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第7話:中間テスト前夜祭

 六月。空気が重い。シャツが首筋に張りついて離れない。机の上にテスト範囲表が伏せてある。見たくないものには蓋をする。


 中間テストまであと一週間。校内放送で「部活動は原則禁止。テスト期間は勉強に集中するように」というアナウンスが流れた。原則。つまり例外はある。文芸部はその例外に入るのか。入らないだろう。だが凛先輩は気にしない。


 放課後。全員いた。テスト期間だろうと関係ない。部員、先輩、先生、お菓子、缶コーヒー。全員集合。校内放送など、この部室には届かないらしい。


「活動じゃない。勉強会だ」


 凛先輩が開口一番に宣言した。声が鋭い。刃物を研いだあとの金属みたいだ。ソファではなく、ちゃぶ台の前に正座している。正座のときの凛先輩は本気モードだ。


「文芸部による自主的な学習支援だ。部活動ではない」


「屁理屈が上手いですね先輩」


「屁理屈ではない。正当な解釈だ」


「どこが正当なんですか」


「部室を使っているが、活動内容は勉強。つまり自習室の利用だ。自習室の利用は禁止されていない」


「先輩、ミステリの論理力をそっちに使わないでください」


 霧島先生もいた。ソファで一杯を飲んでいる。いつもの姿勢だ。


「先生も来てるんですか」


「テスト監督の仕事があるからな。問題の最終チェックで部室を使わせてもらう」


「先生も屁理屈ですね」


「教育的利用だ」


「先生と凛先輩、屁理屈の系統が同じですね」


 壮介が畳にあぐら。教科書を三冊広げている。壮介の机の上はいつも賑やかで、いつも無人だ。


「自粛って言われると逆に来たくなるよな」


「天邪鬼か」


「あと家だと集中できない。弟がうるさい」


「ここでも集中してないだろ」


「ここだと集中してるフリができる」


「フリだけかよ」


 「フリも大事だ!


 形から入るタイプなんだ!」


「形だけで中身がないのが問題なんだが」


 *


 凛先輩がホワイトボードの前に立った。マーカーのキャップを外す手が、いつもより丁寧だ。テスト期間中に部室を開ける判断をした責任を、この人は背負っている。表を書き始める。「得意科目マッチング表」


 横軸が科目、縦軸が名前。マスに○△×。処方箋みたいだ。科目ごとに薬が違う。


「まず千歳。申告しろ」


「国語◎、英語○、歴史○、数学×、理科×です」


「文系特化型だな。数学と理科が壊滅か」


「壊滅です。二次関数が生理的に無理です」


「生理的に無理な科目があるのか」


「あります。数式を見ると頭痛がします。昨日も教科書を開いた瞬間に閉じました」


「開いた瞬間に閉じるな。少しは読め」


「読もうとしました。でも数式が文字に見えなくて。記号の羅列にしか見えないんです」


「それは数学がわからないということでは」


「わからないのではなく、相性が悪いんです」


「相性で教科を選べたら全員国語だけ受けるわ」


 凛先輩が自分の欄を書いた。


「私は全教科七十五点前後。ムラがない」


「先輩、全部七十五点って逆にすごくないですか。一点もブレないんですか」


「前回は国語七十六、数学七十四、英語七十五、理科七十三、社会七十七。振れ幅四点だ」


「振れ幅四点。精密機械みたいですね」


「器用貧乏とも言う。突出した強みがない代わりに、穴もない」


「ミステリは突出してますよね」


「ミステリはテストに出ない。残念ながら」


「出たら凛先輩が満点ですね」


「出たら俺が作問する。全員苦しめてやる」


「怖い宣言しないでください」


 俺の番。


「数学○、理科○、国語△、英語△です」


 凛先輩が眉を上げた。


「朝倉、国語が弱いのか」


「はい」


「文芸部なのに国語が弱いのは恥ずかしいぞ」


「すみません」


「読書は増えてるのに国語が上がらないのか」


「読書と国語のテストは別物なんですよ。評論文の読解とか古文の文法とか、小説を読む力とは微妙に違う」


「理系科目が強いのは意外だな」


「サッカー部時代、戦術の計算をよくやってたので。フォーメーションの角度とか、シュートの軌道とか」


「サッカーで数学を鍛えたのか。面白い経歴だ」


 最後は壮介。


「壮介、申告しろ」


「全教科四十五点前後です!」


 沈黙。


「大和、お前よくこれで進級できてるな」


「才能だよ!」


「赤点回避の才能か」


 「赤点は取ってない!


