第2話 : 大和壮介という名の核弾頭
大和壮介は、一人で教室を埋められる男だ。声で。声が屋外仕様なのだ。室内で使うには出力が高すぎる。
弁当箱は二段重ね。蓋を開けた瞬間、醤油と卵焼きの匂いが半径三メートルに広がる。おかずの量が異常だ。卵焼きが四切れ、唐揚げが六個、ウインナーが五本、その隙間にブロッコリーが詰め込まれている。
食べ方は豪快そのもので、箸を動かすたびにがたいのいい身体が前後に揺れる。
こいつだけは、俺がサッカー部を辞めた後も何も変わらなかった。パスを出し続けるフォワードみたいに、ずっと俺の横にいた。
他のクラスメイトは微妙に距離を取った。「朝倉、足大丈夫?」という気遣いの後に、なんとなく話題がなくなって離れていく。球技しかつながりがなかった連中は、それがなくなれば用がない。当然のことだ。
でも壮介だけは、翌日も翌々日もいつも通り隣の席でバカでかい声を出していた。
「陽翔、焼肉行かね?」
「陽翔、あの映画見た?」
「陽翔、宿題見せて」
何も変わらない。
変わらないことの有り難さは、変わってしまったものが多い人間にしかわからない。
その壮介が、ここ数日ずっと俺の放課後を気にしている。
「なあ陽翔、お前ほんとに文芸部入ったの?」
唐揚げを箸で突き刺しながら壮介が言った。油の匂いが鼻をくすぐる。突き刺すな。行儀が悪い。
「入った」
「マジで? 書くやつ?」
「書くやつ」
「お前が?」
「俺が」
「何書いてんの?」
「カレーうどンのエッセイ」
「カレーうどン!? ていうか文芸部って何するの? 殴り合い?」
「どうしたらそうなる」
「文……芸……。文字で芸をする? 書道?」
「それは書道部だ」
「じゃあ何? 小説書くの?」
「小説でもエッセイでも、なんでも書く部活だよ」
「エッセイって何?」
「身の回りのことを書く文章」
「それが身の回りにあるの?」
「学食にあるだろ毎日」
「あー、あるな。あれ美味いよな」
「美味い」
「原稿用紙って何マスあるの? 将棋盤より多い?」
「比較対象がおかしい。四百字だ」
「四百!? 将棋盤は八十一マスだぞ!? 五倍じゃん!」
「将棋の話はもういいよ」
「活字って食えるの?」
「食えない。文字だよ」
「お前と話してると国語辞典を投げたくなる」
「それは文芸っぽい!」
「暴力だよ!」
「壮介、声でかすぎ。教室の半分が聞いてるぞ」
「聞かせてるんだよ! エンタメだ!」
「迷惑だって」
「迷惑じゃない! 笑ってるだろみんな!」
実際、周囲のクラスメイトは笑っていた。
「で、そのカレーうどンのやつ書いたの?」
「書いた。千二百字」
「千二百!? すげえ! 俺、作文で二百字書くのが限界なんだけど!」
「お前の二百字もだいぶすごいけどな」
壮介がニカッと笑った。この男の笑い方はいつも全力だ。頬の筋肉を総動員して笑う。手抜きがない。
「なあ、その文芸部ってどんな感じ?」
「どんな感じって?」
「誰がいるの?」
「部長の凛先輩と、千歳さんっていう同級生と、顧問の霧島先生」
「凛先輩って女?」
「女」
「かわいい?」
「かわいいっていうか、かっこいい系。クールで、ミステリ書いてて、推理小説の犯人みたいな計画性がある」
「なにそれ怖い」
「千歳さんは——」
「女?」
「女」
「かわいい?」
「お前の質問それしかないのか」
「大事な情報だろ!」
「かわいいかどうかはともかく、すごい人だよ。小説がめちゃくちゃ上手い。あと取材って言って人の情報を集めるのが趣味みたいなところがある」
「取材?」
「俺のコンビニの購買傾向まで把握されてた」
「何それ、FBIじゃん」
「CIAだろ。いやどっちでもいいけど」
壮介が弁当の最後のウインナーを口に放り込んだ。
「面白そうじゃん。俺も見に行っていい?」
「やめとけ」
「なんで!?」
「お前が来たら部室が崩壊する」
「失礼だな! 俺だって静かにできるし!」
「お前が静かにしてるとこ、十五年の付き合いで一回も見たことないんだけど」
