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第5話 : 霧島先生は夢の残骸でコーヒーを飲む

 部誌の締切が三日後に迫った金曜日のことだった。空気がぴりぴりしている。試合前日の控室みたいだ。


 放課後の部室で、本棚の整理をしていた。凛先輩の発案だ。


「部誌を完成させる前に、本棚を片付けろ。資料が見つからないと話にならない」


正論だ。この本棚はずっとカオスだった。ミステリの隣に料理本、その上に漫画、さらにその上に辞書。


「先生、届きますか?」


「届く。身長の利点だ」


「先生、上のほう埃がすごいですよ」


「知ってる。三年は触ってないからな」


「三年!?」


「俺が顧問になる前からある本もある。考古学の領域だ」


 先生が最上段の本を一冊ずつ取り出していく。古い文庫本。変色した辞書。見たことのない雑誌のバックナンバー。埃が舞い上がるたびに壮介がくしゃみをした。


「これ、いつの雑誌ですか」


「十五年前だ。俺が学生だった頃のやつだな」


「先生が学生!? 先生にも学生時代があったんですか!?」


「当たり前だ。お前は俺が生まれたときから教師だと思ってるのか」


「ちょっとだけ思ってました」


「失礼だな」


 壮介が本棚の下段から漫画を引っ張り出した。


「あ、これ知ってる! 『ONE PIECE』の古いやつ!」


「なんで文芸部の本棚に漫画があるんだ」


「歴代部員の遺産だ。文芸部は創部三十年。その間に歴代の部員が持ち込んだ本が全部残ってる」


「三十年分の遺産ですか」


「遺産というか地層だな。掘れば掘るほど古い時代が出てくる」


 詩織さんが中段から一冊を取り出した。装丁が古い。革っぽい表紙に金の文字。


「先輩、これ初版じゃないですか」


「どれだ」


 凛先輩が覗き込んだ。目が一瞬で変わった。猫が獲物を見つけたときの目。


「初版だ。しかも帯つき。なんでこんなものが文芸部の本棚に」


「歴代部員の誰かが置いていったんだろう。三十年前の部員か」


「三十年前の先輩、趣味がいいですね」


「良すぎる。これ古書店で買ったら五千円はするぞ」


「五千円!?」


 壮介が目を丸くした。


「本に五千円!? ゲームソフト買えるじゃん!」


「本の価値はゲームと比べるものじゃない」


「でも五千円!」


「壮介、お前が一ヶ月で食う菓子代と比べてみろ」


「……六千円くらい」


「負けてるぞ」


「菓子は生きるのに必要だ!」


「本も必要だ」


「菓子のほうが必要!」


「凛先輩、壮介に本の大切さを教えてあげてください」


「無駄だ。この男に本の価値を教えるより、本にお菓子の匂いをつけたほうが早い」


「先輩、それ発想がおかしくないですか」


「冗談だ。半分」


「半分本気なんですか」


「壮介に匂いつきの本を渡したら読むかもしれないだろう。カレーの匂いがする文庫本」


「新ジャンルですね」


「売れるかもしれない」


「売れないです」


 霧島先生が棚の奥から茶色い封筒を引っ張り出した。


「おっ、これは」


「何ですか」


「部誌の創刊号だ。文芸部の。三十年前の」


 封筒を開けた。


「これ……部誌ですか?」


 ホチキス留めの薄い冊子。表紙に手書きで「文芸部部誌 創刊号」と書かれている。


「字がガタガタだ」


「三十年前の字だからな。味があるじゃないか」


「三十年前の創刊号ですか」


「ちょっと見せてください」


 詩織さんが手に取った。ペラペラとめくる。ページが黄色くなっていて、紙の端が少し破れている。


「五ページしかないです」


「少ないな」


「でも中身は濃いですよ。エッセイが二本と、詩が一篇。あと後書きが半ページ」


「何て書いてあるんだ、後書き」


 詩織さんが読み上げた。


「"文芸部を作った。部員は三人。やりたいことはたくさんある。でも予算がない。場所がない。読者がいない。ないものだらけだ。でも書きたいものだけはある。それで十分だ"」


