第6話 : 日常という名の青春
五月の風が廊下を抜けていく。放課後の旧校舎は、いつもより静かだった。
戸を開けた瞬間、インクとい草の匂いがいつもより濃く感じた。
ちゃぶ台が壁際に押しやられていた。代わりに、ボードが部室の中央を陣取っている。ボードの前に凛先輩がマーカーを握って立っている。ボードには赤い字で大きく書かれている。
「ミステリ創作講座 第1回」。
全員の座る位置にプリントが配られていた。凛先輩の手作りだ。図解入り。フォントが整っていて、矢印やイラストまで描かれている。いつ作ったんだこれ。
「先輩、テンション高くないですか」
壮介が床に座りながら言った。
「高い。これはミステリの話だからな」
凛先輩の目がいつもと違った。
「先輩、目がキラキラしてますよ」
「してない」
「してます。初めて見ました、その顔」
「うるさい。ミステリの話をするときだけだ」
「自覚あるんですね」
「ない。黙れ」
「千歳はプリントにメモ取る準備できたか」
「できています」
詩織さんが万年筆を構えていた。
「先生は」
「聞いてる。缶コーヒー飲みながらだが」
霧島先生がいつもの場所で缶コーヒーを開けた。いつもの姿勢。ただし今日はプリントをちゃんと手に持っている。
「では始める」
凛先輩がマーカーのキャップを外した。カチッという音が、部室に響いた。
*
凛先輩がボードに三つの言葉を書いた。
「①フーダニット ②ハウダニット ③ホワイダニット」。
「ミステリの三要素だ。①フーダニットは"犯人は誰か"。②ハウダニットは"どうやったか"。③ホワイダニットは"なぜやったか"。ミステリは要するにこの三つの"?"を読者に投げかけて、回収する文学だ」
「意外とシンプルなんですね」
「シンプルだからこそ奥が深い。千年やっても答えが出ない」
「千年やるんですか」
「比喩だ」
「千年のミステリ! 壮大!」
「壮介、比喩の意味はわかるな」
「わかる! 大げさに言うやつ!」
「合ってるけど言い方が雑だ」
凛先輩がホワイトボードに矢印を追加した。三つの要素が互いに矢印でつながっている。
「この三つは独立しているようで、実はつながっている。"誰がやったか"がわかると"なぜやったか"が見えてくる。"どうやったか"がわかると"誰がやったか"が絞れる。一つの謎を解くと、別の謎のピースが埋まる。パズルみたいなものだ」
「部活で言うと、パスの出し所がわかるとフォーメーションが見えてくる、みたいな感じですか」
「朝倉、いい例えだな。まさにそれだ。ミステリはフォーメーションだ」
「身体の比喩でミステリを理解するのは新しいですね」
「何でもいい。自分に近いものに置き換えて理解するのが一番速い」
詩織さんがプリントにメモを取りながら手を挙げた。
「ミステリの構造は恋愛小説にも応用できますね」
「どういうことだ」
「"誰が誰を好きか"がフーダニット。"どうやって気づくか"がハウダニット。"なぜ好きになったか"がホワイダニット。恋愛小説も三つの謎で構成されています」
凛先輩が一瞬黙った。
「千歳、お前はなんでも恋愛に変換するな」
「変換ではなく、構造の類似性を指摘しただけです」
「恋愛に変換する癖があるって自覚はないのか」
「ありません。事実を述べているだけです」
霧島先生が後ろから声を出した。
「いい視点だと思うぞ。物語の構造は万能だ。ミステリでも恋愛でも、読者に"?"を投げかけて回収する。骨格は同じだ」
「先生がまともなことを言っている」
「たまには言う」
壮介がプリントを見つめている。首を傾げている。
「壮介、プリントが逆だぞ」
「え」
ひっくり返した。
「あ、日本語だったのか」
「何語だと思ってたんだ」
「暗号かと」
「ミステリ脳になるのは良いことだが、方向が違う」
「方向はこれから正す!」
「正してくれ」
凛先輩がプリントの裏面を指さした。
「裏にはミステリの名作リストを載せてある。初心者向けに十冊選んだ。全員、最低一冊は読め。壮介は絵が多いやつを選んだから安心しろ」
「俺だけ絵が多いの!?」
「配慮だ。感謝しろ」
「配慮がちょっと失礼!」
*
「では実践に移る」
凛先輩がボードを消して、新しい文字を書いた。
「実践課題:部室プリン消失事件」。
「推理をしてもらう。題して"部室プリン消失事件"」
「プリン?」
「本日の放課後、この冷蔵庫に入っていた私のプリンが消えた」
凛先輩が部室の隅にある小型冷蔵庫を指さした。
「これは架空の事件ではない。マジの事件だ」
「マジ?」
「マジだ。私のプリンが消えた。これは国家的危機だ」
「マジの事件!?」
「マジだ。私のプリンが消えた。許せない」
「先輩、プリン好きなんですか」
「好きだ。悪いか」
「ギャップ萌え!」
「殴るぞ」
壮介が慌てて口を閉じた。
「容疑者は、本日この部室に出入りした全員だ。すなわち、私、千歳、壮介、朝倉、そして霧島先生。五名。全員にアリバイを聞く。正直に答えろ」
「全員容疑者なんですか」
「ミステリの基本は全員を疑うことだ。身内だからといって例外はない」
「先輩自身も容疑者なんですか」
「当然だ。探偵と容疑者を兼ねるのもミステリの醍醐味だ」
凛先輩がボードに五人の名前を書いた。横に「容疑者」と記した。全員の名前の横に空欄がある。アリバイが成立すれば○、不成立なら×を書くつもりらしい。
「まず推理タイムだ。各自の仮説を聞かせろ。壮介から」
「俺から!?」
「被害者が犯人指名するのもミステリの作法だ」
「作法なんだ。じゃあ言う。俺の推理」
壮介が立ち上がった。ちゃぶ台の前でポーズを決めた。人差し指を天に向けている。探偵のつもりらしい。
「犯人は、プリンそのものだ」
沈黙。
「プリンが自分の意志で冷蔵庫から脱走した」
さらに沈黙。
「プリンに意志はない」
「ある。カレーうどンにもあっただろ」
「それはお前の小説の中の話!!」
「小説の中が現実じゃないとは限らない!」
「限る! 完全に限る!」
「プリンは甘い。甘さには人を誘惑する力がある。つまりプリンには意志がある」
「論理が壊滅してるんだけど」
「壊滅してない! 直感だ! 直感もミステリに必要だって先輩言ってた!」
「言ってない。直感は推理の補助であって、根拠なしの直感はただの妄想だ」
