第4話 : 詩織の取材ノートを見てはいけない
五月の第二週。文芸部に入ってから、もうすぐ一ヶ月になる。窓の外の緑が、入部したときより濃い。季節が動いている。
その日は霧島先生がいなかった。出張だと聞いた。県の教員研修に呼ばれたらしい。「行きたくない」とぼやきながら朝の職員室を出ていったと、凛先輩が教えてくれた。「行きたくないって言いながらちゃんと行くのが先生らしいです」と詩織さんが笑っていた。
先生がいないと部室はほんの静かだ。缶コーヒーのプシュッという音と、そこからの寝息がない。いつもの空間から、ほんのわずかに音が減っている。
その分、詩織さんのペンの音がよく聞こえた。インクの匂いが微かに漂ってくる。この匂いは、もう「部室の匂い」の一部だ。凛先輩のページをめくる音も、壮介が床の上で転がる音も、いつもより鮮明だ。
放課後。四人で部活。凛先輩がいつもの場所で文庫本。俺がPCの前。壮介が畳でゴロゴロしながらスマホをいじっている。
詩織さんがちゃぶ台でペンを走らせている。新しい短編の構想をノートに書き込んでいるようだった。ノートの端に小さな字でびっしりとメモが並んでいる。
いつもの光景だ。いつもの音。一ヶ月前にはなかった「いつも」が、もう当たり前になっている。
詩織さんが不意に立ち上がった。
「少しお手洗いに行ってきます」
「どうぞ」
詩織さんが部室を出ていった。戸がカラカラと閉まる。
その瞬間、凛先輩がそこから身を起こした。文庫本を閉じて、ちゃぶ台のほうに視線を向けている。猫みたいな目だ。何かを見つけた猫の目。
詩織さんが座っていた場所に、ノートが一冊残されていた。黒い表紙。角が少し丸くなっている。よく使い込まれたノートだ。表紙に几帳面な字で書いてある。
「取材ノート No.7」
No.7。その前にNo.1からNo.6がある。この先生はノートを七冊も書いているのか。
「お、千歳のノートだ」
凛先輩がそこから降りてきた。
「見る?」
「見ていいんですか?」
「良くはないだろうけど、面白いよ。覚悟はいるけど」
「覚悟って何のですか」
「見ればわかる」
壮介が床の上から飛び起きた。
「なになに? 見る見る!」
「お前が一番見ちゃダメな気がするんだけど」
「なんで! 俺のページもあるかもしれないだろ!」
凛先輩がノートを手に取った。最初のページには目次みたいなものが書かれていた。
「取材対象一覧」
名前が縦に並んでいる。
桐谷凛。朝倉陽翔。大和壮介。霧島遥。
俺の名前がある。しかも凛先輩の次。壮介と先生より上。
「開くぞ」
*
最初は凛先輩のページだった。
半ページ。記述は簡潔だった。
「桐谷凛。二年。ミステリ好き。寝癖がつきやすい(特に後頭部右側)。甘いもの好き(チョコレートに対するガードが低い)。紅茶はストレート。いつもの場所での読書姿勢は三パターン(仰向け・横向き・うつ伏せ)。うつ伏せ時に文庫本を顔の前に立てるが、十分以内に腕が疲れて仰向けに移行する確率87%」
「87%って何だ」
「先輩、観察されてますね」
「されてるな。しかも確率まで出されてる。千歳め」
凛先輩の目が細くなった。口元が緩んでいる。
「まあ半ページならマシだ。私のデータはもう取り尽くされたんだろう。一年以上一緒にいるからな」
次のページ。壮介。
三行。
「大和壮介。一年三組。声が大きい。食欲が異常。名前がかっこいい」
「三行!? 俺だけ三行!?」
「お前のデータは三行で完結するということだ」
「先輩は半ページあるのに!」
「先輩は一年以上のデータ蓄積がある。お前は入部して二週間だ。むしろ三行で的確にまとまっていることを褒めるべきだ」
「"名前がかっこいい"は嬉しいけど!」
「それ褒め言葉か?」
「俺は嬉しい!」
次のページ。霧島先生。