 全員が黙った。


「三十年前も同じこと考えてたんだな」


「ないものだらけでも、書きたいものがある。それだけで部を作った人がいた」


「今の俺たちと同じだ」


「同じですね。三十年経っても変わらない」


 凛先輩が冊子を受け取って、最後のページを見た。


「部員名簿。三人。伊藤、山田、佐々木。誰も知らない名前だ。でもこの三人が文芸部を作った」


「伊藤さんと山田さんと佐々木さんか。今どこで何してるんだろう」


「知らんが、この本棚だけは残ってる。三十年分の本が全部ここにある」


「先輩、ちょっとエモいですね」


「エモいと言うな。事実を述べただけだ」


「事実がエモいんですよ」


 壮介がそこからのっそり起き上がった。


「なあ、俺たちの部誌も三十年後に残ってるかな」


「残るだろう。この本棚に入れておけば」


「三十年後の文芸部員がこの棚を開けて、俺の焼肉エッセイを見つけるのか」


「嫌な考古学だな」


「でも面白くない? 未来の後輩が俺の四十二文字を読むんだぞ」


「四十二文字で文芸部の名誉が心配だ」


「四十二文字に魂は込めた!」


「魂が四十二文字に収まるのか」


「収まる! 凝縮されてる!」


 詩織さんがクスッと笑った。


「三十年後の部員が壮介くんの文章を読んで笑ってくれたら、それだけで意味があると思いますよ」


「笑われるのか!」


「笑顔にする、です」


「それなら嬉しい!」


 霧島先生が古い部誌を封筒に戻した。


「この創刊号は本棚に戻す。歴史資料だ」


「先生、こういうとき真面目ですね」


「本棚の番人は顧問の仕事だ。唯一の仕事と言ってもいい」


「唯一って自分で言わないでください」


「事実だ」


「事実をそのまま言わないのも大人の技術だと思うんですけど」


「俺はその技術を持たずに大人になった」


「先生と詩織さん、そこだけ似てますね。正直すぎるところ」


「千歳と比べるな」


「先生と比べないでください」


 二人が同時に否定した。


 凛先輩が棚の整理に戻った。


「よし、続きをやるぞ。まだ上段の奥が手つかずだ」


 そのとき、先生が奥の本を引っ張った拍子に、何かが一緒にずれた。


 バサッ。


 本棚の最上段から、紐で束ねられた原稿用紙の束が落ちてきた。俺の足元に落ちた。百枚以上はある。厚い。紐が少し黄ばんでいた。


 拾い上げた。埃を払った。


「先生の字ですよね、これ」


 全ページにびっしりと赤ペンが入っている。インクが色褪せていた。


「先生、これ何ですか?」


 先生の表情が、一瞬で変わった。


「先生?」


 普段の脱力した顔が消えた。目が鋭くなった。口元が硬い。入部してから一度も見たことのない顔だった。


「触るな」


 いつもの、ぼそぼそした、缶コーヒーを飲みながらの声じゃない。


 誰も喋らなかった。


 凛先輩が原稿の束に近づいた。


「これ、先生の小説ですか」


「あの夏の部室」


「凛、返せ」


 赤ペンだらけの原稿。文字の上に文字が重なり、余白に修正案が書き込まれ、矢印で段落の入れ替えが指示されている。推敲の跡だ。


「返せ」


 凛先輩が黙って原稿を先生に返した。先生がそれを受け取って、束の中に戻した。紐をきつく結び直す。手がほんの震えていた。


「今日はここまでにしよう。帰れ」


 先生がそう言って、原稿の束をあの席の横に置いた。缶コーヒーを開ける。プシュッという音だけが部室に響いた。


 *


 壮介と詩織さんが帰った後、俺と凛先輩が残った。


 帰らなかった理由は、自分でもわからない。


 霧島先生は一杯を飲みながら、窓の外を見ていた。


「聞きたいか」


 先生が言った。窓の外、缶コーヒー越しに。


「聞いていいなら」


「聞かれたくなかったら、お前らを帰してる」


 先生がもう一口コーヒーを飲んだ。それから、いつもの席に深く座り直した。


「大学時代の話だ」


 声のトーンが変わっていた。さっきの鋭さはない。代わりに、ほんの疲れたような、でもどこか諦めに似た穏やかさがあった。


「俺は小説家になりたかった。大学に入ってから三年間、毎日書いた。朝起きて書く。講義の合間に書く。夜バイトが終わってから書く。一日も欠かさなかった」


「三年間毎日ですか」


「毎日だ。書けない日もあった。一行も出てこない日もあった。でも机の前には座った。白紙の前に座って、何も書けないまま二時間が過ぎる日もあった」


「それでも座り続けたんですか」


「座り続けた。座ることだけが、俺にできることだったからな」


 その感覚はかすかにわかる。運動部のときも同じだった。調子が悪い日でも練習には出た。走れなくても、校庭には立った。


「新人賞に五回応募した。一次選考落ち、二次選考落ち、一次落ち、一次落ち。四連敗だ」


「四回落ちてもまだ出したんですか」


「出した。五回目に最終選考に残った」


 凛先輩が顔を上げた。


「最終選考」


「あの夜は、受かると思った。確信に近かった。五回目は違った。手応えがあった。だからバイト帰りに一人で安い居酒屋に入って、ビールで前祝いをした。一人で」


