第8話:体育祭、文芸部は何をすればいい
中間テストが終わった翌日。教室の空気が軽い。HRで体育祭のプログラムが配られた。
六月第三週の土曜日。あと十日後。A4の二つ折りで、表紙に「第四十二回 朝凪高校体育祭」と印刷されている。中を開くと競技の一覧が並んでいた。
競技一覧を開いた。運動部の名前がずらりと並んでいる。文化系は吹奏楽が演奏、美術部がポスター、放送委員が実況。文芸部の名前はどこにもなかった。
三回読み直した。ない。サッカー部の欄に田中の名前を見つけて、指が止まった。
まあ、そうだよな。体育祭で文芸部に何ができる。
だが今年の文芸部には凛先輩がいる。
放課後。部室。
凛先輩がちゃぶ台の上にプログラムを広げて、睨みつけていた。ミステリの犯人を追い詰めるときの目だ。
「文芸部の出番がない」
「体育祭だからしょうがなくないですか」
壮介が畳に寝転がりながら言った。
「しょうがなくない。文芸部にも学校行事に参加する権利がある。吹奏楽部には演奏がある。美術部にはポスターがある。放送委員には実況がある。文芸部だけ何もないのは不公平だ」
「不公平って言われても、体育祭で文芸は」
「ある。絶対にある」
凛先輩の目が燃えている。何か思いついたらしい。先輩のこの目は、プリン消失事件のときと同じだ。企んでいる目だ。
「でも走ったり投げたりする祭りで、文芸部が何するんです」
「書く」
「体育祭で?」
「体育祭"を"書く。体育祭を小説にする。リアルタイムで」
全員が首を傾げた。凛先輩がホワイトボードの前に移動した。マーカーを手に取って、大きく書いた。
「実況小説企画」
「実況って叫ぶやつ?」
「違う。競技をリアルタイムで観察して小説化し、校内放送で読み上げる。普通の実況は"一位は赤組の○○選手"だ。文芸部の実況は、それを物語にする。"スタートラインに立った少年の瞳には、百メートル先のゴールテープではなく、自分自身の限界が映っていた"。こういうやつだ」
「かっこいいけど体育祭にそれが必要ですか」
「必要だ。体育祭は物語だ。走る人間には物語がある。それを書くのが文芸部の仕事だ」
「先輩、営業トークがうまいですね」
「営業じゃない。本心だ」
壮介が目を輝かせた。「それ面白い!!
俺もやりたい!」
「もちろんお前もやる。全員参加だ」
「放送委員に怒られないですかね」
「交渉する」
「交渉力!」
*
役割分担が決まった。短距離走は詩織さん、騎馬戦は壮介、二人三脚は俺。凛先輩がホワイトボードに書いたとき
「騎馬戦は壮介。熱量がある」
「テクニックじゃなくて熱量?」
「お前にテクニックがあるか?」
「ない!」
「だから熱量で勝負しろ。騎馬戦は勢いの競技だ。お前の文章は勢いだけはある」
「勢いだけ!」
「勢いだけでも武器になる場面がある。騎馬戦はそういう場面だ。お前の"うおおお"という文体は、騎馬戦にぴったりだ」
「俺の文体って"うおおお"なの!?」
「違うのか」
「違わないけど!
でもそう言われると切ない!」
「切なくていい。武器だと思え」
「了解!
全力で叫ぶように書く!」
「叫ぶように書くな。書くように書け」
凛先輩自身は「全体構成と編集」を担当する。各メンバーが書いた原稿を放送用にまとめて、時間内に収まるよう調整する。一番地味だけど一番大事な仕事だ。ミステリ作家は構成が得意だ。バラバラのパーツを一つの物語にまとめる。それは凛先輩の専門分野だ。
「先生は校内放送の読み上げ担当です」
霧島先生がソファで缶コーヒーを飲みかけて止まった。
「俺がか」
「先生の声が一番聞きやすいので。低くて落ち着いていて、聞き取りやすい」
「俺は顧問であって声優ではないんだが」
「顧問の職務には放送業務も含まれます」
「含まれない」
「今日から含めます」
「横暴だ」
「教育的放送です」
「その論法はもう飽きた」
二人三脚の実況担当が議論になった。凛先輩がボードの二人三脚の欄を指さした。
「二人三脚はエモーショナルな競技だ。二人で足を揃えて走る。息を合わせる。そこには物語がある。担当は朝倉、お前が書け」
「え、俺ですか」
「お前自身が二人三脚に出るからだ。走りながら心理描写も書け」
「走りながらは無理ですよ!」
「終わった後でいい。走った直後の感覚を忘れないうちに書け。体温が残っている文章が一番いい」
「体温が残っている文章って」
「サッカーで言うなら、試合直後のインタビューみたいなものだ。感情が生きている」
「なるほど」
「で、お前のペアだが」
凛先輩がプリントを取り出した。クラスの二人三脚ペアリストだ。担任が決めたペアの一覧が載っている。
俺の名前を探した。
朝倉陽翔。ペア相手——千歳詩織。
「!?」
壮介がニヤニヤしている。詩織さんが目を丸くしている。凛先輩は涼しい顔だ。
「偶然だ」
「嘘だろ!