「妄想をミステリに!」
「するな」
凛先輩がホワイトボードの壮介の名前の横に「推理:不採用」と書いた。壮介が「ひどい!」と叫んだ。
「次。千歳」
詩織さんが立ち上がった。ノートを開いている。メモがびっしりだ。いつの間に。
「冷蔵庫の温度変化から推定しました」
「温度変化?」
「はい。冷蔵庫のドアが開閉されると、庫内温度が一時的に上がります。今日の昼休みから五時限目の間に、冷蔵庫が二回開かれた形跡があります」
「千歳、お前なんでそんなこと知ってるんだ」
「冷蔵庫も取材対象です」
「取材の範囲が広すぎる!」
「冷蔵庫の中は部員の嗜好が反映されます。凛先輩がプリンを入れていること、霧島先生が缶コーヒーの予備を入れていること、壮介さんがおにぎりを入れていたこと——すべて記録しています」
「おにぎりまで!? 俺のおにぎり記録されてたの!?」
「記録しています。コンビニのツナマヨ、週三回の頻度です」
「ツナマヨの頻度まで!?」
「すべてのデータには意味があります」
詩織さんの推理は論理的だったが、結論には至らなかった。温度変化から犯行時刻は絞れるが、犯人特定には追加情報が必要だと。
「次、朝倉」
俺の番だ。
「消去法でいきます。まず全員のアリバイを確認しましょう。凛先輩は?」
「昼休みから五時限目の間、生徒会に呼ばれていた。証人は生徒会長」
「アリバイ成立。詩織さんは?」
「図書館にいました。司書の先生と本の相談をしていたので証人がいます」
「アリバイ成立。壮介は俺と一緒に教室で弁当食べてた。アリバイ成立。となると、昼休みに部室にアクセスできたのは」
全員の視線がいつもの席に向いた。
霧島先生が一杯を飲んでいる。飲みながら、こちらを見ている。目が泳いでいる。明らかに目が泳いでいる。
「先生」
「なんだ」
「昼休み、どこにいましたか」
「職員室だ」
「証人は」
「いない。一人だった」
「一人で職員室に?」
「昼休みの職員室は空くんだ。他の先生は食堂に行く」
「では先生だけがアリバイのない人間ということになりますね」
「偶然だ」
「ミステリに偶然はありません」
凛先輩がボードにバツ印を書いた。霧島の名前の横に。
「先生。私のプリン」
「……」
「先生」
「…………美味かった」
「「「「犯人確定!!」」」」
四人の声が重なった。霧島先生がいつもの場所で小さくなっている。一杯を盾にしている。大人が高校生四人に追い詰められている図は、見方によってはコメディだし、見方によっては悲惨だ。
「弁償してください」
「給料日まで待て」
「顧問の権限で弁償を命じます」
「顧問の権限で却下する」
「それは権力の濫用です!」
「教育的プリンだった。味を確認する必要があった」
「教育的プリンって何ですか!」
「生徒が食べているものの品質を管理するのは顧問の義務だ」
「プリンは先輩の私物であって生徒の共有物ではありません」
「共有化を推進した。教育改革だ」
「改革の名のもとにプリンを食べないでください!」
壮介が手を叩いた。
「でも先輩、推理合ってたじゃん! アリバイで犯人特定した! すごい!」
「もちろんだ。犯人が先生だと最初から分かっていた」
「え、最初から?」
「今日の講座のために泳がせたんだ。実践課題にちょうどいいと思ってな」
霧島先生の顔が引きつった。
「利用されてた!?」
「プリンを食べた代償だ。教育的利用を受け入れろ」
「プリン一個でここまでやるか」
「プリンへの愛を甘く見るな。ちなみに先生、明日プリンを持ってきてください。同じ銘柄で」
「覚えてるのか、銘柄まで」
「当然だ。あれはスーパーの特売で買った限定品だ。もう売ってないかもしれない。見つからなかった場合は二個で弁償」
「条件が悪化してる!」
「交渉とはそういうものだ。ミステリの犯人は司法取引でも不利になる」
「司法取引がプリンの話か」
俺がツッコんだ。この部のやりとりは、毎回どこに着地するかわからない。
*
事件が解決した後、凛先輩の声のトーンが少し変わった。さっきまでの興奮が落ち着いて、静かな声になった。
「なぜ私がミステリを好きか、話していいか」
誰も異論を挟まなかった。
「ミステリは"答えがある物語"だ」
凛先輩がボードに向き直った。マーカーのキャップを外して、何も書かなかった。ただマーカーを握って、ボードの白い面を見つめていた。
「現実には答えがないことばかりだ。なんで雨が降るのか、なんで人は嘘をつくのか、なんで好きなものがあるのか。全部に答えがあるわけじゃない。でもミステリの中では必ず犯人が見つかる。真実に辿り着ける。どんなに複雑な事件でも、最後には"こういうことだったのか"って分かる。その安心感が好きなんだ」
部室が静かだった。ペンの音もない。凛先輩の声だけが響いている。
「答えがある世界ですか」
「そうだ。現実より優しい世界だ」
「答えがある世界が好き。だからミステリを書く。俺が作る物語の中では、必ず答えを用意する。読者を迷わせて、最後にちゃんと辿り着かせる。それが俺のミステリだ」
壮介がぽつりと言った。
「先輩、いい話」
「気持ち悪い顔で聞くな」
「気持ち悪くない! 感動してるんだ!」
「感動の顔がそれか。もう少し表情の引き出しを増やせ」
「引き出しは一つしかない! 全力の顔!」
「お前らしいな。嫌いじゃない」
凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。照れ隠しにプリントを配り始める。
「宿題だ。全員、五百字以内のミステリ短編を来週までに書いてこい」
「えー!」
壮介が悲鳴を上げた。
「五百字! 俺の最高記録は焼肉の四十二文字なんだけど!」
「十倍以上書けということだ。成長しろ」
「十倍は無理! 三倍がいいところ!」
「三倍でも百二十六文字だ。全然足りない」
「じゃあ五倍!」
「五倍でも二百十文字。まだ足りない」
「算数で負けた!」
「算数の問題じゃない。文字数の問題だ」
「プリン事件を参考にしていい。犯人は先生だ」
「俺を犯人にするな」
「事実だからいいでしょう」
「事実でも嫌だ」
「じゃあプリンを返してください」
「もう胃の中だ」
「最悪です」
「先生、来週までにプリン弁償と五百字のコラムを書いてください」
「コラム!? 俺もか!?」
