【EP.3】狂気/異端
夜は明けた。月光の代わりに、窓から差し込む暁光が私の目を焼こうと貫いてくる。
明るさが目に刺さって、少し痛い。夜更かしした代償であり、誰にも文句は言えないのだけども。
それに、ベッドからあまり動けないのだ。右腕の火傷からは未だに血が微かに流れ出すし、お遊びが過ぎたせいで綺麗だったはずの左手まで血がこびりついてしまったから。
いまは一応自分の部屋とはいえ、汚すのは前任者に少しだけ申し訳ない。死に対する狂おしい熱が冷めたいまは、その分別をつけられるつもりではいる。
不意に、扉が控えめにこつりこつりと音を立てた。
私ではないフィカシオが遺してくれていた説明書きに従って部屋に掛けられた魔法の一つを起動すると、扉の向こうで佇む人物の姿が魔法の手鏡の表面に映し出される。
仕組みは理解していない。けれど、部屋のドアに設けられた龍の頭を模したパーツが、向こうの世界でいうインターホンのカメラとスピーカーを兼ねた装飾になっているとのこと。
私はこの部屋からまだ一歩も踏み出していないから、どんな形の装飾なのかはわからないけどね。
「ウィン姉さま、ノックはもう少し力強くするべきだよ。いいよ、入って」
そう鏡越しに彼女に告げると、彼女は扉をゆっくりと開けて入ってきた。一つの木桶と数枚の手ぬぐいのような布、その桶の中に入れる形でガラス質な光沢を放つ短杖を持ってきている。
桶から飛び出た短杖は全体的に白く濁った結晶で構成されていて、杖の先端部の数センチは青と赤の色彩が絡み合うように混ざっていた。
「フィカちゃんのことだから、汚れた手で周りを触ってしまうんじゃないかって思った、のだけど……」
彼女は私の代わりに部屋の整理をしている【死神】を見て、言葉を切る。
動揺というよりは、なにか物珍しい光景を見たと言いたげに首を傾げている。
しかし、この黒衣なびかせる死神はとても便利だ。酷使しても髑髏の表情は曇らないし、骸骨だから文句も言葉にはしない。
といっても、維持コストである「オーブ」はきっちり支払っているから、その分は動いてもらわないと割に合わないんだけど。
「ありがとう、姉さま。この子だけじゃ部屋の掃除が捗らなくて、ちょうど困っていたんだ」
ウィン姉さまは私の言葉に少しだけ照れくさそうにしながら、私の頭を撫でる。
それから、手荷物を置きながら床にしゃがむように座り込んだ。
私もそれに習い、ベッドから降りて床に座る。
「うーん、やっぱり慣れないなあ。いつものフィカちゃんならきつい言葉を浴びせてくるのに……」
【私は、姉さまに対して素直になれなかった】。フィカシオは自らが残した「残滓」でそう悔いていた。
だから、私が演じるのは「姉さまに素直になれない君」じゃなくて、「本当は姉さまが大好きな君」にするつもりだよ。
そんな理想を掲げるのは傲慢だと、笑えばいい。人を欺けるなどと驕るなと、忠告でもするがいい。
けどね、――私は誰かを演じることができる。情報さえあれば、普通の人でも異常者でも別に構わない。
……そうやって、波風を立てずに生きてきた。「求められてきた普通」に埋没するための手段を知っていたからこそ、――両親を最期まで騙し通すことができたんだから。
「どうだろうね。とことん死にそうになって、少し素直になったのかもしれないよ」
「なら、もっと素直になって」
ウィントレスは手ぬぐいと杖を桶から取り出し、杖を手にとって看病の準備をする。
彼女が手に持った短杖で木桶の底をつつくと、杖の先から水が溢れ出て桶を満たしていった。
姉さまは私の右腕を持ち上げ、水で濡らした手ぬぐいで優しく拭う。
必要以上にこすらないように、傷跡に響かないようにゆっくりと、汚れた血を落としていく。