先輩が仕組んだんでしょ!?」
「証拠がなければ犯罪は成立しない。ミステリ的に」
「ミステリで逃げないでください!」
「担任が決めたペアだ。私は関与していない」
「先輩が担任に何か言ったんじゃ」
「証拠は?」
「ないですけど」
「なら無罪だ。以上」
凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。有罪の顔をしている。絶対仕組んでいる。
*
翌日。凛先輩と俺で放送委員会のところへ交渉に行った。
放送室は本校舎の三階にある。小さな部屋にマイクとミキサーが並んでいて、壁にはスケジュール表が貼ってある。体育祭の放送スケジュールが細かく書き込まれている。
放送委員長は真面目そうな女子生徒だった。凛先輩が手書きの企画書を差し出した。このくの字は凛先輩の設計図だ。数字と根拠で人を動かす。
ミステリのプロットと同じ方法で現実を動かす。几帳面な字でびっしり書かれている。図解入り。プリン消失事件のときのプリントと同じクオリティだ。
「競技の合間に、文芸部の実況小説を三十秒だけ読ませてください」
放送委員長が企画書を読んでいる。眉を寄せている。
「前例がないですが」
「前例は今日作ります」
凛先輩の声にためらいがなかった。前例がないなら作る。この先輩の思考回路は常にそうだ。壁があれば壊す。ミステリの探偵と同じだ。
「これは校内放送の新しい可能性です」
凛先輩がプレゼンを始めた。
凛先輩のプレゼンは三分で終わった。放送委員長が「面白そうだな」と頷いた。
放送委員長の表情が変わった。眉の力が抜けていく。
「面白そうですね」
「でしょう?」
「でも全競技は無理です。スケジュールがタイトなので」
「三競技で結構です。短距離走、騎馬戦、二人三脚。この三つに絞ります。各三十秒ですから、合計でも一分半。プログラム全体への影響は最小限です」
「一分半なら大丈夫そうですね」
「さらに、原稿は前日までにお見せします。内容に問題があれば修正しますし、当日の進行に支障が出そうなら即座に中止します」
「リスク管理もされてるんですね」
「もちろんです。提案する以上は責任を持ちます」
放送委員長がうなずいた。凛先輩の企画書を丁寧に読み直している。几帳面な性格らしく、赤ペンでチェックを入れている。霧島先生みたいだ。
「わかりました。試験導入ということで。ただし、読み上げの品質は文芸部の責任でお願いします」
「もちろんです。ありがとうございます」
凛先輩が軽く頭を下げた。交渉の場では礼儀を重んじるらしい。普段の毒舌クールとは別の顔だ。
交渉成立。三競技の実況小説が正式に認められた。放送室を出た後、俺は先輩の横顔を見ていた。
「先輩、営業もできるんですね」
「営業じゃない。交渉だ。ミステリの探偵は交渉の場面が多い。容疑者から情報を引き出すのも交渉だ」
「全部ミステリに結びつけますね」
「ミステリは万能だ」
「万能かどうかはさておき、三競技の実況小説が認められたのはすごいです」
「当然だ。提案が合理的だったからな」
「先輩の自信、たまに眩しいです」
「眩しくていい。暗い部室より明るい方がいいだろう」
*
その日の放課後。グラウンドの隅で二人三脚の練習をした。
体育祭まであと一週間。クラスメイトたちもあちこちで練習をしている。応援の練習をしているクラスもある。校庭が賑やかだ。
詩織さんと並んで立った。足首を紐で結ぶ。俺の右足と、詩織さんの左足。紐を結ぶとき、詩織さんの足首が細いことに気づいた。
「あの、朝倉くん、膝は大丈夫ですか」
「大丈夫。二人三脚の速度なら問題ない」
「無理はしないでくださいね。膝に負担がかかるようなら、すぐに言ってください」
「ありがとう。でも大丈夫だ。走るだけなら平気だから」
「走るだけなら、って言い方が少し心配です」
「心配しすぎだよ。行くよ。いち、に、いち、に」
歩き始めた。最初は息が合わなかった。俺の歩幅が大きくて、詩織さんの歩幅が小さい。三歩目でバランスが崩れて、二人同時によろけた。「すみません!
私が遅くて」
「違う。俺の歩幅が大きすぎた。合わせるよ。もう一回」
やり直した、歩幅を小さくする。詩織さんのペースに合わせる。いち、に、いち、に。今度は四歩目まで持った。五歩目でまたよろけた。
「もう一回」
「はい」
三回目。今度は最初から歩幅を揃えた。俺が合わせる。詩織さんの一歩は俺の一歩の七割くらいだ。音楽でリズムの歩幅を変えるのと同じ要領で、自分の足を小さく動かす。
いち、に、いち、に。
五歩、六歩。七歩。リズムが合ってきた。肩。腕。呼吸。
三つが重なると、二人三脚は音楽になる。テンポが合ってくると不思議と心地いい。サッカーのパス回しに似ている。相手の動きを感じて、自分の動きを合わせる。ボールはないけど、二人の間に何かが通っている感覚がある。
詩織さんは運動が得意ではない。走り方がぎこちないし、腕の振りも小さい。でも一生懸命だった。顔が真剣だ。
「詩織さん、もう少し力抜いていいよ。肩に力入りすぎ」
「力を抜いたら転びそうで」
「転んでも大丈夫だよ。練習だから」
「でも朝倉くんの膝が」
「俺の膝は気にしなくていい。二人三脚は二人でやるものだ。一人が全部背負う必要はない」
「一人が全部背負う必要はない、って、素敵な言葉ですね」
「そうか?
普通のことだと思うけど」
「普通のことを普通に言える人は意外と少ないです」
詩織さんがほんの肩の力を抜いた。呼吸が一つ分楽になったのがわかった。
「もう一回行きましょう」
「行こう。いち、に、いち、に」
今度は十歩以上続いた。リズムが合っている。足が同じタイミングで地面を蹴る。二人分の足音が一つに重なる。グラウンドの砂を踏む音がザッ、ザッと規則正しく鳴る。
詩織さんが笑った、走りながら笑った。息が弾んでいる、頬が赤い。運動の赤だ。取材ノートがバレたときの赤とは違う。
「できますね」
「できてる。上手いよ」
「上手くないです。朝倉くんが合わせてくれてるだけです」
「合わせるのも技術だよ。サッカーでもそうだ。パスを出す側と受ける側、両方が上手くないとパスは通らない」
「サッカーの比喩ですね」
「癖だ。気にしないでくれ」
「気にしません。好きですよ、朝倉くんのサッカーの比喩」
不意打ちだった。好きですよ。その四文字が、二人三脚の掛け声に紛れて耳に入った。足のリズムが乱れた。立て直した。乱れたのは足だけだ。
「あ、今リズム乱れましたね」
「風のせいだ」
「風は吹いてませんけど」
「吹いてたよ。たぶん」
「たぶん、ですか」
詩織さんが小さく笑った。
もう一往復走った。今度はリズムが最後まで崩れなかった。ゴールラインに見立てた位置まで走り切って、二人同時に足を止めた。息が上がっている。
*
練習を終えて部室に戻ると、壮介が一人で騎馬戦の実況小説を声に出して練習していた。「第三騎馬、突撃!!
