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第9話:雨の部室と積読タワー

 渡り廊下が滝になっていた。傘は持っていたけれど、横殴りの雨で意味がない。靴の中に水が入った。六月の木曜日。大雨。


 部室の引き戸を開けた。


 全員がもう来ていた。俺が一番最後だ。壮介が畳に寝転がっている。いつもより静かだった。


「遅かったな」


「渡り廊下が川になってました」


「雨の日は部室率が上がる。全員がいつもより早く来る」


 凛先輩が文庫本のページをめくりながら言った。確かに、普段は俺か壮介が最初に来るのに、今日は全員が先に揃っていた。雨の日の部室には引力がある。


 窓ガラスを水滴が流れ落ちていく。校庭は巨大な水たまりと化していた。サッカー部も練習中止だ。


「雨の日って、物語が生まれやすいんです」


 詩織さんが万年筆を走らせながら言った。湿度でインクの滑りが変わるらしい。


「雨が降ると外に出られない。外に出られないと、人は内側に向かう。内側に向かうと、言葉が生まれる」


「詩織さんの持論?」


「持論です。でも本当だと思います」


 五人分の呼吸と、雨音と、筆記音。それだけで部室が満ちている。体育祭の喧騒が嘘みたいだ。


 *


 一時間ほど各自の作業が続いた。俺は「走れ、朝倉」の続きを書こうとしたけれど、雨の日に走る文章は書きにくい。


 凛先輩が文庫本を閉じた。栞を挟まずに閉じた。ページを覚えているのか、それとも読み返す気がないのか。どちらにしても、この人の読書量は信頼できる。ホワイトボードの前に立った。


「暇だし、積読本を持ち寄ってタワーを作ろう」


「積読本タワー?」


「各自が家から持ってきた"買ったけど読んでいない本"を積み上げる。高さを競う」


「それ、先輩の積読本を消化するための企画じゃないですか」


「違う。純粋な遊びだ」


「嘘っぽいですけど」


「明日持ってこい。全員だ」


 翌日の金曜日。全員が袋いっぱいの本を持って部室に集まった。外は今日も雨だ。


 凛先輩の積読本。ミステリが中心。洋書も何冊か混ざっている。アガサ・クリスティの原書、エラリー・クイーンの未読作品、国内の新人ミステリ作家の短編集。


 整然と積み上げられた。文庫本と新書が交互に並んでいて、構造的に安定している。さすがミステリ脳。積み方にも論理がある。高さ四十五センチ。


「先輩、積み方が几帳面すぎません?」


「崩れたら意味がない。タワーは構造が大事だ」


「ミステリ作家は積読タワーも論理的に積むんですね」


「当然だ」


 壮介の積読本。全部漫画だった。


「壮介、小説を持ってこいと言ったんだが」


「漫画も積読だ!!」


「確かに……反論できないな」


 壮介の漫画タワー、少年漫画がずらり。冊数が異常に多い。一冊一冊が薄いから高さは出る。五十センチ。凛先輩のタワーを超えた。


「勝った!!」


「漫画で勝つな」


「勝ちは勝ちだ!」


 詩織さんの積読本。ジャンルがバラバラだった。純文学、SF。哲学書、料理本。図鑑、歴史書。詩集、百科事典の一冊。


 卓の上に積み上げていくと、タワーがどんどん高くなっていく。詩織さんの座高を超えた。まだ積んでいる。鞄の中からまだ出てくる。どこに入っていたのかわからない。鞄が四次元ポケットなのかもしれない。


「多すぎない!?」


「読む速度より買う速度が速いんです」


「それは病気だよ」


「病気ではありません。投資です。未来の自分への」


「未来の自分は何冊読むつもりなんだ」


「全部です」


「全部って何冊あるの」


「数えていません。数えると怖くなるので」


「数えたほうがいいと思うんだが」


「数えたら買うのを控えるかもしれません。それは本への冒涜です」


「冒涜って」


「本は買うことに意味があるんです。読むかどうかは二の次です」


「読まないと意味ないだろ」


「いいえ。本棚に並んでいるだけで意味があります。"いつか読む"という希望が本棚に詰まっているんです」


「詩織さんの本棚は希望の塊なんだな」


「はい。ただし物理的に棚が足りなくて床に積んでます」


「それは希望じゃなくて災害では」


 霧島先生の積読本が出てきた。段ボール一箱分。先生が部室に持ち込んだ瞬間、全員が声を失った。卓に載りきらない。畳の上に直接積んだ。高さ七十センチ超え。全員のタワーを圧倒的に凌駕した。


「先生、いつ読むんですかこれ」


「定年後に」


「定年まであと三十年くらいあるんじゃないですか」


「だから三十年分ある」


「計画的なのか無計画なのかわからない」


「計画だ。定年後の三十年間を全て読書に充てる計画」


「その計画、破綻してません?」


「破綻は教師の日常だ」


 そして俺の積読本。


 サッカー関連の本が二冊。体育祭の後に図書館で借りたスポーツ小説が三冊。合計五冊。高さ十五センチ。


「陽翔のしょぼっ!」


「うるさい。入部するまで本を買う習慣がなかったんだよ」


「十五センチって辞書一冊より低いぞ」


「事実だ。認める」


 凛先輩が俺のタワーを見て、少し笑った。


「これから増える。断言する」


「そうですかね」


「断言する。お前は読み始めたばかりだ。読み始めた人間は止まらない。一年後にはこのタワーが三倍になっている」


「三倍でも四十五センチですけど」


「四十五は先輩のタワーと同じ高さだ。悪くない」


 五つのタワーが部室に並んだ。五つのタワー。中身はバラバラだ。ミステリ、漫画、全ジャンル、段ボール、スポーツ。五人の人格がそのまま積み上がっている。


 凛先輩のタワーはミステリへの愛の形だ。洋書まで手を出しているのは、日本語のミステリだけでは足りないからだろう。この先輩は、世界中のミステリを読みたがっている。


 壮介のタワーは漫画文化の象徴だ。小説は読めないけど漫画は読む。文字が苦手でも物語は好き。壮介の「書けないけど読むのは好き」が、漫画のタワーに現れている。


 詩織さんのタワーは無限の好奇心の塊だ。純文学もSFも哲学も料理も、何でも知りたがる。何でも吸収する。あのペンから出てくる多彩な文章は、この積読本の海から生まれている。


 霧島先生のタワーは「いつか読む」という希望だ。定年後に三十年分。先生は夢を捨てていない。棚の奥に原稿を隠して「続きは、いつか」と書いた人だ。「いつか」がこの人のキーワードなんだろう。