手を動かしながら、ウィン姉さまは震える小さな声で呟くように私に語りかける。
「知ってるんだ。フィカちゃんとボクじゃ、求められている役割が違うんだって」
【私の使命は、姉が戦えるようになるまで守護すること】。それはフィカシオが背負う、忌々しい使命だ。
レンデドール家の軍旗の継承者として選ばれたウィントレスは、まだ弱い。弱すぎる。
けど、その事実と同時に、将来的にこの力関係が逆転することも決まっていたのが厄介なんだ。
だから、彼女は姉が一人で戦場に立てるように、強く当たることが増えていった。
嫌われるのも覚悟の上で、きつく振る舞ったんだ。
たとえ家族を失ったとしても、「指揮官」は止まることが許されないのだから。
「フィカちゃんはどんなに辛くても、痛いって言ってくれない」
それは、フィカシオの精一杯の強がりだ。加えて、いまの私にとってはまだ「苦痛を訴えるほどに痛い」という感覚じゃないんだ。
少し痛いのは確かなのだけど、肉体的な苦痛に対して「ハルカ」という名の私はとても鈍いから。
「姉さま。いま痛いって言っても、なにも起きないでしょう?」
これ以上優しく拭き取るとなれば、果たしてなにを拭き取っているのか定かじゃなくなるだろうからね。
「いまのことだけじゃないけど……」
彼女に向かって微笑んで見せた。
「いまは姉さまは守られる側で、私が矢面に立って傷つく側。それが覆ったときには、素直に痛いって言ってあげるよ」
姉さまは私の腕から血を拭った手ぬぐいを桶の水に投げ入れ、杖で桶の中身をぐるりと回すと内容物がまたたく間に消え失せる。
……理屈がわからないけど、そういう魔道具なのだろう。
ただ、拭いてもらったことで、少しだけ腕にまとわりついてた死臭が和らいだ。少なくとも、死人の腕とまでは言えなくなっただろう。
「左手も出して」
「仰せのままに、姉さま」
わざと仰々しく言ってみせると、姉さまも左手の下に手を丁寧に回して受け止めてくれた。
そのまま、別の濡れた手ぬぐいで私の手を綺麗に掃除する。
「……こっちは傷がないんだね」
「ええ、お遊びで使っただけだから」
姉さまは僅かに顔を伏せ、彼女の顔は影で覆い尽くされた。
「もう無茶はだめだよ。君が傷付くとね、ボクが悲しくなるんだから」
「ごめんね、それは約束できない」
姉さまが顔を上げる。その瞳は僅かに輪郭が歪んでいて、それが涙によるものだと理解するのに少しだけ時間を要した。
「どうして……!」
慟哭とともに姉さまの瞳から雫が伝う。
私は空いている右手で姉さまの頬に触れた。
「私の役目は姉さまを守る兵士。もっと残酷な言い方をするならね」
青き瞳が大きく見開かれる。
「――『ただの駒』、なんだよ。だから、私を殺したくないなら、姉さまこそ無茶しないでね?」
これ以上の言葉は必要ない。だって、姉さまもとうの昔に気が付いているだろうから。
無理への対価は、死神が受け取る。けれど、死神は「金貨」では決して満足してくれない。
そして、指揮官ならば死神の凶行に対する落涙も懺悔も許されないのだ。
……許される行為はただ一つ。
私は彼女の額に自分の額をくっつけ、小さく穏やかにささやく。
「貴女はみんなの死を忘れないで。『駒たち』の死に様を記憶して、掴むべき勝利を見定めただ進む。それが姉さまの役目」
ウィントレスは泣きながら笑みを浮かべる。
「本当に強いなあ。フィカちゃんは……」
「姉さまのせいだよ。弱くて強い姉さまのせい」
彼女の残滓の一つ。【私は、がむしゃらに努力できる明るい姉さまが大好きだ】。
フィカシオが弱音を吐かないのと同じように、きっと姉さまも同じように辛苦を口にしない。
