので雨楽同様お家騒動なんてものには縁が無い。ところが雨音は、あの年齢ですでにその中心に立たされているのだ。並行世界の同位体という事実を差し引いても同情する。
なんにせよ、やはり急いだ方が良さそうだ。二人とも生身で跳躍してしまっているから長引けば長引くほど生存確率は下がる。
一日中画面を睨んでいた雨龍だったが、遂に決断して立ち上がった。このまま手がかり無しに探索を続けても埒が開かない。
「日華さんとこに行くぞ」
『お考え直しを』
レインとしては同意しかねた。彼等はたしかに自分達には無い知識も有している。だが、この世界の“夏流”は気性が荒い。住んでいる場所も危険地帯。
しかし雨龍は方針を変えない。
「他に当てはねえだろ。雫さんについて来てもらえりゃ、まあ喰われるこたぁねえさ」
『だといいのですが』
「また来たのかぼうず。人間がこんなところに来るもんじゃねえって言ってんだろ。そんなに喰われてえのか?」
「喰えるもんなら喰ってみな。その前にアタシがアンタをぶった斬ってやる。夏流のデカブツヤロウ」
身長三メートルを超す茶髪で筋骨隆々の巨人と、黒髪に赤いメッシュを入れた目付きの鋭い女が睨み合う。この世界の“夏流 日華”と“鏡矢 雫”だ。両者に挟まれた雨龍は冷や汗を垂らしつつ「まあまあまあ」と宥めにかかる。
(雨音嬢ちゃんの世界じゃ、この二人が夫婦なんだよな……)
いったい何がどうなったらそんな奇跡が起こるのか。この世界での二人の険悪な関係を知る雨龍には、どうにも信じ難い話だった。
『大恋愛の末での結婚だったようです』
(待てレイン。今はそういう余計な情報入れるのやめろ。オレはいっぱいいっぱいだ)
『申し訳ございません』
ちなみにここは二十八年前の震災で“消滅”した東北地方を開発し設立された“神霊妖魔保護特区”という場所。文字通り世界中から神、精霊、妖怪、魔族などを受け容れ日本政府の管理下で保護している。見た感じは粗末な建物の並ぶスラム街だが、この街の住民達は全員が異形の怪物である。
下手に触れれば何が起こるかわからないパンドラの箱。この場所があるおかげで震災後も日本は諸外国からの侵略を免れて来た。
「さっきも言いましたが、今回は聞きたいことがあって来ただけなんですよ。子供が二人ばかし行方不明になってましてね。あ、こちらはお土産です」
雨楽が近所の有名店で買って来たどら焼きを渡すと、巨人はフンと鼻息を荒くしながら受け取る。
「毎回こればっかだな」
「飽きました?」
「んなわきゃあねえだろ。ありがたく喰わせてもらう。おめえの肉よりゃ美味えさ」
「でしょうね」
「で? ガキが二人いなくなった? ひょっとしてここの連中を疑ってんのか? 心外な話だ。俺がいる限り、誰も外には手出しさせねえよ」
この夏流 日華という“鬼”は保護特区の頂点に立つ存在だ。本来は人間に仇為す生態の妖達も彼が睨みを利かせている限り悪さはしない。あくまで特区の外の人間に対しては、だが。
自分からホイホイ危険地帯へ乗り込んで来た雨龍は、額に指を当てて嘆息する。
「いや、この世界の話じゃないんですよ」
「あ?」
眉をひそめた彼に一通り事情を説明すると、夏流一族の現当主はしばし虚空を見上げて考え込む。実は彼等は遠い昔にこの世界へやって来た“外来種”なのだ。
「レインボウ・ネットワークでも見つけられないどこかね……例の“呪い”で覆われてるなら、そもそも迷い込むことも無理だろう。まだおめえらが認識できてない範囲にいるとしても、その“有色者”の坊主がいりゃ探知はできるはず。となると……あれか? 前にひい婆さんからそんな話を……」
「え、マジすか?」
気色ばむ雨龍に対し、彼は右腕を持ち上げる。
「ちょっと待て」
そう言い、拳を固めて振り下ろした。力を入れたようには見えない無造作な動きだったのに、再び大地震が起きたのかと思うほどの揺れが生じて特区の住民達を驚かせる。獣の咆哮と鳥の羽ばたきが一斉に上がった。本当に獣と鳥かは不明だが。
「話の最中だ、邪魔ぁすんじゃねえ」
再び拳を持ち上げると何かの血と肉片が滴り落ちた。今しがたぶっ叩いた場所に巨大なムカデの頭がへばりついている。
一応、死んではいない。胴体だけ慌てて“影”の中に逃げ込み、姿を消す。
(あれ?)
眉をひそめる雨龍。叩き潰されたにしては、頭と胴体の境目に滑らかな断面が見えた気がする。
「余計なことしてないで、アンタはさっさと思い出しな」
いつの間にか抜いていた刀を拭き、鞘に納める雫。それを見てやっとわかった。どっちが早かったかは定かでないが、自分を狙っていたあのムカデに彼女も一撃入れていたのだ。
やっぱりこの二人、おっかねえ~と震え上がる。
「ああ、そうだ」
ぽんと手を打つ日華。その際に怪物の体液が飛び散って雨龍の全身にかかる。もちろん巨漢は気にも留めず言葉を続けた。
「狭間の海だ」
「はざまのうみ?」
「三途の川ってのがあるだろ。あれと似たような話だ。この世とあの世の境目。死ぬ直前の一瞬にだけ辿り着ける場所。中は時間が止まってるから一瞬が永遠と同じになる。本来、死人しか入ることはできねえ。ただ、たまになら生きたまま入っちまうやつもいるらしい。外から見たら一瞬で消える領域だからな、ネットワークでも干渉できねえ」
そんな場所があったのか。状況を考えると、たしかに二人がそこへ迷い込んだ可能性は考えられる。
「でも外から見て一瞬なら、もう戻って来ていていいはずですよね?」
世界の消滅に巻き込まれたという最悪の可能性は、とりあえず考えないようにする。
「俺ぁ婆さんから聞いたことをそのまま言っただけだ。実際にゃあ違うのかもしれねえし、単におめえらが出て来てんのに気付いてねえ可能性だってある」
「というと?」
「生きた人間がそこから出る方法は一つだけ。死ぬしかねえんだとよ」
日華のその言葉に、雨龍と雫は息を呑んだ。




