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第3話 : 読書感想文バトル

 五人が揃ってから一週間が過ぎた。五月に入って、風が少し暖かくなっている。開けた窓から若葉の匂いが入ってくる。


 放課後の部室。畳に西日が差している。凛先輩がちゃぶ台にA4の紙束をバサッと置いた。紙が畳の匂いを一瞬かき消すくらい、勢いがあった。


「今日は合評会をやる」


「合評会?」


「全員で同じ短編を読んで、感想を書いて、発表する。文芸部の基本メニューだ」


 コピー用紙を一部ずつ配られた。八ページ。表紙に「海辺の椅子」と印刷されている。有名な近代文学の短編らしい。


「一時間で読んで、四百字以内で感想を書いて、全員の前で発表。以上」


「一時間で読めるんですか、これ」


「二十ページだぞ。充分だ」


 壮介が横で絶望の顔をしていた。


「二十ページって漫画なら三分で読むけど」


「漫画じゃない。文字だ」


「文字か……」


「大和さん、ゆっくりで大丈夫ですよ。わからない漢字があったら聞いてくださいね」


 詩織さんがフォローした。


「全部わからなかったら?」


「さすがに義務教育を疑うぞ」


 読書が始まる前に、ふとボードに目がいった。名前と矢印が複雑に交差した相関図みたいなもの。一度消されたはずなのに、また新しいのが書かれている。


「そういえば先輩、このホワイトボードの図って何ですか。ずっと気になってたんですけど」


 凛先輩が少し照れた顔をした。


「私のミステリ小説の登場人物関係図だ」


「あ、そういう」


「矢印の意味は左から順に、"殺意"、"アリバイ"、"共犯"」


「怖っ!」


 壮介が椅子から転げ落ちそうになった。


「消し忘れてた」


「消すんですか?」


「いや、残しておこう。資料だ」


 資料として殺意の矢印が常駐するボード。文芸部の日常は、なかなかにカオスだ。


 *


 読書が始まった。


 五人五色の読書風景だった。


 詩織さんは正座で姿勢よく読んでいる。ページに顔を近づけすぎず、離しすぎず、ちょうどいい距離。真剣な目が文字を追っている。


 途中からペンを取り出してメモを取り始めた。最初は余白にキーワードを書いていたが、だんだんペンが加速して、気づけばノートを開いている。


「千歳、感想じゃなくて新作のプロットが書かれてるぞ」


 凛先輩が詩織さんのノートを覗き込んだ。


「あっ。すみません、読みながら浮かんでしまって」


「浮かぶのはいいけど、今は感想を書け」


「はい。でも第三段落の海鳴りの描写を読んだとき、新しい短編のオープニングが完全に見えてしまって」


「天才のマルチタスクは後にしろ」


「見えてしまったものは消せないんです」


「消さなくていいから別のノートに書け。感想用と創作用を分けろ」


「ノートが足りません。明日買ってきます」


「お前のノート消費量はちょっとおかしい」


 凛先輩自身はいつもの場所で猫のように丸まって読んでいた。文庫本を読むときと同じ姿勢だ。違うのは、コピー用紙のあちこちに付箋がペタペタ貼られていくことだった。黄色い付箋が紙の端からはみ出している。


 覗き見したわけじゃないけど、付箋の一枚に「第二段落:動機の暗示? アリバイ不成立の可能性あり」と書かれていた。殺人事件は起きていない純文学なのに、アリバイを検証している。この先輩の脳内にはミステリフィルターが常時起動しているらしい。


 壮介は五分で集中力が切れた。


「なあ陽翔、ここ何て読むの?」


「どこ」


「この漢字」


「"佇む"。たたずむ」


「たたずむって何?」


「立ってることだよ」


「じゃあ"立ってる"って書けばいいのに」


「ニュアンスが違うんだよ。ただ立ってるんじゃなくて、じっと立ってる感じ」


「じっと立ってるのと、ただ立ってるのって何が違うの?」


「雰囲気が」


「雰囲気って食えるの?」


「食えないし、さっきから質問が全部"食えるの"で終わるのやめてくれないか」


「腹減ってるんだよ!」


「読みながら食うなよ!」


「壮介、米粒が原稿に落ちてるぞ」


「あ、ほんとだ」


「食べながら読むな」


「無理! 腹減ってるから!」


 おにぎりの米粒がコピー用紙に落ちて、凛先輩が「食べるか読むかどっちかにしろ」と叱った。壮介は両方やめなかった。


 壮介の質問攻めで俺の読書は完全に妨害されていた。隣にいるのが間違いだった。席替えを要求したい。


 それでも何とか集中して読み進めた。「海辺の椅子」は短い小説だった。海辺に椅子を置いて座っている男の話。男は何かを待っている。何を待っているのかは最後まで明かされない。海が見えて、風が吹いて、時間が過ぎていく。それだけの小説。


 でも読み終わったとき、胸に何かが残った。


 部活で言うなら、ロスタイムのホイッスルが鳴った後に残る余韻みたいなものだ。試合は終わったのに、身体がまだ走りたがっている感覚。この小説を読んだ後の感覚は、それに近い。