五行。
「霧島遥。顧問。缶コーヒーの消費量が異常(一日平均三本、多い日は五本)。いつもの場所での睡眠時間は平均十七分。赤ペンの動きは速い。新人賞の話をするとき、声が0.2トーン低くなる。優しい人」
「最後の二文字、急にシンプルですね」
「千歳は先生のことを素で尊敬してるからな。取材を超えて、人としての感想が入ってる」
そして次のページ。
俺のページだ。
凛先輩がめくった。
一ページ目。びっしり。
二ページ目。びっしり。
三ページ目。まだ続いている。
四ページ目。
五ページ目。
まだ続いている。
「お前だけ辞書みたいになってるぞ」
壮介が俺の肩越しに覗き込んだ。
「差!! 差がすごい!! なんで凛先輩は半ページで俺は五ページ超えてるんですか!」
「お前は"新鮮な取材対象"ということだ」
「その言い方やめてください」
凛先輩がページを指でなぞりながら読み上げ始めた。
「"四月十五日。朝倉陽翔入部初日。身長推定百七十二センチ。靴は部活スパイクの癖が残る歩き方。左膝を無意識にかばう動作が一時間に平均三回。声のトーンは平時で低め、笑うと0.5トーンほど上がる。手の大きさから推定握力は四十五キロ前後。好きな食べ物:カレーうどン(自己申告)。あれを語る際に声が0.3トーン上がることを確認"」
「声のトーンまで計測してるんですか!?」
「"四月十六日。あれの文章を執筆。指の動きからタイピング速度は推定六十字毎分。書く際に唇を少し動かす癖あり。集中しているときは右足の指が微かに動く。興味深い"」
「右足の指!? どこ見てるんだこの人!」
「靴の上から動いてたんだろうな。千歳の観察力は本物だ」
壮介がノートの先のページをめくった。
「"四月二十日。朝倉くんの弁当のおかず:卵焼き(甘い系)、唐揚げ、ミニトマト。卵焼きを最後に食べることから、好きなものを最後にとっておく性格と推察。ブロッコリーを最初に食べることから、苦手なものを先に片付けるタイプ。なお唐揚げの食べ方が豪快で、一口で頬張る。部活時代の食事速度が残っていると思われる"」
「弁当のおかずまで!?」
「ブロッコリーの順番まで記録されてるぞ」
「どこまで見てるんだこの人」
「"五月一日。合評会における朝倉くんの感想。"フォワードなのにベンチに座ってる感じがした"。この比喩は、朝倉くん自身の体験と小説の主人公が重なっている証拠。読書の才能、と霧島先生が評したが、私もそう思う。朝倉くんの言葉には身体感覚がある。文字を読んでいるのではなく、身体で物語を受け止めている。その感受性は、部活で培われたものだと思う。走ること、蹴ること、息を切らすこと。全部が、朝倉くんの言葉の中に生きている"」
壮介が俺の肩を叩いた。
「陽翔、お前めっちゃ分析されてるな」
「されてるな。めっちゃ」
「詩織ちゃん、お前のこと好きなんじゃねえの」
「は!? 何言ってんだお前」
「だってこれ取材ってレベルじゃないだろ。ラブレターだろ」
「ラブレターじゃない!」
凛先輩がいつもの場所で肩を揺らしていた。声を出さずに笑っている。
「大和、いいことを言った」
「先輩も乗らないでください!」
壮介がさらにページをめくった。
「"五月七日。リライト大会。朝倉くんの作品『第四クォーター』。うどんとの戦いを書いているはずなのに、途中で"膝が痛む。でも関係ない"という一文が入った。本人は無意識だったと思う。フィクションの中にノンフィクションが混ざる。これが朝倉くんの文章の最大の特徴。朝倉くんの身体には、まだ部活が残っている。ペンを持っても走っている"」
「"五月八日。朝倉くんが部室に来るとき、戸を開ける前に一瞬だけ立ち止まる癖がある。確認しているのは、部室に人がいるかどうかだと思う。戸を開けて私がいるのを見ると、少しだけ表情が緩む。0.5秒くらい。本人は気づいていない"」