 ギリギリ回避してる!」


「ギリギリ回避を才能と呼ぶのはどうかと思う」


 霧島先生が定位置から口を出した。


「大和の成績は俺が担任として心配している。頼むから今回は平均点を取ってくれ」


「平均って何点くらいですか」


「お前の場合、五十点取れれば上出来だ」


「よっしゃ、五十点目指す!」


「志が低い!」


 「低くない!


 俺にとっての五十点は、普通の人の八十点くらいの価値がある!」


「その計算がおかしい」


「計算が苦手だからな!」


「だから数学が四十五点なんだ」


「でもさ、先輩。俺だって努力はしてるんだよ!」


「努力の方向が間違っている可能性がある」


「方向!?」


「壮介、お前は教科書を開く前にカレーうどンを食べるだろう」


「食べる! 腹が減ってたら集中できない!」


「食べ終わった後に眠くなって寝るだろう」


「寝る! カレーうどンは眠くなる!」


「つまり勉強時間がゼロだ」


「ゼロ!? 食べてる時間は!?」


「食事は勉強ではない」


「カレーうどンの成分を覚えたら理科の点数上がらないかな」


「上がらない。カレーうどンは試験範囲に含まれない」


「含まれるべきだ!」


「含まれない。永遠に」


 凛先輩がマッチング表を完成させた。ホワイトボードの表を眺めて、腕を組む。


「教え合いペアを決める。陽翔は数学と理科が強い。千歳は数学と理科が弱い。つまり陽翔が千歳に数学を教える」


「はい」


「了解です」


「壮介は全科目弱い。私が全科目を担当する」


「鬼教官!」


「修行だと思え」


「修行きつい!」


「きつくないと成績は上がらない。先生は全員のサポートに回ってください」


「了解した。缶コーヒー代は経費で落としてくれ」


「経費はありません」


 *


 教え合いタイムが始まった。


 詩織さんの隣。いつもの席より一つ分近い。一つ分だけ。詩織さんの数学のノートを開いて、二次関数のグラフの書き方を説明する。


「まず、y=x²のグラフはこういう形です」


 ノートに放物線を描いた。シャーペンの線が紙の上を走る。


「頂点がここで、xが正の方向に動くとyは急激に大きくなります」


「xが増加するとyも増加する。つまりxとyは共依存関係にあるんですね」


「数学的にはそうだけど、言い方!」


「でもそうですよね。xがいなくなるとyも存在できない。二つの変数が互いに支え合っている。これは数学的事実であると同時に、人間関係の比喩として」


「比喩にしないで。テストに出るのは数学的事実のほうだけだから」


「でもxとyの関係は、ミステリの犯人と被害者の関係にも似ていますね。犯人が存在しなければ被害者も存在しない」


「それは凛先輩に言って。俺は数学を教えてるんだ」


「すみません。つい」


 詩織さんがノートを取り直した。シャーペンだ。数学だけは万年筆を使わない。万年筆はグラフを許さないらしい。道具にも相性がある。


「次に、頂点の座標の求め方を教えます。y=a(x-p)²+qのとき、頂点は(p,q)になります」


「p,qって何の略ですか」


「特に意味はない。ただの変数名だ」


「変数に意味がないなんて寂しいですね。名前には意味があるべきです」


「数学の変数に意味を求めないでくれ」


「放物線って美しいですね」


「美しい?」


「まるで物語のクライマックスの曲線みたいです。上がっていって、頂点に達して、降りてくる。起承転結の"転"が頂点ですね」


「感性は面白いけど、テストでそう書いたら零点だからな?」


「零点ですか」


「零点だ。座標を正確に記入して式を書け。文学的解釈はテストの後にやれ」


「テストの後に放物線の文学的解釈をする人は私くらいでしょうね」


「たぶん世界で一人だ」


 詩織さんが少し笑った。シャーペンの先がノートの上で止まっている。


 近い。ノートを覗き込む横顔。むしろ意識してしまう。鼻先が詩織さんの耳に近い。耳たぶが小さくて白い。何を見ているんだ俺。数学だ、二次関数だ。


 次の問題の解説に移った。声が少し上ずった。自分でもわかっている。わかったけど直せなかった。


「この式のaが正のとき、グラフは上に開きます」


 声が裏返りかけた。裏返ってない。裏返ってないと思いたい。