 俺は余白にメモを取った。


「この主人公、フォワードなのにベンチに座ってる感じがする」


自分でも何を書いているのかわからないが、ペンが勝手に動いた。


 霧島先生はデスクで読んでいた。が、三行目で手が止まった。赤ペンを手に取りかけて、やめた。


「先生、赤ペン持ちかけてますよ」


「わかってる。我慢してる」


 また取りかけて、やめた。三回目でとうとう赤ペンを握ってしまった。


「負けましたね」


「職業病だ。許せ」


「先生、何してるんですか」


「職業病だ。誤字脱字が気になって内容が頭に入らない」


「感想を書いてくださいね。校閲じゃなくて」


「善処する」


「善処じゃなくて確約してください」


「確約は社会人として軽率にできない」


「先生、ここは学校です」


 壮介がまた手を挙げた。


「なあ、なんでこの主人公はずっと椅子に座ってるの? 暇なの?」


 全員が手を止めた。


「いや、それは」


 答えに詰まった。凛先輩も、詩織さんも、一瞬黙った。


「暇じゃない」


 凛先輩が言った。


「"待っている"んだ」


「何を?」


「それを考えるのが読書だ」


「めんどくさ!」


「面倒だから面白いんだよ」


 *


 一時間後。全員の感想がちゃぶ台の上に並んだ。


「じゃあ順番に発表する。私から行く」


 凛先輩が自分の感想用紙を手に取った。背筋を伸ばして読み上げ始める。


「"主人公が椅子に座って海を見ている理由は、誰かを待っているのではなく、監視しているのだと考える。根拠は第三段落にある。主人公の視線が海面の一点に固定されていること、および第五段落で潮の満ち引きの時間を正確に把握していることから、主人公は海を観察している。これは何者かの痕跡を追っている行動パターンと一致する。私の仮説では、主人公は探偵であり、Bが犯人だ"」


「先輩、これミステリじゃないんですけど」


「あらゆる小説にはミステリの要素がある」


「ないですよ」


「ある」


「犯人って誰ですか。登場人物、主人公一人しかいないですよ」


「一人だからこそ疑わしい。もっとも疑わしいのは常に最も近くにいる人間だ」


「一人しかいなかったら最も近くにいるの自分じゃないですか」


「つまり主人公自身が犯人だ」


「何の犯人なんですか!?」


 壮介が手を叩いた。


「先輩の感想、意味わかんないけど面白い!」


「褒められてるのか馬鹿にされてるのか判断に困るな」


 次は詩織さん。用紙を卓に広げて、姿勢を正した。万年筆で書かれた感想は、字が綺麗すぎて印刷に見える。


「"主人公の心象風景が季節の移ろいと同期しています。第二段落の海鳴りは主人公の内面の震えと対応しており、第四段落で風が止む描写は感情の凪を表しています。特に注目すべきは末尾の一文で、椅子の影が砂に伸びていく描写は時間の経過と主人公の孤独が重なり合い——"」


 壮介の首がガクッと落ちた。三行目で寝始めた。


「大和さん」


「! 起きてる!」


「聞いていませんでしたね?」


「聞いてた! えっと……海鳴りが……えっと……鳴ってた?」


「もう少し具体的にお願いします」


「海鳴りがすごく……鳴ってた?」


「程度を加えただけですね」


「詩織さんの感想は文芸評論みたいになってるんですよ。もう少し噛み砕いてもらっていいですか」


「噛み砕きますと、"美しい小説です"の一言です」


「だいぶ噛み砕かれましたね。間がなさすぎる」


 凛先輩が口を挟んだ。


「千歳の感想は読み物としては面白いが、誰にも伝わらないのが弱点だな」


「伝えているつもりなんですが」


「お前の"つもり"と壮介の"理解"の間には、太平洋くらいの距離がある」


「太平洋は広すぎませんか」


「広いから問題なんだ」


 次は壮介。


「いいか? 読むぞ」


 壮介が感想用紙を掲げた。四百字の枠に対して、書かれていたのは一行だった。


「"主人公がずっと座ってるから、途中で立ち上がって走り出せばいいのにと思った"」


 沈黙。


 全員が壮介を見た。


 凛先輩が最初に口を開いた。


「意外と核心突いてない?」


「え?」


「壮介の感想、意外と核心突いてないですか」


「突いてる。"動けない人間が動き出す物語"として読めば、壮介の"走れ"は正しい。主人公に"走れ"と言えるのは、読書体験としてまっとうだ」


「俺、褒められてる?」


「微妙なラインだ。でも悪くない」


「やった!」


「ただし四百字の枠に一行はどうかと思うけどな」


「質より量だろ!」


「逆だ。量より質だ」


「じゃあ俺は質で勝った!」


「勝ち負けじゃないんだが」


 次は俺の番だった。


 感想用紙を手に取った。自分で書いた文章を読み返す。正直、感想になっているのかわからない。凛先輩がミステリを語り、詩織さんが文学論を展開し、壮介が一行で核心を突いた後に、俺は何を言えばいいんだ。


「読みます。"なんていうか、この主人公はフォワードなのにベンチに座ってる感じがした。走りたいけど走れない。試合に出たいのに出られない。海を見ているのは、校庭を見ているのと同じだと思った。俺が部活を辞めたとき、教室の窓から校庭を見ていた。あのときの気持ちに似てるなって"」


 言葉が止まった。


「すみません、感想になってないですよね。部活の話になっちゃって」


 部室が静かだった。凛先輩がいつもの場所で腕を組んでいる。詩織さんがじっと俺を見ている。


 霧島先生が赤ペンを机に置いた。


「それは立派な感想だ」


「え?」


「自分の体験と物語を重ねられるのは、読書の才能だぞ。感想ってのは本の説明じゃない。その本を読んで自分の中に何が起きたかを書くものだ。お前の中には部活が起きた。それでいい」