「顧問コラムです。前回の部誌でも書くはずだったのに書かなかったでしょう」
「書かないと言ったはずだ」
「缶コーヒー代を人質にします」
「……善処する」
「善処じゃなくて確約してください」
「確約は社会人として」
「前も聞きました。先生、ここは学校です」
詩織さんがメモを取り終えて、ペンを置いた。
「ミステリ短編、楽しみですね。私、ミステリは書いたことがないので挑戦してみたいです」
「千歳のミステリは見てみたいな。お前の純文学的な視点でミステリを書いたらどうなるか」
「恋愛ミステリにしていいですか」
「好きにしろ。ジャンルの融合は文学の歴史そのものだ」
「恋愛ミステリか。"誰が誰を好きか"が謎で、"なぜ好きになったか"が真相。面白いかもしれない」
詩織さんの目が一瞬だけ俺のほうを向いた。一瞬だけ。すぐにノートに戻った。
見なかったことにした。
*
壮介と並んで帰り道を歩いている。夕焼けの住宅街。
「詩織ちゃんは?」
「図書館だって」
「先輩は?」
「反対方向」
「じゃあ二人か」
「二人だな」
「なあ陽翔、家路にもミステリあるんじゃない?」
「ないよ」
「あの電柱の影に犯人が隠れてるかもしれないぞ」
「いない」
「あのコンビニの店員が実は裏で組織を動かしてて」
「普通の店員だ」
「ミステリ脳になってきた!」
「方向が間違ってるって先輩も言ってたろ」
「方向はいいんだよ! 大事なのは"?"を持つことだって先輩言ってたじゃん」
「それはそうだけど、日常にミステリを見出すのと妄想するのは違うからな」
「同じだよ! 想像力!」
壮介の論理は穴だらけだが、「"?"を持つことが大事」という凛先輩の講座のエッセンスだけは正確に受け取っている。九割がデタラメで、一割だけ核心を突いている。
全員がそれぞれの武器を持っている。
俺には何がある?
帰る途中、風が首筋を撫でた。
*
昼休み。廊下を歩いている。購買のパンの匂いが階段を上がってくる。
廊下を歩いていると、向こうから運動部のユニフォーム姿の集団が来た。練習着のまま移動しているらしい。
汗の匂い。スパイクが廊下に当たるカツカツという音。ユニフォームの胸に「ASANAGI」のロゴ。紺と白のストライプ。見慣れた色だ。
すれ違おうとした。
「よう、朝倉!」
集団の中から一人が歩み寄ってくる。田中。田中翔太。部活時代のチームメイトで、同じ前線の選手だった。
中学のときからの知り合いだ。身長は俺より少し低いが、足は速い。スプリントだけなら部内で一番だった。
「久しぶり。元気?」
「ああ、まあ」
「聞いたよ、文芸部入ったんだって? マジで?」
田中の声は明るかった。ただの好奇心だ。
周りの元部員も振り返った。何人かは俺のことを知っている。何人かは知らない。
「朝倉って元部活の?」
「ああ、膝壊したやつだろ」
「文芸部って何するの?」
悪気はない。全員、悪気がない。それはわかっている。しかし「足壊したやつ」という一言が、廊下の空気に混ざって俺の耳に届いたとき、胸の奥がちくりと痛んだ。
「膝、もう大丈夫なの?」
田中が聞いた。心配している顔だ。本物の心配。
「走れはする。でも部活は無理だ」
「そっか」
田中が少し寂しそうな顔をした。
「お前がいなくなって、フォワード薄いんだよ。一年の新入部員が入ったけど、お前みたいにはいかないな。戻ってこない?」
冗談半分。本気半分。田中の目を見ればわかる。
俺と田中は中学二年のときからツートップを組んでいた。息が合った。田中が右サイドに流れて俺が中央に残る。田中のクロスに俺がヘッドで合わせる。何百回もやった連携。あの感覚は、俺の身体にまだ残っている。
「無理だよ」
笑って答えた。けれど声が硬くなったのは自分でもわかった。「無理」の「り」の音が微かに掠れた。
「そっか。まあ、文芸部も頑張れよ」
「ああ」
俺はその場に立っていた。購買に行く足が、わずかに重くなっていた。
田中と話している途中で、壮介が通りかかった。
空気を読まず割って入ってきた。
「おー部活の人? 陽翔の元チームメイト?」
「壮介、今はちょっと」
「文芸部すげえんだぜ! あれの小説が読めるし、プリン事件の推理もできるし、巨大うどんと戦える!」
田中たちが困惑している。
「うどん?」
「巨大?」
「しかもプリン事件って何?」
「推理もできるって、探偵部なの?」
「こいつの言うことは忘れてくれ」
壮介の口を手で塞いだ。壮介が口を塞がれたまま何か言っている。
「もごもご(ぶんげいぶさいこう!)」
「黙れ」
「もごもご(かれーうどんさいこう!)」
「それは文芸部関係ない!」
田中が笑った。さっきの寂しそうな顔が消えて、素直に笑っていた。周りの元部員も笑っている。壮介の破壊力は敵味方を問わない。
「朝倉、楽しそうじゃん」
その一言で、足が止まった。
「ありがとう」
「何が?」
「楽しそうって言ってくれて」
「見りゃわかるって。顔が全然違う」
「そうかな」
「そうだよ。前は死んだ魚みたいな目してたぞ」
「ひどいな」
「事実だ。今のほうがいい」
田中が笑って走っていった。でも俺の中では、「楽しそう」が別の形に変換されてしまった。
「お前は部活を捨てて楽しそうだな」。
被害妄想だ。わかっている。わかっているのに、止められない。喉の奥のどこかで、運動部だった俺が、文芸部の俺を睨んでいる。お前は裏切り者だ、と。
*
放課後。
他のメンバーより先に部室に来た。戸を開ける。誰もいない。い草の匂いとお茶の残り香だけがある。
ちゃぶ台の前に座った。南側。俺の席。
PCを開かなかった。ノートも出さなかった。
「今日は書かないのか」
自分に聞いた。声に出していた。誰もいない部室に、自分の声だけが落ちた。
窓の向こう。ピッチ。笛、掛け声、ボール、スパイク。全部知っている。全部、身体が覚えている。
サポーターは外した。痛みは消えた。走れる。だが蹴れない。急な方向転換、スプリント。シュート。足に負荷がかかる動き全部が、もうできない。
あの日のパチンという音。
逃げたのか。
選んだのか。
文芸部に来たのは、あれができなくなったからだ。消去法だ。霧島先生に腕を掴まれて、引きずられてきた。好きで来たわけじゃない。
そうだったはずだ。最初は。
じゃあ今は?