「一人でですか」


「友達に連絡する前に、まず自分で祝いたかった。三年分の努力を、誰よりも先に自分で認めてやりたかった。二百五十円のビールで」


 二百五十円のビール。


「翌日、電話が来た。"残念ながら"」


 沈黙。


「選考委員の評価は覚えてるよ。十年経った今でも。"文章力はある。だが物語に熱がない。登場人物が誰も泣いていない"」


「文章力はあるって言われたんですよね」


「そこを拾うか」


「事実じゃないですか」


「お前、優しいな」


「優しくないです。事実を言っただけです」


「事実をそのまま言えるのが優しさだよ。大人になるとな、事実にいちいち解釈を加えたくなる。"文章力はあるが"の"が"のほうばかり聞こえるようになる」


「先生は"ある"のほうを聞けなかったんですか」


「聞けなかった。十年間ずっと"が"のほうだけ聞いていた」


「もったいないですね」


「もったいないか。そうかもな」


 先生が笑った。口元だけの、音のない笑い。


「それ以来、自分の小説は書いてない。教員になって、文芸部の顧問をやって。まあ、物語の近くにはいる生活だよ。選手じゃなくて解説者みたいなもんだ」


 選手じゃなくて解説者。


 好きなことを続けられなくなった人間の顔を、俺は知っている。鏡で毎日見ていたから。


 凛先輩が横で黙っていた。文庫本を閉じて、足の上に置いている。先輩の目元が、わずかに赤い。普段クールな先輩が感情を見せるのは、めったにないことだ。


「先輩、花粉症ですか」


「違う」


「でも目が」


「違う。聞くな」


 *


 夕日が畳を橙色に染めている。三人がそれぞれの位置で静かにしていた。


 引き戸がバンと開いた。


「忘れ物ー!」


 壮介だった。


 鞄を片手に、もう片方の手でスマホを振りながら入ってきた。


 一歩入って、止まった。


「あれ、なんか暗い?」


「暗くない」


「暗いじゃん。なんか重い空気だし、目が赤い人いるし」


 壮介が凛先輩を見た。


「花粉症だ」


「五月に?」


「五月にも花粉は飛ぶ」


「嘘っぽい」


「嘘じゃない」


 壮介がちゃぶ台の上に原稿の束があるのを見つけた。さっき先生がいつもの席の横に置いたのを、凛先輩がちゃぶ台に移していた。


「お、これ先生の?」


「触るな」


 先生がまた鋭い声を出した。けれどさっきほどの硬さはなかった。壮介相手だと、どうしても気が抜けるらしい。


 壮介がちゃぶ台の前にどっかり座った。あぐらをかいて、原稿の束をちらっと見て、それから先生の顔を見た。


「先生、じゃあもう一回書けばいいじゃん」


 全員が止まった。


 壮介だけが平然としている。ジャージのポケットに手を突っ込んで、あぐらをかいて、まっすぐ先生を見ている。


「お前なあ」


「だって文芸部の顧問が書かないのおかしくない? 俺でも書いたのに」


「お前の"書いた"はカウントしていいのか微妙だけど」


 凛先輩が横から刺した。


「三百文字書いたぞ! 先生はゼロじゃん! 俺の勝ち!」


「勝ち負けの問題じゃないんだが」


「勝ち負けだよ! 先生、俺の四十二文字の焼肉エッセイに"あれでいい"って言ったじゃん」


 先生の手が止まった。


「だったら先生も"あれでいい"で書けばいいんだよ。上手くなくていい。長くなくていい。四十二文字でいい。先生が自分で言った言葉だろ。俺に"あれでいい"って言ってくれたんだろ。じゃあ先生にも"あれでいい"だ」


 声が止まった。


 暴論だが、壮介はそういう男だ。複雑なことを考えない。考えないからこそ、核心に触れてしまう。


 凛先輩が小さく笑った。


「大和にしては良いこと言ったわね」


「にしては? "にしては"ってなに?」


「褒めてる。素直に受け取れ」


「にしては、は余計だ!」


「余計じゃない。お前は普段がアレだから、良いことを言ったときの落差で効果が増すんだ」


「アレってなに! アレって!」


 先生が一杯の最後の一口を飲んだ。空き缶を手の中で握りつぶした。くしゃ、という音。


「お前に言われるとは思わなかったよ」


「言ったぞ! 俺が!」


「ああ。聞いた」


 先生は何も約束しなかった。一杯の空き缶をゴミ箱に放り込んで、ため一呼吸置いた。長い、長いため息だった。


 *


 そのとき、戸がもう一度開いた。


 詩織さんだった。壮介に連れられて戻ってきたらしい。


「壮介さんに"先生が大変だ"と呼ばれたんですが、何がどう大変なんですか」


「大変じゃない。先生の昔の原稿が出てきただけだ」


「原稿」


 詩織さんの目が光った。取材モードの目だ。しかし今回は、いつもの好奇心とは少し違う色が混ざっていた。真剣な光。


 壮介から話の概要を聞いた詩織さんが、少し考えた後、霧島先生のほうを向いた。真っ直ぐに。詩織さんがメモを取っていないことに気づいた。いつもなら何でもメモする人が、今日はペンを持っていない。