 詩織さんも妙にペンを持つ手が硬い。さっきまでスラスラ書いていたのに、グラフの線がかくかくしている。頂点の座標を書くとき、pとqの字が妙に小さくなっていた。


 二人ともテスト勉強に集中しているフリをしていた。


 卓の反対側からは、凛先輩と壮介の声が聞こえてくる。あっちは別の意味でカオスだった。


「"apple"は?」


「ああ、あれだろ、赤いやつ」


「日本語で答えろ」


「りんご!」


「正解。次、"literature"」


「り……りて……りてらちゃー……文芸!」


「惜しい。文学だ」


「文芸と文学って違うの!?」


「お前文芸部にいるのに文芸がわからないのか」


 俺が思わずツッコんだ。「文芸は芸だ!


 文学は学だ!


 芸と学は違う!」


「その区別が合ってるかどうかはさておき、literatureは文学だ。覚えろ」


「覚える!」


「次。"beautiful"」


「びゅーてぃふる。これ知ってる。美しい!」


「正解。例文を作れ」


 「例文?


 えーと……The カレーうどン is beautiful!」


「文法的には合ってるが意味がおかしい」


「カレーうどンは美しいだろ!!」


「主観的にはそうかもしれないが、英語の例文としてはもう少し一般的なものを」


「カレーうどンは一般的だ!」


「"ン"がカタカナになってるぞ口頭なのに」


 凛先輩の英語特訓は厳しい。壮介の悲鳴が部室に響き続けている。


 *


 休憩時間。壮介が畳に倒れている。


 詩織さんが急に手を挙げた。


「思いついたんですけど、テストの問題文を小説にしたら面白くないですか?」


「小説?」


「はい。たとえば数学の文章問題。"AさんとBさんが同時に家を出発し、途中で出会う確率は"。これって運命の出会いの物語ですよね!」


「確率の問題だよ」


 「でもAさんとBさんが出会うんですよ!


 歩いて、どこかですれ違う。それが運命じゃなくて何ですか」


「確率だ」


 詩織さんが目を輝かせてノートに書き始めた。


「"A子は時速四キロで歩いた。B男は時速六キロで走った。二人の距離が縮まるのに必要な時間は。A子は知っていた。B男がこの道を通ることを。だから走らなかった。待っていた。B男が追いつくまでの、あの数分間が、A子にとっては永遠のように感じられた"」


「テスト前にそんなことしてる場合か!!」


「でもこの問題、ドラマがあるんですよ。A子がなぜ時速四キロなのか。走れないんじゃなくて、走らないんです。B男を待つために」


「数学の問題にそんな意図はない」


「あります。出題者にも心があるんです」


「出題者は霧島先生だ。心はあるかもしれないが意図はない」


 壮介が単語帳の下から顔を出した。「詩織ちゃんの小説版で読みたい!


 A子とB男の続きが気になる!


 A子は追いつかれたの?」


「追いつきました。B男は時速六キロですから、差は時速二キロ。十分で追いつきます」


「追いついた後どうなったの!?」


「二人は一緒に歩きました。同じ速度で」


「それ数学の答えじゃないだろ」


「数学の答えは十分です。でも物語の答えは"一緒に歩いた"です」


「壮介もテスト勉強しろ!」


 凛先輩が冷静に言った。


「千歳、それ普通に解けば答え出るよ。時速の差で割れば終わりだ」


「数学的にはそうですが、文学的には奥が深いんです」


「テスト期間中は数学的にいけ」


 霧島先生が言った。


「千歳、お前は国語教師になれるかもしれないな。数学は絶対なれないが」


「先生、私の数学はそんなにひどいですか?」


「前回のテスト、二十八点だったろ」


 詩織さんの顔が固まった。


「それは内緒にしてもらったはずでは」


「「「「二十八点!?」


 」」」


「国語◎で数学二十八点って振れ幅がすごいな」


「振れ幅ではなく個性です」


「個性で片付けていいスコアじゃないだろ」


「だから今日教えてるんじゃないか。頑張れ」


「朝倉くん、今日教えてもらった分で何点くらい上がりますか」


「正直に言っていいですか」


「はい」


「二次関数だけで十五点分くらいある。今日やった範囲が全部解ければ四十点は超える」


 「四十点!