 そして俺のタワーは「これから始まる」の形だ。五冊、十五センチ。一番低い。でも凛先輩が言った。「これから増える、断言する」と。空白はこれから埋まっていく。


 *


 タワーが並んだまま、雨音を聞いていた。誰かが口を開くのを待っている。待っている間に、壮介が凛先輩のタワーから一冊抜いた。タワーが揺れた。


「触るな!」


「一冊だけ! 見せて!」


「慎重に抜け。崩れたら殺す」


「物騒!」


 壮介が抜いたのは、国内の新人ミステリ作家の短編集だった。表紙に黒猫のイラスト。


「先輩、これ読んだの?」


「積読だと言っただろう。読んでいない」


「積読なのに並べ方にこだわるの?」


「いつか読む時のために、手に取りやすい位置に置く。それが積読の作法だ」


「作法!? 積読に作法があるの!?」


「ある。壮介、お前の漫画タワーは無秩序に積んでるだろう」


「積んでるだけだけど」


「それは積読ではない。放置だ」


「積読と放置の違いは!?」


「愛があるかどうかだ。積読は"いつか読む"という愛を込めて棚に置く行為だ。放置は"いつ読むかわからないまま"投げてある状態だ」


「哲学的だ!」


「哲学じゃない。読書家の常識だ」


 詩織さんが自分のタワーの上から一冊を取った。哲学書だ。


「私の積読タワー、見ていて何か気づきました?」


「ジャンルがバラバラなのは気づいた」


「そうなんです。私、本を買う時にジャンルを選ばないんです」


「選ばないの?」


「はい。本屋に行って、"目が合った本"を買います」


「目が合う?」


「本棚に並んでいる本の中で、ふと目が合う本があるんです。背表紙の色とか、タイトルの一文字とか。なんとなく手が伸びる。それが私の買い方です」


「感覚で買ってるのか」


「感覚です。でも不思議と、その時の自分に必要な本が手に入るんです」


「誰かに薦める本も、そうやって選ぶの?」


「はい。本屋で"この本はあの人のための本だ"と思うことがあるんです。あらすじを読んだ瞬間に、特定の誰かの顔が浮かぶ」


「特定の誰か」


「はい。その人が今、読むべき本だと感じるんです」


 詩織さんが俺のほうをちらりと見た。一瞬だけ。すぐに積読タワーに視線を戻した。


「詩織さん、今誰かの顔が浮かんでる?」


「秘密です」


 壮介が畳に寝転がったまま言った。


「俺は漫画買う時、表紙のバトルシーンがかっこいいかどうかで決める」


「壮介のは"目が合う"じゃなくて"殴られる"だな」


「殴られる!?」


「表紙のバトルシーンに殴られて買うんだろ」


「違う! 惹かれて買うんだ!」


「惹かれてるんじゃなくて衝撃を受けてるだけだろ」


「衝撃も惹かれるの一種だ!」


 凛先輩が自分のタワーを見た。


「俺はミステリしか買わない。ジャンルを絞っている。千歳とは逆だ」


「先輩は何で本を選ぶんですか」


「トリックだ。あらすじを読んで、トリックが面白そうかどうか。あと著者の既刊を全部読んでいるかどうか」


「既刊を全部読んでるかどうかで買うんですか」


「新刊が出たら迷わず買う作家が三人いる。その三人の本は発売日に買う。それ以外は吟味する」


「先輩にも推し作家がいるんですね」


「推しとは言わない。敬意を払っている作家だ」


「推しですよそれ」


「推しじゃない」


「推しです」


「うるさい」


 霧島先生がソファの端から声を出した。


「俺の積読は全部衝動買いだ」


「先生も衝動買いするんですか」


「古本屋の均一棚で"百円なら買うか"で買い続けた結果が段ボール一箱だ」


「百円の積み重ねが段ボール一箱に!?」


「百円でも百冊買えば一万円だ」


「それ全部百円なんですか」


「ほとんど百円だ。高くても三百円」


「先生の積読タワーは世界で一番安い」


「安いが量は最大だ。量と質は反比例する場合がある」


「先生、自分の積読を否定してません?」


「否定していない。安くてもいい本はある。値段と価値は別だ」


「先生、たまに良いこと言いますね」


「たまにじゃない。缶コーヒーを飲んだ後は良いことを言う」


「コーヒーが知恵の源泉ですか」


「そうだ。俺の知性は液体駆動だ」


「先生、それ朝倉くんが前に言ってたセリフですよ」


「……パクったわけじゃない」


「パクりですね」


「教育的引用だ」


「引用って言えばなんでも許されると思ってません?」


 壮介が起き上がった。


「なあ、みんなに聞きたいんだけど」


「ん?」


「"今まで読んだ中で一番好きな本"って何?」


 部室が一瞬静まった。大きな質問だ。壮介にしては核心を突いている。


「壮介、お前から答えろ」


「俺!?」


「お前が聞いたんだから、お前から答えるのが筋だ」


「えーと……『ワンピース』!」


「漫画だが」


「漫画だけど一番好きだ! 仲間の話だから!」


「仲間か」


「海賊だけど、あれは仲間の話だ。みんな違う才能があって、みんな違う夢があって、でも同じ船に乗ってる。それが好きだ」


「壮介の読みは意外と深いな」


「深い!? 俺深い!?」


「深いと言うかは微妙だが、本質は掴んでいる」


「先輩は?」


「言えない」


「なんで!?」


「好きな本を一冊に絞ることは、残りの全てを否定することだ。それはできない」


「先輩、面倒くさい」


「面倒くさくない。誠実なだけだ」


「じゃあ三冊は?」


「三冊でも」


「じゃあ十冊」


「……十冊なら」


「多い!」


「少ないほうだ。本気を出せば百冊リストを作る」


 詩織さんが万年筆を握った。


「私は一冊選べます」


「何?」


「秘密です」


「えっ!? 壮介が答えたのに!?」


「壮介さんは自分から聞いたんだから答える義務がありますけど、私は聞かれただけですから」


「論理が通ってるけど意地悪だ!」


「意地悪じゃありません。秘密にする権利があるだけです」


「ヒントだけでも!」


「まだ誰にも見せたことがない本です」


 詩織さんがちらりと俺を見た。一瞬だけ。すぐに目を逸らした。


 あの目。さっき「特定の誰かの顔が浮かぶ」と言ったときと同じ目だ。


「先生は?」


「自分の原稿」


「それは本じゃないでしょう」


「俺にとっては本だ。出版されなかったが、書いた。書いた以上は本だ」


「先生……」


「感動するな。ただの事実だ。缶コーヒー飲む」


 先生がまた缶コーヒーで口を塞いだ。


「朝倉は?」


「俺はまだ読書歴が浅いから。でも今のところは、部誌の創刊号」


「創刊号!? 俺たちが作ったやつ!?」


「うん。あれが俺にとっての最初の"本"だから。自分が書いた文章が印刷されて、綴じられて、誰かの手に渡った。あの時の感覚が一番好きだ」


「陽翔!」


 壮介が立ち上がった。目が光っている。


「俺も創刊号好きだ! 俺の四十二文字も載ってるんだ!」


「載ってるな」


「四十二文字の焼肉エッセイが本になった! あれは俺の人生の宝物だ!」


「壮介、大げさだぞ」


「大げさじゃない! 四十二文字でも印刷されたら本物だ!」


 凛先輩がソファの奥で微かに笑った。


「創刊号か。いい答えだ」


「先輩も嬉しいですか」


「嬉しいとは言ってない。ただ、部長として、部誌が誰かの"一番好きな本"になったことは、悪くない」


「悪くないって、先輩の最大級の褒め言葉ですよね」


「うるさい」


 *


 タワーバトルの後、凛先輩が提案した。


「互いの積読本から気になる一冊を借りて、ここで読もう」


 各自が他の人のタワーから一冊を選んだ。


 壮介が凛先輩のミステリを借りた。「密室と赤い糸」という短編集。壮介が表紙を見て「かっこいい」と言って読み始めた。三ページで止まった。


「先輩、この本難しい」


「三ページで挫折するな」


「漢字が多い」


「小説とはそういうものだ」


「漫画は漢字にふりがながつく」


「小説にもつく場合がある。その本にはつかないが」


「つけてほしい」


「自分で辞書を引け」


 壮介が畳に転がって本を閉じた。お約束の展開だ。


 凛先輩は壮介の漫画タワーから一冊を手に取った。スポーツ漫画。表紙にバスケットボールの絵。先輩はその本をソファの影に持っていって、背中を丸めて読み始めた。漫画を読んでいるところを見られたくないらしい。