「先生」


「なんだ」


「先生の文章、添削の赤字を読むだけでもわかります」


「何がだ」


「すごく上手いんです。構成を見抜く目も、言葉を選ぶ感覚も。私たちの原稿に入る赤ペンを見るたびに、この人は書ける人だ、と思っていました」


「買いかぶりだ」


「買いかぶりではありません。私は先生の赤ペンを一ヶ月読んできました。指摘の正確さ、代案の美しさ、余白の使い方。先生は書ける人です」


 先生が詩織さんを見た。詩織さんの目は真っ直ぐだった。取材モードではない。一人の読み手として、一人の書き手に向けた目だ。


「いつか先生の小説を読んでみたいです」


 短い言葉だった。飾りのない、真っ直ぐな言葉。


 先生が顔をそらした。ガラスの向こうを見た。夕日が沈みかけている。空が茜から紫に変わりつつある。


「お前らの原稿がまともになったらな」


「俺たちの成長が条件なんですか」


「そうだ。教え子が全国入賞したら考えてやる」


「ハードル高いですね」


「俺は安売りしない」


「先生かっこいい!」


 壮介が叫んだ。先生が一杯の新しいのを開けた。プシュッ。復活の音。


「うるさい。帰れ」


「帰らない! 先生の小説読みたい!」


「今日は読ませない。百年後なら考える」


「百年後って俺ら生きてないじゃん!」


「だから百年後だ」


「先生のハードル高すぎ!」


 凛先輩が立ち上がった。鞄を持つ。


「先生。私も、いつか読みたいです」


 それだけ言って、戸を開けて出ていった。その一言に、さっきの赤い目元の感情が全部入っていた。削って削って、最後に残った一文だけを口にする。


 壮介が後を追うように立ち上がった。


「俺も帰る! 先生、明日も部活な!」


「ああ」


「明日は書いてきてくれよ! 四十二文字でいいから!」


「帰れ」


「帰る! でも約束!」


「約束はしない。帰れ」


 壮介が引き戸をバンと閉めて出ていった。やかましい。だがあのやかましさに、今日は救われた。


 *


 全員が帰った後、俺だけ残った。床が昼間の体温を失い始めていた。足の裏がひんやりする。外に夜の匂いが滲んでいる。


 先生はいつもの場所で一杯を飲んでいた。二本目だ。俺は卓の前で、片付けの続きをしているふりをしていた。実際には手が動いていない。


「朝倉、お前も帰れ」


「片付け、終わってないので」


「嘘つけ。終わってる」


「終わってないです。上段の右端がまだ」


「右端は空だ」


「帰ります。でもその前に一つだけ」


 原稿の束に手を伸ばした。


「戻します。棚に。落ちたところに」


 先生の目が俺を見た。数秒。


「丁寧にやれ」


「はい」


 原稿の束を両手で持ち上げた。重かった。百枚以上の原稿用紙。紙の端が少し黄ばんでいる。三年間、毎日書いた人間の時間が、この重さになっている。


 ページをめくると、赤ペンの跡が血管のように走っていた。書いて、消して、また書いて。その繰り返しが、紙の繊維に染み込んでいる。選考委員に「熱がない」と言われた小説。でも先生が三年間の全力を注いだ小説。