「俺、そんな顔してたの?」
「してた。俺も見てた」
凛先輩がさらっと言った。
「先輩も見てたんですか」
「部長だからな。部員の顔は見る」
凛先輩が読み上げを止めた。
「この先は、まあ、お前が自分で読め」
「何が書いてあるんですか」
「千歳の本音が」
そう言って凛先輩がにやりと笑った。
*
戸がカラカラと開いた。
詩織さんが戻ってきた。部室に入って一歩目で、三人の視線が自分に集中していることに気づいた。そして俺の手にあるノートに気づいた。
詩織さんの顔から血の気が引いた。唇がわずかに震えた。目が見開かれた。
「み……見ましたか」
「見ました」
「どこまで」
「だいたい全部」
「全部」
詩織さんの目がぐるっと一周した。天井を見て、床を見て、壁を見て、最後に俺を見た。
「あ、純粋な取材活動の記録です! 小説のための! 人物造形に! 必要な! 客観的! データです!」
一語一語に力がこもっている。叫んでいるわけではないのに、部室に響く。詩織さんの声は普段静かだが、焦ると妙に通りがよくなる。
「"声が0.3トーン上がる"のどこが客観的データなんですか」
「音声学的にトーンの変化は計測可能です!」
「計測してたんですか」
「していません! 体感です!」
「体感を客観的データとは言わないのでは」
「言います! 人文科学では主観的データも研究対象として!」
壮介が横から言った。
「詩織ちゃん、顔めっちゃ赤いよ」
「赤くありません! これは体温が……室温の関係で!」
「五月で暑くないけど」
「代謝が! 代謝のせいです!」
凛先輩がいつもの席に戻って足を組んだ。涼しい顔で一言。
「千歳、見苦しいぞ」
「凛先輩がそもそも見せたんでしょう!?」
「否定はしない」
「先輩!!!」
詩織さんの弁解が加速した。加速するほど墓穴が広がっていく。
「あのノートはNo.7ですから、No.1からNo.6にはもっと一般的な取材が」
「もっと!? あと六冊あるの!?」
「あっ」
「自爆した」
凛先輩が言った。
「何が書いてあるんですか、No.1からNo.6には」
「一般的な! 学校の風景とか! 授業の記録とか! 図書館の蔵書リストとか!」
「蔵書リストを取材するんですか」
「します! 小説家は世界のすべてを記録するものです!」
「じゃあ俺の弁当のおかずも"世界のすべて"に含まれるんですか」
「含まれます! 朝倉くんの卵焼きも、ブロッコリーも、ポテトサラダも、すべて世界の一部です!」
「壮大なこと言ってるけど、結局俺の弁当を観察してることに変わりないですよね」
「それは……それは結果的に……」
壮介が横から口を出した。
「詩織ちゃんさ、もう認めたほうが楽じゃない? 陽翔のこと気になってるんでしょ?」
「気になっていません! 取材対象として興味があるだけです!」
「取材対象に0.5秒の表情変化を記録する人いる?」
「います! 私です!」
「それ答えになってないよ」
詩織さんがノートを取り戻そうと手を伸ばした。俺が咄嗟に身体をずらした。壮介がノートをキャッチした。
「壮介、もう返してやれ」
「えー。でもまだ読んでないページが」
「返せ」
壮介が渋々ノートを返した。詩織さんがノートを胸に抱えた。顔が赤い。うつむいている。
「全部消します」
小さな声だった。
「朝倉くんのページ、全部消します。不快に思いますよね。こんなに詳しく書かれていたら、普通は気持ち悪いですよね。すみませんでした。すべて消去して、今後は一般的な取材に」
ペンを握る手が微かに震えていた。
*
沈黙が数秒続いた。壮介が俺の顔を見た。凛先輩がそこからこっちを見た。二人とも「お前が言え」という顔をしている。
「消さなくていいよ」