「先輩、面白いですか」


「読んでない」


「読んでるじゃないですか。ページめくってますよ」


「めくってるだけだ」


「楽しそうですけど」


「楽しくない」


 嘘だ。先輩の口元が微かに上がっている。漫画を楽しんでいる凛先輩は新鮮だ。


 詩織さんが窓際に移動した。窓のすぐ横に座って、外の雨を見ている。手に一冊の本を持っていた。俺のタワーから取った本ではない。自分の積読本の山から選んだ一冊だ。


「朝倉くん」


「はい」


「この本、読んだことありますか?」


 一冊を差し出された。文庫本、表紙は青い。タイトルは知らない作品だった。著者名にも見覚えがない。裏表紙のあらすじを読んだ。


「走ることを諦めた少年が、書くことで世界を取り戻す」


 目が止まった。


 俺のことだ。それと同じ話だ。


「俺のために選んだ?」


「偶然です」


 詩織さんが目を逸らした。偶然じゃないだろう。この人の「偶然です」は、もう信じていない。


「朝倉くんならきっと好きだと思います。主人公が、走れなくなってから見つけた新しい世界の描写がすごく丁寧で。読んでいると、朝倉くんのことを思い出しました」


「俺のことを思い出した」


「はい。朝倉くんが部室で最初にカレーうどンのエッセイを書いたときのこと。走れなくなった人が、書くことを見つけたときの顔。あのときの朝倉くんと、この小説の主人公が重なったんです」


 雨。窓の外で鳴り続けている。部室の中は橙色。詩織さんの声が小さい。雨に半分溶けている。けれど全部聞こえる。雨が消せないものがある。


「貸してくれる?」


「もちろん」


 詩織さんが微笑んだ。冷たかった。雨の日だから。六月の湿気で手が冷えている。しかしその一瞬の冷たさが、妙に記憶に残った。


 借りた本を開いた。最初のページ。一行目。


「走れなくなった日から、世界は色を失った」


 息を呑んだ。一行目で、あの日が蘇った。俺が膝を壊した日と同じだ。校庭の白線が灰色に見えた日。ホイッスルの音が遠くなった日。あの日の俺がそのまま文字になっている。


 二行目。


「でも彼は気づいていなかった。世界が色を失ったのではなく、彼の目が色を見ることをやめただけだということに」


 すごい。まだ二行しか読んでいないのに、胸が詰まる。この作者は知っている。


 読み進めた。詩織さんも隣で自分の本を開いた。二人並んで、窓際で本を読んでいる。外は灰色の雨。部室の中は橙色の灯り。


 畳のひんやりした感触。雨音、ページをめくる音。ペンのカリカリ音はしない。今は二人とも読んでいる。書いていない、読んでいる。同じ空間で、それぞれの物語に没頭している。


 時々、詩織さんが微かに息を漏らした。自分の本の中の何かに反応している。笑ったのか、感動したのか。その小さな息の音が、雨音の中に混ざって消えていく。


 俺も本に没頭した。主人公が走れなくなってから、図書館に通い始める場面。本を読む、文字を書く。最初は日記、次にエッセイ。そして小説。走れない足の代わりに、ペンが走り始める。


 俺と同じだ。カレーうどンのエッセイが、俺のペンの第一歩だった。


 読んでいる間、詩織さんの肩が時々触れた。窓際は狭い。二人で座ると肩と肩の距離が近い。触れるたびに、ほんのほんの意識がそっちに行く。それでもすぐに本に戻る。本の力が強い。この小説は、俺の集中力を掴んで離さない。


 三十分くらい読んだ。半分まで進んだ。主人公が初めて自分の書いた文章を誰かに読んでもらう場面。相手は図書館で出会った少女だった。少女は主人公の文章を読んで「あなたの言葉には、走った人にしか出せない速度がある」と言った。


 本から顔を上げた。詩織さんを見た。詩織さんも同じタイミングで顔を上げた。目が合った。


「面白い?」


「すごく」


「よかった」


 詩織さんが笑った。目が優しい。


 五人がそれぞれの場所で、それぞれのことをしている。けれど同じ部室にいる。同じ雨音を聞いている。同じ空気を吸っている。それだけで、ここは居場所だ。


 *


 帰る頃に、雨が小降りになった。


 全員で傘を広げて校門に向かう。水たまりが校庭のあちこちにある。夕方の空が水面に映っている。雲の隙間からオレンジ色の光が差し込んで、水たまりが鏡みたいに光っていた。


 壮介が水たまりに突っ込んだ。


「子供か」


 「子供だ!


 水たまりは入るものだ!」


「靴が濡れるだろ」


「もう濡れてる!」


「だから追加で濡らすな」


 壮介が水しぶきを上げながら走っていった。凛先輩がため息をついている。


 詩織さんが空を見上げた。傘の隙間から、灰色と橙色が混ざった空が見えている。


「雨上がりの匂い、好きです」


「雨上がりの匂い?」


「アスファルトが濡れた匂い。土の匂い。草の匂い。全部が混ざって、雨が降る前にはなかった匂いがするんです。世界が洗われた匂いです」


「世界が洗われた、か。詩織さんらしい表現だ」


「取材ではなく、感想です」


「珍しい。取材じゃないんだ」


「たまには」


 俺は鞄の中の本を確認した。詩織さんに借りた一冊。青い表紙の文庫本。


「走ることを諦めた少年が、書くことで世界を取り戻す」


「読んだら感想言うよ」


「楽しみにしてます」


「詩織さんは、俺に本を薦めるの好きですね」


「好きです。人に本を薦めるのは、自分の一部を渡すことだと思っています」


「自分の一部?」


「はい。好きな本を薦めるということは、自分が何に感動するか、何に心を動かされるかを相手に見せることです。裸になるのと同じです」


「比喩が大胆すぎない?」


「心の裸です。身体の話ではありません」


「わかってるけど」


「朝倉くんに渡したあの本には、私の"好き"が詰まっています。読んでもらうということは、私の"好き"を見てもらうことです」


「詩織さんの"好き"」


「はい」


「それは取材ですか」


「取材じゃないです」


「じゃあ何ですか」


「信頼です」


 詩織さんの声が静かだった。雨上がりの空気の中で、その一言だけが澄んでいた。


「朝倉くんなら、あの本を大事に読んでくれると思いました。だから渡しました」


「大事に読む。約束する」


「約束しなくていいです。朝倉くんは言わなくても大事に読む人ですから」


「買いかぶりだろ」


「買いかぶりじゃないです。データがあります」


「データ?」


「朝倉くんが部室で本を読むとき、ページをめくる指が丁寧なんです。角を折らない。背表紙を割らない。本棚に戻すとき、向きを揃える。そういう人は本を大事にする人です」


「観察が細かすぎる」


「取材です」


「さっき取材じゃないって言ったのに」


「本の話は取材です。朝倉くんの話は取材じゃないです」


「境界線がわからない」


「私にもわかりません」


 詩織さんが笑った。傘の下で。雨上がりの光の中で。水たまりにその姿が映っていた。


 分かれ道で全員と別れた。一人で歩く。雨はほとんど止んでいた。傘を閉じた、空気が湿っぽい。ただ温かい。六月の夕暮れの、雨上がりの空気。


 全員が同じ場所に留まって、同じ雨音を聞いている。外に出られないからこそ、中が温かく感じる。壮介でさえ静かになる。


「雨の日は物語が生まれやすい」


 詩織さんの言う通りだ。


 今日、物語が一つ生まれた。詩織さんが俺に本を薦めてくれた。「走ることを諦めた少年」の物語を。あれは詩織さんから俺への、言葉にしない手紙みたいなものだった。「この本を読んでほしい」という気持ちの中に、たぶん「あなたのことを見ています」が含まれている。