 前回から十二点アップですね」


「まずは赤点回避だ」


「赤点回避が目標って、壮介さんと同じレベルなんですが」


「数学に関しては同レベルだな」


 壮介が畳から顔を上げた。


「詩織ちゃんと俺、数学仲間!」


 「仲間じゃありません!


 国語は私のほうが五十点以上高いです!」


「数学仲間は数学仲間だ!」


「嫌です!」


 詩織さんが赤くなりながらノートに向き直った。さっきの小説モードが消えて、真剣な顔で二次関数の問題集を解き始めた。シャーペンの動きが速い。悔しさが原動力になっている。


 横で見ていて思った。詩織さんは国語の天才だけど、数学では普通の高校生以下だ。完璧じゃない。どこか安心する。天才にも苦手なものがあるということが。二十八点の詩織さんは、いつもの取材モードの先生よりも、わずかに人間っぽく見えた。


 *


 勉強会が終わった。日が落ちかけている。六月の夕暮れは長い。空がまだ明るい。


 帰り道。壮介と並んで歩いている。詩織さんは凛先輩と反対方向に帰った。先輩が帰り道でも数学の口頭テストをしていた。


 「二次関数のグラフで頂点の座標は?」「えっと、(p,q)です」「正解。pとqの求め方は?」。詩織さんの声が遠くから聞こえた。真面目にやっている。


「なあ陽翔」


「ん」


「お前、詩織ちゃんに教えてる時、楽しそうだったよ」


 「そうか?


 教えるのは嫌いじゃないからな。サッカー部のとき、後輩に教えるの好きだったし」


「そういうことじゃなくてさ」


 壮介が一瞬黙った。


「……いや、なんでもない」


 言葉を飲み込んだ。壮介が言葉を飲み込むのを見たのは、文芸部に入って以来初めてだった。


「なんだよ、気になるだろ」


「ほんとになんでもない。腹減ったなって思っただけ」


「急に腹の話にすり替えるな」


 「すり替えてない!


 勉強すると腹減るじゃん!」


 壮介が笑って走っていった。「テスト頑張ろうぜ!」と叫びながら。いつもの壮介だ。けれどさっきの沈黙が、心のどこかに小石みたいに残っている。


 まあいい。


 家に帰った。夕飯を食べて、風呂に入って、机に向かった。テスト勉強の続き。数学の問題集を開く。二次関数、放物線。さっき詩織さんに教えた範囲だ。


 問題を解きながら、今日の勉強会を思い出していた。詩織さんが「xとyは共依存関係」と言ったこと。「放物線はクライマックスの曲線」と言ったこと。


 少し躊躇した。


 なんで躊躇ったんだ、俺。


 ノートを閉じた。


 テストまであと六日。数学の問題集はまだ半分残っている。明日も部室で勉強会だ。明日も詩織さんの隣で数学を教える。


 *


 中間テストが終わった。一週間。身体から糸が抜けていく。


 そしてテスト返却日がやってきた。教室の空気が妙に湿っている。六月の窓から入ってくる風が、額の汗を乾かしていく。


 放課後。部室。凛先輩がホワイトボードの前に立っている。マーカーを手に、でかでかと書いた。「中間テスト結果報告会」


「文芸部員として恥ずかしくない成績であることを確認する」


「確認ってことは、恥ずかしかったらどうなるんですか」


「特訓が待っている」


「特訓ですか」


「凛先輩の特訓はきつい。知ってる」


 壮介が畳の上で身を縮めた。テスト期間中に凛先輩の英語特訓を受けたトラウマがまだ残っている。


「では申告開始。千歳から」


 詩織さんが成績表を広げた。


「国語九十七点です。学年二位でした」


「さすがだな。学年二位。一位は誰だ」


「三年生の先輩です。古文の知識量で負けました」


「悔しいか」


「悔しいです。次は勝ちます」


「その意気だ。で、数学は」


 詩織さんの声が小さくなった。


「三十一点です」


 部室のホイッスルが鳴った。


「勉強会の成果で三点上がりました!」


「元が二十八点なら三十一点は……いや、それでも赤点だろ!」


「赤点ラインは三十点です。一点上回っています」


 「一点!