詩織さんが顔を上げた。目がうるんでいた。
万年筆を持つ指が一瞬止まった。すぐに動き出したが、さっきよりほんの速い。
「本当ですか?」
「まあ、ちょっとびっくりしたけど。あのノートの文章、上手かったし」
「上手い、ですか」
「俺の歩き方の描写とか、読んでて面白かった。"スパイクの癖が残る歩き方"って、自分では全然気づいてなかったから。言われて初めて"あ、俺ってそう歩いてるのか"って思った」
「気づいてなかったんですか?」
「全然。膝をかばう動作もそうだ。一時間に三回って書いてあったけど、無意識だった」
詩織さんがわずかに微笑んだ。さっきまでの赤い顔がかすかに落ち着いている。パニックの赤から、照れの赤に変わっていた。
「じゃあ、取材を続けても大丈夫ですか?」
「まあ、内容にもよりますけど」
「では次はお弁当の箸の持ち方を」
「怖いって!」
「冗談です。半分」
「半分は本気なんですか」
「半分は本気です」
「その正直さは美徳なのか問題なのかわからない」
「美徳です。小説家は嘘がつけないほうがいいんです」
「ノートの存在は隠してたくせに」
「あっ」
詩織さんが再び赤くなった。凛先輩がいつもの場所で足を組み直した。
「良かったな千歳。取材続行の許可が出たぞ」
「先輩のせいでこんなことになったんですよ」
「否定はしない。でも結果的に良かっただろう。今まで千歳はノートを隠していた。それが朝倉に知られた。で、朝倉は"消さなくていい"と言った。つまりお前の取材は公認になった。今までよりずっといい状態だ」
「公認って」
「非公式取材から公式取材への昇格だ。おめでとう」
「おめでとうって言われる状況なんですかこれ」
壮介が手を挙げた。
「俺のページも増やしてね! 三行は少ないよ!」
「善処します」
詩織さんの目がちらっと俺を向いた。善処するのは壮介のページじゃなくて、たぶん俺のページだ。No.7の六ページ目が、すでに頭の中で書かれ始めているに違いない。
*
帰る前に、凛先輩が思いついたように言った。
「面白いことを思いついた」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「お前の勘はいつも正しいな。課題を出す」
凛先輩がホワイトボードの前に立った。マーカーのキャップを外して、一行だけ書いた。
「この部屋にいる誰かを五百字で書け」
「誰かって」
「千歳以外の誰か。千歳は観察のプロだから参加資格なし。審査員だ」
「審査員!?」
詩織さんが背筋を伸ばした。目が輝いている。審査員という肩書きに弱いタイプらしい。
「俺と壮介と先生が書くんですか」
「先生は出張中だから二人だ。朝倉と壮介。十五分で五百字。見たまま、感じたまま書け」
「先輩は書かないんですか」
「私は出題者だ」
「ずるくないですか」
「部長特権だ」
壮介がスマホを構えた。
「誰を書くかは自分で選ぶの?」
「そうだ。ただし書く相手には言うな。読み上げたときに当てさせる」
「当てさせるって、三人しかいないのにわかるだろ」
「そこを工夫しろ。読んだだけでは誰か分からないが、本人だけがドキッとするような文章を書け」
「ハードル高くないですか」
「千歳のノートを見ただろう。あれが手本だ」
詩織さんが小さくうなずいた。審査員の顔になっている。
「では評価基準を申し上げます。一、観察の精度。二、比喩の独自性。三、書いた相手への敬意。三番目が一番大事です」
「敬意って点数化できるんですか」
「できます。私は敬意を数値化するプロです」
「怖い」
十五分。俺はPCの前に座った。壮介がスマホを構えた。
誰を書くか。
凛先輩。壮介。詩織さん。
詩織さんのことは書けない。ノートの件の直後にあの人のことを書いたら、何かが確定してしまう気がする。何が確定するのかは考えないことにする。