 見られている。知っている。ノートのときから知っている。それでも今日のあれは、取材ではなかった。もっと静かで、もっと真剣で、もっと温かい目だった。


 本を読んでいるとき、詩織さんの肩が触れた。窓際で。雨音の中で。あの一瞬の温度を、まだ覚えている。


 鞄の中の青い文庫本が、ほんのかすかに温かい気がした。詩織さんが持っていた温度が、まだ残っている。


 明日、部室で続きを読もう。主人公が「走れなくなった日から、世界は色を失った」と言っていた。でも物語の後半では、きっと色が戻ってくるはずだ。書くことで。言葉を見つけることで。


 全部の色が、この部室にある。


 でもこの色が、いつまでもここにあるとは限らない。夏が来る。夏が来れば、コンクールがある。


 *


 翌日の放課後。部室。


 詩織さんに借りた青い文庫本を返しに来た。一晩で読み終えた。途中で止められなかった。


「読んだの?」


 凛先輩がソファから聞いた。


「読みました。一晩で」


「一晩で一冊。読むのが速くなったな」


「止められなかったんです。気づいたら朝四時でした」


「それは"速い"じゃなくて"止められなかった"だな。いい本に出会った時の症状だ」


 詩織さんがちゃぶ台の向かいに座った。万年筆を置いている。書く手を止めて、俺を見ている。


「感想、聞いていいですか」


「約束したからな。感想言うよ」


「はい。楽しみにしてました」


 壮介が畳から顔を上げた。


「何の話?」


「詩織さんに借りた本の話」


「あー、昨日の青い本か。読んだの?」


「読んだ」


「面白かった?」


「面白かった。というか、苦しかった」


「苦しい?」


「主人公が走れなくなる場面がある。その描写が、俺の経験とほとんど同じだった」


 部室が静かになった。壮介がいつもの姿勢から少し身を起こした。


「膝を壊した日。グラウンドに座り込んで、周りの音が遠くなる。ホイッスルの音が聞こえるのに意味を失う。あの感覚がそのまま文字になっていた」


「朝倉くん」


 詩織さんの声が柔らかかった。


「でも後半が良かった。主人公が図書館で書き始める場面。最初は日記、次にエッセイ、次に小説。少しずつ言葉が増えていく。その過程が、俺が部室でカレーうどンのエッセイを書き始めた頃と重なって」


「重なりましたか」


「重なった。特に図書館の少女が"あなたの言葉には走った人にしか出せない速度がある"って言う場面。あれを読んだとき、詩織さんの顔が浮かんだ」


 言ってから気づいた。今の発言はまずい。


「取材ノートのことじゃなくて」


「わかってます」


 詩織さんの声が少し小さくなった。でも目は逸らさなかった。


「私がこの本を選んだ理由、わかりましたか」


「わかった気がする。主人公と俺が似てるから」


「それだけじゃないんです」


「他にも?」


「図書館の少女が、主人公を見ている理由。あの子は主人公の才能に気づいていた。主人公が自分では気づいていない才能に、最初に気づいた人だった」


「それは」


「朝倉くんの書いた文章を最初に読んだのは凛先輩です。でも——」


 詩織さんが言葉を切った。万年筆を手に取った。手の中で回した。くるくる。


「——でも、朝倉くんの文章に"速度"があることに気づいたのは、私だと思います」


「速度」


「はい。朝倉くんの文章には走っている人の呼吸があるんです。一文が短くて、リズムが速くて、読んでいると心拍数が上がる。それは走ったことがある人にしか書けないリズムです」


 凛先輩がソファで黙って聞いていた。口元がわずかに上がっている。


「千歳の分析は正しいぞ、朝倉」


「先輩もそう思いますか」


「思う。お前の文章の最大の武器はスピードだ。サッカーで培った身体感覚が、文体に出ている。それは千歳が見抜いた通りだ」


「先輩、凛先輩のミステリの武器は何ですか」


「構造だ。千歳は感覚、俺は構造、壮介は——」


「熱量!」


 壮介が即答した。


「正解。不本意だが正解だ」


「不本意!?」


「熱量を武器と呼ぶのは微妙だが、お前にしかない武器であることは事実だ」


「先生の武器は?」


 霧島先生が定位置で缶コーヒーを飲んでいた。いつの間に来たのか分からない。


「俺の武器は?」


「聞いてるんですけど」


「沈黙だろうな」


「沈黙が武器ですか」


「書かない人間には書かない人間の武器がある。俺は十年書いていない。その十年分の沈黙が、次に書く時の弾薬になる」


「先生、"次に書く時"って言いましたね」


「言ったか?」


「言いました。"次に書く"って」


「言い間違いだ」


「先生、嘘つくの、詩織さんの次に下手ですよ」


「うるさい。コーヒー飲む」


 先生が缶コーヒーで口を塞いだ。これ以上追及されたくないときの先生の癖だ。


 壮介が手を挙げた。


「なあ陽翔、その本の主人公って最後どうなるの?」


「走れるようになる」


「走れるの!? 足治るの!?」


「足は治らない。でも走れるようになる」


「どういうこと?」


「書くことで走る。ペンで走る。最後のページで主人公が言うんだ。"走れなかった日々は、走るための助走だった"って」


「かっこいい!!」


「壮介は内容より響きに反応するな」


「響きが大事だ! 言葉は音だ!」


「お前の文芸観、たまに正しいんだよな」


 詩織さんが万年筆を置いた。


「朝倉くん」


「はい」


「その本、返さなくていいです」


「え? 借りたものは返さないと」


「あげます」


「いいんですか」


「はい。あの本は朝倉くんのものです。最初からそのつもりで渡しました。"貸す"と言ったのは、"あげる"と言うのが恥ずかしかったからです」


「詩織さん、今の正直すぎない?」


「正直すぎますか。元々嘘ができない性格なので」


「すぎる。でもありがたい」


 詩織さんの耳がわずかに赤かった。


「ありがとう。大事にする」


「はい」


 青い文庫本を鞄に入れた。詩織さんの積読タワーから俺の手に渡った一冊。これは詩織さんからの手紙だ。言葉にしない手紙。


「はい」


 青い文庫本を鞄に入れた。詩織さんの積読タワーから俺の手に渡った一冊。これは詩織さんからの手紙だ。言葉にしない手紙。


 *


 七月に入った。梅雨の合間に晴れた日が増えてきて、空気がアスファルトと日焼け止めの匂いに変わりつつある。


 部誌の第二号の締切が近づいていた。カレンダーの赤丸が、じわじわと迫ってくる。創刊号から二ヶ月。各自の原稿は八割方仕上がっている。凛先輩のミステリ短編、詩織さんの恋愛短編、俺のスポーツエッセイ。


 七月の風が窓から入って、原稿用紙の端をめくった。壮介は新作ではなく、創刊号に載せたリレー小説の再録を出すことになっていた。新作を書く力がまだないからだ。


 月曜日の放課後。部室の引き戸が勢いよく開いた。


「俺、今日から編集長やる」


 壮介だった。鞄を畳の上に放り投げて、ちゃぶ台の前に仁王立ちしている。目が輝いている。何か大きなことを思いついたときの目だ。


 リレー小説で巨大カレーうどンを出したときと同じ輝きだ。嫌な予感がする。だが同時に期待もある。壮介の輝く目は、九割がデタラメで一割が天才だ。


 全員が一瞬固まった。


「何の」


 凛先輩がソファから聞いた。


「部誌の。俺は書けない。それはもうわかった」


「わかったのか」


「わかった。三ヶ月やって、俺の文章力は四十二文字の焼肉エッセイから大きく進歩していない。三百文字は書けるようになったけど、千文字は遠い。壮介のリレー小説も、最後は結局巨大カレーうどンで終わる。引き出しが一つしかない。それは自分でもわかってる」