 本棚の最上段。奥のほう。壁際に、丁寧に押し込んだ。紐が解けないように、向きを揃えて。


 ふと、束の最後のページが目に入った。


 原稿の最終行。赤ペンで埋め尽くされた文字の海の中に、小さな余白があった。そこに、鉛筆で書かれた一行。


 「続きは、いつか」


 先生の字だ。


 原稿を棚に戻した。紐を結び直した。丁寧に。


「先生」


「なんだ」


「何でもないです。お疲れ様でした」


 鞄を持って出た。


「朝倉」


 振り返った。先生がいつもの場所で一杯を持ったまま、こっちを見ていた。


「原稿の扱いが丁寧だな」


「本は丁寧に扱えって、凛先輩に教わりました」


「原稿は本じゃない」


「でも誰かが書いたものです。丁寧に扱うのは当然です」


 先生が何か言いかけて、やめた。一杯を一口飲んだ。


「帰れ」


「帰ります」


 廊下。もう暗い。


 一人の帰り道。靴が地面を踏む音だけが続く。喉の奥に、先生の原稿の重さが残っている。


 先生にも終わりがあったんだな、。壊れ方は違うけど、続けられなくなった痛みは似ている。


 でも先生は、あの原稿の最後に書いていた。「続きは、いつか」と。


 俺にもそういう「いつか」があるんだろうか。


 空はもう紺色だった。星が三つ見えた。吸い込んだ夜気が、肺の奥まで冷たい。昨日より一つ多い。


 *


 翌朝。教室。一時間目が始まる前。


「なあ陽翔」


 壮介が隣の席からこっちを見ていた。声がいつもより小さい。壮介の「小さい声」は普通の人間の「普通の声」と同じくらいだが。


「昨日さ」


「うん」


「先生の原稿、見たじゃん」


「見た」


「あれ、すごかったよな」


「すごかった」


「赤ペンがびっしり入ってた。全ページ。何回も書き直してるのがわかった」


「壮介、お前ちゃんと見てたのか」


「見てたよ。俺だってそのくらいわかる」


 壮介が机の上で腕を組んだ。珍しく考え込んでいる。


「先生さ、あの原稿を十年間しまい込んでたんだろ」


「そうだな」


「十年って長くない?」


「長いな」


「でも捨ててないんだよな。しまい込んでるけど、捨ててない」


「捨ててない」


「それってさ、まだ諦めてないってことじゃない?」


 壮介がこういうことを言う。考えずに、核心に触れる。


「かもしれない」


「だから俺、昨日"書けばいいじゃん"って言ったんだよ」


「知ってる」


「先生、怒った?」


「怒ってない。たぶん」


「たぶん?」


「怒ってなかった。驚いてた」


「驚いてた?」


「お前に言われると思ってなかったんだろ」


「俺に言われるのって変か?」


「四十二文字しか書けない人間に"書けばいいじゃん"って言われたら、誰だって驚くだろ」


「四十二文字でも書いたもん。先生はゼロじゃん」


「そこだけは壮介の勝ちだな」


「勝った!」


 壮介がにかっと笑った。声がいつもの音量に戻った。


「で、先生書くかな」


「わからない。でも"約束はしない"って言ってた」


「約束しないって、つまり?」


「考えてるってことだと思う」


「じゃあ脈ありだ!」


「恋愛みたいに言うな」


「だって先生が書いたら読みたいじゃん! 先生の小説、絶対面白いよ!」


「根拠は」


「先生の赤ペンが面白いから! 赤ペンが面白い人の小説が面白くないわけがない!」


 壮介の論理はいつも飛躍している。だが妙に説得力がある。赤ペンが面白い人間は、書いても面白い。それは案外正しいかもしれない。


「俺、先生に毎日言うわ。"書いてくれ"って」


「毎日言うのか」


「毎日。書くまで言い続ける。壮介式催促法だ」


「先生に嫌がられるぞ」


「嫌がられても言う。だって先生の"いつか"がいつ来るかわかんないじゃん。俺が催促しなかったら、いつかが永遠に来ないかもしれない」


「壮介」


「ん?」


「お前、たまにすげえな」


「え? 何が?」


「考えないで核心を突くところが」


「褒めてる?」


「褒めてる」


「やった! 陽翔に褒められた!」


「声がでかい。朝から教室が揺れる」


「褒められたらでかくなる!」


 一時間目のチャイムが鳴った。壮介が教科書を出した。数学。壮介の一番苦手な教科だ。


「陽翔」


「ん」


「俺もいつか書けるようになるかな。先生みたいに、百枚とか」


「なるよ。たぶん」


「たぶんかよ」


「確定は無理だ。でもお前なら四十二文字を百文字にして、百文字を千文字にして、千文字を一万文字にできると思う」


「一万文字!? 遠すぎる!」


「遠いけど、お前足速いだろ。走れば着く」


「走るの得意だからな!」


「だろ」


 チャイムの余韻が消えた。数学の教科書を開いた。公式の上に、先生の原稿の最終行が重なって見えた。


 「続きは、いつか」


 先生の「いつか」が来るのを、俺たちは待っている。


 *


 朝のホームルーム前。机に突っ伏していた頬を上げた。スマホが鳴り止まない。


 グループLINE「文芸部」の通知が連続で届いている。今朝だけで二十件を超えていた。


 凛先輩:「今日締切。全員原稿を持ってくること。忘れた者は」


 凛先輩:(ドクロの絵文字が三つ並んでいる)


 詩織さん:「完成しています」(にこにこ絵文字)


 凛先輩:「千歳は問題ない。問題は残りの二人だ」


 壮介:(既読のみ。返信なし)


 凛先輩:「大和。既読スルーするな」


 壮介:(既読のみ)


 凛先輩:「大和」


 凛先輩:「大和壮介」


 凛先輩:「フルネームで呼んでいるぞ」


 壮介:(既読のみ)


 画面を閉じた。凛先輩のドクロ絵文字が三つ並んでいるのが不吉だ。


 自分の原稿は鞄に入っている。カレーうどンのエッセイの改訂版と、新しく書いた「部室の一日」エッセイ。A4で四ページ。


 量は多くないが、何度も書き直した。先週の合評会で凛先輩に「身体的な比喩が武器だ」と言われて以来、自分の文体を意識するようになっていた。


 隣の席を見た。


 壮介が顔を伏せている。


「壮介、お前原稿は」


 反応がない。


「壮介?」


 顔を上げた。目の下に隈がある。


「書いたけど」


「書いたのか。よかったじゃん」


「"起"しか書けなかった」


「"起"だけ!?」


「承転結が思いつかない」


「起しかない小説って何だよ」


「始まりはあるんだよ。続きが出てこないんだ」


「見せてみろ」


 壮介がスマホの画面を見せてきた。タイトル「壮介の冒険」。本文は一文だけ。


 「朝、目が覚めた。」


「それだけ!?」


「事実だから嘘は書いてない」


「ノンフィクションの問題じゃないんだよ!」


「でも朝目が覚めるって、冒険の始まりっぽくない?」


「ぽくねえよ! 八百文字くらい膨らませろよ!」


「八百文字も!? どうやって!?」


「朝目が覚めてから学校に来るまでの間に何かあっただろ」


「パンを食べた」


「それを書け!」


「パンを食べた、で一文追加。合計二文。あと七百九十何文字?」


「算数の問題じゃない」


 *


 放課後。部室。


 凛先輩がちゃぶ台の上に全員の原稿を並べた。四つの束。右から順番に。


 詩織さんの原稿。短編小説。A4で八ページ。タイトルは「遠い声」。万年筆の字が綺麗で、原稿用紙に手書きだった。手書きでこの分量を書ける人間が同い年にいることが信じられない。