今の俺は、なんでここに座ってるんだ。
カレーうどンのエッセイを書いて、合評会をやって、部誌を作って、ミステリ講座を受けて。全部面白かった。足りないくらいだった。ただそれは「部活の代わり」なのか。代用品なのか。本物じゃないのか。
答えが出ない。
ちゃぶ台の木目を見つめていた。木目の線が、フィールドの白線に見えたのだろう。
でも事実が一番痛い。
「走れ」。
一番よく聞いた言葉だ。
今は床の上に座っている。
ここにいることは、意味があるのか。
*
戸がカラカラと開いた。
詩織さんが入ってきた。鞄を肩にかけて、いつもの穏やかな表情で。
でも俺の顔を見た瞬間、足が一瞬止まった。何かを察したんだろう。
詩織さんは何も聞かなかった。
いつもの席。ノート、ペン、原稿用紙。カリカリ。詩織さんの筆記音はメトロノームに似ている。
二人だけの部室。ペンの音だけが流れている。
しばらくそのまま、俺はガラスの向こうを見て、詩織さんは書いていた。
詩織さんがペンを止めずに言った。
「朝倉くん」
「はい」
「朝倉くんの書く文章、部活の描写がすごく生き生きしてます。それのときも、エッセイのときも、リライト大会のときも。動くものの書き方がすごく鮮やかなんです。走る人、蹴る人、飛ぶ人。そういうものを書くとき、朝倉くんの文章には他の人にはない熱量がある」
「熱量、ですか」
「はい。たとえばリライト大会で"膝が痛む。でも関係ない"って書いたとき。あの一文には、身体で覚えた重さがありました。頭で考えた文章じゃなくて、身体から出てきた文章。それは、部活をやっていた朝倉くんだから書ける言葉だと思います」
詩織さんはまだこっちを見ない。
「部活をやっていた自分が、無駄だったなんて思わないでください。あの経験があるから、朝倉くんの言葉には体温がある。走ったことがある人にしか書けない文章が、確かにあるんです」
腹の底が熱くなった。
ペンを走らせる細い指。原稿用紙に落ちるインクの線。詩織さんは俺のことを、こんなふうに見ていたのか。
凛先輩が入ってきた。
文庫本を開いた。
しばらくページをめくる音だけが加わった。ペンのペンの音と、ページをめくるパサッ。二つの音が交互に鳴っている。
凛先輩が、文庫本に目を落としたまま、独り言のように言った。
「部活を辞めた人間が文芸部にいるのは、矛盾じゃないよ」
「先輩」
「過去を持ったまま新しい場所に来た、ってだけだ。捨てたわけじゃない。持ったまま来た」
文庫本のページに目を落としたまま、静かな声で続けた。
「私だってそうだ。中学で人間関係に疲れて、一人で本を読む場所が欲しくて文芸部に来た。逃げ場が必要だった。でも気づいたら居場所になっていた。逃げた先が、いつの間にか帰る場所になってた。それだけのことだ」
詩織さんの声は淡々としていた。けれど「それだけのことだ」の「だけ」に、ほんの力がこもっていた。
「痛くないか」
「え?」
「外の声。聞こえてるだろう」
凛先輩はなんでも見ている。
「さっきよりは。ましです」
「ましなら上出来だ」
*
戸が蹴り開けられた。
「戸を蹴るな!!」
凛先輩の声が飛ぶ。
壮介が仁王立ちしていた。鞄を片手に、もう片方の手におにぎりを持っている。
部室に一歩入って、止まった。
三秒黙った。
壮介が三秒黙るのは、たぶん入部以来初めてだ。
そして言った。
「なあ、焼肉行かない?」
吹き出した。
「お前のそういうとこ、好きだよ」
「え、告白?」
「違えよ」
「だって"好き"って言った!」
「文脈を読め」
「文脈って何!」
「小説の授業で習っただろ!」
「習ってない!」
凛先輩がいつもの場所で小さくため間を取った。だが口元は笑っていた。
「大和、空気を壊す天才だな」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてない」
「褒めてるだろ! 天才って言った!」
「壊す天才だ。壊すほうにしか才能がない」
「壊すのも才能だ!」
否定できなかった。壮介が空気を壊してくれなかったら、俺はまだ卓の木目を見つめていたかもしれない。
霧島先生が遅れて部室に入ってきた。缶コーヒーを開けながら。
「お、全員揃ってるな。珍しく真面目な顔してるじゃないか」
「真面目じゃないです。焼肉の話をしてました」
「焼肉か。いいな。俺も行きたい」
「先生も来ます?」
「給料日後なら考える」
「先生、いつも給料日後ですね」
「教師の財布は常に給料日前だ」
部室がいつもの温度に戻っていた。いつもの喧騒が戻った。見慣れた光景。聞き慣れた音。さっきまでの沈黙が嘘みたいだ。
*
翌日の放課後。凛先輩が部室に入ってきた瞬間、ホワイトボードの前に直行した。
「部誌第二号の企画会議をやる」
「いきなりですね」
「いきなりじゃない。創刊号が出て二週間経った。次を考える時期だ」
凛先輩がマーカーのキャップを外した。ボードに大きく書く。
「部誌第二号 企画会議」。
「全員、載せたい作品を一つ宣言しろ。ジャンルは問わない」
壮介が真っ先に手を挙げた。
「冒険小説! 俺、冒険小説書きたい!」
「冒険小説か。どんな話だ」
「主人公が世界中を旅して、各地のご当地グルメを食べる話!」
「それグルメ紀行じゃないか」
「冒険もする! 食べて戦って食べて走って食べる!」
「食べてばっかりだ」
「食は冒険だ!」
「お前の持論はもういいよ」
詩織さんがペンを置いた。
「私は恋愛小説を書きたいです」
「創刊号も恋愛だったな。今回はどんな話だ」
「図書館で出会う二人の話です。一人は本を読む人、もう一人は本を書く人。二人は同じ本を介して——」
「モデルは?」
凛先輩が横から切り込んだ。
「いません」
「即答だな」
「フィクションです。完全なフィクションです」
「主人公の名前は?」
「ハルヒコくんです」
「ハルヒコ」
「はい。"ハル"に特に意味はありません」
「お前の小説の主人公は毎回"ハル"がつくな」