 壮介がそこまで言ったとき、部室が少し静かになった。壮介が自分の弱点を正面から認めている。いつものあいつは弱点を笑いに変える。ただ今日は違う。認めた上で、次の一歩を踏み出そうとしている。


「でもさ」


 壮介が真剣な顔で言った。いつもの声量が少し落ちている。真面目な壮介だ。


「"作る"ならできる。書けなくても、部誌を"作る"ことはできるだろ。企画を考える。レイアウトを決める。表紙をデザインする。キャッチコピーを書く。全部俺がやる。書く才能がないなら、作る才能で勝負する」


「お前にデザインセンスがあるのか」


「ある」


 自信満々だった。根拠のない自信。壮介の最大の武器であり、最大の弱点。


「根拠は」


「美術の成績2」


「「「「低い!!」」」」


「2は0じゃない!」


「2があるんだ!」


「あるけど足りない」


「足りなくても情熱で補う!」


「情熱で美術の成績は上がらないんだが」


 詩織さんがフォローした。


「でも壮介さんの情熱は伝わります。何かを作りたいという気持ちは、技術より大事なこともあります」


「詩織ちゃん優しい!!」


「ただし技術がなさすぎると形にならないので、最低限の」


「優しさが途中で消えた!」


 凛先輩がため息をついた。だが悪い顔ではなかった。


「まあいい。やらせてみるか。最悪の場合は私が修正する」


 「先輩!ありがとう!」


「まだ何もやってないぞ。成果を出してから感謝しろ」


 「成果は出す!編集長の名にかけて!」


「自称だけどな」


 霧島先生がソファで缶コーヒーを飲みながら呟いた。


「自称でも名乗った時点で責任が発生する。面白くなりそうだな」


 *


 翌日。壮介がA3の画用紙を三枚持って部室に来た。表紙デザイン案だ。一晩で三案を描いてきたらしい。やる気だけは認める。


「見てくれ! 案A!」


 一枚目を広げた。巨大な「文」の字が画用紙の中央にどかんと描かれている。その横に棒人間が一体。棒人間が「文」の字を指さしている。以上、背景は白。装飾はゼロ、潔い。潔すぎる。


「字しかないんだが」


「インパクトがある!」


「インパクトがあるのは認めるが、表紙としてのデザインがない。"文"の一字で何の部誌かわからない」


 「文芸部だから"文"!漢字一文字の表紙、かっこよくない?」


「漢字一文字の表紙がかっこいいのは書道の作品であって部誌ではない」


 「書道と文芸は近いだろ!どっちも文字だ!」


「遠い。書道と文芸は別ジャンルだ」


「案B!」


 二枚目。炎に包まれた原稿用紙。赤と橙のクレヨンで激しく塗りたくられている。原稿用紙が燃えている。炎が画用紙の端まで広がっている。壮介的にはカッコいいらしい。目がキラキラしている。


「出版社が火事に見える」


 「火事じゃない!情熱の炎!」


「読者には火事にしか見えない。消防署に通報される」


「されない!」


「される可能性を否定できない。これを校内に掲示したら、生徒指導の先生が来るぞ」


「生徒指導!?」


「炎のイラストを校内に貼るのは防火上の問題がある」


「防火の話にまでなるの!?」


 霧島先生が定位置から口を出した。


「壮介、お前の情熱は伝わるが、炎はやめておけ。職員室で俺が怒られる」


「先生まで!」


「顧問の立場を守ってくれ」


「案C!」


 三枚目。五体の棒人間が手をつないでいる。棒人間の上に小さく「文芸部」と書かれている。背景には虹、雲。太陽、草原。壮介なりの仲間感が詰め込まれている。


「幼稚園の作品展か」


「厳しすぎない!?」


「三案とも厳しい」


「全滅!?」


 壮介ががっくりした。画用紙を三枚抱えて畳に座り込んでいる。編集長の威厳が早くも崩壊している。


 詩織さんが案Cを手に取った。じっと見ている。


「案Cの"手をつないでいる"コンセプトは素敵ですよ」


「でしょ!」


「五人の文芸部員が繋がっている、という意味が伝わります。温かみがあります」


「温かみ!」


「ただ画力の問題で、棒人間の性別が区別できないのが少し」


 壮介がしょんぼりした。棒人間に性別はない。全員同じ顔で同じ体格だ。全員が同じ棒人間。個性がゼロだ。


「結局、案Cのコンセプトだけ活かして、イラストは描き直すことにしよう」


 凛先輩が提案した。


「描き直すって誰が」


「千歳。お前、絵も描けるだろ」


「多少は」


 詩織さんがペンを手に取った。壮介の案Cの横に、新しいイラストを描き始めた。五分後。棒人間が五人のキャラクターに変身していた。五人それぞれの特徴がデフォルメされた可愛いイラストになっている。画力がすごい。壮介の棒人間との差が残酷だ。


「すげえ!!俺の案が進化した!」


「原型は残っていないが……まあいいか」


「残ってる!手をつないでるところ!コンセプトは俺のだ!」


「コンセプトは認める。実行は千歳だが」


「コンセプト担当の編集長!」


「コンセプト担当って、つまりアイデアだけ出す人か」


「アイデアが一番大事だ!」


 *


 表紙が決まった後、原稿の並び順を決める作業に入った。


 原稿は四本。凛先輩のミステリ短編。


「二つの鍵」


 密室殺人のトリックが凝っていて、最後のどんでん返しが見事だ。


 詩織さんの恋愛短編。


「窓辺の午後」


 雨の日に窓辺で本を読む二人の話。場面描写が美しくて、読んでいると雨の音が聞こえてくるような文章だ。俺のスポーツエッセイ。


「走れなくなった日から」


 膝を壊してサッカーを辞めてから文芸部に入るまでのことを書いた。


 壮介のリレー小説。


「壮介の冒険(完全版)」


創刊号に載せたリレー小説にあいつが加筆して、巨大カレーうどンの最終決戦まで書き足したバージョンだ。加筆分はあいつが自力で書いた。百五十文字の増量。あいつにとっては大きな一歩だ。


 四本の原稿を読み比べると、全員の文体が全然違うことがわかる。凛先輩はロジカルで乾いた文体。詩織さんは感覚的で湿度のある文体。


 俺はサッカーの比喩が混ざるスポーツ文体。壮介は……壮介だ。文体という概念がまだ存在していない。だがそれがいい。四つの声が違うから、部誌に幅が出る。


 壮介がちゃぶ台の上に四本の原稿を並べて、腕を組んでいる。真剣な顔だ。眉間にしわが寄っている。普段は全力の笑顔か全力の驚きしかない。中間がない男だ。


「最初のページは読者が最初に読む。だから一番インパクトがあるやつを前に置きたい。でもインパクトだけじゃダメだ。流れが大事だ。一本目を読んだ後に二本目を読みたくなる流れ」


「壮介、お前いつからそんなこと考えられるようになった」


「昨日の夜、漫画を十冊くらい読み返して気づいた。漫画雑誌って、最初にバトル漫画が来て、次にスポーツが来て、最後にギャグが来るだろ。あれは偶然じゃない。読者の気持ちを考えて並べてる」


「漫画から学んだのか」


「漫画は俺の教科書だ」


「文芸部員の発言としてはどうかと思うが、間違ってはいない」


「まともなことを考えてるな」


「編集長だからな」


「で、並び順は」


「一番目は陽翔」


「俺?」


「二番目は詩織ちゃん」


「理由は」


「相性いいから」


 俺と詩織さんが同時に声を出した。


「は?」


「陽翔のスポーツエッセイの後に詩織ちゃんの恋愛短編が来ると、動と静のコントラストがいい感じになるんだよ。スポーツで盛り上がった後に、しっとりした恋愛が来る。緩急がつく」


 凛先輩が眉を上げた。


「お前、意外とまともなこと言ってる」


「編集長だからな!」


「壮介がまともなこと言うと逆に不安になるんだが」


 「失礼だな!