 ギリギリじゃないか!」


「ギリギリでも回避は回避です!」


「詩織さんのギリギリは壮介レベルだぞ」


「壮介さんと一緒にしないでください!」


「数学仲間じゃん!」


「仲間じゃありません!」


 壮介が手を叩いている。詩織さんが不機嫌な顔をしている。


「次、朝倉」


「国語六十五点。前回より十二点上がりました。数学七十八点」


「国語上がったな。十二点は大きい。何をした」


「詩織さんに負けるのが悔しくて、現代文の読解を重点的に勉強しました。あと古文の文法を凛先輩のプリントで覚えました」


「プリントが役に立ったか」


「めちゃくちゃ役に立ちました。凛先輩のプリントは教科書より分かりやすかったです」


「当然だ。あのプリントは私が二年分の試験範囲を分析して作ったものだからな」


「先輩、テスト対策のプリントも作れるんですか」


「ミステリ脳は分析に向いている。出題傾向の分析もミステリだ」


 詩織さんがこちらを見た。目が少し輝いている。


「ライバルですね!」


「レベルが違いすぎるけどな。九十七点と六十五点じゃ」


「でも十二点上がったんですよ。そのペースなら期末で七十点台に乗ります。そしたらもっとライバルっぽくなりますね」


「ライバルっぽいかどうかは三十二点差が縮まってから言ってくれ」


「縮めます。朝倉くんが追いついてくるのを待ってます」


「待たれると逆にプレッシャーなんだが」


「プレッシャーがあるほうが成長しますよ。朝倉くんはプレッシャーがかかると集中力が上がるタイプです」


「俺の特性を分析しないでくれ」


「データは嘘をつきません」


「データの使い方がおかしい」


 凛先輩がうなずいた。


「朝倉は伸びしろがある。国語が上がったのは読書量が増えた効果だろう。このまま続ければ期末で七十は超える」


「そうですかね」


「そうだ。数学七十八も立派だ。文芸部の理系エースだな」


「理系エースって響きが文芸部っぽくないんですが」


「気にするな。次、壮介」


 壮介が成績表を広げた。全員が覗き込む。


「全科目平均四十八点!」


 全員が成績表を覗き込んだ。


「赤点が一科目もない!」


 「国語四十七、数学四十五、英語五十二、理科四十六、社会五十!


 全教科四十五から五十二の間に収まった!」


 沈黙。そして全員が同時に口を開いた。


「逆にすごい」


「逆にすごくない?」


「逆にすごいな」


「逆にすごいです」


 壮介の成績は低すぎて人を団結させる。


「均等に低い。七科目すべてが四十五から五十二の範囲内に収まっている」


「均等に低い才能、ある意味天才だ」


「天才!?」


「褒めてない」


 「褒められた!


 俺天才!」


「だから褒めてないって。壮介の成績は安定しているが、安定の位置が低すぎる。水平飛行はいいが高度が地面スレスレだ」


 「地面スレスレでも飛んでる!


 墜落してない!」


「赤点ギリギリの飛行は墜落と紙一重だからな」


 壮介の答案を回し読みした。国語の作文。テーマは


「夢」


 壮介の字は、大きさだけで声量が伝わる。


 壮介の回答。「昨日見た夢。巨大カレーうどンと戦った。勝った。以上」


 教師のコメントが赤ペンで書いてある。


「もう少し現実的な夢について書きましょう」


「お前、テストでカレーうどンを出すな」


「夢は自由だ!!」


「テーマの"夢"は将来の夢のことだろ。寝て見る夢じゃない」


「どっちの夢かわからなかったから安全なほうを選んだ!」


「安全じゃないだろ巨大カレーうどン」


 「巨大カレーうどンは俺の原点だ!


 部誌にも載った!


 実績がある!」


「部誌とテストは別物だ。部誌の実績はテストの点数にならない」


「なるべきだ!」


「ならないんだよ」


 詩織さんが壮介の作文を丁寧に読み返していた。


「大和さん、この作文は短いですが、"以上"で終わるところに一貫性がありますね。焼肉エッセイのときも"以上"で終わっていました」


「千歳、壮介の作文を文学的に分析するな」


「分析ではなく観察です」


「観察もするな。壮介が調子に乗る」


 「もう乗ってる!