帽子を奪え!!
今だ!!
うおおおお!!」
「うるさい!!」
凛先輩の声が飛んだ。
「臨場感の練習!」
「これ書く練習であって叫ぶ練習じゃないんだが」
「でも読み上げるんだろ?
声量も大事じゃん」
「一理あるけど音量は下げてくれ。部室の壁が薄いんだ」
「壁が薄いのは学校のせいだ!」
「学校のせいでも音量は下げろ」
壮介が渋々声を落とした。でもすぐに興奮して音量が戻る。
「第五騎馬、奇襲!!」
「うおおお!!」
凛先輩がため息をついた。諦めた顔だ。
「壮介、お前の実況、文字で読む分には悪くないぞ。口に出すと暴力的だが」
「暴力的!?」
「声量が暴力。中身は悪くない。"語彙が足りない"って自分で書いてるところとか、正直でいい」
「正直だけが取り柄だ!」
「取り柄を活かせ。本番ではもう少し声を抑えろ。原稿を先生が読むんだから、お前が叫ぶ必要はない」
「叫ばないの!? 残念!」
「叫ぐな。書け」
詩織さんがちゃぶ台の前に座って、短距離走の実況小説の下書きを始めていた。万年筆が紙の上を走る。「スタートラインに並ぶ八人の選手。彼らの視線の先にあるのは」と書いている。もう競技は見ていないのに、イメージだけで書けるらしい。
俺はノートを開いた。二人三脚の実況小説。練習でどんなことを感じたかをメモしておく。
「いち、に、のリズム。肩が触れる。足音が重なる。パス回しに似ている」
書きながら思った。
不思議だ。それでも楽しみだ。
五人で体育祭に挑む。文芸部なりのやり方で。
俺は二人三脚を走る。詩織さんと一緒に。足を結んで、肩を寄せて、「いち、に」の掛け声で。練習のリズムが足に残っている。シャンプーの匂いと、「好きですよ、朝倉くんのサッカーの比喩」という言葉が。
本番はうまくいくだろうか。練習ではリズムが合ってきた。
それでも、楽しみだ。
*
体育祭の前日。部室。
凛先輩がホワイトボードの前に立っている。マーカーで「実況小説リハーサル」と書いた。
「明日の本番に向けて、最終確認をする」
「リハーサルって、実況の練習ですか」
「練習だ。ぶっつけ本番は危険すぎる。特に壮介」
「俺!?」
「お前がアドリブで何を書くか、全員が不安に思っている」
「アドリブは俺の武器だ!」
「武器が暴発する可能性がある」
「暴発!?」
「壮介の語彙力でリアルタイムに文章を書くのは、手榴弾のピンを抜いたまま走るのに等しい」
「手榴弾!? 物騒すぎない!?」
「物騒なのはお前の文章だ」
霧島先生が缶コーヒーを飲みながら口を出した。
「凛、俺も練習が必要だ。朗読なんてやったことない」
「先生は声がいいから大丈夫です」
「声がいいだけでは朗読はできない。間の取り方がわからない」
「先生、"間"って言いましたね。小説の間と朗読の間は同じですよ」
「同じか」
「はい。文章に句読点があるように、朗読にも呼吸の区切りがあります。先生は普段の話し方に自然な間がある。それをそのまま使えばいいんです」
「自然な間」
「先生が缶コーヒーを飲む間が、ちょうど朗読の間と同じくらいです」
「つまり缶コーヒーを飲みながら朗読すればいいのか」
「マイクの前では飲まないでください」
凛先輩がリハーサルの手順を説明した。
「模擬実況をやる。詩織、お前は窓の外のグラウンドを見て、今見えるものを実況小説にしろ。制限時間三分」
「今のグラウンドを?」
「そうだ。放課後のグラウンドで何が起きているか。それを文芸部の実況小説として書け」
詩織さんが窓に近づいた。グラウンドではサッカー部が練習している。ボールを蹴る音が遠くから聞こえる。
詩織さんの万年筆が動いた。三分。原稿用紙の半分が埋まった。
「読め」
「"午後四時のグラウンド。十一人の影が芝の上を滑っていく。ボールは彼らの意志を載せた惑星だ。蹴る者がいて、追う者がいる。一つの球体を巡って二十二の足が動く。その軌道は計算されているようで、されていない。偶然と必然の境界を、ボールは軽々と越えていく"」
「詩織さん、サッカーを宇宙に例えるのはやりすぎでは」
「惑星は言い過ぎでしたか」
「言い過ぎだ。でもいい。体育祭ではもっと振り切れ」
「振り切ります」
「壮介、次はお前だ。同じグラウンドを見て、実況しろ」
壮介が窓に張り付いた。スマホを構えた。三分間フリック入力。
「読め」
「"サッカーやってる!! すげえ!! ボール速い!! あっ転んだ!! 起きた!! また走ってる!! がんばれ!!"」
「壮介」
「はい」
「全部感嘆符だ」
「臨場感!」
「臨場感しかない。文芸要素がゼロだ」
「でもさ、先輩。俺これ読んでると楽しくない?」
「楽しいかどうかは」
「楽しいでしょ?」
「……楽しくないとは言わない」
「先輩が否定しなかった! 勝った!」
「勝ってない。ただ、お前の実況には"読者を巻き込む力"がある。語彙はないが、感情がある。感情で読者を引きずり込む。それは技術では教えられない」
「天然の才能!」
「天然の何かではある」
俺の番。
「朝倉、お前はグラウンドの中で"一人だけ"を見て書け。全体じゃなく、一人の選手に集中しろ」
「一人だけ?」
「二人三脚の実況は二人の物語だ。全体を俯瞰するより、一人の内側に入り込む書き方のほうがお前には合っている」
窓からグラウンドを見た。サッカー部の練習。その中から一人の選手を選んだ。右サイドを走っている選手。田中だ。
ペンを走らせた。三分。