 まともなこともたまには言う!」


「たまにしか言わないから不安なんだ」


 壮介が三番目と四番目を指さした。


「三番目は凛先輩のミステリ。しっとりした恋愛の後にミステリの緊張感が来る。読者の心拍数が上がる」


「心拍数」


「で、最後に俺のリレー小説でオチをつける」


「オチ?」


「最後に"巨大カレーうどン"が出てきたら、読者は笑って本を閉じるだろ。後味が良くなる。ミステリの緊張を笑いで溶かす。最後の印象が笑顔になる」


 声が止まった。壮介の説明が、妙に筋が通っている。


 霧島先生が定位置から身を乗り出した。


「編集的には間違ってないぞ。最後の作品が読後感を決める。笑いで終わるのは正解だ。雑誌でもアンソロジーでも、最後に軽い作品を置くのは定石だ」


「先生!!認められた!!」


「先生が認めるとは思わなかった」


「壮介の直感は、たまに理論を超えてくるな」


「たまにの頻度が増えてきている気がする」


 凛先輩が原稿の順番を確定した。ホワイトボードに書く。


 一、朝倉陽翔


「走れなくなった日から」


 二、千歳詩織


「窓辺の午後」


 三、桐谷凛


「二つの鍵」


 四、大和壮介


「壮介の冒険(完全版)」


「この順番で行く。壮介の案を採用する」


 「やった!!編集長の仕事した!!」


 *


 並び順が決まった後、壮介はキャッチコピーの制作に取りかかった。


「部誌にはキャッチコピーが必要だ。表紙に載せる一言」


「創刊号にはなかったけど」


「二号からは載せる。進化だ」


 壮介がノートに案を書いていく。シャーペンの字が大きい。壮介の字はいつも大きい。ノートの一行に一文字しか入らないことがある。


 案一。


「読め。」


「一文字」


「インパクトがある。読者の心に刺さる」


「刺さるんじゃなくて突き刺さってる。命令形すぎる。読者に喧嘩を売ってるように見える」


「喧嘩は売ってない。愛のムチだ」


「愛のムチもキャッチコピーとしては不適切だ」


 案二。


「読まないと後悔する。」


「脅迫?」


 「脅迫じゃない!自信の表れ!この部誌はそれくらい面白いぞっていう」


「読者を脅して買わせる部誌は嫌だ」


 「脅してない!忠告だ!」


「忠告もキャッチコピーとしてはイマイチだ」


 壮介がしばらく考え込んだ。シャーペンの先でノートの端をトントンと叩いている。一分くらい黙った。壮介が一分黙るのは、入部以来の記録だろう。


 案三。壮介が少し考えてから書いた。


「五人の物語、あなたの手に。」


 沈黙。


「……お」


「……おお」


「どう?」


「案三……いいかも」


「素敵です!」


「壮介が普通にいいコピー書いてる……」


「だから編集長だって言ったろ!」


 凛先輩が案三に丸をつけた。


「これで行く。"五人の物語、あなたの手に"。悪くない。むしろ良い」


 「先輩が"良い"って言った!記念日だ!」


「調子に乗るな」


「乗る!全力で乗る!」


 印刷は前回と同じ手順で進めた。霧島先生が印刷室の鍵を持ってきて、コピー機を動かす。今回は十部。前回の五部から倍増だ。


 ホチキスで綴じる。表紙は詩織さんのイラスト。五人のデフォルメキャラが手をつないでいる。


 その上に壮介の字で「文芸部!」


 字はまだガタガタだが、創刊号よりは少しだけマシになっている。


 キャッチコピーは表紙の下部に小さく印刷した。


「五人の物語、あなたの手に。」


 壮介が書いたコピーが、印刷物として形になっている。壮介がその文字を見て、少し黙った。


「印刷されると違うな」


「何が」


「自分の書いた言葉が紙に載ってるの。なんか……嬉しい」


「壮介、お前も"印刷されると嬉しい"派か」


「派って何だ」


「創刊号のとき、詩織さんも同じこと言ってた。印刷されると手書きと全然違うって」


「わかる。わかるよそれ。紙に刷られると"本物"って感じがする」


「壮介でもそう感じるんだな」


「俺だって感じるよ!感受性はあるんだ!」


「感受性の方向がカレーうどンに偏ってるだけでな」


 「偏ってない!今日は偏ってない!」


「次は百部だ!」


 壮介が急に声量百パーセントに戻った。


「段階を踏め」


 「百部は夢じゃない!千部だって!」


「千部は学校の全生徒に配れる量だぞ」


「全生徒に配る!」


「まず十部が無事に配れるか確認してからだな」


 「配る!全部配る!明日にでも!」


 明日は早い。壮介と並んで歩いている。夕焼けの住宅街。七月の空は高くて広い。蝉はまだ鳴いていない。もうすぐだ。


 壮介がいつもより静かだった。声量が六十パーセントくらいまで落ちている。壮介基準では「ほぼ無音」に近い。


「俺さ、文芸部に入って良かったかもしんない」


「急にどうした」


「いや、今日の作業しててさ。表紙考えて、並び順考えて、コピー考えて。全部楽しかったんだよ。書くのは相変わらずダメだけど、"作る"のは楽しい」


「楽しかったのか」


「楽しかった。みんなの原稿を並べて、どの順番がいいか考えてるとき、なんか……読者の気持ちがわかるっていうか。こう来たらこうなって、次にこれが来ると気持ちいいだろうなって。そういうのが見えるんだ。漫画を読んでるときに感じてたことが、部誌を作るときにも使えた」


「漫画の経験が活きたのか」


 「活きた!十年分の漫画の積読が無駄じゃなかった!あの漫画タワー五十センチは、俺の編集力の土台だったんだ!」


「壮大な解釈だが、否定はできない」


 「否定できないだろ!だから漫画は大事なんだ!凛先輩に"漫画も積読だ"って言ったのは正しかった!」


「正しかったかどうかは微妙だが、漫画から編集を学んだのは事実だな」


「それは才能だよ」


「才能?」


「壮介は"読む才能"があるんだと思う。書くのは苦手でも、読者の気持ちがわかる。どの順番で読むと気持ちいいか、最後にどの作品が来ると笑顔で終われるか」


 「編集者の目!かっこいい!」


「かっこいいかどうかは別として、大事な能力だよ。文芸部に書ける人間は俺と詩織さんと凛先輩がいる。でも"読める人間"は壮介しかいない」


「読める人間」


「そう。お前がいないと部誌の最後にオチがつかない」


「それ褒めてる?」


「褒めてる」


 壮介がにかっと笑った。いつもの百パーセントの笑顔。


「ありがとう。陽翔にそう言ってもらえると、なんかもう、それだけでいいっていうか」


「大げさだな」


「大げさじゃない。俺、書けないことがずっとちょっとだけ引っかかってたんだ。文芸部にいるのに書けないって、おかしいだろって。でも今日、"作る"ことで自分の居場所が見つかった感じがする」