凛先輩か壮介か。
壮介にした。あいつのことなら十五年分のデータがある。
キーボードを叩き始めた。
十五分後。
「読むぞ。壮介から」
「俺から!?」
「声が大きい奴は先だ」
壮介がスマホの画面を見せた。凛先輩が受け取って読み上げる。
「"その人はいつも笑っている。笑い方にも種類がある。面白いときの笑いと、照れてるときの笑いと、何も考えてないときの笑い。三つ目が一番多い。でもたまに、四つ目の笑い方をする。誰かを助けたいときの笑い方。それは声がほんの小さくなって、目だけが笑う。あまり見せない顔だけど、俺はその顔が一番好きだ"」
五秒の沈黙。
壮介の文章。五百字には届いていなかったが、密度が高い。あいつが書いたとは思えないくらい、静かな文章だった。
「壮介、上手くなったな」
「え、マジ!?」
「マジだ。笑い方を三種類に分けて、四つ目に本音を持ってくる構成がいい」
詩織さんが手を挙げた。
「質問です。"四つ目の笑い方"、"誰かを助けたいときの笑い方"。これ、誰のことですか」
「当てっこでしょ? 当ててみてよ」
「朝倉くんですね」
「正解! 早い!」
「"四つ目の笑い方"に気づいているのは、長い付き合いの人だけです。それに"声がほんの小さくなる"という描写、私もノートに同じことを書いています」
「え、マジ? 詩織ちゃんも?」
「はい。"朝倉くんは人を褒めるとき声が下がる"と記録しています。大和さんも同じことを観察していたんですね」
「観察っていうか、まあ、十五年の付き合いだし」
「十五年のデータは強いですね」
「データって言わないでくれ。友達って言って」
「十五年の友情データです」
「なんか違う」
凛先輩が読み上げを続けた。
「朝倉、次はお前だ」
俺の文章。凛先輩が画面を見た。
「"弁当の蓋を開ける速度が、この教室で一番速い。三秒。箸を握るときの指は、ペンを握るときとは別人だ。左手で蓋を押さえて、右手が瞬時に卵焼きを捕獲する。その動きに迷いがない。あいつの迷いのなさは、食事だけじゃない。人に話しかけるときも同じだ。俺が部活を辞めた翌日、教室で隣に座って『焼肉行かね?』と言った。一秒の迷いもなかった。あの一秒のなさに、俺は何度救われたか分からない"」
壮介が黙った。
「壮介のことだろ」
凛先輩が言った。
「当てるまでもないですね」
「"一秒の迷いのなさ"か。お前、書くの上手くなってるな」
「さっき壮介にも同じこと言ってませんでしたか」
「二人とも上手くなってる。それの何が悪い」
壮介が鼻の頭をこすった。照れている。
「お前さ、焼肉の話覚えてたんだな」
「覚えてるよ。あの日の焼肉のこと」
「焼肉じゃなくて、お前が声をかけてくれたことを覚えてるって意味だよ」
「ああ……まあ、そっちも覚えてる」
「そっちがメインだろ普通」
「俺にとっては焼肉もメインだ」
「ブレないな」
詩織さんが目を細めて笑った。審査員の顔が崩れている。
「評価を発表します」
「お願いします」
「大和さん。観察精度:八点。比喩の独自性:七点。相手への敬意:十点満点。合計二十五点」
「十点満点!?」
「"その顔が一番好きだ"。これは敬意を超えて愛情です」
「愛情って言うな! 友情だ!」
「朝倉くん。観察精度:九点。比喩の独自性:八点。相手への敬意:九点。合計二十六点」
「俺の勝ちか?」
「一点差です。ただし大和さんの敬意ポイントが最高値でした」
「敬意で負けてるのか俺」
「朝倉くんは上手すぎるんです。上手い文章は技術が見える。大和さんの文章は技術がない分、気持ちがそのまま出ている」
「それ褒めてるの?」
「最大級の褒め言葉です。技術がないのに人を動かせる文章は、才能です」
壮介が立ち上がった。