「幼稚園からの付き合いを持ち出すなよ!」
周囲のクラスメイトが振り返っている。壮介の声はどう頑張っても教室全体に響く。
でも、嫌いではない。
*
放課後。部室。
戸を開けると、いつもの光景があった。詩織さんがペンの音を響かせていて、凛先輩がソファで文庫本を開いている。ページを繰る指が止まることがある。読んでいるのではなく、考えている時間だ。
霧島先生は今日もいない。たぶん職員室でどこかの生徒の課題を添削している。
ただし今日はいつもと違うものがあった。
ホワイトボードに、赤い字でデカデカと書かれている。
「部員勧誘作戦会議」
「遅い。座れ」
凛先輩がソファから指示を出してきた。座る。ちゃぶ台の南側。俺の席。
「勧誘作戦って何ですか」
「読んで字の如くだ。五人目の確保が急務だ」
「急務ですか」
「廃部は来月末に判定される。あと一人いないと、この部は消える」
消える。その一言に重さがあった。凛先輩の口調は相変わらずクールだが、「消える」のときだけ、ほんの少し声が硬くなった気がした。
詩織さんがちゃぶ台にノートを広げた。表紙に「勧誘作戦ノート」と書かれている。
「いつ作ったんですかそれ」
「今朝です」
「仕事が速い」
「朝倉くんの交友関係を調査したところ——」
「結果、最有力候補は一名です。大和壮介さん」
凛先輩が腕を組んだ。
「データは揃った。あとは実行だ」
「俺に勧誘しろってことですか」
「お前しかいないだろ。友達なんだから」
「友達を売る気分なんですけど」
「売るんじゃない。投資だ」
「言い換えただけですよね」
「投資は未来への希望だ。売却とは違う」
「凛先輩、そのへんの言い回しが上手すぎるんですよ」
「ミステリ書きだからな。言葉で人を動かすのは得意だ」
戸が開いた。霧島先生が缶コーヒーを持って入ってくる。ホワイトボードの赤字を見て、一瞬だけ目を細めた。
「勧誘か。頑張れよ」
「先生は手伝ってくれないんですか」
「俺の仕事は生徒が集まった後だ。集めるのはお前たちの仕事だ」
「丸投げですね」
「丸投げじゃない。信頼だ」
「先生もそっち系の言い回しですか」
凛先輩が定位置から立ち上がった。
「明日の昼休み、屋上で仕掛ける。朝倉、壮介を屋上に呼び出せ」
「呼び出すって、不良の呼び出しみたいじゃないですか」
「文芸的呼び出しだ」
「どう違うんですか」
「暴力ではなく言葉で勝負する」
「それは普通の会話では」
*
翌日の昼休み。
壮介を屋上に呼び出した。「ちょっと話がある」と言ったら、壮介は弁当箱を片手に二つ返事でついてきた。このフットワークの軽さがあいつの美点であり弱点だ。
屋上のフェンス際に並んで座った。四月の風が気持ちいい。空が広い。壮介が弁当の蓋を開けている。屋上でも食うのか。
「で、話って?」
「あのさ壮介、お前最近暇だろ」
「暇じゃねえよ。忙しいよ」
「何が忙しいの」
「いろいろ」
「部活、最近ほとんど行ってないだろ」
壮介の箸が一瞬止まった。図星だ。
「行くときは行ってる」
「週に何回?」
「一回くらい」
「それ幽霊部員って言うんだよ」
「幽霊じゃねえよ! たまに実体化してるだろ!」
「幽霊の自覚あるじゃないか」
壮介がウインナーを噛みちぎった。黙って咀嚼している。
「文芸部、来てみない?」
「文芸部ねえ」
「地味だよ。でも意外と面白い」
「何が面白いの」
「俺が書いたあれの文章が褒められた」
「うどんの文章ってなんだよ」
「俺もよくわからん。でも褒められた」
「褒められたって、誰に?」
「先輩と千歳さんに」
「あー、昨日言ってた美人の先輩と、FBIの」
「CIAだしFBIでもない。普通の高校生だよ。たぶん」
壮介が空を見上げた。唐揚げを箸でつまんだまま、しばらく黙っていた。風が制服の裾を揺らしている。
「俺さ、部活、もういいかなって思ってるんだよね」
「え?」
「お前が辞めてから、なんか違うなって。お前と一緒に走ってた頃は楽しかったけど、今のチームとはなんかこう、合わないっていうか」
「お前、そんなこと考えてたのか」