 壮介がそう言って、空を見上げた。夕焼けの空が紫に変わりかけている。


「壮介の居場所は最初からあっただろ。お前が入部した日から、ちゃぶ台の前に」


「うん。でも今日やっと、そこに座ってる理由がわかった」


 壮介が走り出した。


「じゃあな!明日も部活な!」と叫びながら。いつもの壮介だ。


 来週は部誌の配布だ。十冊。世界に十冊しかない部誌。壮介の編集で、詩織さんの表紙イラストで、凛先輩が校正した文章で。五人の手が入った二号目の部誌が、誰かの手に届く。


 創刊号は五冊だった。身内用だった。二号目は十冊。クラスメイトにも配る。体育祭の実況で名前を知ってくれた人もいる。「語彙が足りない」で笑ってくれた人もいる。十冊が全部誰かの手に渡れば、文芸部の言葉が十人に届く。少しずつだけど、広がっている。


 *


 七月最初の土曜日。部活は休みだった。休みなのに、手が原稿用紙を探している。


 部誌の第二号が昨日完成した。十冊。来週から配る。壮介のキャッチコピー「五人の物語、あなたの手に」が表紙に印刷されている。


 図書館に本を返しに来た。詩織さんに借りた「走ることを諦めた少年」の本と、自分で借りたスポーツ小説二冊。三冊まとめて返却カウンターに出した。


 図書カードに返却日のスタンプが押される。六月に借りて七月に返した。ちゃんと読み切った。感想は来週詩織さんに言う。


 図書館を出た。午後一時。夏の日差しが強い。七月の太陽は容赦がない。アスファルトが熱い。


 学校の横を通る道を歩いていた。この道は通らなくてもよかった。図書館から家への最短ルートは反対方向だ。しかし足が勝手にこっちに向いた。理由は、わかっている。


 校庭から歓声が聞こえた。


 サッカー部の練習試合。土曜日はよく組まれる。対戦相手の学校のバスが校門の横に停まっている。紺と白のユニフォーム。朝凪高校のサッカー部。俺が着ていたユニフォームと同じ色。同じデザイン。


 気がつくと、フェンスの前に立ち止まっていた。


 金網越し。ボール、砂煙、スパイク。テレビの向こう側みたいだ。同じ校庭なのに、金網一枚で別の世界になる。ドリブル、クロス。ヘディング。


 全部知っている音だ。全部、身体が覚えている。


 田中が走っている。フォワード。俺がいた場所。俺のポジションに田中が立っている。右サイドを駆け上がって、中央にクロスを上げた。ヘッドで合わせた味方がシュートを放つ。ゴール。ネットが揺れる。白い網が膨らんで戻る。あの感触も知っている。


 俺がゴールを決めたとき、ネットが揺れる瞬間に全世界が止まったように感じた。一秒が十秒に引き延ばされる。ボールがネットに吸い込まれていく軌道を、スローモーションで見る。そして次の瞬間、時間が加速して歓声が押し寄せてくる。


 田中が両手を広げて走る。チームメイトが駆け寄って抱き合う。あの身体の温度も知っている。


 汗でぬるぬるした腕と腕が絡み合って、誰かの声が耳元で叫んでいて、芝の匂いと汗の匂いが混ざっている。あの幸福な混沌。一つのゴールに全員の感情が凝縮される瞬間。


 俺の覚えている、あの瞬間の高揚。ゴールが決まった瞬間に身体中の血が沸騰する感覚。チームメイトの体温。ホイッスルの音、全部知っている。全部懐かしい。全部、もう手の届かない場所にある。


 フェンスの金網に指をかけた。冷たい。七月の日差しの下なのに、金属は冷たい。指の隙間から校庭が見える。あちら側とこちら側。走っている人間と、立ち止まっている人間。その境界線が、金網の冷たさとして指に触れている。


 *


 ハーフタイム。選手たちがベンチに戻っていく。水を飲む。タオルで汗を拭く。コーチの指示を聞く。


 田中がこちらを見つけた。フェンスに向かって走ってくる。汗だくの笑顔。スパイクが砂を蹴る音がだんだん近づいてくる。


「朝倉!見にきたの?」


「たまたま通りかかって」


「嘘つけ。立ち止まってたろ。ずっと見てたじゃん」


 苦笑した。バレている。田中は鈍いようで、こういうところだけは鋭い。フォワード同士の勘だ。中学の頃からツートップを組んでいた。俺の考えていることは、田中にはだいたい読まれる。


「俺たち、地区大会進めそうだよ。お前がいた頃ほどじゃないけど、一年の新入部員がけっこう走れてさ」


「そうか。よかったな」


「ディフェンスが安定してきた。お前がいた頃はフォワードに偏ってたけど、今はバランスが取れてる」


「バランスか。俺がいた頃は攻撃偏重だったからな」


「お前が攻撃偏重の元凶だったんだよ。お前が前にいると、全員が前に出たくなる。お前のドリブルについていきたくなるんだ」


「買いかぶりすぎだ」


「買いかぶりじゃない。事実だ。お前がいなくなって、チームのバランスは良くなった。でも決定力は落ちた。お前みたいに一人で持ち込んで打てるやつがいない」


 田中が水を飲みながら、俺を見た。目が真剣になった。サッカーの話をしているときの田中の目は、いつも真剣だ。この男は本気でサッカーが好きなのだ。俺がサッカーを好きだったように。


「なあ朝倉。お前、前と顔が違う」


「顔?」


「前はさ、怪我してから、なんていうか……抜け殻みたいだった。教室にいても目が死んでた。悪い意味じゃなくて、ただ……どこにもいない感じ。体はあるのに、中身がない感じ」


「ひどい言い方だな」


 「でも今は違う。なんか……目が生きてる。何か書いてるんだろ?文芸部で」


「書いてる。カレーうどンの小説とか」


 「は?カレーうどン?」


 田中が笑った。声を出して笑った。校庭に笑い声が響いた。


「マジで?」


「マジで」


「なにそれ、面白いじゃん。お前らしいよ。朝倉はいつもカレーうどン食ってたもんな」


「食ってたな」


「お前のカレーうどンのこだわりは異常だったからな。味で学食のおばちゃんと議論してたし」


「あれは議論じゃなくて提案だ」


「提案を聞いてもらえたのか」


「天かすが増えた」


「それは提案の成果だな」


 田中がコーチに呼ばれた。後半が始まる。走り出す前に振り返った。


「今度読ませてよ、カレーうどンの小説」


「機会があればな」


 「機会は作る。部誌っていうの読めるんだろ?一冊くれよ」


「わかった。次の号ができたら」


「約束な」


 田中が走り去っていく。紺と白のユニフォーム。校庭の向こう側に戻っていく。あちら側に。スパイクが芝を噛む音が遠ざかる。田中の背中が、かつてのチームメイトの中に消えていく。「お前、変わった」と田中は言った。抜け殻じゃなくなった。目が生きていると。


 俺自身はまだよくわからない。変わったのか。変わっていないのか。足はまだ壊れたままだし、サッカーはできないし、走ることはできない。けれど田中の目には、何かが変わって見えたらしい。


 後半の笛が鳴った。フェンスの向こうで二十二人が動き出す。俺はフェンスのこちら側で立っている。


 でも今日は、立ち止まっているだけじゃなかった。行く場所がある。


 *


 練習試合の後、図書館に戻るつもりだった。


 でも足は別の方向に向かった。旧校舎。部室。


 鍵は持っている。四月に霧島先生から合鍵を預かった。「いつでも来ていい」と言われた。休みの日でも。


 引き戸を開けた。誰もいない。畳の匂い。お茶の残り香。誰もいないのに、五人分の気配がちゃぶ台の周りに残っている。


 部室は人がいなくても部室だ。本棚にはミステリと漫画と辞書が並んでいる。壮介の落書きが入った創刊号が棚に挟まっている。ソファの上に凛先輩の忘れたブックカバーが一枚。