 少し脈が一つ、跳ねた。霧島先生が真面目に褒めてくる瞬間は、未だに慣れない。この先生は普段あんなに寝ているくせに、大事なところでだけ起きている。


「朝倉くんの感想、私はすごく好きです」


 詩織さんが言った。小さな声だった。けれどはっきり聞こえた。


「"フォワードなのにベンチに座ってる"っていう比喩が、この小説のことだけじゃなくて、朝倉くん自身のことも言っているから。だから響くんだと思います」


 何か返そうとしたけど、うまく言葉が出てこなかった。代わりに「ありがとうございます」とだけ言った。


 最後は霧島先生。


「読む。"三行目に脱字がある。第五段落の文末表現が統一されていない。第七段落のルビに誤りがある。全体的にリズムが——"」


「先生。感想ですよ。校閲じゃなくて」


「……職業病だな」


「内容の感想をお願いします」


「いい小説だよ。読んだ後に腹が減る小説だ」


「腹!?」


「わかる!」


 壮介が叫んだ。


「俺も読んだ後なんか腹減ったんだよ!」


「先生と壮介の感性が一致するのが一番怖いんですが」


「いい小説は腹が減るんだ。これは真理だ」


「先生、それ真理ですか?」


「俺の中では真理だ」


 *


 凛先輩がボードの前に立った。マーカーを手に取って、全員の感想のキーワードを書き出していく。


 凛:「監視」「犯人」「ミステリ」


 詩織:「心象風景」「海鳴り」「純文学」


 壮介:「走れ」「少年漫画」


 陽翔:「ベンチ」「ピッチ」「スポーツ」


 霧島:「脱字」「校閲」「腹が減る」


 五人のキーワードがホワイトボードに並んだ。同じ小説を読んだとは思えないカオスな地図が完成していた。


「凛先輩、これ線で結んで相関図にしません?」


「やろうとしたが無理だ。ミステリと少年漫画とスポーツと純文学と校閲を一つの図に収める方法が存在しない」


「文芸部って自由ですね」


「自由っていうか無法地帯だよ」


「無法地帯の何が悪い」


 凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。ボードを一歩引いて眺めている。カオスな感想地図を、満足そうな目で見ている。


「うん。これが文芸部だ」


「カオスすぎません?」


「カオスが最高なんだよ」


「先輩の"最高"は独特ですね」


「同じ本を読んで、全員違うことを考える。それが面白いんだ」


 壮介が手を挙げた。


「俺の感想は評価しないの?」


「論外」


「ひどい!!」


「嘘。お前のが一番面白かった」


「え、まじ?」


「"走れ"って感想は、ある意味この小説への最高の褒め言葉だ。動けない人間に"走れ"と言えるのは、お前が走れる人間だからだ」


 壮介がきょとんとした。それから、にかっと笑った。


「俺、走るの得意だからな!」


「知ってる。文芸部で一番足が速いのはお前だ」


「文芸部で足の速さを競ってどうする」


 凛先輩がわずかに笑った。いつもの一瞬の笑みではなく、長い笑み。


 霧島先生がいつもの場所で伸びをした。


「合評会、悪くないな。月一でやるか」


「月一? 定例化するんですか?」


「部の活動として正式に組み込む。毎月第一月曜。課題図書は持ち回りで選ぶ。異論は?」


 全員が顔を見合わせた。異論はなかった。


「じゃあ来月の課題図書は誰が選ぶ?」


「俺! 俺が選ぶ!」


 壮介が真っ先に手を挙げた。


「お前が選ぶのか。何を選ぶ気だ」


「少年ジャンプ!」


「却下」


「なんで!?」


「小説を選べ」


「漫画も文芸じゃん!」


「漫画は漫画だ。来月は詩織が選べ」


「はい。では谷崎潤一郎の——」


「壮介が寝る。朝倉が選べ」


「俺ですか? 小説あんまり読まないんですけど」


「だからいい。読まない人間が選ぶ本は、意外と面白いことがある」


「プレッシャーなんですけど」


「来月までに一冊読んでおけ。自分が面白いと思ったものでいい」


「了解です」


 *


 帰り支度をしながら、ボードの感想地図を眺めた。


 ミステリ、純文学。少年漫画、スポーツ。校閲。五つの読み方が、同じ一冊の短編から生まれている。正解はない。全員が違っていて、全員が正しい。


 家路、学校の裏手にある図書館に寄った。


 自分でも驚いている。図書館に足を踏み入れるなんて、中学の読書感想文以来だ。


「すみません、この短編が入ってる本を探してるんですけど」


「作品名は?」


「『海辺の椅子』です」


「文庫コーナーの端にありますよ。下の段」


「ありがとうございます」棚の下のほうに、少し日焼けした文庫本が一冊あっている。


 さっき読んだ「海辺の椅子」以外にも、同じ作者の短編が七つ入っている。表紙のデザインは地味だ。スポーツ漫画の派手な表紙とは全然違う。背表紙の文字は小さくて、見落としそうなくらい控えめだ。


 ぱらぱらとめくった。「海辺の椅子」のページを開く。


「文庫本だと違うな」


 思わず声が出た。コピー用紙で読んだときと、手触りが違う。紙が薄くて、ページをめくる指に微かに抵抗がある。活字の大きさも違う。


「同じ文章なのに」


 隣のおばさんに睨まれた。図書館で独り言は迷惑だ。


 もう一つの短編の冒頭を読んでみた。三行読んだだけで、さっきと同じ感覚が来た。文字が映像になる。場面が頭の中に浮かぶ。言葉の向こう側に世界がある。


 この作者の文章が好きだと思った。理由はうまく説明できない。凛先輩みたいに構造分析はできないし、詩織さんみたいに心象風景がどうとか語れない。


 だが好きだった。読んでいると、胸のどこかが動く。ボールが足に吸い付いたときの、あの「合ってる」感覚に少し似ていた。


 図書カードに名前を書いて、借りた。


 教科書の横に、薄い本が一冊増えた。部活シューズの代わりにはならない。ピッチの代わりにもならない。


 でも鞄がちょっとだけ重くなった。


 夕暮れの空はまだ明るい。


 歩きながら、今日の合評会のことを思い出していた。全員が同じ小説を読んで、全員が違う球を投げた。同じボールなのに着地点が五つある。壮介の「走れ」が一番遠くまで飛んだ。