 凛先輩の原稿、ミステリ短編。A4で六ページ。タイトルは「鍵のない密室」。PCで打ったもので、フォントが整っている。先輩らしい。


 俺の原稿。エッセイ二本。A4で四ページ。「カレーうどンの意志」と「部室の一日」。うどんの「ン」がカタカナになっているのは、最初に書いたときの変換ミスがそのまま定着したからだ。もう直す気がない。


 そして壮介の原稿。


 A4で一ページ。ただし上半分だけ使用。下半分は白い。白すぎて目が痛い。


 全員の目が壮介に向いた。


「大和、これは何だ」


「冒険の始まりです」


「始まりしかないんだが」


「大器晩成型なんで」


「晩成が来る前に締切が来てるんだが」


「締切ってそういうものじゃない?」


「そういうものじゃない。締切は守るものだ」


「守った! 持ってきた! 書いてある!」


「書いてあるのは認めるが、量の問題だ」


 霧島先生が壮介の原稿を取り上げた。声に出して読む。


「"朝、目が覚めた。パンを食べた。学校に行った。部室に来た。以上"」


 沈黙。部室の壁掛け時計がカチカチ言っている。


「書いたよ! 五文!」


「五文で冒険は終わるのか」


「日常の冒険だから」


「日常の冒険にしても短すぎる。コンビニに行って帰ってきたくらいの密度しかないぞ」


「コンビニも冒険だと思う!」


「思わない」


 詩織さんが壮介の原稿を手に取った。真剣な目で読んでいる。五文しかないのに、三十秒くらい見つめていた。


「大和さん」


「はい」


「"以上"の後に句点がないのは意図的ですか」


「意図的じゃない! 忘れた!」


「忘れたんですか。でも"以上"で終わることで、潔さが出ています。余韻を残さない文体ですね」


「褒められてるの!?」


「観察しています」


「取材はやめて!」


 凛先輩がちゃぶ台に手をついた。原稿を並べ直しながら、考えている顔だ。


「選択肢は二つ。壮介の原稿をそのまま載せるか、全員でリレー執筆して膨らませるか」


「リレー執筆、楽しそうです」


 詩織さんが手を挙げた。目が輝いている。


「え、俺のボツ!?」


「ボツじゃない。お前のが原作だ」


「原作!」


 壮介の機嫌が一瞬で直った。「原作」という言葉の威力がすごい。


「簡単に操縦できるな、こいつ」


 霧島先生がいつもの場所で呟いた。


 *


 リレー執筆が始まった。


 ルールは凛先輩が決めた。一人二百文字ずつ。制限時間は五分。書いたものは即座に次の人に渡す。内容の整合性は一切問わない。壮介の「朝、目が覚めた。パンを食べた。」の続きを、全員で繋いでいく。


 最初は凛先輩。


 いつもの場所に座ったまま、ノートにペンを走らせた。五分。顔を上げる。


「読むぞ。"パンの中に手紙が入っていた。差出人不明。内容は一言——「今日、放課後、部室に来い」。手紙のインクはまだ乾いていなかった。つまり、今朝このパンに手紙を入れた人間がいる。犯人は、俺の朝食を知っている人物だ"」


「いきなりミステリ始まった」


「当然だ。手紙が出てきたらミステリにするだろう」


「しないよ普通」


「するよ普通」


 次は詩織さん。凛先輩の原稿を受け取って、ペンを構える。五分。


「"手紙を握りしめて部室のドアを開けると、見たこともない光景が広がっていた。ちゃぶ台の上に一輪の花と、万年筆が置かれていた。午後の光が窓から差し込んで、花びらの縁を金色に染めていた。万年筆からはまだペンの残り香がした。誰かがつい先ほどまでここで書いていたのだ。その人は、どこへ行ったのだろう"」


「純文学になった」


「なりました」


「ミステリの緊張感がゼロになったんだけど」


「緊張感よりも情景の美しさを優先しました」


「優先するな」


 次は俺。詩織さんの原稿を受け取る。花とペンとインクの匂い。続きを書く。五分。


「読みます。"俺は万年筆を手に取った。重い。この重さは、誰かの言葉の重さだ——って、何書いてんだ俺。とにかく花の下に紙がある。読む。「この部室には秘密がある。見つけた者だけが、次のページに進める」。なんだこれ、脱出ゲームか? いやそんなことより腹が減った。パンは朝食べたけど足りてない。購買でカレーパン買ってくればよかった"」


「ツッコミ文体だな」


「自分のことは書けないのに、ツッコミだけは入れられるんだよな」


「それは褒められてますか」


「褒めてる」


 最後は壮介。俺の原稿を受け取って、スマホにフリック入力で打ち込む。五分のはずが三十秒で「書けた!」と叫んだ。


「読む! "謎を解くために俺は走った! 部室を飛び出し、廊下を駆け、階段を上り、屋上に出た! 風が吹いていた! 空が青かった! そこにいたのは——巨大なカレーうどンだった!! 完!!"」