「考えてたよ。俺だって考えるんだぞ」
「知らなかった」
「知らなくていいよ。言ってなかったし」
「でもさ、辞めたところで行く場所ないし」
「あるよ」
「え?」
「文芸部」
「お前、勧誘しにきたのかよ!」
「半分は」
「半分って、もう半分は!?」
「お前と話がしたかった」
壮介が一瞬きょとんとした。それから、にかっと笑った。全力の笑顔。
「お前、たまにかっこいいこと言うよな」
「うるさい」
背後の非常階段から、カサッという音がした。
振り返る。非常階段の踊り場に、凛先輩が小型のホワイトボードを持ってしゃがんでいた。詩織さんがその横にノートを構えている。隠れているつもりらしいが、ホワイトボードの白い面がばっちり見えている。
ホワイトボードには「"部室にはお茶と菓子がある"と言え」と書いてあった。
カンペだ。凛先輩がカンペを出している。
仕方ない。そのまま伝える。
「壮介、部室にはお茶と菓子がある」
「マジ? 行く」
「食べ物で釣られるのかよ!」
凛先輩がホワイトボードを裏返した。裏面には「作戦成功」と書かれている。
振り返って叫んだ。
「成功じゃないですからね!」
「……誰と喋ってんの?」
壮介が怪訝な顔でこちらを見ている。非常階段のほうを覗き込む。
「あ、なんか人いる」
「ばれたか」
凛先輩が諦めて立ち上がった。涼しい顔で階段を上がってくる。
「ばれますよ。ホワイトボードの白が目立ちすぎです」
「次はもっと小さいボードを用意する」
「次もやるんですか」
「こんにちは。文芸部部長の桐谷です」
壮介の目が見開かれた。
「おー美人! 入部します!」
「「「早い!!」」」
俺と凛先輩と詩織さんの声が重なった。詩織さんもいつの間にか出てきている。
「いやいやいや、ちょっと待て壮介。今の即決はさすがに」
「だって美人だし」
「それだけで入部するのか」
「あとお茶と菓子もあるし」
「動機が不純すぎる」
凛先輩が少しだけ口角を上げた。
「まあ、動機はなんでもいい。見学からで構わない。放課後、部室に来てみろ」
壮介が弁当箱の蓋を閉じた。
「考えとく」
そう言って屋上から去っていった。階段を降りる足音がやけに軽い。
「手応えはあった」
凛先輩が言った。
「ありましたかね」
「食べ物と美人に反応していた。条件は揃っている」
「文芸部の条件に食べ物と美人は入ってないと思うんですけど」
詩織さんがノートにペンを走らせている。目がキラキラしている。
「大和さん、面白い方ですね。声量がすごいです。あと表情の変化が激しくて、観察しがいがあります」
「詩織さんの"観察しがいがある"は、それ褒めてるんですか」
「最大級の褒め言葉です」
*
その日の放課後。
部室で詩織さんの原稿を読ませてもらっていたら、引き戸がバーンと開いた。
壮介が仁王立ちしていた。
「ちょっと見に来ただけだから!」
「見にくるだけなら静かに来てくれ」
「これが静かだ!」
「嘘つけ」
本棚をガサガサ漁る。
「おー、本がいっぱいある! すげえ!」
「丁寧に扱え」
凛先輩の声が鋭い。
卓をバンバン叩く。
「いい音する! この木!」
「ちゃぶ台は楽器じゃない」
ソファにダイブした。
「ふかふかだ!」
「俺を潰す気か」
「先生! 大丈夫ですか!」
「大丈夫じゃない。コーヒーが危険な角度だ」
「コーヒーの心配かよ」
「コーヒーは俺の命綱だ」
ホワイトボードにマーカーで落書きを始めた。
「大和参上」
凛先輩が無言でイレイサーを手に取り、書いた端から消していく。壮介が書く、凛先輩が消す。書く、消す。書く、消す。
「消すの速くない!?」
「書くのが遅いんだ」
「へー、ここが文芸部か」
壮介がようやく落ち着いて、卓の前に座った。あぐらをかいて、部室を見回している。本棚、ソファ。ホワイトボード。窓から差す西日。
「思ったより……なんだろ、いいな」
「何がいいんだ」
「空気が。なんか落ち着く」
「お前が来て空気が荒れたんだが」
「お前の"いい"がどのベクトルなのか不安なんだけど」