「偶然です」
「偶然が五回続くと必然だぞ」
「六回目で偶然に戻ります」
「統計的にありえない」
壮介が横から口を出した。
「ハルヒコって誰のことだよ」
「誰でもありません!」
「陽翔のことじゃん」
「違います!」
「ハル。ヒコ。陽翔。はると。ハル。一緒じゃん」
「壮介くん、推理はミステリの授業だけにしてください」
「推理じゃないよ、これ。事実確認だよ」
「事実ではありません!」
凛先輩が咳払いをした。
「朝倉、お前は何を書く」
「えっと……スポーツエッセイの続きにしようかと」
「創刊号と同じか。テーマは?」
「走れなくなった日のことを、もう少し掘り下げたいなと思って」
「掘り下げるのか」
「創刊号ではカレーうどンの話で逃げたんで。今度はちゃんと、辞めた日のことを書こうかなって」
部室が一瞬静かになった。
「いいテーマだ。書け」
凛先輩の声が短かった。けれどその短さに、認めてもらえた気がした。
「先輩は何を書くんですか」
「密室殺人。今度は本格派だ」
「また殺人ですか」
「ミステリは殺人から始まる。古典の鉄則だ」
「殺人以外のミステリは書かないんですか」
「日常ミステリも嫌いじゃない。だがな」
凛先輩の目が鋭くなった。
「密室殺人には美学がある。閉じた空間で、限られた人間の中に犯人がいる。物理法則に逆らった不可能犯罪を、論理だけで解き明かす。美しいだろう」
「美しいって、人が死んでるんですけど」
「フィクションだ。誰も死んでない」
「先輩、たまにちょっと怖いです」
「褒め言葉として受け取る」
霧島先生が缶コーヒーを開けた。プシュッ。
「先生は何を書くんですか」
全員の視線が先生に向いた。
「書かない」
「書いてくださいよ!」
「顧問は書く義務がない」
「創刊号で顧問コラム書いたじゃないですか」
「あれは凛にコーヒー代を人質に取られたから書いた。今回はまだ人質を取られていない」
「じゃあ取ります。次の缶コーヒー代——」
「書く」
「早い!」
「交渉術が上達したな、朝倉」
「先生が弱点を隠さないだけです」
「弱点は隠すものではない。管理するものだ」
「管理できてないですけど」
「管理の結果、お前たちに弱点を握らせている。これは信頼だ」
「それ信頼じゃなくて降伏じゃないですか」
壮介が手を挙げた。
「先生、何書くの?」
「五百字のエッセイだ」
「テーマは?」
「缶コーヒーの種類別味わい比較」
「渋い!」
「教師の日常は渋いんだ」
「先生、それ前回と同じネタじゃないですか。創刊号も缶コーヒーの話でしたよね」
「違う。前回は"缶コーヒーの哲学"だ。今回は"缶コーヒーの科学"だ。まったく別ジャンルだ」
「どこが別なんですか」
「前回は心で飲んだ。今回は舌で飲む」
「言い方だけ変えてません?」
「言い方を変えるのが文芸だ」
詩織さんがクスッと笑った。ノートに何か書いている。「霧島先生コーヒー語録」というページがあるらしい。もう見慣れた光景だ。
凛先輩がボードに全員の企画を書き出した。
凛:密室殺人ミステリ。
詩織:図書館恋愛小説。
陽翔:スポーツエッセイ(部活を辞めた日)。
壮介:グルメ冒険小説。
霧島:缶コーヒーエッセイ(科学編)。
「相変わらずバラバラだな」
「バラバラが文芸部でしょう」
「そうだ。バラバラが正しい」
凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。ホワイトボードを眺めている。
「締切は三週間後の金曜。創刊号より一週間長くしてやる」
「ありがたいです」
「ただし字数は最低千五百字。壮介、聞こえてるか」
「千五百!? 俺の最高記録が三百字なんだけど!?」
「五倍だ。成長しろ」
「五倍は無理! 三倍にして!」
「四倍。これが最終提案だ」
「千二百字!? それでもきつい!」
「創刊号で三百字書いた。次は四倍。来年の今頃には一万字書いてもらう」
「一万!? 気が遠くなる!」
「遠いほうがいい。近い目標ばかり見ていると足元しか見えなくなる」
「先輩、たまにかっこいいこと言いますね」
「たまにしか言わないから効くんだ」
壮介がスマホを取り出した。メモアプリを開いて、何か打ち始めている。
「何してるの」
「ネタ出し。冒険小説の主人公の名前を考えてる」
「もう書き始めるのか。早いな」
「名前が決まんないと書けないんだよ。名前が先。物語は後」
「普通は逆だぞ」
「俺は普通じゃないからな!」
「それは自慢していいのかどうか微妙なところだ」
先輩が文庫本を手に取った。企画会議は終わりだ。あとは各自の時間。
ペンの音、キーの音、ページをめくる音、缶コーヒーをすする音。四つの音が重なる。壮介のフリック入力の音だけが妙に速い。
「壮介、主人公の名前決まった?」
「決まった! "ソースケ"!」
「自分の名前じゃねえか」
「かっこいいだろ!」
「ナルシスト!」
「ナルシストじゃない! 自信だ!」
日が傾いてきた。窓から入る光が茜色に変わっている。ボードに書かれた五人の企画が、夕日に照らされている。密室殺人と図書館恋愛とスポーツエッセイとグルメ冒険と缶コーヒー。同じ部誌に載るとは思えないラインナップだ。
でもこれが文芸部だ。
*
学校の裏手にある図書館に寄った。
カウンターの司書さんが顔を覚えていた。
「あら、また来たのね。前に借りた本、面白かった?」
「面白かったです。今日は別のコーナーを見たくて」
「何を探してるの?」
「スポーツ小説です」
「二階の奥にあるわよ。結構充実してるの」
「ありがとうございます」
今日は別のコーナーに向かった。
スポーツ小説。棚の一角にスポーツを題材にした小説が並んでいる。野球、バスケ、陸上、水泳。そして部活。思っていたより数が多い。背表紙を指でなぞりながら、一冊ずつタイトルを読んでいく。
一冊手に取った。表紙にボールのイラスト。タイトルは知らない作品だった。裏表紙のあらすじを読んだ。怪我でプロを諦めた元選手が、少年サッカーのコーチになる話。