「敬意ポイント十点満点!! 俺の勝ちだ!!」
「総合点では負けてるぞ」
「敬意が一番だって詩織ちゃん言ったもん!!」
「言いました。三番目が一番大事だと」
「じゃあ俺の勝ち!」
「総合点では朝倉くんの勝ちです」
「どっちなんだよ!!」
凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。
「引き分けだ。二人とも合格」
「合格って何のですか」
「文芸部員としての観察力テスト。千歳のノートを見た以上、お前たちも観察する側に回れ。書く人間は、見る人間でもある。千歳だけに見られてるのは不公平だろう」
「先輩、今ので全部繋がったんですけど」
「最初から計算してた。ノートを見せたのも、この課題を出すための伏線だ」
「ミステリ書きの伏線回収じゃないですか」
「推理小説の基本だ。序盤に提示した手がかりを、終盤で回収する」
詩織さんが小さく笑った。
「凛先輩、最初からこうするつもりだったんですか」
「半分は。残り半分はお前のノートが面白すぎたから思いついた」
「先輩が見せなければこんなことにならなかったんですよ」
「見せたから面白いことになっただろう。部長の判断は正しかった」
「自画自賛ですね」
「事実の確認だ」
壮介がスマホの画面をもう一度見つめた。自分が書いた文章を読み返している。
「なあ陽翔」
「ん」
「俺、書くの嫌いじゃないかも」
声が小さかった。壮介の声が小さくなるのは珍しい。四十二文字の焼肉の日と同じ声量だ。
「嫌いじゃないなら、それでいいんじゃない」
「うん。嫌いじゃない。まだ好きとは言えないけど」
「まだ入部して一ヶ月だ。好きになるのは、もう少し書いてからでいい」
「お前はどう? 書くの好き?」
考えた。あのエッセイを書いているとき。キーボードを叩いて、頭の中のものが文字になっていくとき。あの感覚は——嫌いではない。
「俺も嫌いじゃない。たぶん」
「"たぶん"がつくんだ」
「まだ一ヶ月だからな」
「じゃあ来月また聞くわ」
「いいよ」
凛先輩が文庫本を手に取った。
「帰るぞ。日が長くなってきた」
五月の夕方。窓の外はまだ明るい。冬みたいに急いで帰らなくていい。
*
家路。一人で歩いている。
今日は詩織さんと家路が一緒にならなかった。壮介と凛先輩と三人で校門を出て、先輩と壮介がそれぞれの方向に消えて、詩織さんは「少し寄り道します」と言って図書館のほうに曲がっていった。
たぶんノートの整理をしたいんだろう。あるいは、No.8の準備を始めるのだろう。七冊で終わるタイプの人間ではない。
脳裏に浮かぶのは、あのノートの文字だ。
理由はいくつかある。
一つ目は、あのノートの文章が上手かったからだ。観察記録なのに読み物として面白い。「スパイクの癖が残る歩き方」という一文は、俺の足の怪我と部活を辞めたことと、今も身体に残っている記憶を、たった一行で言い当てている。
二つ目は、あのノートに悪意がなかったからだ。書いてある内容はどれも丁寧で、真剣で、「観察対象をバカにする」ような文章は一行もなかった。
むしろ敬意があった。俺の文章を「身体感覚がある」と評し、俺の読書を「才能」と呼び、俺の無意識の動作を「興味深い」と記録していた。
三つ目は——これが一番うまく説明できないのだが——誰かにここまで見てもらえている。その事実が、胸の底をじわりと温めていたからだ。
部活を辞めてから、俺のことをちゃんと見てくれている人間は少なくなった。壮介は見ているのではなく、一緒にいるタイプだ。
詩織さんは違う。見ている。ちゃんと見ている。卵焼きを最後に食べることまで。ポテトサラダが何口目かまで。戸を開ける前の0.5秒の表情まで。
それが嫌じゃないというのは、いったいどういうことなんだろう。