「この畳! ゴロゴロできるじゃん!」
「それは活動内容に含まれない」
凛先輩が即座に否定した。
「このソファ最高。寝れる」
「俺の定位置を奪うな」
霧島先生が一杯を守りながら抗議している。
「先生も寝てるんですか?」
「顧問の権利だ」
「俺にもその権利ください」
「入部届を出してからな」
「あっ」
壮介が本棚から文庫本を適当に引き抜いた。パラパラめくる。三ページで閉じた。
「無理。字が多い」
「小説だぞ」
「絵がないと読めない」
「挿絵を描きましょうか?」
詩織さんが真顔で提案した。壮介が「マジ!?」と目を輝かせている。
「問題はそこじゃない」
別の本を取り出す。今度はミステリ。凛先輩の私物だ。
「これは?」
「私のミステリ短編集だ。触るなら手を洗え」
「先輩、本に対して厳しすぎない?」
「本は命だ。命に対して厳しいのは当然だ」
壮介が表紙をまじまじと見つめた。
「殺人事件って書いてあるけど、これ怖い?」
「怖くない。面白い」
「人が死ぬのに面白いって、先輩なかなかやばくない?」
「フィクションだ。現実では誰も死なない」
「……先輩って優しいのか怖いのかわかんないな」
「褒め言葉として受け取っておく」
壮介が卓の角に肘をついた。部室を見渡している。嵐のような行動が一段落して、ようやく静かになった。
ふと、壮介がポツリと言った。
「でもさ、ここ居心地いいな」
声が小さかった。
「静かだし。人少ないし」
「教室のお前と別人みたいだな」
「教室は教室だよ。ここはここ」
「使い分けてるのか」
「してないよ。勝手にこうなる」
壮介が畳の上に座って、静かに部室の空気を吸い込んでいた。
目が合った。
いつものニカッとした笑顔に戻る。
「あ、いや別にただの感想だけど!」
「ああ」
それ以上は聞かなかった。
壮介が部活から距離を置いている理由を、俺はまだ知らない。昼に「もういいかな」と言っていたけど、その奥に何があるのかは見えない。
*
帰り支度の時間になった。
壮介が畳の上からのっそり立ち上がる。「見に来ただけ」のわりには長い滞在だ。
「明日も見に来ていい?」
「勝手にしろ」
凛先輩が文庫本を閉じながら言った。
「大歓迎です」
詩織さんがノートを閉じながら言った。
「ソファは譲らないぞ」
霧島先生が一杯を飲みながら言った。
壮介がにっと笑った。
「じゃあまた明日な!」
引き戸がバンと閉まった。壮介が去ると、部室は急激に静かになった。
「騒がしい奴だな」
「すみません、あれがデフォルトです」
「デフォルトであの音量か。大物だな」
「大物かどうかは怪しいですけど」
凛先輩がホワイトボードの前に立った。「大和参上」の文字は完全に消されているが、マーカーの跡がうっすら残っている。凛先輩がそれを指でなぞった。
「明日から部室の音量が三倍になる」
「たぶん」
「壊されるものがないか、今のうちに確認しておくか」
「確認したほうがいいかもしれないです」
校門まで歩いた。凛先輩は反対方向に消え、霧島先生は職員室に戻り、詩織さんとは途中まで並んで歩いた。
「大和さん、面白い方ですね」
「そうですか?」
「はい。観察対象として非常に興味深いです。あと、朝倉くんが大和さんといるときの口調、少し柔らかくなりますね」
「え、そうですか?」
「はい。普段より語尾が穏やかです。親友なんですね」
「まあ、幼稚園からの腐れ縁です」
「素敵な縁ですね」
分かれ道で手を振って別れた。詩織さんの背中が夕焼けの中に小さくなっていく。
一人で歩きながら考えた。
壮介が畳の上で「居心地いいな」と言った顔を、俺は忘れないと思う。あいつの「考えとく」は、昔から「やる」と同義だ。
*
壮介が二回目の見学に来た日のこと。
壮介より先に部室に着いていた。今日は凛先輩と詩織さんと俺の三人。先生は職員会議で遅れるらしい。
「朝倉、聞いていいか」
「何ですか」
「大和壮介って、どんな奴だ」
凛先輩がソファに座ったまま聞いた。文庫本を膝に置いている。