本を棚に戻さなかった。借りた。図書カードに名前を書いた。
もう一冊、目についた本があった。短編集。部活ではなく、陸上を題材にした小説だった。走ることについて書かれた小説。表紙は地味だったが、最初の一行を読んだら手が止まらなくなった。「走ることは、地面との対話だ」。
これも借りた。
図書館を出て、夕暮れの道を歩いた。鞄に部活小説と陸上小説が入っている。教科書と、部誌の創刊号と、先週借りた文庫本の横に。スポーツ小説が二冊も鞄に入っている。文芸部員の鞄としては、たぶん正しい。
運動部は、書ける。
走ることはもうできない。蹴ることもできない。運動場に戻ることもできない。けれど「書く」ことで、あの世界にもう一度触れられるのだろう。
詩織さんが言っていた。「部活をやっていた朝倉くんだから書ける言葉がある」と。凛先輩が言っていた。「過去を持ったまま新しい場所に来た」と。
過去を捨てたんじゃない。持ったまま来たんだ。足の痛みも、校庭の記憶も、笛の音の音も、田中の「戻ってこない?」も、全部持ったまま。文芸部の卓の前に座っている。
家に帰った。鞄を置いて、制服のまま机に向かった。ノートを開いた。シャーペンを手に取った。
何を書くか決めていない。けれどペンを持った瞬間、指が勝手に走り始めた。
書いた。最初の一行。
「走れ、朝倉」。
三文字の名前、自分の名前。自分に向けた命令、走れ。もう走れない足を持った人間が、自分に「走れ」と言っている。矛盾だ、でも書きたかった。
あの日のこと。痛みは忘れた。ただ地面に倒れたときの芝の匂いだけは、まだ鼻の奥に残っている。チームメイトの声。田中の「戻ってこない?」。
壮介の「焼肉行かない?」。詩織さんの「身体で覚えた言葉」。凛先輩の「過去を持ったまま」。全部が、一行の後に並ぼうとしている。
書けるかどうかはわからない。完成するかどうかもわからない。四十二文字で終わるはずだ。壮介の焼肉エッセイより短いだろう。
でも書きたい。走れなくなった俺が、走ることを書く。矛盾しているのだろう。矛盾の上に立っている。
だったら、もう一つ矛盾を重ねたっていい。
走れない人間が、走ることを書く。
ペンが動いた。二行目を書いた。三行目を書いた。ガラスの向こうが暗くなっていくのに気づかないまま、俺はノートに向かい続けた。
走れない足で、走ることを書いている。ペンを握る指が、スパイクの紐を結ぶときと同じ力で震えている。それが、今の俺にできる、たったひとつの全力のスプリントだった。
五月最後の週。月曜日の放課後。
部室に入ると、インクと紙の匂いがいつもより濃かった。詩織さんがちゃぶ台の上にプリントの束を広げている。万年筆で書かれた手書きの原稿ではなく、PCで作ったプロット資料だ。タイトルの横に「第一稿」と書かれている。
「今週こそジャンルを決めて書き上げます」
詩織さんが宣言した。目が輝いている。やる気に満ちた目だ。この目は見たことがある。先週もその前の週も見た。そしてどちらも未完で終わった。
「今度こそってやつですか」
「今度こそです。今週中にジャンルを確定し、来週の部誌第二号に間に合わせます」
「期待してるよ。で、今日のジャンルは?」
「恋愛小説です」
詩織さんがプロットを読み上げた。
「"運動部を辞めた少年が、放課後の秘密の部屋で静かな少女と出会い、二人は言葉を交わすうちに惹かれ合っていく。少年の名前はアサクラ・ハルキ。趣味は——"」
「それ俺のことでは?」
「違います。この主人公はアサクラ・ハルキです」
「一文字しか変えてない!!」
「一文字変えれば別人です。小説の世界では」
「小説の世界でもダメだと思います」
凛先輩がそこから口を挟んだ。
「千歳、もう少しカモフラージュしろ」
「カモフラージュ済みです。名前を変えました」
「一文字だけだろ。せめて苗字くらい変えろ」
「完全にフィクションです!」
壮介がプロットの続きを覗き込んだ。
「えーと、"好きな食べ物はカレーうどン"って書いてあるけど」
「偶然の一致です!!」
「"左膝に古傷がある"とも書いてある」
「偶然です!」
「"元部活"って」
「偶然が三つ重なっただけです!!」
「三つも重なったらそれは偶然じゃないだろ」
「統計的には三つの条件が同時に一致する確率は」
「統計で逃げるのは前にもやったろ!」
「前回は通用しました!」
「通用してない! 全員にバレてた!」
凛先輩が冷静に分析を始めた。
「千歳、プロットの続きを読み上げろ。全部聞きたい」
「え、全部ですか」
「全部だ」
詩織さんが渋々続きを読んだ。
「"少年はその部屋で文章を書き始める。最初に書いたのはあれについてのエッセイだった。少女はそれを読んで微笑んだ。'あなたの言葉には体温がある'と"」
「それ先週詩織さんが俺に言った台詞そのままじゃないですか!!」
「偶然の」
「「「「四つ目!!」」」」
詩織さんの顔が赤くなっていく。耳まで赤い。頬まで赤い。首の付け根まで赤い。段階的に赤くなっていく様子が、信号機の色変わりみたいだ。
霧島先生がいつもの場所で缶コーヒーを飲みながら呟いた。
「千歳、素直に"モデルは朝倉です"と言ったほうが楽だと思うぞ」
「先生! 味方してください!」
「中立だ」
「中立は敵です!」
*
火曜日。
「恋愛はやめました」
詩織さんが開口一番に宣言した。昨日の赤面がまだ記憶に新しい。
「今日はSFです」
プロットが配られた。表紙に「第二稿」と書かれている。一日でジャンルが変わった。
「"西暦三〇〇〇年。人類が宇宙に進出して五百年が経った時代。宇宙飛行士アサクラ・ハルトンは、未知の惑星で一人の少女型AIと出会い"」
「名前!! ハルトンって!!」
「宇宙では地球の名前は使いません。完全な創作名です」
「地球の名前をアレンジしてるだけだろ」
凛先輩が冷静にツッコんだ。
「アレンジではありません。宇宙的命名法に基づいた独自の名前体系です」