「"右サイドを駆け上がる選手がいる。彼の足は地面を蹴るたびに音を立てる。スパイクが芝を噛む音。その音を俺は知っている。一年前まで、同じ音を鳴らしていた。彼が走っている場所に、俺はもういない。でも彼が走っている音を、俺は聞いている。聞いているということは、まだそこにいるということだ"」
部室が静まった。
「朝倉」
「はい」
「明日の二人三脚、その書き方で書け。自分の内側に入り込んで、隣にいる人間の呼吸を書け」
「隣にいる人間の呼吸」
「詩織と走るんだろう。走りながら何を感じるか。それを五分以内に書け。走った直後の体温で」
「わかりました」
詩織さんが俺の原稿を読んでいた。
「朝倉くん」
「はい」
「"聞いているということは、まだそこにいるということだ"。この一行、すごくいいです」
「ありがとう」
「でも明日の二人三脚の実況では、過去じゃなくて"今"を書いてほしいです」
「今?」
「はい。隣にいる人の足音と、自分の足音が重なる"今"を」
「書けるかな」
「書けます。朝倉くんなら」
先生が缶コーヒーの最後の一口を飲んだ。
「朗読の練習もするか。詩織の原稿を使う」
「お願いします」
先生がマイクの代わりにペンを握った。詩織さんの模擬実況原稿を手に取って、声を出して読み始めた。
「"午後四時のグラウンド。十一人の影が芝の上を滑っていく"」
先生の声が変わった。普段のぼそぼそした声ではなく、低くて落ち着いた朗読の声だ。部室が急に広くなったような錯覚を覚えた。声が壁に反射して、空間を満たしている。
「先生、めちゃくちゃ上手いじゃないですか」
「……そうか」
「上手い! 声がいい! 映画のナレーションみたい!」
「壮介、褒めすぎだ」
「褒めすぎじゃない! 先生の声で俺の実況読んでほしい!」
「"サッカーやってる!! すげえ!!"を朗読するのか」
「臨場感がある!」
「先生の声で読んだら別の作品になりそうだな」
凛先輩がうなずいた。
「リハーサルは以上だ。明日の持ち物を確認する。ノートPC、原稿用紙、予備のペン三本、壮介のスマホ、先生の缶コーヒー」
「缶コーヒーは持ち物に入るんですか」
「先生のパフォーマンスに缶コーヒーは不可欠だ。ただしマイクの前では飲むな」
「善処する」
「善処じゃなく確約してください」
「確約はできない。俺の手は反射的に缶を開ける」
「反射を止めてください」
「缶コーヒーを開ける反射は止められない。生理現象だ」
「生理現象じゃないです。ただの癖です」
「癖も三十年続けば生理現象だ」
「三十年!? 先生いくつから缶コーヒー飲んでるんですか!?」
「中学からだ」
「中学生から缶コーヒー!?」
「法律違反ではない」
「法律の問題じゃなくて健康の問題ですよ」
全員がそれぞれの準備を終えた。壮介がスマホのフリック入力の速度テストをしている。凛先輩が編集用の赤ペンを三本用意した。詩織さんが万年筆のインクを補充している。先生が缶コーヒーのストックを確認している。
「明日は朝七時半集合だ。遅刻は許さない」
「先輩、厳しい」
「体育祭は一年に一回だ。文芸部の実況は今年が初めてだ。初めてのことは全力でやる。全力でやれば、たとえ失敗しても後悔はない」
「先輩、かっこいいこと言いますね」
「かっこいいんじゃない。本気なだけだ」
凛先輩がマーカーのキャップを閉じた。ホワイトボードの「リハーサル」の文字の下に、小さく書き足した。
「明日、全員で校庭を驚かせる」
*
そして、当日が来た。
六月第三週の土曜日。体育祭。
朝七時半。校庭にテントが並んでいる。パイプ椅子の金属が朝露で冷たい。座った瞬間、尻から背骨まで冷気が走った。
校庭のスピーカーからテスト放送が流れている。ハウリングの音。どこかのクラスが応援練習をしている。太鼓の音と、空は快晴。雲が一つもない。体育祭日和だ。
サッカー部がリレーのバトンパスの最終確認をしている。スパイクが砂を噛む音が聞こえる。この音は覚えている。あの中に田中がいる。
文芸部は本部テントの横に「取材席」を確保していた。凛先輩が事前に交渉して勝ち取った場所だ。机が一つ。その上にノートPC、原稿用紙、ペン、壮介のスマホ。
文芸部の武器一式。ベンチに座った控え選手が、スコアブックの代わりにペンを握っている。そんな構図だ。
「作戦通りにいく」
凛先輩が全員を見回した。
「各担当は自分の競技に集中しろ。原稿は競技終了後五分以内に提出。霧島先生が放送室から読み上げる」
「やるのは俺なのか」
霧島先生が缶コーヒーを握りながら言った。今日は放送室に向かう。いつものソファではなく、マイクの前に座る。
「先生の声が一番聞きやすいので」
「小説の朗読なんてやったことないんだが」
「初めてのことはやってみないとわかりません。先生がいつも言ってることです」
「自分の言葉が武器になって返ってくるとは」
「ブーメランです」
「教育的ブーメランだな」
「先生、緊張してますか」
「してない」
「缶コーヒーを持つ手が震えてますよ」
「寒いだけだ」
「七月ですよ」
「七月でも寒い時はある」
「ないです」
「朝は涼しい」
壮介が先生の背中を叩いた。
「先生、大丈夫だよ! 俺たちの実況を読むだけだ! 簡単!」
「お前の"うおおお"を放送で読むのが簡単だと思うか」
「思う! 感情を込めて読めばいい!」
「感情を込めて"うおおお"を読む教師を想像してみろ」
「かっこいい!」
「かっこよくないだろ」
凛先輩が先生に缶コーヒーをもう一本渡した。
「予備です。放送室に持っていってください」
「凛、お前にしては気が利くな」