 正解はなかった。間違いもなかった。


 来月の合評会では俺が課題図書を選ぶことになっている。何を選ぼう。


 あまず、今日借りたこの文庫本を全部読もう。


 鞄の中の文庫本に手が触れた。薄い背表紙の感触。


 鞄が少しずつ重くなっていく。


 その重さが、嫌じゃなかった。


 *


 翌日の放課後。部室に入ると、凛先輩がソファの上で本を読んでいた。今日はミステリではなく、珍しく海外文学の翻訳ものだった。表紙がたまに変わる。凛先輩も新しい本を開拓しているんだなと思った。


「先輩、昨日図書館に行ったんですけど」


「ほう」


「合評会の本、作品集のほうを借りてきました」


 凛先輩の目がわずかに動いた。声には出さなかったが、嬉しそうだった。


「で、他の短編も読んだのか」


「三つ読みました」


「どれが一番良かった」


「二つ目の『雨の日の廊下』ってやつです。主人公が学校の廊下で雨を見てるだけの話なんですけど」


「見てるだけなのに?」


「見てるだけなのに、なんか読んだ後に胸がぎゅってなりました。うまく言えないんですけど」


「言語化できないのは、まだ身体で受け止めてる段階だな。言葉が追いつくのはこれからだ」


「そんなもんですか」


「そんなもんだ。千歳、お前はあの作品集読んだことあるか」


 詩織さんがペンを置いた。


「あります。中学二年のときに読みました。『雨の日の廊下』は私も好きです」


「どこが?」


「窓ガラスについた雨粒を数える場面です。主人公が雨粒を数えているのは、本当は時間を数えているんです。誰かが来るのを待っていて、待ちきれなくて、雨粒を数えることで時間を進めようとしている」


「えっ、そういう話だったんですか?」


「はい。待っている話です」


「俺はてっきり雨が好きな人の話かと」


「それも間違いではないですよ。読み方は自由です」


「でも詩織さんの読みのほうが深くないですか」


「深いというより、角度が違うだけです。朝倉くんが感じた"胸がぎゅっとなる"感覚と、私の"待つ時間を数えている"という解釈は、たぶん同じことを別の言葉で言っているだけです」