「その命名法、"朝倉陽翔"を宇宙風にしただけだろ。"アサクラ"はそのままだし、"ハルトン"は"ハルト"に"ン"をつけただけだ」
「Nは宇宙の慣習です」
「そんな慣習は存在しない」
「存在します。私が今作りました」
「今!?」
壮介が手を挙げた。
「宇宙飛行士ハルトン、かっこいいじゃん!」
「ノるな!!」
「だってかっこいいじゃん! 宇宙で少女型AIと出会うんだろ? ロマンだ!」
「ロマンの問題じゃなくて名前の問題なんだが」
プロットの続きを読むと、少女型AIの外見描写が「黒髪ロング、静かな瞳、ペンのような精密さで言葉を紡ぐ」と書かれていた。
「詩織さん、この少女型AI」
「フィクションです」
「まだ何も言ってないんですけど」
「フィクションだと先に言っておきます」
「先に言われると余計に怪しいんですが」
「怪しくありません。SF作品におけるAIの外見描写として一般的な」
「万年筆のような精密さで言葉を紡ぐAIは一般的じゃないと思います」
「一般的です。私の中では」
「詩織さんの中の一般はだいぶ偏ってると思います」
水曜日。
「SFは科学考証が間に合いませんでした。今日はホラーです」
プロットが配られた。「第三稿」。
「"夏の夜。廃校に肝試しに来た少年ハルトは、図書室で一人の少女の幽霊と出会い"」
「もう名前のバリエーション尽きてるじゃないですか。ハルトって。そのままじゃないですか」
「ハルトは日本で一般的な名前です」
「一般的な名前なのに詩織さんの小説にしか出てこないのは不思議だな」
凛先輩がまた冷静に刺した。
壮介が詩織さんの背中に隠れた。
「ホラー怖い」
「大和さん、まだプロットの段階ですよ。怖くないです」
「プロットでも怖い! 幽霊って書いてある!」
「大和さん、幽霊より生きている人間のほうが怖いですよ」
「それはそれで怖い!」
プロットの続きを読んでいくと、怪しい展開になっていた。
「"幽霊の少女は、ハルトに"一緒にいてほしい"と囁いた——"」
「千歳、これホラーの"いてほしい"? 恋愛の"いてほしい"?」
「…………ホラーです」
「「「「嘘だ!!」」」」
四人の声が揃った。詩織さんだけが真っ赤な顔で「ホラーです」を連呼していた。
凛先輩が冷静に分析した。
「千歳、お前のホラーは全部恋愛に着地するな。幽霊が出てきても結局"一緒にいてほしい"で終わる。ホラーの恐怖より恋愛の甘さのほうが勝ってる」
「ホラーとして書いているんです」
「お前の中のホラーは恋愛の上位互換なのか」
「違います。恋愛は恋愛で、ホラーはホラーです」
「じゃあなぜ幽霊が告白するんだ」
「幽霊にも恋愛の自由はあると思います」
「幽霊の恋愛の自由を主張する小説家は初めて見た」
壮介がまだ詩織さんの背中に隠れている。
「怖い話終わった?」
「終わったよ。恋愛に変わった」
「よかった。恋愛なら怖くない」
「壮介のホラー耐性の低さのほうが怖いんだが」
*
木曜日。
「ホラーは向いていませんでした」
知ってた。
「今日は料理小説です」
プロット。「第四稿」。月曜から数えて四本目だ。詩織さんは毎日新しいプロットを作っている。普通の人間が一本のプロットを練るのに一週間かかることもあるのに、詩織さんは寝る前にさっと書いてくるらしい。天才の生産力はおかしい。
「"料理部の少年・陽。読み方は"ひなた"。謎の転校生の少女が作るうどんの出汁に魅了され"」
「!! もうカレーうどンまで入ってきた!!」
「それは日本の国民食です。誰が主人公でもカレーうどンは食べます」
「食べるけど小説の中心にはならないだろ普通!」
「千歳、"陽"って名前は"陽翔"から取ったろ」
「太陽の"陽"です。一般的な名前です」
「「「「嘘だ!!」」」」
またも四人の声が揃った。月曜から数えて三回目の全員一致ツッコミ。詩織さんの嘘は毎回同じパターンで崩壊する。本人に嘘をつく才能がない。小説は世界一上手いのに。
「でもこれ面白そうじゃん。カレーうどンで世界を救う話?」
壮介が目を輝かせた。この男はカレーうどンが絡むと急にテンションが上がる。
「救いません。うどんの出汁の取り方を巡る哲学的探究です」
「哲学的カレーうどン!?」
「はい。昆布出汁と鰹出汁の配合比率が、人間関係のバランスに通じるという考察です。昆布は控えめだけど深い味を出す。鰹節は主張が強いけど出汁が早い。この二つの調和が」
「止めてくれ。一瞬納得しかけた。言い方が上手すぎる」
「納得してください。それが文学の力です」
「文学の力を出汁に使うな」
壮介が急にプロットを奪い取った。
「それの小説なら俺も参加したい! 俺が食べる役やる!」
「大和さん、小説に"食べる役"はありません」
「あるだろ! 試食係!」
「試食係は料理番組の役職です。小説の登場人物ではありません」
「じゃあ食レポ係!」
「それも小説ではなくテレビの仕事です」
霧島先生が奥のそこから声を出した。
「出版社で企画を通すのは難しそうだな。"哲学的カレーうどン小説"」
「先生、現実的すぎる夢の壊し方やめてください」
「現実を見ることも教育の一環だ」
「先生の教育は夢を壊す方向にしか働かないんですか」
「そういう教師もいる。俺みたいな」
「先生、もう少し夢のある発言をしてほしいんですが」
「夢は俺が見るものではなく、お前たちが見るものだ。俺はそれを横で見ている」
「かっこいいこと言ってますけど、結局何もしてないですよね」
「何もしないのが顧問の仕事だ」
「それは違うと思います」
*
金曜日。
詩織さんが疲れ果てた顔で部室に来た。目の下に薄い隈がある。ペンを握る手に力がない。ちゃぶ台の前に座ると、そのまま突っ伏した。額がちゃぶ台の天板に当たってコツンと音が響いた。
「決まりません」
「今日は何ジャンルだったの」
「前衛文学に挑戦しようとしたんですが、三行で挫折しました」
「三行!」
