雪織家次男の事情
優希side番外編です。
二話続きます。
「あんたは、心から好きでピアノを弾いているの?」
あの姉にそう言われて、内心俺は何も言えなかった。
そんなこと、今まで考えもしなかった
考えたくもなかった
俺の名前は雪織優希。
雪織家の次男として生まれた。雪織家は昔から続く由緒ある楽器の名家だ。
会社名は「Olface」その名は、ギリシャ神話に登場する音楽の神の一人である。
その名が表す通り、音がとても良いOlfaceの楽器は世界の様々な場所で活躍している。
生まれた時から、ピアノはいつも当たり前に俺のそばにあった。
母はピアニスト、父はマエストロ。
俺の両親も、祖父母も演奏家であった。
音を正確に聞き分けられる雪織家の子孫たちは、楽器会社の経営を担いながらも自らが演奏家の道に進んだ。
俺たち家族にとって、ピアノが弾けるのは当たり前。
コンクールで賞を採るのも当たり前。
俺は昔から、当たり前にそれを弾いて、その道に進むものだと思っていた。
だからこそ一つ上の姉の紫苑は、俺にとって異端だった。
兄は幼少期から瞬く間にその才を表していたのに、姉にはその片鱗がまったく出なかった。
音楽の才を持たない姉。
それでも自分の価値に期待し、足掻き続ける姉はとても哀れだった。
そのくせ傲慢で我儘な性格をしていた。
自分中心で回った世界で生きている姉を、俺はいつも心の中で見下していた。
桜小路家の子息との婚約が決まるやいなや、姉は天狗のように高い自信を携えて学校を闊歩した。
姉の我儘は瞬く間に広まり、姉の地位を恐れた生徒たちは、姉に一切逆らわなかった。
いつしか姉は校内の女王様だった。
学校ではいつも、お前の姉は怖いからと言われ、必然的に俺まで人から避けられるようになった。
集まられるよりはましだが、姉の被害が俺にまで及ぶことに許せなかった。
そんな女王様にもいよいよ天罰が下り、姉のあまりの行動に我慢出来なくなった桜小路家の御曹司が、姉に婚約破棄をしたらしい。
それもそのはず、姉は婚約者である桜小路要さんの婚約者という肩書きを使って、我儘の限りをつくした。
そのくせ婚約者にはベタ惚れで、婚約者に少しでも近づいた女子生徒に酷い嫌がらせをしている。
噂では3人の女子生徒が学校から転校している。
正直俺はその話を聞いた時、自業自得だと思った。
だから姉が家を飛び出した時も、別段心配することはしなかった。
勝手に落ち込んで、お腹が空けばすぐ帰ってくると思ってた。
だから俺は、心配する両親をよそに勝手に夕食をとって寝た。翌日、姉がすぐに帰ってきたと聞いてやっぱりなと、鼻で笑った。
暫くは静かだろうと、その日も俺は姉がいつもうるさいと騒ぐピアノのある部屋に向かった。
俺がいつも弾いているこの部屋は、俺のお気に入りのピアノが置いてある練習ルームだ。
我が家には4つほどそのような部屋が存在する。全ての部屋にグランドピアノが置かれた防音の部屋は、みな家族がそれぞれ使っている。
中でもこの部屋は、俺の部屋から近くピアノも昔母さんが使っていたピアノだ。
俺は昔から母さんにピアノを教わっているため、ここでよく母さんから指導を受けていた。この部屋のピアノを気に入った俺に、俺が一番弾きやすい音で調律してくれているのだ。
つまりここは、俺の特等室なのだ。
毎日の日課で俺は決まった時間にその場所に行く。
演奏ルームまであと少しのところまで来て、何故か室内からピアノの音が聞こえた。
ん?
最初は空耳だと思って、また部屋まで歩き出して距離を詰めるうちに、その音が徐々にクリアに聞こえ始めて俺は足を止めた。
いや、止めざるを得なかった、という方が正しい。
室内から聞こえるピアノの演奏の音に、俺は突然震えが止まらなくなった。
は?なんだ、これ?