 俺の作文に一貫性!」


「一貫して短いだけだ」


 霧島先生がソファで一杯を飲みながら壮介の答案を見ていた。


「大和、お前の作文は文法的には正しい。主語と述語が一致している。句読点も打てている。前回から比べれば成長だ」


 「先生!


 褒められた!」


「ただし内容が致命的だ。次は将来の夢を書け」


「将来の夢は焼肉屋です!」


「それでいい。焼肉屋について四百字書け」


「四百字も!?」


「テストの作文欄は四百字だ。四百字は書け」


 *


 成績発表が一段落した後、凛先輩の成績に話題が移った。


 凛先輩は全科目平均七十五点。前回と同じ。安定している。振れ幅は四点以内。精密機械だ。


 だが問題は成績そのものではなかった。


「先輩、通信簿の担任コメント見せてくださいよ」


「やめろ」


「見せてください」


「やめろと言っている」


 壮介が先輩の鞄から通信簿を引っ張り出した。凛先輩が奪い返そうとしたが間に合わなかった。


 担任のコメント欄。


「桐谷さんは語彙力が豊富で論述力がありますが、回答が小説的すぎる場合があります。歴史の論述で"信長の心中を察するに"から始まるのは減点対象です」


「褒められてるのか怒られてるのかわからない」


「小説的ってすごくない?」


「テストの答案で"小説的"は褒め言葉じゃないんだよ壮介」


 俺が凛先輩の歴史の答案を見せてもらった。本能寺の変の論述問題。


 凛先輩の回答:「信長は炎の中で何を思ったか。それは誰にもわからない。だが一つだけ確かなことがある。 彼はその瞬間、自分の人生の主人公だった。敵に囲まれ、逃げ場はなく、それでも膝を折らなかった。本能寺の炎は、信長という人間の最期を照らす舞台装置だったのだ」


「先輩、これカッコいいですけどテストの答えじゃないです」


「わかっている」


「わかってて書いたんですか」


「教師が求めているのは事実の羅列であって文学的解釈ではない。わかっている。わかっているが手が勝手に動くんだ」


「手が勝手に」


「論述問題を見ると物語が見える。歴史上の人物が動き出す。彼らの心理が気になる。信長は何を考えていたのか。光秀はなぜ裏切ったのか。ミステリと同じだ。動機がある。トリックがある。答案用紙の上で推理が始まってしまう」