「前衛文学は、文法を壊すところから始まるんですが、私は文法が好きなので壊せませんでした」
「文法を壊すジャンルがあるのか」
「あります。でも私には向きませんでした。恋愛もSFもホラーも料理も前衛も、どのジャンルにも収まりません」
卓に突っ伏したまま、詩織さんが小さな声で言った。
「私、何を書けばいいんでしょう」
「詩織さん、贅沢な悩みですね」
「贅沢、ですか?」
「何でも書けるのに何を書くか迷えるって、才能の証拠じゃないですか」
「才能、でしょうか」
「少なくとも俺にはない悩みです」
凛先輩がそこから一言。
「じゃあ全部混ぜろ」
冗談だった。先輩の口調は明らかに冗談だった。
だが詩織さんの目がカッと開いた。卓から顔を上げた。さっきまでの疲れ顔が嘘みたいに消えている。
「全部混ぜる?」
「あ、それ冗談で——」
「天才ですね凛先輩!!」
立ち上がった。ペンを掴んだ。目が燃えている。創作モードだ。詩織さんが創作モードに入ると、周囲の音が聞こえなくなる。
「違う、冗談だって」
「恋愛とSFとホラーと料理とミステリを全部混ぜます!」
「混ぜるな! ジャンルはカクテルじゃない!」
「カクテルです! 文学はカクテルです!」
詩織さんが猛然と執筆を始めた。ペンのカリカリ音が異常なスピードで部室に響く。
一時間後。
短編が完成した。
タイトル「宇宙カレーうどン幽霊恋愛殺人事件」。
詩織さんがA4用紙五枚分の原稿を卓に置いた。ペンのインクがまだ乾ききっていないページがある。一時間で五枚。速い。壮介が一週間かけて一ページの上半分しか書けなかったのに。
全員で回し読みした。
内容は、宇宙飛行士ハルトンが宇宙ステーションの食堂で幽霊の少女と一緒にカレーうどンを作りながら、食堂で起きた密室殺人の謎を解くSF恋愛前衛文学。犯人は食堂のAI調理システム。動機はうどんの出汁の取り方に関する哲学的対立。
被害者は宇宙ステーションの副船長で、うどんに「天かす」を入れる派だった。犯人のAIは「天かすは邪道」派。完全なるカオスだ。
「わからないけどすごい」
壮介が感想を述べた。
「わからないのにすごいって言えるのがお前のすごさだよ」
「褒めてる?」
「褒めてる。半分」
「半分は?」
「呆れてる」
「呆れと尊敬は紙一重だ!」
「紙一重ではないと思うが」
凛先輩が腕を組んだ。原稿を二回読み直している。
「ミステリ部分のトリックだけは完璧なのが腹立つ。密室の解法が論理的に正しい。カレーうどンの出汁を利用したアリバイ崩しって、新しいぞ」
「先輩が怒ってるのか褒めてるのかわからないんですけど」
「両方だ。怒りと称賛が同時に来ている。この短編はそういう感情を引き起こす」
「それは褒め言葉ですか」
「最上級の褒め言葉だ。読者の感情を動かす作品は良い作品だ。方向は問わない」
霧島先生が原稿を手に取って、最後まで読んだ。一杯を置いた。いつもの脱力した姿勢から少し前のめりになっている。
「面白い。カオスだが面白い。これ、新ジャンルかもしれないぞ」
「先生、本当ですか!?」
「ジャンルの壁を壊す作品というのは、文学史では時々出現する。既存の枠に収まらないものが、新しい枠を作る。お前のこの短編は、形はカオスだが、中身は真面目だ」
「真面目ですか」
「キャラクターの感情がちゃんと書けている。設定がどれだけ無茶苦茶でも、登場人物が嘘をついていなければ、読者は信じる」
詩織さんの目が輝いた。
「ただし新人賞に出すなよ。落ちるから」
詩織さんがペンを握ったまま、がっくりと肩を落としている。
「落ちますか」
「確実に落ちる。審査員が困る。ジャンル欄に何と書くんだ」
「"全部"と書きます」
「"全部"は審査対象外だ」
「対象外ですか」
「対象外だ。でも部誌には載せろ。部誌なら"全部"でいい」
「載せていいんですか!」
「載せろ。部誌の自由度は新人賞の比じゃない。自分たちの本に何を載せるかは、自分たちで決める」
*
帰り支度をしていると、凛先輩がこっそり近づいてきた。
「朝倉、気づいてるか?」
「何がですか」
「千歳の小説。恋愛もSFもホラーも料理も前衛も。全部のジャンルで主人公の顔が一種類だ」
「一種類?」
「アサクラ・ハルキ。アサクラ・ハルトン。ハルト。陽。ハルトン。月曜から金曜まで五作品のプロットを書いて、主人公が全部同じ顔をしている。ジャンルは変わっても、主人公だけは変わらない」
先輩がニヤリと笑った。
「お前の顔だよ、朝倉」
耳が熱くなった。
「いや、あれはフィクションで——」
「千歳と同じ言い訳をするな。お前まで赤くなってどうする」
「赤くなってないです」
「赤い。私の目はごまかせない。ミステリ屋は観察が仕事だ」
先輩が鞄を持って戸に向かった。ドアの前で振り返る。
「千歳は無自覚だ。自分が全ジャンルの主人公に同じ顔を描いていることに、本人は気づいていない。気づいたら千歳のほうが困るから、今は黙っていてやれ」
そう言って出ていった。
無自覚。
考えるのをやめた。今考えると、たぶん俺も赤くなる。これ以上赤くなると壮介にからかわれる。あいつは鈍感なくせに、こういうときだけ鋭い。
家路。夕焼け。来週はテスト、部誌、やることだらけ。だが詩織さんのカオス短編のことが頭から離れない。「宇宙カレーうどン幽霊恋愛殺人事件」。タイトルだけで笑える。
けれどミステリのトリックは完璧で、描写は美しくて、読後感が妙に良い。カオスなのに上手い。上手いのにカオス。詩織さんの才能は、あらゆるジャンルに対応できるところにある。何でも書ける。だが「何でも書ける」からこそ「何を書くべきか」がわからない。
恋愛小説のアサクラ・ハルキ。SFのアサクラ・ハルトン。ホラーのハルト。料理小説の陽。全部、俺。
黙っておく。だが一つだけ、考えないわけにはいかないことがある。
それは取材の延長なのか。それとも——。
それについては、もう少し後で考えることにした。
窓の外で、蝉が一匹だけ鳴いた。気が早い。夏はまだ先だ。