「同じこと?」


「はい。"待つ切なさ"です。朝倉くんは身体で受け止めた。私は頭で分析した。入口が違うだけで、着いた場所は同じです」


 凛先輩がうなずいた。


「それが合評会の意味だ。同じ場所に着くルートが人の数だけある」


「先輩はどのルートで着いたんですか」


「俺は犯人を探して着いた」


「犯人いないですって」


「いる。雨が犯人だ」


「雨が何の犯人なんですか」


「主人公の孤独を暴いた犯人だ」


「先輩のミステリ脳、治らないんですね」


「治す気がない」


 壮介が床の上から寝返りを打った。目が開いている。聞いていたらしい。


「なあ、その本俺も読んでいい?」


「え、壮介が読むの?」


「だってお前が"胸がぎゅっとなった"って言うんだろ。俺も胸をぎゅっとさせたい」


「言い方がちょっとおかしいけど。まあいいよ、貸すよ」


 鞄から文庫本を出した。壮介に渡す。壮介が表紙をまじまじと見た。


「字しかない」


「表紙に字しかないのは普通だぞ」


「漫画は表紙に絵があるのに」


「小説と漫画は違うから」


「でも表紙に絵があったほうが手に取りやすくない?」


「壮介先輩、それは装丁の話ですね」


 詩織さんが身を乗り出した。目が輝いている。


「装丁って何」


「本の外見のデザインのことです。表紙、帯、背表紙、紙の質感、フォント。全部含めて装丁です」


「本の服みたいなもん?」


「いい表現ですね。そうです、本の服です」


「じゃあこの本は服がダサいってこと?」


「ダサいのではなく、シンプルなんです。文学系の文庫は意図的にシンプルなデザインにすることが多いです」


「意図的にダサいのか」


「ダサいじゃなくてシンプルだって言ってるじゃないですか」


「シンプルってダサいの丁寧語でしょ」


「違います!」


 凛先輩が横で肩を揺らしていた。


「壮介は本の内容より表紙が気になるのか」


「だって最初に見るの表紙じゃん!」


「中身で選べ」


「表紙で選んで何が悪い!」


「悪くない。ジャケ買いも読書体験の一部だ。ただし表紙に騙される確率が上がるぞ」


「表紙に騙されたことある?」


「ある。すごく綺麗な表紙のミステリを買ったら、中身がラブコメだった」


「先輩、ラブコメ嫌いなんですか」


「嫌いじゃないが、期待と違うのは問題だ。ミステリだと思って買ったのにラブコメが出てきたら、心の準備ができていない」


「心の準備がいるんですか、ラブコメに」


「いる。シリアスな気分でミステリを読もうとしていたのに、急にキスシーンが出てきたら困るだろう」


「先輩、キスシーンで困るんですか」


「困る。推理の途中でキスされたら犯人がどうでもよくなる」


「それは小説として成功してるのでは」


「うるさい」


 霧島先生がいつもの場所からぼそっと言った。


「読書の入口はなんでもいいんだよ。表紙でも、タイトルでも、友達が貸してくれたからでも。重要なのは開くことだ」


「開いてからどうするかは?」


「読む。当たり前だろう」


「先生のアドバイス、たまにシンプルすぎません?」


「シンプルなのが一番いい。複雑なことは千歳と凛に任せる」


「先生、それ丸投げですよね」


「丸投げは教育の一形態だ」


「形態が怠惰なんですけど」


「怠惰は教育者の美徳だ」


「美徳のハードルが低すぎます」


 壮介が文庫本を開いた。最初のページ。


「"海辺の椅子"。一行目。"椅子は風化していた"」


「声に出して読むなよ。黙読しろ」


「黙読できない。声に出さないと頭に入らない」


「お前、小学生か」


「小学生のときから成長してないんだよ、そのへん」


「開き直るな」


 壮介が声に出して一行目を読んだ。


 二行目。三行目。


 五行目で壮介が黙った。


「どうした」


「なんか、海の匂いがした」


「文字から匂いがするわけないだろ」


「するんだって。この"塩の風が頬を撫でた"ってとこ。読んだら、なんか潮風っぽい気がした」


 凛先輩が本を閉じた。


「それが読書だ」


 短い一言だった。でも壮介には十分だったらしい。にかっと笑って、続きを読み始めた。


 今度は声に出さずに。


 全員が黙って、それぞれの本に向かった。ペンの音、ページをめくる音、缶コーヒーをすする音。そして壮介が唇を動かしながら文庫本を読んでいる小さな息の音。


 これが部活だ。


 *


 合評会から二日後の水曜日。


 壮介が戸を蹴るように開けた。


「戸を蹴るな」


 凛先輩の声が飛ぶ。もはや定型文だ。


「書けた! 短編! 読んでくれ!」


 手にA4用紙が一枚。たった一枚。


「一枚!?」


「一枚だ! 中身が濃いんだ!」


「お前の場合、薄いだけでは」


「失礼だな!」


「タイトルは?」


「"俺VS巨大カレーうどン"」


「それ!? 俺のネタ取るなよ!」


「パクリじゃない。オマージュだ」


「お前、オマージュの意味わかって使ってるか?」


「かっこいい言葉だから使った!」


「知ってる言葉を使うな」


 凛先輩が冷たく言った。壮介は気にしていない。


「読み上げる! 全員聞いてくれ!」


 凛先輩がそこから身を起こした。


「いいだろう。全員、正座で聞け」


「正座必要ですか?」


「礼儀だ。人の作品を聞くときは正座する。うちのルールだ」


「今作りましたよね、そのルール」


「作った。でも今後の定例にする」


 全員が床の上に正座した。霧島先生までそこから降りて正座している。先生の正座は足が微妙に浮いていて、五秒後にはあぐらに崩れそうだった。


 壮介がA4用紙を目の前に掲げた。深呼吸。声を張った。


 *


「"俺VS巨大カレーうどン"。大和壮介作」


 壮介の声が部室に響く。推定八十五デシベル。朗読にしては音量が大きすぎる。


「"ある日、学校に巨大なあれが現れた。でかい。校舎よりでかい。カレーの匂いがすごい。みんな逃げた。でも俺は逃げなかった。なぜなら俺はうどんが好きだからだ"」


 壮介が一息ついた。ここまでで半分らしい。


「"俺はうどんに立ち向かった。素手で。武器はいらない。カレーうどンに武器を使うのは失礼だ。なぜなら相手は食べ物だからだ。俺は食べ物を尊敬している"」


 何を言っているのかわからないが、壮介の声には妙な迫力があった。


「"俺はうどんのスープを全部飲み干した。全部だ。何リットルあったかわからない。たぶん学校のプールくらい。腹がパンパンになった。でも飲み干した。そしたら巨大カレーうどンは消えた。スープがなくなったからだ。残ったのは麺だけだ。麺は食った。世界は平和になった。おわり"」


 壮介がA4用紙を下ろした。


「三百文字。ぴったり」


「ぴったりじゃないだろ。数えたのか」


「数えた。三回数えた」


「三回数えるくらいなら推敲しろ」


 一瞬、間が空いた。


 五秒。


 長い五秒だった。部室の壁掛け時計がカチカチ音を立てていた。外から校庭の掛け声が微かに聞こえた。壮介が全員の顔を見回している。期待に満ちた目だ。子犬が「褒めて」と言っている目に似ている。体格は大型犬だが。


 凛先輩が最初に口を開いた。


「ツッコミどころしかないんだが、どこから行く?」


 俺が手を挙げた。


「まず、それに意志はない」


「ある。カレーうどンには魂がある」


「ない」


「ある! あれを食べたことないの!?」


「食べたことあるけど魂は感じたことない」


「感じてないだけだ! 舌が鈍い!」


「舌の話じゃない。論理の話だ」


 詩織さんが手を挙げた。


「なぜ素手なんですか?」


「ロマンだよ」


「ロマンで校舎より大きいうどんに勝てるんですか」


「勝てた。作品の中で勝ってるから」


「それは作者権限の濫用では」


「作者権限って何」


「自分が書いたから何でもありにしていいという意味ではないということです」


「つまり何でもありってこと?」


「逆です」


 凛先輩が指を折りながらカウントした。


「ツッコミ項目。一、カレーうどンが校舎より大きい根拠がない。二、"素手で食べ物と戦う"の意味がわからない。三、プール一杯分のスープを飲める人間はいない。四、それで世界が平和になる理由がない。五、三百文字で世界を救うな」