「どんなって、昨日見た通りですけど」
「昨日見たのは表面だ。お前は十五年の付き合いだろう。中身を聞きたい」
「中身か。そうですね。バカです」
「それは見ればわかる」
「優しいです」
「それも見ればわかった」
「えっと、焼肉が好きで、声がでかくて、走るのが速くて」
「スペックを聞いてるんじゃない。人間性の話だ」
「人間性って言われると難しいですね」
詩織さんがペンを止めた。
「朝倉くん、大和さんが一番"壮介くんらしい"瞬間っていつですか」
「壮介らしい瞬間?」
「はい。大和さんが大和さんでしかありえない瞬間。他の誰にも代替できない、大和壮介だけの瞬間」
「大げさだな」
「大げさではありません。人にはそういう瞬間があるんです。朝倉くんにもあります」
「俺にも?」
「はい。朝倉くんが一番"朝倉くんらしい"瞬間は、書いてる途中で手が止まって、窓の外を見る瞬間です」
「それ、ぼんやりしてるだけでは」
「ぼんやりじゃないです。考えてるんです。言葉を探してる顔をしてます」
「観察が細かすぎません?」
「取材です」
「はいはい」
凛先輩が話を戻した。
「で、壮介が一番壮介らしい瞬間はいつだ」
考えた。十五年分の壮介を振り返る。
「たぶん、誰かが困ってるときに最初に声をかける瞬間です」
「声をかける」
「あいつ、考えないんですよ。困ってる人を見たら反射で声をかける。俺が足を壊して教室でぼんやりしてた日も、誰よりも先に来て"焼肉行こうぜ"って言った」
「焼肉が解決策になるのか」
「壮介にとってはなるんです。飯を一緒に食えば何とかなると思ってる。バカだと思いますけど」
「バカだとは思わない」
凛先輩の声が静かだった。
「声をかけるのは勇気がいる。特に、相手が落ち込んでいるときは。下手なことを言ったら傷つけるかもしれない。普通はそれを考えて黙る。でも壮介は考えずに声をかける。考えないから怖くない。怖くないから行動できる」
「先輩、壮介のこと気に入りました?」
「気に入ったかどうかは別だ。ただ、あいつがいると部室の空気が変わった。昨日の一時間で。今まで三人でやってきた部室と、壮介が入った部室は、別物だった」
「どう別物ですか」
「うるさくなった」
「それ褒めてないですよね」
「褒めてる。静かな部室は心地いいが、うるさい部室は生きている。昨日の部室は生きていた」
詩織さんがノートに書き込んでいた。
「今のメモしました」
「何を」
「"うるさい部室は生きている"。凛先輩の名言として記録します」
「名言って、日常会話を勝手に名言にするな」
「日常会話の中に名言があるんです。それを拾うのが取材です」
「お前の取材範囲が広すぎる」
「世界は取材対象です」
「世界」
「はい。部室も、先輩も、朝倉くんも、大和さんも」
「俺も入ってるのか」
「当然です。凛先輩は取材対象として最高レベルです」
「最高レベルの取材対象って嬉しくないな」
「嬉しくなくても事実です」
戸がバーンと開いた。
「ただいま!」
壮介だった。両手にコンビニ袋。今日も差し入れを持ってきている。
「お帰り。誰の家でもないけど」
「文芸部は俺の第二の家だ!」
「まだ入部してないだろ」
「心は入部してる!」
「心の入部は受け付けていない。入部届を出せ」
「明日出す!」
「昨日も明日って言ってたぞ」
「明日の明日だ!」
「それは明後日だ」
「じゃあ明後日出す!」
「お前の"明日"は永遠に来ないタイプだな」
「来る! 絶対来る!」
凛先輩がため息をついた。だが口元は笑っていた。
「まあいい。座れ。お茶を淹れてやる」
「先輩が淹れてくれるの!?」
「部長の仕事だ」
「先輩、優しい!」
「うるさい。黙って飲め」
壮介が畳の上にどかっと座った。コンビニ袋からポテチとチョコとグミが出てきた。
「今日は何する?」
「活動」
「活動って?」
「書くこと」
「あ、パス」
三日連続の同じやりとり。凛先輩がまったく同じトーンで答えている。壮介の「パス」も、もう慣例みたいになっていた。