「だからね、……いまだけは涙を見せていい。ううん、私だけに、姉さまの泣き顔を独り占めさせて?」
姉さまは私の綺麗になった手を降ろし、ぎゅっと私を抱き締める。そして、耳元で告げるのだ。
「フィカちゃんは優しいよ。ボクよりずっと優しいんだ」
耳に微かに吐息がかかり、確かに熱をこの身に感じる。けれど、吐き出された言葉はどこまでも鋭利で、雪山で感じる孤独より冷たいもので。
「だって、君はいつも誰かを救おうとしてる。神の言葉に縛られたボクと違って、フィカちゃんは理由なく人を弄べないから」
抱き締める力に、より熱意がこもる。
頼られてよかった。弱みを見せてくれたことに、喜びを覚えている。けど、この胸のざわめきはそれだけじゃない。
なにかが崩れそうで、怖いんだ。
「覚えておいてね。ボクは、フィカちゃんのためなら君以外の犠牲を惜しまない。人も、物も、運命や神すらも、ボクは君の言う【ただの駒】としてこの手で動かしてみせる」
彼女は、私の知っている人物と完全には一致しない。ゲームでの主人公は、ここまでの悲壮は抱えていないのだから。
ウィントレスの言葉を愚直に受け止めるなら、あまねくすべてを犠牲に――死に至らしめても自分は構わないということだろう。
そして、なにより……身体の震えを感じるということ。彼女の感じている喪失への恐怖心が、私の心とともに体を揺さぶり、その身に燃える規格外の感情を訴えかけてくるのだ。
だから、この気持ちに応えると決断するならば。相対すると覚悟するならば。
「いいよ、私からも一つ心に刻んでおいて。もし姉さまが選択の果てに人の道を踏み外したときは、――私が姉さまを殺してみせる」
抱擁は解け、私たちは再び至近距離で向き合った。
「私は、姉さまの道の礎にも、道を塞ぐ最後の番人にもなれる。だから、姉さまも臆せず自分の道を進んでほしいんだ」
姉さまが笑う。涙を拭うことすら忘れて、……彼女は私の額に口づけをした。
「ありがとうね、フィカちゃん。――どんな軌跡になるとしても、ボクは君のそばで笑いたいな」
私は姉さまの言葉を聞いて、そっと窓の方角を向く。朝日はその輝きを強め、早朝とは言えぬまでに時間が経っていることを教えてくれていた。
手ぬぐいを持ち上げる音がする。しばらくして、木桶に杖と手ぬぐいを入れる音がした。
座ってそっぽを向いた私の頭をくしゃりと撫で、ウィン姉さまは静かに部屋を出ていった。
少し、静寂を噛み締める。部屋に残されたのは、私だけ……じゃないけれど。
姉さまとの会話中に薄っすらと聞こえていたくすくす笑いの主に、私は問いかける。
「どこから聞いてたの?」
影が光に逆行するように不自然に伸び、昨夜対峙したフクロウ頭の男が影から生えて現れる。
アン・ルーヴァ。盗み聞きをしていた憎たらしい悪魔だ。
「おや、それを聞きたいのですか?」
「質問に質問を重ねないで。左手を拭いてもらっているあたりから、少し笑い声が聞こえてくる感じがしてたんだよ」
「おやおや」とそう口にしながら、悪魔は楽しげに笑う。
答えを聞きたくはない。きっとろくでもないことになるから。
「そうですね……。『死の先を求めるのは私と同じだね、フィカシオ』ぐらいからでしょうか」
虚空から拳銃を取り出し、早撃ちの要領でルーヴァを撃つ。
「ところで、遠き海の国で食べられるおしゃれな軽食をご存知ですか?」
なんとなく次の言葉のチョイスはわかっている。だから、素早く撃鉄を起こす。
「『茹でダコのマリネ』です。それはそれは、先程までの貴殿に相応しい色ですとも」
――発砲。更に素早く重ねて撃つ。
けれど、銃弾で魔導障壁を削られてなお、大声で悪魔が笑っていたのは言うまでもない。