「気が利くんじゃない。先生のパフォーマンスがコーヒーに依存していることを理解しているだけだ」
「コーヒー依存と言うな」
「事実です」
「事実でも言うな」
詩織さんがメモ帳を開いた。
「先生、朗読のコツを一つだけ。文末を下げてください。上げると疑問文に聞こえます」
「文末を下げる」
「はい。"十一秒間の永遠を"の"を"を下げて読むと、余韻が残ります」
「お前は朗読の指導もできるのか」
「取材で朗読会に三回行きました」
「取材の幅が広すぎる」
先生が放送室に向かった。一杯を片手に。階段を上がっていく背中が、いつもよりほんの緊張しているように見えた。
*
午前十時。最初の担当競技。百メートル走。
詩織さんが取材席に座って、メモ帳と万年筆を構えた。スタートラインに八人の選手が並ぶのを、真剣な目で見つめている。
号砲が鳴った、八人が飛び出す。砂煙、掛け声。スパイクが地面を蹴る音。十秒ちょっとで終わる。一瞬の競技だ。
詩織さんのペンが走った。猛烈な速度だ。インクが乾く前に次の行が始まっている。五分で原稿が完成した。
凛先輩がチェックして、放送室に持っていく。
スピーカーから霧島先生の声が流れた。
「えー、文芸部からのスペシャル実況です」
先生の声はいつもの脱力した感じではなかった。マイクの前に座ると声が変わるらしい。低くて落ち着いていて、妙に聞き心地がいい。
「"スタートラインに八人が並ぶ。彼らの視線の先にあるのは百メートル先のゴールテープではない。自分自身の限界だ。号砲が鳴る。それは始まりの音であり、終わりへのカウントダウンでもある。八つの身体が地面を蹴った。重力に逆らい、空気を裂き、彼らは走った。十一秒間の永遠を"」
グラウンドが一瞬静まった。何だこれ、という空気。校庭にいる数百人の生徒が、スピーカーからの声に耳を傾けていた。
そして数秒後、ざわめきが起きた。
「なにあれ」
「文芸部の実況?」
「めっちゃ独特じゃん」
「百メートル走を"十一秒間の永遠"って。詩的すぎない?」
詩織さんの実況が予想以上にウケていた。文芸部の言葉が、校庭の空気を変えている。文字は声になると飛距離が伸びる。凛先輩がテントの下で小さくガッツポーズをした。
だが問題も発生した。詩織さんの実況が詩的すぎるのだ。競技の合間に綱引きの実況が回ってきたとき、詩織さんが書いた原稿は。
「"あるいはこれは、引力と斥力の根源的相克であり、人類が縄というテクノロジーを手にして以来の"」
放送委員が駆け寄ってきた。
「千歳さん、もう少し普通に書いてもらえませんか!」
「普通、とは」
詩織さんが首を傾げた。本気で「普通」がわからない顔だ。俺は横で頭を抱えた。
「普通っていうのは、"赤組が綱を引きました"とか」
「それでは物語になりません」
「物語にしなくていいんです!
実況なんです!」
「実況小説なので、物語にする必要があります」
「小説をつけないでください!」
だが意外にも生徒たちからは好評だった。スマホを見ている生徒たちが口々に言っている。
「文芸部の実況めっちゃ独特で面白い」
「綱引きを哲学にするの草」
「百メートル走を"十一秒間の永遠"って最高じゃん」
SNSのタイムラインに文芸部の実況が流れ始めていた。凛先輩が「予想以上だ」と呟いた。
「詩織さん、次の綱引きの原稿も書いてくれるか」
「書きます。ただ先ほどのは少し抑えたほうが」
「いや、あのままでいい。むしろもっと振り切れ」
「振り切っていいんですか」
「お前の文章は詩的すぎるくらいがちょうどいい。普通の実況は放送委員がやる。文芸部の実況は普通じゃなくていいんだ」
「わかりました。では次はもっと振り切ります」
「頼む。ただし放送委員が倒れない程度にな」
詩織さんがペンを握り直した。目が輝いている。詩織さんに「もっと書け」と言うのは、壮介に「もっと叫べ」と言うのと同じくらい危険だと思ったが、凛先輩の判断を信じる。
*
午前十一時。騎馬戦。壮介の担当だ。
壮介は観客席の最前列に陣取って、スマホを構えた。騎馬戦が始まる。赤組と白組の騎馬がグラウンドに並ぶ。開始の合図。
壮介がスマホにフリック入力で打ち込み始めた。速い。さすがにスマホ入力だけは速い。だが三十秒ほどで手が追いつかなくなった。興奮して。目の前で帽子が取られ、騎馬が崩れ、歓声が上がるたびに壮介の興奮が加速し、メモが断片的になっていく。
「やべえ!」
「うおお!」
「すげえ!」
「帽子!」
「えっ!」
メモがもはや単語の羅列だ。
凛先輩が横でスマホの画面を覗き込みながら、壮介の断片的なメモを原稿に仕立て直している。「やべえ」を「激しい攻防」に、「うおお」を「歓声が沸く」に変換する作業だ。だが最終的に、凛先輩は壮介の生のテキストをそのまま使うことにした。
「このまま読ませたほうが面白い」
「先輩、正気ですか」
「正気だ。壮介の文章を整えたら壮介じゃなくなる。壮介は壮介のまま出すのが一番いい」
「でも"やべえ"と"うおお"しか書いてないですよ」
「それがいいんだ」
放送室から霧島先生の声が流れた。
「文芸部・大和壮介の騎馬戦実況です」
先生が一瞬ためらった。原稿を見て、何かを覚悟した声で読み始めた。
「"うおおおお!!
赤組第三騎馬が突っ込んだ!!
やべえ!!
帽子取られる!!
いや耐えた!!
耐えたぞ!!
なんかすごい!!
語彙が足りない!!"」
グラウンドが爆笑した。数百人の笑い声が校庭に響いた。
壮介の実況は続く。
「"決着!!
白組の勝ち!!
騎馬戦を一言で表すなら——男たちの魂のぶつかり合い!!
