【EP.1】フィカシオ・レンデドール
私の結末なんて知らない。
立ち込める燃料の匂いの中、私が友人に伸ばそうとした腕はすでに折れていて、絶望が重くのしかかって私の心は潰えてしまった。
それが意識を失う前に見た、最後の景色。ならば、私は死んだのだろうと、そう推測することだけはできる。
目覚めた直後から、右腕がずきずきと痛む。
月光が差し込む見知らぬ部屋で、普段は滅多にお目にかかれないほど心地よいベッドに私は横たわっていた。
神聖さすら感じる部屋とは真逆の、死臭によく似た不吉な匂いが鼻の奥を熱く焼こうとする。
死の香りの根源は、私の右腕だった。
けっして鮮血とは言えないどす黒い血液で彩られた右手を、ベッドに横たわる私をつまらなさそうに眺めているフクロウ頭の人物に向けてかざす。
こちらへの敬意をまったく感じさせない、両腕を組んだ黒いコートの男に対してだ。
ああ、とても私らしい夢。一度死んでまであのカードゲームの世界を夢見るなんて、相当大好きだったのかもね。
さあ、教えてよ。貴方があのゲームの世界の住人ならば、こう名乗るだろうから。
「貴方の名前は、アン・ルーヴァ?」
フクロウ頭の「悪魔」は、恭しく礼をしながら名乗ってみせる。
「ゲームとしての呼び方が好みであれば、その名をお呼びください。本来の私めは『名無しの悪魔』故に」
そう、貴方の名前がそうならば、本当に私が好きだったゲームの世界なんだ。
でも、きっとこれはただの夢。走馬灯のようなものだと、そう自分に言い聞かせようとする。
けれど、自然と顔が歪む。顔面に脂汗が吹き出る。
力を込めてしまった腕の傷が少し開き、鮮やかな雫が腕を伝う。
綺麗な赤。生命が駆動してることを証明する、新鮮な血液だ。
「これでも、我らは手を尽くしたのですよ。ですが、悪いことだけではありませんとも」
――「何故ならば」。そう彼が口にしながら、私の傷の一つに触れる。
ゆっくりと触れ、爪で軽く掻き、浅く抉る。
絶叫……でも、したらよかったのだろうか。言葉にするのがおぞましいまでに痛かったけれど、不思議と悪い感じはしなかった。
叫びこそしなかったが、うめき声が自分の口から漏れたのはわかる。
「こうして、夢を見ている愚者を痛めつけることができるのですから」
苦痛が私の命を肯定し、浅ましき夢を否定し尽くした。痛みがこの光景を現実であると定義した。
だから、私はこうして、サディストのクソ野郎に言葉を吐き捨てることができる。
「紳士ならば女性と子供は優しくするべきだと、君は学ばなかったのかな?」
ルーヴァの目元がニヤリと笑う。
「いえいえ、学びましたとも。優しくすることが『正しい』ことであり、悪魔らしく冒涜するべきことなのだと」
私の傷から離れた彼の指が、月光に照らされて怪しく煌めく。
真紅が数滴、ベッドのシーツを無惨に汚した。
私は彼の呵責のせいでより一層痛む右腕に鞭を打つように酷使しながら、無理やり上体を起こす。
そして、満足気に指を舌で舐める彼を、私は睨みつけた。
けれど、そんな私の小さな抗議も彼にとっては些細なことのようで。
「残念ながら、夜は有限だ。本題に入るとしようか」
彼は言葉に一拍おく。
それは私への気遣いではなく、ただの予兆だった。
無言のままに、虹の油膜に彩られた乳白色の球体が、彼の背後に浮かぶ。
一つ、二つ……合計で七つ。
私は誰だ。
――おそらく、「フィカシオ・レンデドール」と呼ばれている人物だ。作中において、痛ましい右腕の火傷が特徴的な少女だったから。
そうであるならば、使える手札はわかる。彼女は私が大好きだったキャラだったから。
そして、眼の前で起きている光景の結末はなんだ。
これから起きる悲劇は予想できないけども、浮かぶ球体……オーブは七つ。
祈る、願う、悪態をつく。神、悪魔、奇跡、理不尽に対して、それらすべてを吐き出す。
どの組み合わせが条件を満たせたかは定かではない。
でも、彼に突き出した右手には虚空から現れた拳銃が握られ、左腕には鋼鉄の大盾が装備された。
大盾で自分の身を隠すまでの一瞬に、彼が生み出したオーブが光を失うのが見て取れる。
その次に起きたことを、すぐに理解することは叶わなかった。
盾になにかがぶつかった。紅玉のように煌めく突撃槍の鋭い穂先が裏側から生えて、まっすぐに伸びて私の頬を軽くかすめる。
「――素晴らしい」
――とびっきりのクソ野郎だ。
出来事への知性的な恐怖ではなく、本能が体を小刻みに震わせる。そのせいで、彼を蔑むその言葉は口にできなかった。
あのゲームのエフェクトを参考にするならば、この槍は【ハートピアス】という「速射呪文」。
効果は「生命体一つを対象にした即死」だ。
ゆえに、狂おしい熱が冷えていった脳が、しばしの静寂を甘受する。