「パスか。じゃあ座って見てろ」
「見てるだけでいいの?」
「見てるだけでいい。ただし静かにしろ」
「静かにする!」
「その声量が静かじゃない」
壮介がポテチの袋を抱えたまま、畳の隅に座った。凛先輩がソファでミステリの推敲を始めた。俺がPCの前に座った。詩織さんが万年筆を構えた。
三人が書いている。一人が見ている。
五分くらい経った。壮介が声を出した。
「なあ陽翔」
「静かにしろって言われたろ」
「小声で聞く。お前、今何書いてんの」
「カレーうどンのエッセイの続き」
「続きってことは、前に書いたのがあるのか」
「ある。千二百字くらい」
「千二百!? 多くない!?」
「小声」
「千二百!?」
「音量変わってない」
「すげえな。千二百文字も何書くことあるの」
「カレーうどンの話だけで千二百字だよ。麺の太さ、出汁の色、カレーの辛さ、学食のおばちゃんの顔。書くこと自体は無限にある」
「無限?」
「好きなものの話は、書き出すと止まらない」
壮介が黙った。ポテチの袋をかさかさ鳴らしている。
「詩織ちゃんは何書いてるの」
「短編小説です。図書室で出会う二人の話」
「二人って?」
「秘密です」
「教えてくれよ!」
「完成したら読めます」
「いつ完成するの」
「今週末には」
「速くない!?」
「詩織さんは速いんだよ。万年筆が止まらない人だから」
詩織さんがペンを動かしながら、壮介のほうを見ずに言った。
「大和さんも書いてみたらいいのに」
「俺は書けないって」
「書けないかどうかは、書いてみないとわかりません」
「書こうとしたことがないから書けないって言ってるんだよ」
「それは"書けない"じゃなくて"書いたことがない"です。違う言葉ですよ」
壮介が固まった。ポテチの手が止まっている。
「先輩は何書いてるんですか」
「ミステリ」
「面白い?」
「面白い。自分で書いたトリックに自分で感心している」
「自画自賛じゃん」
「自画自賛と自己評価は違う。自分の作品を冷静に面白いと判断できるのは、技術だ」
壮介がまた黙った。三人が書いている音だけが部室に残った。ペンの音、キーボードの音、ページをめくる音。壮介のポテチのかさかさ音だけが異質だった。
「なあ」
「ん」
「書いてる時って、何考えてんの」
「何も考えてない」
「何も?」
「指が勝手に動いてる感じ。考えてるというより、頭の中にあるものが指を通って文字になっていく」
「それってサッカーと似てない? お前、ドリブルしてる時"右足を出して左足を出して"とか考えてなかったろ」
「考えてなかった。身体が勝手に動いてた」
「それと同じなんじゃん。書くのも」
俺の手が止まった。壮介がたまに言うこういう一言が、核心を突いてくる。
「壮介、お前今すごいこと言ったぞ」
「え? 何が?」
「書くことと走ることが同じだって。それ、俺がずっと言葉にできなかったことだ」
「マジ? 俺ただ思ったこと言っただけだけど」
凛先輩がソファから声を出した。
「壮介、お前は書く才能がないかもしれないが、見る才能がある」
「見る才能?」
「人が書いているのを見て、本質を一言で言い当てる。それは編集者の目だ」
「編集者!? かっこいい!」
「まだ何も書いていないのに"かっこいい"と言うな。書いてから言え」
「書く! いつか!」
「いつかじゃなく、近いうちにだ」
凛先輩の目が壮介を見ていた。試すような目ではなかった。待っている目だった。
*
壮介が来ない日はなかった。
「俺は部員じゃないからな。見学者だからな」
「見学者がお菓子持ち込まないだろ」
「差し入れだよ」
「差し入れにしては本人が一番食べてるけどな」
「何買ってきたんだ」
凛先輩がソファから身を乗り出して、壮介のコンビニ袋を覗き込んだ。
「見学者の差し入れは受け取らない主義だけど、このチョコは例外」
「主義が三秒で崩れたんですけど」
「チョコに罪はない」
「先輩のロジックたまに壊れますよね」
詩織さんが壮介の横でペンを走らせていた。
「詩織ちゃん、何書いてんの?」