以上!!"」
霧島先生が放送室で笑いを堪えきれなくなっていた。マイクを通して、先生の「ふっ」という息が漏れた。
「以上、大和の実況でした」
先生がアドリブで締めた。普段のぼそぼそした声とは違う、ほんの楽しそうな声だった。
体育教師が本部テントに来て「あの実況は何だ」と言ったが、周りの生徒たちからは
「もっとやれ」
「次も壮介で」の声が上がっていた。
壮介本人は観客席で満面の笑みだった。自分の実況がグラウンドを爆笑させたことがさっきから顔が緩みっぱなしだ。
「俺の実況ウケた!!」
「ウケたな。理由は語彙力のなさだが」
「語彙力がなくても伝わった!」
「伝わったな。"なんかすごい"で」
「"なんかすごい"は最高の褒め言葉だ!」
「最高かどうかは議論の余地がある」
凛先輩がテントの下で腕を組んだ。
「予想外だが、成功だ」
「予想外ってことは計算してなかったんですね」
「壮介の語彙力のなさがここまでウケるとは計算できなかった。これは嬉しい誤算だ」
*
午後。二人三脚。
午前中の実況小説が予想以上にウケたことで、文芸部の取材席周辺にはちらほら見物人が来ていた。「次は何やるの?」と聞いてくる生徒もいる。
凛先輩が「二人三脚の実況は出場者本人が書く」と説明すると、「え、走りながら?」と驚かれていた。「走った後にだ」と凛先輩が訂正した。
俺と詩織さんがスタートラインに並んだ。足首を紐で結ぶ。練習で何度もやった動作だ。けれど今日は本番だ、周りに観客がいる。歓声が聞こえる、砂埃が舞う。
「いける?」
「いけます」
詩織さんが小さくうなずいた。顔が少し緊張している。しかし目は真っ直ぐだ。
「いち、に、いち、に」
スタートの合図。練習通りのリズムで走り出した。肩が触れる、腕が触れる。足音が重なる。周りのペアも走っている。砂を蹴る音、歓声。心臓の音。
順調だった。中間地点まで三位をキープしている。このまま行ける、練習の成果だ。リズムが合っている。呼吸が合っている。
そう思った瞬間だった。
詩織さんの足がもつれた。紐で結ばれた足が変なタイミングで出て、バランスが崩れた。俺が咄嗟にバランスを取ろうとしている。腕を伸ばした。けれど間に合わなかった。
二人で転んだ。
砂埃が舞った。
気がつくと、俺は仰向けに倒れていた。背中に校庭の砂の感触。そして、その上に詩織さんがいた。
俺が下敷きになっていた。反射的に詩織さんをかばっていた。
砂埃が収まった。
顔と顔が近かった、十五センチくらい。詩織さんの髪が俺の頬にかかっている。目が合った、黒い瞳。睫毛が長い。鼻先に砂がついている。唇が少し開いている。息が触れるくらいの距離。
周囲の歓声が轟いているはずなのに、俺の耳には何も聞こえなかった。
詩織さんも心臓が鳴っているのが伝わってきた。俺の胸の上に詩織さんの胸が乗っているから、振動が直に来る。
二つの脈が、バラバラのリズムで鳴っている。合わせようとしても合わない。
「す、すみません」
詩織さんの声が震えていた。
「大丈夫、怪我は?」
「私は大丈夫、です」
目を逸らせない。詩織さんも逸らせないでいる。
「あの、そろそろ」
「あ、は、はい!」
詩織さんが慌てて起き上がった。俺も起き上がった、砂を払う。
起き上がった後も、二人とも顔が赤かった。
遠くから壮介の絶叫が聞こえた。「おーい!!
写真撮ったぞー!!」
俺と詩織さんが同時に叫んだ。
「消せ!!!!」
壮介がスマホを振っている。凛先輩がテントの下で双眼鏡を目に当てていた。レンズの向こうで、たぶんニヤリと笑っている。
足はまだ結ばれている。残りの距離を走らなければならない。
「行くよ」
「はい」
「いち、に、いち、に」
さっきまでのリズムなんかどこかに飛んでいた。ただ必死に足を動かしている。詩織さんも必死だった。
五位でゴール。順位はどうでもいい。
ゴール。二人で膝に手をついた。足の紐を解く。結び目が固い。走っている間にきつくなっていた。その間も隣にいる。肩が触れている。
紐が解けた。足が自由になった。それでもなぜか、自由になった瞬間にかすかに寂しいと思った。
スマホを確認した。文芸部のグループLINEに写真が投稿されていた。俺の上に詩織さんが倒れている瞬間。顔と顔が近い。顔が赤い。
壮介のコメント。「青春のワンシーン!!」
凛先輩のコメント。「良い写真だな」
霧島先生のコメント。「放送室から見えなかったが、いい転倒だったらしいな」
全員敵だ。この部の人間は全員、俺と詩織さんをおもちゃにしている。
「壮介、写真を消せ」
「消さない! 歴史的瞬間だ!」
「歴史にしなくていい!」
「陽翔、お前の顔めっちゃ赤いぞ。写真じゃなくて今の顔が」
「うるさい」
取材席に戻った。詩織さんが隣に座った。まだ赤い。俺もまだ赤い。二人で赤い。
凛先輩がちゃぶ台の上に原稿用紙を置いた。
「朝倉、書け。今すぐ」
「今!?」
「走った直後の感覚を忘れないうちに書け。体温が残っている文章が一番いいと言ったろう」
「転んだ直後の感覚なんですけど」
「転んだ感覚でもいい。走ったこと、転んだこと、起き上がったこと。全部書け。五分だ」
ペンを握った。手が震えている。走ったからじゃない。転んだからでもない。十五センチの距離で見た詩織さんの瞳が、まだ視界の奥に残っているからだ。
書けない。書きたいのに書けない。さっきの感覚が大きすぎて、文字の器に収まらない。
「朝倉くん」
詩織さんの声がした。隣。近い。
「書けません?」
「書けない」
「私も書けません」
「え?」
「百メートル走と騎馬戦の実況は書けたのに、二人三脚だけ書けないんです」
詩織さんが原稿用紙を見つめていた。白い紙の上に万年筆が乗っているだけだ。一文字も書かれていない。
「取材です、と言えば書けるはずなのに。今は言えません」
