【EP.0】呪死/事故死
ベッドに横たわる私を、彼女はベッド横に立って楽しげに見つめていた。
愉悦と侮蔑。それを隠す素振りもなく、「悪魔」は笑っている。
「死にそうな人を見て、そんなに面白いかしら?」
窓から差し込む冷たい月光も、彼女と同様に、にこやかな笑みを浮かべながら私の瞳を貫き潰す。
――痛い。眼底が崩れそうなほどに熱く煮え滾る。
普段なら優しく夜道を照らしてくれるだけの月明かりすら、呪いに侵され死に向かう私にはあまりにも刺々しい。
月光は呪いを払う力があるけれど、浄化の代償として私の右腕は静かに冷ややかに燃えている。
そして、この強大な呪いの前に、……私は膝を折ることになるだろう。
「ええ、愉快ですよ。こうして、貴方は――」
彼女が黒きミミズクではなく人の姿を取っているとき、それは彼女が誰かと契約を交わすときの合図。
身につけた外套の純白は、偽りなき契約者であるという意思表示。
手に持った羊皮紙にのたうち回った蛇の黄金色は、朽ち果てることなき永遠の鎖が巻き付くことの証明。
衣装と道具を示し、彼女は私に勝利宣言をする。
「私の殉ずる物語に組み込まれ、我らが主が求む再演のための駒になるのですから」
曇りなき破顔。勝利を美味としてついばむために、「悪魔」はそう鳴き声を上げた。
悪魔が自らの目前に持ってきた自分の指を揺らし、最後の道具を虚空から魔法で取り出して、私の右手に握らせる。
「さあさあ、書いてくださいませ。意識が朽ちる前に、自らの存在が水泡のように弾けて消え失せる前に」
私の手に握らされたガラスペンに、どこからともなく銀色のインクが滲み出す。
腕を覆う青く冷たい炎に触れてもなお、インクは決して固まることなくペン先から雫と化して落ちていく。
不意に……揺らぐ、世界が曲がる。熱せられたガラス細工のように、眼が歪んでいるのかもしれない。
最後の気力を絞り、私は彼女の契約書に流れる銀で自分の名前を刻み込んだ。
『フィカシオ・レンデドール』
きっと、その文字は誰にも解読することはできないまでに歪だったに違いない。でも、もう私に確かめる術はないのだ。
だって、ねえ。
「あはは。――ちょうど、潰れちゃったみたいね」
見えなくなった、何もかもが。
赤く燃える世界の中で、世界は赤以外の色彩を喪失した。
「ええ、真っ赤です。普段の蒼とは正反対の、真っ赤っ赤ですとも」
ふわりと私の双眸を柔らかくて軽いものが覆う。きっと、これはミミズクの翼が被せられたのだろう。
「ああ、哀れなフィカシオ。私と貴女の仲ですから、暫しの終わりを甘受する前に、もう一人の演者の終末を見せてあげましょう」
……そうして、私の意識は落ちていく。
それはそれは、奈落より深く、深黒に佇む冥神の手からも転げ落ちて、死の運命を「共有」することになる「彼女」の世界を覗き見れる深き底へ。
もう一人の役者の名前は、「ハルカ・ナミシマ」。彼女の名を見聞きする前に、私は理由もなくそれを理解することができていた。
格式高そうな豪華な椅子が立ち並ぶ、不思議な箱型の乗り物の中に彼女たちは座っていた。表面にシミ一つない、模様も綺麗で不思議な張り地の、適度に柔らかそうな椅子だ。
学生、なのだろうか。私たちと違って少し装飾が少ない意匠の制服だけれど、決して生地が粗悪というわけでもない。
そんな彼女は、近くの席に座っている友人たちと楽しげに談笑していた。
乗り物の内部には様々な材質の装飾が施されていて、私にはそれらがいかなる材料からなるものなのか、どういった役割を持っているのかは理解できなかった。
なんのことのない、平和な日常。特記することのない、平凡な光景。
じゃれ合い、大した意味もなくふざける。私には眩しい温かな景色。
けれど、それらは偽りの平穏だったのかもしれない。
突然世界は横倒しになって、彼女らは他の誰かを押し潰すように重なり合った。
照明で明るかった車内も一転して暗闇に覆われ、全てが惨劇へと転じる。
人の層の先、地面に血が広がる。それと同時に、鼻を突く不思議な臭いが辺りに立ち込め始めた。
ハルカは惨劇に巻き込まれてなお、自分の友人に手を伸ばそうと藻掻いていた。けれど、その腕は無惨にも折れ曲がっていて。
存在が強くなってきた臭いの中で、私は臭いの根源に心当たりを得た。
この匂いによく似た道具は、私も魔物退治で使うことがある。
――これは多分、油だ。それも、よく燃えるタイプの燃料用の油だ。
あとは火種だけ。災禍の時がおぞましい産声をあげるには、たった一粒の火花だけでいい。
きっと、私は無意味に祈った。眼の前の災禍が実現せぬようにと、無関係でありながら願ったんだ。
けれど、願いとはときに裏切りで返されるもの。
眠れる黒き赤子は、温かい灯を手に入れた。暗き世界は一気に色を帯びる。
赤、真っ赤、鮮やかな色を揺らめかせながら。
けれど、ハルカはその光景を見る前に意識を失った。
それでいい。こんな地獄を見るのは、いまは私だけでいい。
私は彼女の手を握った。どうしてかは定かではないけれど、――握れてしまった。
私自身か、運命か、悪魔か、誰が選んだのかなんて知らない。
でも、彼女はその誰かに選ばれてしまったんだ。
現世に生まれた炎獄の中、私は彼女を抱き締める。
「ああ、ごめんね」、と。言葉にはならないし、伝わることもない声で告げながら。
これはね、私のただの推測。
君はこの惨禍を観測していないだろうから分からないだろうけど、君が「私」として生きることになるならば、この惨禍で死に絶えた方がよかったと嘆くかもしれない。
そのうち、誰かのために死ねと、私は君に告げるだろう。
時が来れば、私のために死んでくれと口にさせながら、誰かを切り捨てるように唆す。
それでもなお、君が私として生きてくれるならば。
――まあ、どうなるかは分からないけど、個人的に期待はしてるよ。
じゃあ、始めましょう。これが「私の死」への反逆だ。