「大和さんの行動記録です」
「え、俺の?」
「はい。来室時刻、持参物、発言回数、声量の推定デシベル値を記録しています」
「デシベル値!?」
「大和さんの通常会話は推定七十五デシベルです。掃除機と同じくらいですね」
「掃除機!? 俺そんなにうるさい!?」
「興奮時は九十デシベルに達します。電車のガード下と同じです」
「電車の!? もっとやばいじゃん!」
「スケールがでかいよ」
俺がツッコむと、詩織さんがこちらを見てにっこり笑った。
「朝倉くんのデータはもっと詳細ですよ」
「嬉しくない情報をありがとうございます」
部室の空気はすっかり変わっていた。
でも不思議と、悪い変化じゃなかった。
*
「大和、そろそろはっきりさせよう」
「何を?」
「入るのか入らないのか」
壮介がお菓子のポッキーをくわえたまま固まった。
「うーん、まだ迷ってる」
「三日間見学して、まだ迷うのか」
「だって俺、何もできないし。書けないし」
「じゃあ条件を出す」
凛先輩がソファから立ち上がった。ホワイトボードの前に立つ。マーカーを手に取って、大きく書いた。
「入部条件:何か一つ書け」
「何でもいい。百文字でもいい。それが入部届の代わりだ」
「百文字?」
「百文字。作文用紙の四分の一だ」
「余裕じゃん!」
「じゃあ書け。今すぐ」
凛先輩が古いノートPCを壮介の前にセットした。テキストエディタの白い画面。カーソルが点滅する。
壮介がキーボードに指を置いた。
五分経過。画面は白いまま。
「書けた?」
「待って、今考えてる」
壮介の指がキーボードの上で泳いでいるが、文字は出ない。指が動いているのにキーを押していない。エアタイピングだ。
十五分経過。壮介が「あー」と声を出した。
「書けた?」
「いや、"あー"って言っただけ」
「声は文字数にカウントされないぞ」
三十分経過。
画面に表示された文字——「あ」
「一文字!?」
凛先輩が素で叫んだ。
「"あ"って深い文字だと思うんだよ。あいうえおの最初。すべての始まり」
「哲学で逃げるな」
「"あ"は母音の頂点だぞ!」
「頂点でも一文字は一文字だ」
壮介のタイピングが壊滅的だということがここで判明した。ホームポジションを知らない。人差し指だけで打っている。一文字打つのに三秒かかる。
「スマホならどうだ。スマホで書け」
凛先輩がスマホへの切り替えを許可した。壮介の目が輝く。
「スマホなら書ける!」
フリック入力で猛然と打ち始めた。速い。PCとは比べものにならない速度で文字が流れていく。三分で画面がテキストで埋まった。
「書けた! 読んでくれ!」
壮介がスマホを差し出す。凛先輩が受け取って、画面を覗き込んだ。
一拍の沈黙。
凛先輩の表情が微妙に歪んだ。
「……読むぞ。"今日文芸部きた! やばい! 先輩かわいい! うどん食いてえ! 陽翔のカレーうどンの話まじウケる笑笑。霧島先生寝すぎワロタ。明日も行く! 以上!"。……絵文字とスタンプ記号だらけだが、これは何だ」
「俺の日記!」
「これは小説ではない。LINEのスクショだ」
「最先端の文学だよ!」
「違う」
「SNS文学!」
「そんなジャンルは存在しない」
詩織さんが手を挙げた。
「あの、厳密に言えばSNS文学という概念自体は研究対象として存在するんですが」
「千歳、今それを言うと壮介が調子に乗る」
「すみません」
「調子乗ってた! もう乗ってた!」
壮介がスマホを振り回している。凛先輩がため息をついた。かなり深いため息だった。
*
詩織さんが立ち上がった。
「私が教えます」
ホワイトボードの前に移動する。マーカーを手に取って、図を描き始めた。四つの箱が縦に並んで、「起」「承」「転」「結」と書かれている。
「物語には構造があります。まず"起"で状況を設定します。次に"承"で状況を発展させます」
「待って。状況って何?」
「えっと、物語の最初に置かれる前提のことです。たとえば"ある少年が学校にいる"というのが状況です」
「学校にいる。うん、わかる」