今聞こえている音が、ピアノの音なのかも一瞬分からなかった。
異様という言葉とも、正常というのにも似つかわしくない"音"であるはずの"オト"。
俺が今聞いているのは、形容しがたい音の糸。
繊細で針金みたいな強い糸が、俺の体に、心に絡まって身動きが出来ない。
物凄くうまい、俺よりっ
俺が今まで弾いてきた音の筈なのに、全くの別物に聞こえる
俺のピアノじゃない。
違う
あれがあのピアノの本来の音なのかもしれない。
まるでピアノが喜んでいるように、鳴らしたかった音をこれでもかと鳴らしているように、ピアノはピアノ自信の音を響かせていた。
曲名は知らない。
クラシックでもジャズでもない。
何の曲を弾いているのかは分からないが、俺の目の前には確かに広大な庭が広がっていた。
それも鮮明に、植物の香りでさえ脳が勝手に反応して香ってくるようだ。
訳が分からない。
その感情と同時に、言いようのない悔しさが腹の中で蠢いていた。
俺はやっと慣れて動けるようになった足をゆっくり動かす。
まだ俺の身体は演奏を聞きたがっているため、ゆっくりと、足音を立てずに進む。
心では、早く部屋に入って演奏している人間を見たかった。
こんなに素晴らしい演奏をだれが?
その感情が、俺を前へと進ませる。
やっと扉の前まで来て、扉が少し空いていることに気が付いた。
慎重にドアの隙間に手を入れて、数センチ隙間を広くする。
そうして俺は、扉の隙間から部屋の中を見て、今度は絶句した。
違う意味で震えが止まらなかった?
心の声は意味もなく、は?は?と繰り返していた。
それもそのはず、先程から演奏をしていたのは姉の紫苑だったのである。
俺は夢でも見ているのか?
衝撃的すぎる目の前の情景に、流石の俺も頭がついて行かなかった。
姉はまだこちらに気がついていない。
演奏に没頭している。
その顔は笑っていて、体も左右に動いてリズムをとっている。
その姿が、無性に俺を腹立たせた。
今度はドアを大きく開けて部屋に堂々と入る。
姉はそれでもまだ気づいていない
「おい!」
「...」
とうとう話しかけても返事がなかった。
わざとでは無く、姉の顔を見れば分かる、自分の世界にどっぷりはまっている。
「おい、聞いてるのか!おい!...」
まったく反応がないのに痺れを切らした俺は、姉の肩を乱暴に掴んだ。
「え?.....あの...」
姉は何が起きているのか分からないといった顔をして戸惑っていた。
先程まで弾いていたピアノを鍵盤から手を離して宙に浮かせたまま固まっていた。
「何勝手にここで弾いてるんだよ。ここは俺が使ってる部屋だ。」
俺専用の部屋という言い方は少し違うが、どうせ姉はそのことを知らないだろうと訂正はしなかった。
何より、俺が弾きやすいように調整されたピアノをよりにもよって姉が俺より弾きこなせるのが悔しかった。
「そうだったの?ごめんね。私気づかなくて...今どけるね」
そう言って姉はすぐさま立ち上がり、ピアノから離れた。ついでに俺から距離を話していた。
姉のその行動、俺の顔を伺うその表情に、俺はさらに怒りが湧いてきていた。
「なんでだよ」
「え?」
「なんでお前がピアノを弾いてるんだんだよ!」
思わず俺はらしくなく姉に怒鳴ってしまった。今日の姉は何だか調子が狂って仕方ない。
それに...
「しかも、あんな...」
凄い演奏をっと言いそうになって言葉を飲み込んだ。
普段の俺が絶対に言わないであろう言葉を簡単に言いかけてしまうほどに、俺は無意識に姉の演奏に魅了されていたようだ。
「ご、ごめん...」
俺は怒りを隠しきれず、姉を睨んだ。怒鳴るとうるさくなるからと口には出さない。
姉は困った顔で俺を見ていた。
「あ......え...っと、弾く?」
俺はその言葉に違う意味でため息を着きそうになった。
相変わらずバカではあるようだ。
俺はそのまま動かずにいると、姉は更に困った顔をして考え出した。
そうして沈黙が続く中、時間はあっという間に過ぎていて、穂積が俺たちにに夕食の報告をしに来た。
なんと姉も、俺たちと夕食をとることになったと言われた時は本当に驚いた。
今日の姉は、やはりなんだか変だ。