「推理を答案でやらないでください」


「やめたいと思っている。思っているが止まらない」


 詩織さんが凛先輩の答案をじっと読んでいた。


「凛先輩、この回答すごくいいです。"舞台装置"という言葉の使い方が」


「千歳、褒めるな。これは減点された答案だ」


「減点されても文章としての価値は変わりません」


「テストでは変わるんだよ。五点引かれた」


「五点は惜しいですね」


「惜しくない。自業自得だ」


 壮介が凛先輩の他の答案も覗き込んだ。


「先輩、英語の和訳もすごいことになってるんだけど」


「見るな」


「"The sun rises in the east"の和訳が"太陽は東から昇る。それは約束だ。毎朝、例外なく。世界で最も信頼できる約束"って」


「和訳に感想を足すな」


「先輩が足したんですよ」


「手が勝手に」


「手のせいにするのやめません?」


 霧島先生がソファで深くうなずいた。


「気持ちはわかる」


「先生もですか!?」


「新人賞に応募していた頃、就職活動の履歴書の志望動機欄を短編小説にしてしまったことがある」


「「「「先生のほうがやばい」」」」


「あれは黒歴史だ。面接官が困惑していた」


「当然です」


「でも面接は通った」


「通ったんですか!?」


「面白いと言われた。教員採用試験だったからな。"こういう人間が教師になるのも悪くない"と」


「先生の人生、たまにミラクルが起きますね」


「ミラクルじゃない。あれは短編小説の出来が良かったからだ」


「そこに自信を持つんですか」


 *


 凛先輩が改まった顔でホワイトボードの前に立った。成績表の横に、新しい項目を書き加える。


「文芸部成績管理制度」


「今日から導入する」


「成績管理制度!?」


「文芸部員が赤点を取ると部の品位に関わる。特に国語で赤点は論外だ。全員、国語は学年平均以上を維持すること」


「国語以外は」


「赤点回避でいい。文芸部は文芸の部だ。国語だけは譲れない。他の科目は生きていけるレベルであれば問題ない」


「生きていけるレベルって基準が曖昧ですね」


「赤点を取らなければ生きていける。進級できるからな」


「基準が低い」


「国語以外は低くていい。メリハリだ。文芸部は国語で戦う部活だ」


 壮介が手を挙げた。


「俺、国語も怪しいんだけど。四十七点だし」


「だから管理するんだ」


「管理されたくない!」


「大和、自由と放任は違う。放任されたお前の成績がこれだ。四十八点の均等な低空飛行。管理が必要だ」


 壮介がぐうの音も出ない顔をしている。四十八点の事実は重い。


 詩織さんが手を挙げた。


「数学の管理はしないんですか」


「お前の数学は管理ではなく救済が必要だ」


「救済ですか」


「管理は基準を設けて維持すること。救済は基準以下の人間を引き上げること。お前は救済対象だ」


「そこまで言いますか」


「三十一点だからな」


 詩織さんがしょんぼりした。


「俺は?」


「朝倉、お前は国語を上げろ。文芸部のエースが国語六十五点ではいかんだろう」


「エースって」


「エース候補だ。まだ候補。国語七十点を超えたらエースに昇格してやる」


「昇格制度まであるんですか」


「今作った」


「即興で作らないでください」


「即興でも合理的なら問題ない」


「先輩の"合理的"は独裁っぽいんですが」


「独裁ではない。善意の専制だ」


「善意の専制って言い方が逆に怖いんですが」


「怖がる必要はない。私は部員の成績を上げたいだけだ。全員が国語七十点以上取れれば、文芸部として胸を張れる」


「全員が七十点は高くないですか。壮介は四十七点ですよ」


「だから管理するんだ。管理なしの壮介は四十七点。管理ありの壮介は、期末で五十五点を目指す」


 「八点アップ!


 俺にとっては大冒険だ!」


「大冒険と言うな。普通の努力だ」


「普通の努力が俺には大冒険なんだ!」


「否定できないのが悲しいな」


 凛先輩の成績管理制度は、こうして全員に異論なく(というか反論できず)導入された。


 霧島先生が定位置から声を出した。


「お前ら、期末はもう少し頑張ってくれ。担任として胃が痛い」


「先生、文芸部の成績は私が管理しますので安心してください」


「頼もしいが少し怖い」


「怖くないです。合理的です」


「合理的に怖い」


 *


 帰り際。凛先輩がボードに「次回目標」と書いて、各自の期末テスト目標点を設定した。


 詩織:国語一位、数学四十点以上。陽翔:国語七十点以上、数学八十点以上。


 壮介:全科目五十点以上。凛:全科目七十五点以上(現状維持)。


「俺の目標が一番低いんだけど」


「現実を受け入れろ」


 「五十点は高いよ!


 俺にとっては!」


「お前にとっての五十点が世間の五十点であることを理解しろ」


「世間は厳しい!」


「世間じゃなくてテストが厳しいんだ」


「先生、何か一言ありますか」


「頑張れ。以上」


「短い」


「教師のアドバイスは短いほうが効く」


「効いてないですけど」


「効いてなくても言った。責任は果たした」


「責任の果たし方が雑すぎます」


 全員で帰り支度をした。教科書とノートを鞄に詰める。テスト答案を折りたたんで挟む。壮介の鞄からはポテチの袋がはみ出している。テスト期間中も食べていたらしい。


 部室を出た。引き戸を閉める。六月の夕暮れ。空がまだ明るい。


 家路、一人で歩きながら考えた。


 この部室で過ごした日々は、テストの点数では測れない何かがある。


 合評会で読んだ「海辺の椅子」。


 あの小説を読んだ後に感じた余韻は、何点の価値があるんだろう。壮介の四十二文字で先生が「腹が減った」と言ったこと。プリン消失事件の推理合戦。部誌の創刊号をホチキスで綴じた夕方。


 テストには出なかった。でも俺の中で何かが変わっている。


 凛先輩が「エース候補」と言ってくれた。


 文芸部ではまだ自分の役割がはっきりしない。


 それでも、前に進んでいる感覚はある。


 踏切の遮断機が鳴った。赤い光が点滅して、電車が通過していく。風圧で髪が乱れる。テスト答案の角が鞄の中で指に触れた。その横に、部誌がある。


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