 ちゃぶ台の前に座った。南側。俺の席。


 PCを鞄から出した。開いた。画面が白い。


 何も書けなかった。


 さっき見た試合のことを書きたい。田中が走る姿。ゴールの瞬間。フェンス越しの世界。「お前、変わった」と言われたこと。全部、文字にしたい。でも指が動かない。キーボードの上で止まっている。


 入部した頃にも同じことがあった。白い画面の前で何も書けなかった。


 しかしあのときは「何を書けばいいかわからなかった」から書けなかった。今は違う。書きたいことはある。溢れるほどある。サッカーの記憶。走る感覚。


 チームメイトの声。ゴールの歓喜。それを


「失った」


 痛み。全部が渦巻いている。書きたいことがあるのに、言葉にならない。渦巻いているのに、一行にもならない。感情が大きすぎて、文字の器に収まらない。


 四月の俺は空っぽだった。だから書けなかった。今の俺は溢れている。だから書けない。皮肉だ。空っぽでも溢れていても、書けないのは同じだ。


 窓の外を見た。校庭はもう静かだった。練習試合は終わっている。相手校のバスが校門を出ていくのが見えた。


 一人の部室は、いつもより広く感じた。卓が大きく見える。五人で囲むとちょうどいい大きさなのに、一人だと広すぎる。


 でも帰りたいとは思わなかった。ここに座っていたかった。書けなくても。何もできなくても。この場所が俺を受け止めてくれることを、身体が知っている。


 *


 引き戸がカラカラと開いた。


「あ、朝倉くん」


 詩織さんだった。鞄を肩にかけて、少し驚いた顔をしている。


「今日は部活休みですよね?」


「うん。なんとなく来た」


「私もです。なんとなく」


 詩織さんがいつもの席に座った。鞄から万年筆とノートを取り出す。何も聞かなかった。俺の顔を見て、何かを察したはずだ。この人は俺の表情の変化を0.5秒単位で読み取る人だ。


 五分後。引き戸が開いた。


「なんだ、二人いるのか」


 凛先輩。


「私は忘れ物を取りに来ただけだ。まあいい。ついでに」


 ソファに座って文庫本を開いた。忘れ物を取った気配はない。最初から「ついで」が目的だったのかもしれない。


 十分後。引き戸がバンと開いた。


「お?全員いるじゃん!」


 壮介。


「俺の壮介センサーが反応した!」


「そんなセンサーない」


「ある。仲間が集まってる時に鳴るんだ。ビビッと来た」


「ビビッと来たのか」


 「来た!だから来た!」


 全員が揃った。休みの日に。誰が呼んだわけでもなく。


 壮介が畳。あぐらをかいて、俺の顔を見た。数秒黙った。


「なあ陽翔、サッカー部の試合見たんだろ」


「なんで知って」


「お前、試合見た後の顔してる」


「顔?」


「中学の頃もそうだった。試合見た後は黙る。今日のお前は黙ってる。だからわかった」


 壮介の観察力に鼓動が一拍、跳ねた。凛先輩も詩織さんも驚いた顔をしている。壮介がこういう鋭さを見せるのは、本当にたまにだ。


「俺はバカだけど、お前のことは分かるよ」


 壮介が真っ直ぐ俺を見ていた。ふざけていない目。壮介の中にある、一割の核心。


 凛先輩が文庫本を閉じなかった。開いたまま、視線だけをこちらに向けた。


「朝倉。前にも言ったけど、もう一回言う」


「お前は"逃げた"んじゃない。"持ったまま来た"んだ。サッカーも、怪我も、走れなくなった悔しさも、全部持ったまま、この部室に座ってる。それでいいんだよ」


 二度目のその言葉。


 詩織さんがペンを止めた。


「朝倉くんが見た今日の試合のこと、書いてみませんか」


「書く?」


「走っていた人たちのこと。フェンスの向こう側で走っていた人たちのこと。書けると思います。朝倉くんなら」


 定位置の端に缶コーヒーが置いてあった。さっきまでなかった。いつ置かれたのか。振り向くと、霧島先生が定位置の端に座っていた。


 いつ来た。


「朝倉。書けなかったら書くな。でも書きたくなったら、ここにはいつでもPCがある。ノートもある。万年筆も——まあ千歳のを借りろ」


「先生、今日休みですよね」


「散歩の途中だ」


「嘘ですよね」


「嘘だ」


 目の奥が、じん、と熱くなった。鼻の付け根が痺れる。泣かない。泣かないけど、熱い。五人が部室にいる、休みの日に。誰も呼んでいないのに。全員が来た。全員が、ここにいる。


 壮介が急に立ち上がった。


「よし!焼肉行こう!」


「今それ!?」


 「泣きそうな顔してるから空気変えてやった!感謝しろ!」


「感謝するけどタイミングがおかしい」


「タイミングは俺の専門外だ!」


「知ってる」


 部室は、いつもの温度に戻っていた。


 *


 家に帰った。夕飯を食——べて、風呂に入って、机に向かった。


 ノート。ペンを握った。千五百円の安いペン。けれど手に馴染んできている。


 今日見た試合のことを思い出した。田中が走る姿、ゴールの瞬間。歓声、フェンスの冷たさ。金網の隙間から見えた校庭。全部が流れ込んでくる。


 ペンが動き始めた。


「グラウンドの向こう側で、かつての仲間が走っていた」


 最初の一行が出た。次の文が続いた。止まらなかった。


 ゴールが決まった瞬間のこと。チームメイトが抱き合っていたこと。フェンスの金網に指をかけていたこと。あちら側とこちら側。その間にある距離。金属の冷たさ。


 田中の汗だくの笑顔。「お前、変わったな」という言葉。カレーうどンの小説を読みたいと言ってくれたこと。後半の笛。田中が校庭に駆け戻っていく背中。


 全部が文字になっていった。渦巻いていたものが一行ずつ、紙の上に降りてくる。さっきは一行も書けなかった。部室では。だが今は書ける。四人の言葉を聞いた後だから。


 壮介が、詩織さんが、先生が、それぞれの言葉をくれた後だから。


 ペンが止まらない、指先が熱い。ノートの見開き一ページ目が埋まった。二ページ目に入った。まだ書いている、田中のクロス。ゴールネットの揺れ。


 フェンスの冷たさ、部室の畳、詩織さんのペンの音、壮介の「分かるよ」、先生の一杯。「お前、変わった」。


文字になっていく。


 走ること、止まったこと、その先のことを書いている。ペンが紙の上を走っている。俺の足は走れない。しかしペンは走っている。これが俺の走り方だ。


 最後の一行。


「走れ、朝倉。ペンで走れ」


 書き終えた。顔を上げると、窓の外はもう暗かった。何時間書いていたかわからない。手が震えている。ペンを握りすぎて、指の腹にインクがついている。青いインク。詩織さんと同じ色のインクだ。


 でも心は不思議と澄んでいた。サッカーをやっていた頃の、いい練習をした後の感覚に似ている。全力で走った後の、あの清々しさ。身体は疲れているのに、心は軽い。


 逃げたんじゃない。選んだわけでもない。


 たぶん、


「見つけた」


 んだ。走れなくなった俺が、走り続ける方法を。


 ノートを閉じた。七月の夜空に星が出ている。夏が本格的に始まる。


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