「五個もある!?」


「まだある。六、"おわり"で終わるな。七、タイトルに"VS"を使うのは小説としてどうなのか。八——」


「もうやめて! 俺のメンタルが!」


 霧島先生が顔を伏せていた。笑いを堪えている。顔が赤い。缶コーヒーを握ったまま、プルプルしている。


「先生、呼吸してください」


「……面白い。面白いが……」


「面白いんですか!?」


「面白い。だがお前はもう少し文字数を書け」


「文字数?」


「三百文字で世界を救う小説は、人類の歴史上存在しない」


「じゃあ俺が最初だ!」


「それは偉業ではなく暴挙だ」


 壮介がA4用紙を胸に抱えた。けっこう落ち込んでいるのかと思ったら、全然落ち込んでいなかった。にこにこしている。


「でも面白かったんでしょ? 先生笑ってたじゃん」


「笑ったのは認める」


「じゃあいい! 笑わせたもん勝ちだ!」


 その開き直りだけは、ちょっと羨ましいと思った。


 *


 凛先輩が立ち上がった。ホワイトボードの前に移動して、マーカーを手に取る。先輩がボードの前に立つときは、何かを企んでいるときだ。


「せっかくだ。全員で壮介の短編をリライトしよう」


「リライト?」


「同じテーマで全員が書き直す。題材は"VS巨大カレーうどン"。各自の文体で。制限時間三十分」


「えっ、全員やるんですか」


「全員やる。先生も」


 霧島先生が一杯を飲みかけて止まった。


「俺もか」


「顧問も書く。うちの方針だ」


「そんな方針あったか」


「今作った」


 壮介が両手を突き上げた。


「俺の作品が原作! みんな俺の原作のリライトだからな! 俺が原作者だ!」


「原作と呼んでいいのかは議論の余地があるが、まあいい。始めろ」


 全員がそれぞれのいつもの席に戻った。筆記音が重なり始める。


 三十分。テーマは「VS巨大カレーうどン」。


 バカみたいなテーマだ。でも全員が大真面目に書き始めた。お題が何でも本気で書く。それが文芸部の掟の「書け」だ。


 三十分はあっという間だった。


 *


「時間だ。発表する」


 凛先輩が最初に読み上げた。


「"あれ失踪事件"。桐谷凛作」


 全員が居住まいを正す。凛先輩の声は低くて、ミステリの朗読にぴったりだった。


「"学食のうどんが消えた。調理室には鍋が残されていたが、中身は空。容疑者は五名。全員にアリバイがあった。しかし、カレーのスープに含まれる小麦粉の粒子を分析すると、犯行時刻は午前十一時三十二分と特定される。アリバイが成立しない人物が一人だけいた。犯人は——調理員のBである。動機はシンプルだった。Bはカレーうどンが、世界で一番好きだったのだ"」


 壮介が拍手した。


「めちゃくちゃ面白い! でも原作のカケラもない!」


「原作にカケラがないのが悪い」


「ひどい!」


「カレーうどンをミステリにできる先輩はすごいと思いますけど、これ原作の面影が完全にゼロですよね」


「ゼロだ。誇りに思え。お前の原作が優秀なリライトを生んだ」


「褒められてるのか貶されてるのかわからない!」


 次は詩織さん。用紙をちゃぶ台に置いて、姿勢を正して読み始めた。


「"私は、それに出会った。否、それは邂逅と呼ぶべきものであった。澄んだ出汁の底に沈む麺の一本一本が、私という存在の脆さを映していた。湯気の向こうに、誰かの笑顔が見える。あの人も、カレーうどンを好きだと言っていた。あの人の声を、私はまだ覚えている"」


「怖い! なんで泣いてるの!?」


「泣いてません。これは創作です」


「嘘だ! 声が震えてたぞ!」


「演技です。朗読における感情表現です」


 凛先輩が腕を組んだ。


「千歳、テーマが巨大カレーうどンからだいぶ離れてるぞ。純文学に振りすぎだ」


「あれを題材にした場合、純文学的アプローチが最も新規性があると判断しました」


「判断の方向が独特すぎる」


「でもめちゃくちゃ上手いですよね」


「上手い。上手いのが問題だ。上手すぎてうどんが可哀想になる」


「カレーうどンが可哀想ってどういう状況なんですか」


 次は俺。


 PCの画面を読み上げた。


「"第四クォーター、残り三十秒。それが怒涛のスープ攻撃を仕掛けてくる。顔面にカレーの飛沫が飛ぶ。目に染みる。だが俺は止まらない。ここで退くのはフォワード失格だ。箸を構える。足を踏ん張る。膝が痛む。でも関係ない。これが最後の一口だ。スープの底に沈んだ最後の麺を掬い上げる。持ち上げる。口に入れる。噛む。飲み込む。終了のホイッスルが鳴った。俺たちの勝ちだ"」


 壮介が目を輝かせた。


「これ好き!! 試合感ある!! 膝が痛むのに走るとこ最高!」


「書いてるうちに部活の試合になってた。カレーうどンと戦ってたはずなのに」


 凛先輩がうなずいた。


「確かにアツい。無駄に」


「無駄にって言わないでください」


「いや褒めてる。お前の文章はスポーツの実況みたいなテンポがある。あれでそのテンポが出るのは才能だ」


「うどんで才能って言われても嬉しいのか微妙なんですけど」


「題材は関係ない。文体に個性がある。それが大事だ」


 詩織さんがメモを取っていた。


「朝倉くんの文章、"膝が痛む。でも関係ない"のところ、すごくいいです」


「え、そこですか」


「はい。カレーうどンの話なのに、ふっと本当の感情が覗くところが。フィクションの中にノンフィクションが混ざっている。それが朝倉くんの文章の特徴だと思います」


「フィクションにノンフィクションが混ざるって、いいことなんですか」


「最高にいいことです」


 詩織さんの目が真っ直ぐだった。純粋に感動している目だった。そういう目で見られると、耳のあたりが少し熱くなる。


 確かに、「足が痛む」は書くつもりじゃなかった。カレーうどンのエッセイとの戦いを書いていたはずなのに、指が勝手に打っていた。無意識だった。


 最後は霧島先生。


 先生は鉛筆で書いたルーズリーフを一枚持っている。全員が注目する。先生が創作するのを見るのは初めてだ。


「読む」


「お願いします」


「"選評:本作『俺VS巨大カレーうどン』は、大胆な題材選びが光る意欲作である。スケール感は評価できるが、あれの描写に具体性が欠ける。'でかい'だけでは読者の想像力を刺激しない。味、匂い、温度、粘度、色彩——五感を総動員した描写を求めたい。また、主人公の動機が'好きだから'では物語としての厚みに欠ける。なぜ好きなのか。いつから好きなのか。'好き'の解像度を上げることが、次作への課題である。以上。次作に期待する"」