私は運がよかったのだけなのだ、と告げながら。
「ふざけるな、私にとっては傑作なぐらいに最悪だよ」
静寂を打ち払う。大きく空気を吸い、そのまま世界に返す。
ああ、おふざけがすぎる。まったく殺す気なく、即死魔法の一つを撃ってくるなんてね。
それに、……【ハート・ピアス】自体はそこまで強くない呪文だ。
お前が本気だったならば、――別のなにかしらが私の心臓を穿ち抜いていたのだろう。
「そうだ、傑作だとも。思わず最後まで魔法を押し込みたくなるほどに」
紅玉の槍が刺さった盾を投げ捨て、銃口を床に向ける。
大盾が重く轟音を響かせる。
けれど、他者への迷惑である可能性を考えるよりも、生命のやり取りから解放されたゆえの安堵が上回った。
正確には、ただただ諦めた。まな板の上の鯉として振る舞うことに抵抗する手段を、ほとんど失ったから。
だから、気持ちはついさっきより軽い。
それでも、眼の前で傲慢さを見せつけられて、吐き気を催すぐらい最悪な気分ではあるけど。
「で、私は君の期待通りだったのかな? このクソ野郎が」
ルーヴァがくちばしの下側を右手で撫でながら、満足げに答案を私に返す。
「ああ、少なくとも『シナリオ』通りには行かなさそうだ。私の期待を大きく上回ったと言えるだろう」
彼が組んでいた腕を崩し、そのまま両腕を上げて私に言葉を投げつける。
劇の演者のように仰々しく、わざとらしいまでに尊大な言葉で。
「故に、悪魔として囁き、唆そう。我らが盤上の駒となれ、フィカシオ・レンデドール」
いまの私は「フィカシオ・レンデドール」である。それと同時に、私はゲームプレイヤーの「ナミシマ・ハルカ」だ。
そして、私に求められるのはおそらく「ハルカ」ではない。
「駒として、貴殿が知る『フィカシオ』を演じるがいい。そうして演じきった先、貴殿が他の転生者よりも優れていたならば、大悪魔様から褒美を授けられるだろう」
提案に乗る理由は、まだ微塵も存在しない。お前は言葉でなにかを隠しているのだから。
沸騰した理性が、本能的恐怖を溶かし尽くす。武器を突きつけることこそが対話になると、警鐘を打ち鳴らす。
物質的な「武装」を、現象としての「声」を、ためらいなく相手に向ける。
「どうだろうね。お前の言う『優秀である』とはなにを指すのか、なにを『褒美』とするか、大悪魔とは何者か。それらが明確でない以上、お前は私を欺く敵でしかない」
――私と同じテーブルにつけ、アン・ルーヴァ。
沈黙の中、私はできる限りそのメッセージと殺意が伝わるように、瞳孔を開いて睨みつけた。
……私の瞳が開ききったとき、世界が一瞬、鮮血の色に染まる。
それは世界にとっては一瞬のこと。けれど、私にとっては数分に感じるだけの言葉を流し込まれた、拷問のような時間だった。
記憶のフラッシュバックとは違う、見知らぬ誰かの言葉の濁流が私を襲う。
ゲームとしての「システム」が、世界の「理」へと翻訳されていく。
「さあ、証明してみせて。お前の言葉で、私にその『提案』の価値を示してほしいんだ」
この思考の数秒の空白で、ルールの「再定義」は無事完了した。
しかし、再定義がなにをどんな形に「定義」し直したのか、私も詳しくは認識できていない。
けれど、感覚では世界のルールを理解することができる。
ルールが知覚できずとも、魔法で虚空を黒く裂いて、その黒き隙間からそれを【召喚】することができるんだ。
自分の武装を取り出したときは、自分の意志で試行回数を増やして「当たり」を引き当てることができた。
でも、いまどうやって「コストのオーブを支払った」か理解してないし、かばうように私にその黒衣を巻き付ける骸骨の【死神】を召喚したかは言葉にならない。
ただ、できる。できてしまうのだ。
この体に染み付いた追憶が、【死神を召喚するカード】をプレイしたのだから。
きっと、この世界にとっては「日常的な、たったそれだけのこと」。
――信仰も象徴も、言葉すら必要なかった。
引き当てた正解は、ただ「願うこと」。願いへの対価を己が支払えるならば、世界がそれに応えるだけ。
「ああ、とても面白いとも。では、理を掴んだ貴殿に敬意を払い、言葉で応えねばならぬ」
私の死神に銃を向けられてなお、ルーヴァの口数は減らない。
差し込む月明かりが部屋を静かに照らす中、私たちはようやく真正面から向き合った。
「しかし、それは貴殿にお似合いですとも」
安い挑発には乗らない。だって、貴方が感じた感想は事実だから。
ルーヴァは死神を見て、悪魔らしく邪悪に笑う。
「――まるで、貴殿の『シナリオ』を表しているようだ。フィカシオ・レンデドール」
それがお互いの深淵を暴く合図。
お前は私の傷を抉った。ならば、次はお前の番だ。