「「「「また巨大あれ!!!!」」」」


 四人の声が重なった。壮介だけがにこにこしている。


「せっかくミステリ仕立てにしたのに」


「純文学の余韻が消し飛びました」


「俺のツッコミ文体も台無しだよ」


「最後に全部持っていくのが原作者の特権!」


 霧島先生がいつもの場所で肩を震わせていた。笑っている。声を出さずに笑っている。目が潤んでいる。


「先生、大丈夫ですか」


「正直、これが一番面白いかもしれない」


「先生!?」


「凛のミステリも千歳の純文学も朝倉のツッコミも上手い。だが壮介の巨大うどんが全部をなぎ倒す破壊力は、技術じゃ出せない」


「先生、それ褒めてますか」


「褒めてる。たぶん」


「たぶんって何ですか」


「確信は持てないが、面白かったのは間違いない。笑ったから」


「先生が笑うのって珍しいですよね」


「珍しくない。いつも心の中で笑ってる」


「見えないですけど」


「見えなくても笑ってる。それが大人だ」


「嘘くさい」


 凛先輩がリレー小説の原稿を揃えた。全部で三ページ。四人の文体が一つの物語の中で激突している。ミステリの冒頭が純文学に変わり、純文学がツッコミ文体に変わり、ツッコミ文体が巨大あのエッセイに変わる。カオスだ。ただ不思議と、読み返すと面白い。