「言えない?」
「取材じゃないから」
小さな声だった。壮介も凛先輩も聞こえていないくらいの。俺にだけ届く声。
「じゃあ二人で書こう」
「二人で?」
「俺が前半を書く。走り出すところまで。詩織さんが後半を書く。転んだところから」
「転んだところからですか」
「転んだところが一番面白いだろ。実況的に」
「面白いかどうかは別として、記憶が鮮明なのは事実です」
「鮮明すぎるくらいだ」
詩織さんが少し笑った。まだ赤いけど、ペンが動き始めた。
俺も書いた。五分。凛先輩が設定した制限時間ぎりぎりに、二人分の原稿が出来上がった。
凛先輩が二枚を並べて読んだ。俺のパートと詩織さんのパート。
「面白い。前半と後半で文体がまるで違う」
「そりゃ別の人間が書いてるからな」
「朝倉のパートは速い。"いち、に、いち、に"のリズムが文章に出ている。千歳のパートは遅い。転んだ後の二秒間が十行に引き伸ばされている」
「十行は長くないですか」
「長い。だがいい。二秒間の密度が異常だ。転んだ瞬間に何が見えたか、何が聞こえたか、何を感じたか。全部入っている」
「全部は入っていません。入れられなかったものがあります」
「何だ」
「秘密です」
凛先輩が放送室に原稿を持っていった。
スピーカーから霧島先生の声が流れた。
「文芸部・朝倉陽翔と千歳詩織の二人三脚実況です」
先生が二人分の原稿を続けて読んだ。前半の速いリズムが、後半の遅い描写に切り替わる瞬間、グラウンドが静まった。
「"転んだ。砂埃の向こうに空が見えた。青かった。その青の手前に、誰かの顔があった。近い。近すぎる。心臓の音が、自分のものか相手のものかわからなかった"」
詩織さんのパートだった。
校庭のあちこちから声が上がった。
「え、何今の」
「二人三脚ってそんなドラマあるの」
「文芸部やべえ」
壮介が取材席で拍手している。凛先輩がテントの下で腕を組んでいる。
詩織さんの耳が赤い。俺の耳も赤い。
「朝倉くん」
「ん」
「あの原稿、回収してもらえませんか」
「なんで」
「恥ずかしいからです」
「もう放送された後だぞ」
「放送と文字は違います。文字は残ります。声は消えます。残るほうが恥ずかしいんです」
「作家がそれ言う?」
「作家だから言うんです」
*
閉会式。
体育祭の全プログラムが終了した。結果は白組の勝ちだった。文芸部の面々は赤組も白組もバラバラなので、どっちが勝っても関係ない。俺たちの戦いは実況小説だった。
閉会式の後、テントを片付けていると、他の部活の生徒が声をかけてきた。
「文芸部の実況、面白かったよ」
「"十一秒間の永遠"ってやつ、めっちゃよかった」
「騎馬戦の"語彙が足りない"は笑った」
「次の体育祭もやってよ」
「文芸部ってあんなことするんだ。知らなかった」
知らなかった。その言葉で喉の奥が熱くなった。存在を知られていなかった文芸部が、体育祭を通じて「あんなことをする部活」として認識された。それだけで、凛先輩の企画は成功だ。
詩織さんも声をかけられていた。「百メートル走の実況書いた人? すごかったよ」と言われて、照れくさそうに「ありがとうございます」と答えている。
文芸部の名前が、学校にわずかに認知された日だった。凛先輩が満足げに腕を組んでいる。
「第一歩だ」
「先輩、最初から計算してたんですか。ここまでウケることを」
「計算はしていた。ただし壮介の"語彙が足りない"がここまでウケるのは想定外だった」
「想定外の方が盛り上がりましたね」
「ミステリの面白さもそこにある。計算通りにいかない展開が、一番読者を驚かせる」
「俺たち有名人じゃん!」
壮介が興奮している。
「騎馬戦の"語彙が足りない"がウケたんだよ」
「語彙の少なさが武器になった!」
「それは喜んでいいのか微妙だが」
「喜ぶ!武器が見つかったんだ!」
「語彙力のなさを武器と呼ぶ文芸部員は世界で一人だ」
「世界で一人ってことは唯一無二だ!レアだ!」
「レアってのは価値があるって意味じゃないんだが」
霧島先生が放送室から降りてきた。一杯の空き缶を三つ持っている。放送室で三本飲んだらしい。
「放送室から読み上げるの、意外と楽しかったぞ。次もやるか」
「先生、やる気を出してくれるのは嬉しいですけど、まず放送室で缶コーヒー飲むのやめてください」
「なぜだ」
「マイクに飲む音入ってましたよ。プシュッって」
「気づかなかった」
「生徒全員に聞こえてました。"文芸部の実況の合間に缶コーヒーを開ける音が入ってた"ってSNSで言われてます」
「それも文芸部の味だ」
「味じゃないです。ただの不注意です」
*
片付けが終わった後、全員で部室に戻った。
テントを畳んで、机を返して、ゴミを拾って。体育祭の残骸を片付けるのは地味な作業だったが、五人でやると速かった。壮介が一番重いテントの骨を担いで走り、凛先輩が効率的な撤収順序を指示し、詩織さんが忘れ物チェックリストを即座に作成し、霧島先生は缶コーヒーを飲みながら見守っていた。
「先生も手伝ってくださいよ」
「見守るのも仕事だ」
「それ、今日三回目ですよ」
「いい言葉は繰り返す価値がある」
部室に五人が座った。いつもの配置。畳の上に汗と砂埃の匂いが落ちた。
「全員の原稿を読み返すぞ。記録として残す」
凛先輩が三枚の原稿をちゃぶ台に並べた。詩織さんの百メートル走実況、壮介の騎馬戦実況、そして俺の二人三脚実況。
「まず詩織の。もう一回読み上げてみろ」
「はい。"スタートラインに八人が並ぶ。彼らの視線の先にあるのは百メートル先のゴールテープではない。自分自身の限界だ。号砲が鳴る。それは始まりの音であり——"」
「ストップ。ここまででいい。壮介、感想」
「かっこいい!」
「もう少し具体的に」