 全員が固まった。


「先生、それ作品じゃなくて選評ですよね」


「選評だ」


「リライトしてくださいって言ったんですけど」


「これが俺のリライトだ。編集者は作品を書かない。作品を評価する」


「先生それズルくないですか!?」


「ズルくない。これが出版業界のリアルだ」


「出版業界に逃げないでください」


 壮介が手を叩いた。


「でも先生の選評、めちゃくちゃ的確じゃん! "五感を総動員した描写を求めたい"って、つまり匂いとか味とか書けってことだろ? それ次書くとき意識してみる!」


 全員が壮介を見た。


「お前、今めちゃくちゃまともなこと言ったな」


「言った? 俺が?」


「先生の選評をちゃんと理解して、次に活かそうとしてる。それ、作家としてすごくまっとうな反応だぞ」


 凛先輩が少し驚いた顔をしていた。


 霧島先生が小さく笑った。


「大和、お前の次作は五感を入れろ。"ビカビカ"みたいな擬態語をもっと使え」


「ビカビカ! 使う!」


「ビカビカは焼肉のときの表現だけどな」


「あれにも使える! カレーの汁がビカビカ光ってた!」


「それは合ってるかもしれない」


 *


 リライト大会が終わった後、凛先輩がボードに四つのリライト作品のタイトルを書き出した。


 「うどん失踪事件」(凛)。

 「カレーうどンとの邂逅」(詩織)。

 「第四クォーター」(陽翔)。

 「選評」(霧島)。


 その下に、原作。


 「俺VS巨大カレーうどン」(壮介)。


 五つのタイトルがボードに並んでいる。ミステリ、純文学、スポーツ実況、選評、そしてバトルもの。全部同じ「カレーうどン」から派生している。同じ題材なのに、五人が書くと五つの全然違う作品になる。合評会のときと同じだ。


「部誌に全員分のリライトを載せたら面白くないか?」


 凛先輩がホワイトボードを眺めながら言った。


「え、載せるんですか、これを」


「載せる。"同一テーマ・五人五色リライト特集"。部誌の企画としてはかなり面白い」


「俺の原作も載るの!?」


「載せる。比較対象として必要だ」


「比較対象!」


「お前の三百文字が起点になって、四つの作品が生まれた。それ自体が一つの企画だ」


 壮介が胸を張った。


「俺、原作者じゃん!」


「原作の質はさておき、発想の起爆力は認める」


 詩織さんがノートに書き込んでいた。


「部誌の構成案を作ってもいいですか? リライト特集のページ割りを考えたいんですが」


「頼む。千歳、お前が構成を担当しろ。朝倉はカレーうどンのエッセイの続きも部誌に載せろ。壮介は次作の短編を書け。今度は五百文字以上」


「五百! ハードル上がった!」


「三百文字の次が五百文字だ。段階的な成長を目指せ」


「段階的な成長!」


「部誌の締切は来週金曜。変更なし。遅れた者はボードの殺意の矢印リストに名前を追加する」


「それは脅迫では」


「動機付けだ」


 帰り支度をしながら、俺は壮介の背中を見ていた。


 壮介は何も書けない。三百文字の短編はツッコミどころしかなかった。文法は壊滅的で、展開は無茶苦茶で、オチも何もない。


 巨大カレーうどンと素手で戦って、スープをプール一杯分飲み干して世界が平和になる。馬鹿馬鹿しい。子供が思いつきで書いた絵日記のほうがまだ構成がしっかりしている。


 でも壮介が書いたものを読んで、壮介が一番でかい声で笑った。


 全員が笑いを堪えられなかった。凛先輩がツッコミ項目を八つも数えた。そして全員が「じゃあ俺ならこう書く」と思っている。全員がそれぞれのジャンルで書き始めた。


 俺はスポーツ実況にした。霧島先生は選評という反則技に出た。壮介の三百文字がなかったら、誰もカレーうどンのエッセイでリライトなんてやらなかった。


 壮介は文芸部で一番書けない人間だ。


 でも壮介がいると、全員が何かを書きたくなる。


 触媒、という言葉を理科の授業で習ったことがある。自分自身は変化しないけど、他の物質の化学反応を促進する物質。壮介はたぶんそれだ。自分では傑作は書けない。


 しかし周りの人間の中にある何かに火をつける。壮介が馬鹿なことを全力でやるから、全員が「負けてたまるか」と思って本気で書く。あいつが恥ずかしがらずに三百文字を差し出すから、全員が「じゃあ俺も出そう」と思える。


 それはたぶん、文芸部に一番必要な才能だ。


 凛先輩が最後に言った言葉を思い出す。


「壮介は文芸力じゃなくて突破力」


そうかもしれない。壁を壊すのはいつも壮介だ。壁の向こうに何があるかはあいつ自身にもわからない。でも壊した穴から、全員が先に進める。


「なあ陽翔、明日もリライトやる!?」


 壮介が振り返って叫んだ。校門の向こうで夕日が沈みかけている。


「明日は普通の部活だよ」


「えー、リライト楽しかったのに!」


「毎日やったらネタが尽きるだろ」


「尽きない! 次は"俺VS巨大焼肉"で!」


「お前のテーマ、食べ物しかないのか」


「食は人生だ!」


「その言葉だけは否定できないんだよな」


「あと"俺VS巨大ラーメン"と"俺VS巨大ハンバーグ"もある!」


「全部食べ物じゃないか」


「食べ物以外で書けって言われても困る!」


「困るな。お前の場合は困る」


 原稿用紙の使い方を知らない男。だがあいつが書いた三百文字のおかげで、今日の文芸部は今までで一番賑やかだった。


 部誌の締切まであと五日。


 鞄の中には、部誌に載せるカレーうどンのエッセイの原稿が入っている。


 *


 部誌の締切二日前。放課後の部室に全員が揃った。


「原稿レビュー会を始める。全員、他の部員の原稿を一本読んで、コメントを書け」


 凛先輩がボードにペアを書き出した。


「朝倉が千歳の原稿を読む。千歳が壮介を読む。壮介が俺を読む。俺が朝倉を読む。先生は全員分に赤を入れる」


「先生だけ仕事量が多くないですか」


「顧問だからな」


「顧問の定義が拡大しすぎている」


 原稿が交換された。俺の手元に詩織さんの短編が来た。A4で六枚。


「朝倉くん、恥ずかしいので優しくお願いします」


「優しくって、具体的には」


「批判は三つまでにしてください」


「三つまでルールがあるんですか」


「今作りました」


「即席ルールじゃないですか」


 読み始めた。詩織さんの新作。タイトルは「窓辺の声」。窓辺で本を読んでいる少女のもとに、毎日同じ時間に声が聞こえてくる話。声の正体は隣の教室で朗読練習をしている少年。少女は声だけで少年のことを知っていく。