「これも部誌に入れるぞ。壮介の五文の原作と、リレー小説。セットで載せる」


「俺の名前が二回載る!」


「載るな。原作者とリレー参加者として」


「最多掲載じゃん!」


「文字数は最少だけどな」


「文字数で負けて掲載数で勝つ! これが俺の戦略だ!」


「戦略だったのか」


 *


 リレー小説が完成したところで、凛先輩が立ち上がった。


「よし。全員の原稿が揃った。印刷に行くぞ」


「印刷ってどこで」


「学校の印刷室だ。先生」


「鍵は職員室にある」


「お願いします」


「行くのか。面倒だな」


「部誌を出すのが面倒って、顧問として問題発言では」


「問題教師だからな」


「自覚はあるんですね」


「自覚だけはある」


「先輩、何部刷るんですか」


「五部」


「五部だけ?」


「部員が五人だからな。一人一冊」


「お客さんゼロですね」


「最初はそんなものだ」


「先生、お客さんゼロって寂しくないですか」


「寂しくない。世の中の名作の大半は、最初の読者が数人だ。それでいい」


「先生がまともなこと言ってる」


「缶コーヒーを飲むとまともになる」


「飲んでるの水じゃないですか今」


「自販機のコーヒーが売り切れだった。だからまともさが足りない」


「まともさにコーヒーが必要なのかよ」


「必要だ。コーヒーは思考の燃料だ」


「先生の思考は液体駆動なんですね」


「液体駆動って言い方が文芸部っぽくなってきたな」


「先輩に染まってきたかもしれません」


「いい傾向だ」


 壮介が手を挙げた。


「俺の原稿も載るんだよね!?」


「載せる。"朝、目が覚めた。パンを食べた。学校に行った。部室に来た。以上"。全文掲載だ」


「全文! やった!」


「全文って言っても五文だけどな」


「五文でも全文は全文だ!」


「ポジティブすぎる」


「ポジティブは武器だ!」


「それは否定しない」


 詩織さんがペンを置いた。


「部誌に自分の文章が載るの、嬉しいですね」


「詩織さんは前の号にも載ってますよね」


「はい。でも今回は五人分です。前は二人だけでした。五人分の原稿が並ぶ部誌は初めてです」


「五人分は壮観ですね」


「壮観です。たとえ壮介くんの原稿が五文でも」


「五文でも立派だ」


 凛先輩が立ち上がった。


 霧島先生がポケットから鍵を出した。


「職員室から借りてきた」


「仕事が速い」


「こういう雑用だけは得意だ」


「雑用って言わないでください。部誌制作の重要工程です」


 印刷室に全員で移動した。旧校舎から本校舎の一階まで歩く。放課後の廊下は部活の生徒がちらほら歩いていて、五人で連れ立って歩く俺たちを何人かが不思議そうに見ていた。


 印刷室は狭かった。コピー機が一台と、紙のストックが棚に並んでいる。


「五部印刷する」


「五部だけですか」


「部員が五人だからな。一人一冊」


「お客さんゼロですね」


「最初はそんなものだ」


「先生、お客さんゼロって寂しくないですか」


「寂しくない。世の中の名作の大半は、最初の読者が数人だ。それでいい」


「先生がまともなこと言ってる」


「缶コーヒーを飲むとまともになる」


「飲んでるの水じゃないですか今」


「自販機のコーヒーが売り切れだった。だからまともさが足りない」


 霧島先生がコピー機を操作した。ウィーン、ガチャン、ウィーン、ガチャン。原稿が一枚ずつ吸い込まれて、印刷されて出てくる。一作ずつ印刷されていく。


 合計二十ページ以上。壮介のリレー小説が三ページ(全員分を合わせてもそれしかない)。合計二十一ページ。


 コピー機の音が印刷室に響いている。紙が出てくるたびに、インクの匂いがかすかにした。


「ホチキスで綴じるぞ」


 凛先輩がホチキスを取り出した。印刷された紙の束を揃えて、パチン。パチン。パチン。五冊分。


「表紙がないな」


「俺が描く!」


 壮介が手を挙げた。凛先輩が一瞬ためらった。


「お前に描かせて大丈夫か」


「大丈夫! 美術の成績2だけど!」


「2は不安しかないんだが」


「2はゼロじゃない! 2があるんだ!」


 画用紙が渡された。壮介がマーカーを握った。三分で表紙を描き上げた。


 「文芸部 部誌 創刊号」


 字がガタガタだった。大きさもバラバラ。「芸」の字が妙にでかくて、「号」の字が端っこに追いやられている。そして字の横に棒人間が五体描かれていた。全員同じ顔だ。区別がつかない。


「味がある、と思おう」


 凛先輩が遠い目をした。


 詩織さんが表紙の隅にペンで小さく花のイラストを追加した。上手い。壮介の棒人間との画力差がすごい。


「最後にロゴを入れよう。全員のペンで"文芸部"と書く」


 凛先輩がマーカーを配った。一文字ずつ。


 「文」凛先輩。力強い字。


 「芸」詩織さん。万年筆で書いた繊細な字。


 「部」俺。普通の字。普通でいい。


 壮介がマーカーを構えた。


「俺は何を書けば」


「もう"文芸部"は埋まったぞ」


「じゃあ"!"を追加する!」


 「文芸部!」。


「"!"は要らないだろ」


「いる! 勢いが大事!」


「部誌に勢いが要るのか」


「要る! 文芸部なめんな!」


 五冊の部誌が並んでいる。チームでトロフィーを掲げる瞬間に似ていた。画用紙の表紙。ホチキス留め。二十一ページ。ガタガタの字と棒人間と花のイラストと、四つのペンで書かれた「文芸部!」。


「これ売れますかね」


「売らない。身内用だ」


「じゃあ誰に配るんですか」


「私たち五人。一人一冊ずつ」


「お客さんゼロですか!」


「最初はそんなものだ。読者は後からついてくる」


 霧島先生がコピー機の横で缶コーヒーを飲んでいた。


「先生、カッコつけてますけど印刷代自腹ですからね」


「言うな」


 *


 部室に戻った。


 凛先輩が部誌を一冊手に取った。背表紙にマーカーで「創刊号」と書き入れた。ペンのインクが乾くのを待つ間、五人で部誌を眺めた。


「創刊号は十年後に黒歴史になる」


 凛先輩が言った。


「それでいい。黒歴史があるってことは、成長したってことだから」


「十年後の俺は笑ってるかな」


「お前は十年後も同じだよ」


「それ褒めてる?」


「褒めてる」


 詩織さんが部誌を開いた。自分の作品のページ。「遠い声」。印刷された自分の文字を、指先でそっと撫でた。


「私の作品が、こうして本になるの、初めてです」


「印刷されたものって、手書きと全然違いますね。本物みたい」


「本物だよ」


 凛先輩が言った。短い。けれど強い一言だった。


「たった五冊でも、これは本物の部誌だ」


 凛先輩が部誌を本棚に並べた。霧島先生の原稿が眠っている棚の、一段下。手の届きやすい場所に。「創刊号」と書かれた背表紙が、本棚の他の本に混じって並んでいる。


「次は第二号だ。来月。覚悟しておけ」


「もう次の話ですか」


「当然だ。創刊号の余韻に浸っている暇はない」


「先輩、たまには浸ってもいいんじゃないですか」


「五秒だけ許可する」


「短い!」


 壮介が部誌をペラペラめくっている。


「俺の名前がある! "大和壮介"って印刷されてる!」


「当然だろ。お前も部員だ」


「印刷されると嬉しいな! テストの答案以外で俺の名前が印刷されたの初めてだ!」


「テストの答案は嬉しくないのか」


「点数が隣に書いてあるから嬉しくない」


「なるほどな」


 霧島先生がそこから声を出した。


「お前ら。一冊持って帰れ。家で読み返せ。自分の文章を、印刷されたもので読み返すのは、いい勉強になる」


「先生がまともなアドバイスしてる」


「たまにはな」


「たまにじゃなくて毎日お願いします」


「毎日は無理だ。缶コーヒー代がかさむ」


「関係ないですよね、アドバイスと缶コーヒー」


「俺のアドバイスは缶コーヒーで動いている。燃料だ」


 *


 家路。


 鞄の中に部誌が一冊入っている。


 たった五冊の、ホチキス留めの、薄い部誌。


 文芸部に入って一ヶ月。カレーうどンのエッセイから始まった日々が、一冊の部誌になった。壮介の四十二文字の焼肉も、合評会の感想バトルも、リライト大会も、詩織さんの取材ノートも、霧島先生の原稿も。全部がこの一ヶ月の中にあった。


 五冊の部誌が刷り上がるのを黙って見ていた。あの顔は、悪くない顔だったと思う。


 空が夕焼けに染まっている。五月の風が少し暖かい。


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