「えっと……"自分自身の限界"ってところがかっこいい! 百メートル走なのに哲学!」
「哲学って言葉、お前から出ると新鮮だな」
「俺だって哲学くらい言える!」
「言えるのと理解してるのは別だが」
凛先輩が詩織さんの原稿を手に取った。
「千歳、この実況の強みは"視点の切り替え"だ。普通の実況は外から見る。お前の実況は選手の内側に入っている。"視線の先にあるのはゴールテープではない"というのは、選手の心理を代弁している。実況なのに小説になっている。これが文芸部の実況の独自性だ」
「先輩、分析が的確すぎません?」
「ミステリ作家は分析が仕事だ」
「次は壮介の」
凛先輩が壮介の原稿を手に取った。
「"うおおおお!! 赤組第三騎馬が突っ込んだ!! やべえ!! 帽子取られる!! いや耐えた!! 耐えたぞ!! なんかすごい!! 語彙が足りない!!"」
「読み上げると改めてひどいな」
「ひどくない! 臨場感がある!」
「臨場感しかない。文芸要素がゼロだ」
「ゼロじゃない! "語彙が足りない"は自己分析だ! メタ認知だ!」
「メタ認知って言葉、お前どこで覚えた」
「詩織ちゃんが教えてくれた!」
「使い方は合ってるけど、原稿の中で使うものじゃないぞ」
詩織さんが手を挙げた。
「大和さんの実況、私はすごく好きですよ」
「マジ!?」
「はい。"語彙が足りない"は、読者の共感を呼ぶんです。みんな騎馬戦を見て"すごい"としか思えないのに、壮介さんがそれを正直に書いた。"俺も語彙が足りない、この人と一緒だ"って思える。親近感の文章です」
「親近感! 俺の武器は親近感!」
「語彙力がない分、読者との距離が近いんです」
「褒めてるのか貶してるのか」
「褒めてます。褒め方が独特なだけです」
俺の番だった。
「朝倉の二人三脚実況。読め」
「俺はまだ書いてないんですけど」
「書いてないのか」
「本番では走ってたし、転んでたし。今から書きます」
「よし。今ここで書け。五分でいい」
ノートを開いた。ペンを握った。五分。体育祭の記憶が足の裏にまだ残っている。砂の感触、紐の締めつけ、隣の呼吸。
書いた。五分で。
「読みます。"足を結んだ。隣に人がいる。一人で走るより遅い。でも一人では聞こえない音が聞こえる。もう一人の足が地面を蹴る音。もう一人の呼吸。もう一人の心臓。一人で走るより遅いけど、一人では行けない場所がある。そこに向かって走っている"」
部室が静かになった。
「朝倉」
「はい」
「お前のが一番良い」
「え」
「三本の中で一番良い。"一人では行けない場所"という表現が、二人三脚の本質を突いている」
壮介が口を開きかけて、閉じた。何かを言いたそうにしているが、言わなかった。代わりに俺の肩を叩いた。
「いい文章だよ、陽翔」
声が小さかった。壮介の小声。
詩織さんが万年筆を握ったまま俺を見ていた。目がまっすぐだ。何かを言おうとして、何も言わなかった。代わりにノートに何かを書いた。
凛先輩が三枚の原稿を重ねた。
「これを部誌の臨時号に載せる。体育祭特集だ」
「臨時号!?」
「三本の実況を一冊にまとめる。表紙は壮介の棒人間でいい」
「俺の棒人間が表紙!!」
「ただし全裸の棒人間はやめろ」
「全裸じゃない! 棒人間はもともと服を着てないだけだ!」
「それを全裸と言うんだ」
「哲学的な問題だ!」
「哲学の使い方がおかしい」
霧島先生が缶コーヒーの最後の一口を飲んだ。
「三本とも面白かった。来年もやるぞ」
「先生、来年もやるんですか」
「やる。放送室のマイク、思ったより気持ちよかった」
「先生、マイクに目覚めちゃったんですか」
「目覚めてない。ただ、あの"プシュッ"を含めて文芸部の実況だと思った」
「缶コーヒーの音を含めないでください」
「来年はマイクの前で缶を開けるタイミングも計算する」
「計算しないでください」
「演出だ」
「演出じゃないです」
*
家に帰った。
風呂に入って、机に向かった。ノートを開く。ペンを手に取った。いつの間にか買っていたペン。詩織さんが使っているのを見て、文房具屋で安いやつを一本買った。
千五百円。高校生の小遣いにはちょっと痛い出費だったけど、ペンの滑りが良くて気に入っている。
会場で書いた実況は放送された。俺のパートと詩織さんのパート。あれはあれで完成している。でもあの原稿には書かなかったことがある。放送用には入れられなかったもの。
ペンを走らせた。
「スタートラインに並んだ時、横にいたのは詩織さんだった。足が結ばれて、一歩ずつ進む。自分一人で走るより遅い。でも」
ペンが止まった。
「でも」
の続きが書けない。
でも、何だ。ただ一人で走るより速かった?
遅かった?
それとも——脈がうるさかった?
どれも本当だ。ただ書くと嘘になる。本当のことを書いているのに、嘘になる。言葉にすると何かが漏れる。
十五センチ。瞳、睫毛、砂埃、息。二つの心臓がバラバラに鳴っている。全部を言葉にすると、何かが零れ落ちる。言葉にできない部分にこそ、一番大事なものがある気がする。
脈がうるさいから、書けない。
でもいつか書きたい。今日の体育祭のことを。実況小説のことを。全員の声が混ざった実況の熱を。
全部書きたい。でも
「でも」の続きだけが、まだ書けない。
ペンを置いた。ノートを閉じた。
明日、部室で書こう。あのちゃぶ台の前に座って、いつもの音を聞きながら。ペンのカリカリ音と、壮介の声と、凛先輩のツッコミと、霧島先生の一杯の音。
あの中で書けば、「でも」の続きが出てくるかもしれない。
出てこなくても、いい。今日はもう、「でも」の手前まで走れた。ペンの上でだけど。それで十分だ。
体育祭の日の夜。シャワーを浴びたのに、まだ砂埃の匂いが髪に残っている。腕が日焼けでヒリヒリする。疲れた身体が布団に沈んでいく。