 三枚目で気づいた。この少年、また俺がモデルだ。声の特徴が「低めで、たまに早口になる」と書いてある。


「詩織さん」


「はい」


「主人公の少年って」


「フィクションです」


「まだ聞き終わってないんですけど」


「先手を打ちました」


「先手が早すぎます」


 壮介が凛先輩の原稿を読んでいる。三分で質問が出た。


「先輩、二ページ目のこの人、生きてるんですか死んでるんですか」


「読み進めればわかる」


「わかんないから聞いてるんだけど」


「それがミステリだ。疑問を持ったまま読み進めろ」


「疑問が多すぎて進めない!」


「お前の疑問は全部的外れだろうけど、一応聞いてやる。どこがわからない」


「全部」


「全部はさすがに」


「いや、マジで全部。一ページ目から何が起きてるかわかんない」


「主人公が部屋に入ったシーンだぞ。何がわからないんだ」


「部屋に何があるの? 家具は? 広さは?」


「書いてあるだろう。"六畳の書斎に——"」


「六畳はわかった。そこから先がわからない」


「どこまでわかった」


「六畳」


「二文字かよ!」


 凛先輩が素で叫んだ。珍しい。壮介が先輩の冷静さを崩すのは、毎回見ていて楽しい。


「先輩、壮介にミステリを読ませるのが間違いでは」


「間違いじゃない。壮介の読みは文芸部で一番素直だ。壮介がわからないということは、一般読者もわからないということだ」


「俺、一般読者の代表なの?」


「最も純粋な読者だ。前知識がゼロで、偏見もゼロで、読解力も——」


「ゼロ?」


「ゼロとは言ってない。限りなく自然体だ」


「褒められてるのかけなされてるのかわからない!」


「褒めてる。お前の感想は嘘がないから参考になる」


 詩織さんが壮介の原稿を読んでいた。壮介の新作短編「俺と焼肉と夕焼け」。五百字。前回の四十二文字から大幅に増えている。


「壮介くんの原稿、読みました」


「どうだった!?」


「えっと」


 詩織さんが少し考えた。言葉を選んでいる。


「正直に言っていいですか」


「いいよ!」


「文法が七箇所間違っています。主語と述語がねじれている箇所が二つ。"食べた"と"食べる"の時制が混在しています。あと"おいしい"のひらがなと"美味しい"の漢字が一つの文章の中で三回入れ替わっています」


「七箇所!?」


「でも」


 詩織さんの声が柔らかくなった。


「最後の一文がすごくいいです」


「最後?」


「"夕焼けと焼肉の色が同じだった"。この一文だけで、壮介くんがどれだけ焼肉を愛しているかが伝わります」


「愛してる! 焼肉を!」


「知ってます」


「夕焼けと焼肉の色が同じだって気づいたの、昨日の帰り道なんだよ!」


「その気づきが文学です」


「文学!? 俺が文学!?」


「壮介くんの"気づき"は、いつも予想外の角度から来るんです。だから面白い」


 壮介がにかっと笑った。褒められると本当に嬉しそうな顔をする。


 凛先輩が俺の原稿を読み終えた。


「朝倉」


「はい」


「エッセイ、前より良くなってるな」


「本当ですか」


「具体的に言うと、身体感覚の描写が増えた。"箸を割るときの指先の緊張"とか、"器を持ち上げたときの重さ"とか。こういう描写があると、読者も一緒に食べてる気分になる」


「先輩に褒められると照れますね」


「照れるな。まだ指摘がある」


「あるんですか」


「三つ目の段落、テンポが落ちてる。"思った"が二回続いてるだろう。同じ語尾の連続はリズムを殺す。直せ」


「直します」


「あと最後の一文。悪くないが、もう一歩踏み込める。"また食べたい"で終わってるが、もう少し余韻が欲しい」


「余韻って具体的には」


「読者に考えさせる一文だ。書ききらないで、少しだけ空白を残す。読者がそこに自分の感情を入れられるように」


「難しいですね」


「難しい。だからやる価値がある」


 霧島先生が全員の原稿に赤ペンを入れ終わった。一人あたり三分。驚異的な速度だ。


「全員に共通して言えることが一つある」


「なんですか」


「全員、前より上手くなってる」


「先生が褒めてる!」


「褒めてない。事実を述べている」


「事実として上手くなってるなら、それは褒め言葉じゃないですか」


「まあ、そうかもしれないな」


 先生がコーヒーを飲んだ。小さく、本当に小さく笑っていた。


「締切は明後日だ。全員、修正して提出しろ。遅れるな」


「遅れません!」


 壮介が叫んだ。声量が部室を揺らした。


「壮介、文法の七箇所、直してから出してね」


「七箇所! 覚えてる!」


「覚えてるというか、全部メモしてあります。はい、これ」


 詩織さんが壮介に付箋を渡した。七箇所の修正指示が、丁寧な字で書かれている。


「詩織ちゃん、優しい!」


「優しさではなく編集です」


「編集ってなに」


「人の文章をより良くする仕事です」


「じゃあ詩織ちゃんは俺の編集者だ!」


「壮介くん専属の編集者にはなりたくないです」


「なんで!」


「仕事量が多すぎるからです」


 全員が笑った。部室がまた賑やかになった。

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