「次に"承"でその状況を深掘りします。少年が何を感じているのか、何を見ているのか」
「感じてること? 腹減った、とか?」
「ええと、もう少し物語的な感情を」
「喉渇いた?」
「それも身体感覚ですね。あの、大和さん、心の中に物語はありませんか? 誰でも、日常の中にドラマがあるはずです。それをそのまま書けば」
「ないんだが、心の中に」
詩織さんが固まった。天才が初めて壁にぶつかった顔だった。「書けない人」の気持ちが本当にわからないのだ。
「え、本当にないんですか?」
「ない。ゼロ」
「ゼロですか」
「ゼロ。まっさら。真っ白。雪原」
「雪原は比喩としてはいいですね」
「え!? それ比喩なの!? ただの感想なんだけど!」
「大和さんは無自覚に比喩を使える人なのかもしれません」
「褒められてるのか観察されてるのかわからん!」
「両方です」
詩織さんの教え方は、明らかに壮介に合っていなかった。
「じゃあ"転"の説明をしますね。物語に予想外の展開が起きるパートです」
「予想外? たとえば?」
「たとえば、主人公の前に突然謎の少女が現れるとか」
「それさ、詩織ちゃんの小説じゃん。陽翔がモデルのやつ」
「フィクションです!」
「いいじゃん、俺も出してよ。かっこいい役で」
「大和さんをモデルにするなら、声の大きな焼肉好きの冒険者ですね」
「冒険者! いいね! 俺主人公!」
「脇役です」
「脇役!?」
凛先輩が見かねて割って入った。
「千歳、交代だ。私がやる」
凛先輩がホワイトボードの起承転結を消した。代わりに一行だけ書いた。
「昨日の夕飯を書け」
「大和、世界一簡単な方法を教えてやる。昨日の夕飯、何を食った」
「焼肉」
「それを膨らませろ。誰と食べた」
「家族」
「どこで食べた」
「家。ホットプレートで」
「何の肉だった」
「カルビが多めだった。あとハラミ。タン塩も少し」
「食べてどう思った」
「幸せだった」
「もう少し情緒はないのか」
「いや、ほんとに幸せだったから。焼肉って幸せじゃん。ホットプレートの上で肉がジュウジュウ言ってて、煙がもくもく上がってて、妹が"煙たい"って文句言ってて、母さんが"窓開けなさい"って叫んでて。でもその全部がなんか、よかったんだよ」
凛先輩が一瞬黙った。それから小さくうなずいた。
「それを書け。今の言葉をそのまま文字にしろ」
壮介がスマホを構えた。フリック入力が始まる。
五分。
「書けた!」
速い。さっきの三十分の「あ」は何だったんだ。
凛先輩がスマホを受け取って読み上げた。
「"カルビが油でビカビカ光ってた。タレにつけた。白いごはんに乗せた。口に入れた。ウマい。以上"」
沈黙。
「何文字?」
凛先輩がカウントした。
「四十二文字」
「百文字に届いてないんですが」
「半分以下だ」
壮介が胸を張った。
「でも書けた!」
「四十二文字で胸を張るな」
「四十二文字に焼肉の全てが詰まってる!」
詩織さんが真顔で言った。
「確かに、ミニマリズム文学として読めなくもないですね。"ビカビカ"という擬態語に、焼肉の本質が凝縮されています」
「読めないよ。いや読めるのか? いやいや読めないだろ」
「ミニマリズム!」
壮介が吠えた。理解しているかは怪しい。声帯が脳より先に反応する男だ。
霧島先生がデスクから声を飛ばした。赤ペンを走らせる手は止めていない。
「"ビカビカ"は良い擬態語だ」
「先生に褒められた!!」
「ただし、"以上"で終わるのは投げやりだ。"以上"の先に、もう一文あるといい」
「もう一文?」
「"また食いたい"でも"幸せだった"でもいい。お前の気持ちが入った一文だ」
壮介がスマホに向かった。十秒で追加した。
「"また明日も焼肉がいい"」
「……お前らしいな」
霧島先生が小さく笑った。缶コーヒーを一口飲んで、赤ペンに戻った。
*
帰り支度の時間になった。
全員が鞄を手に取ったところで、霧島先生が壮介を呼び止めた。
「大和」
「はい?」
「さっきの焼肉の文章」
「あれ? ダメでしたか?」
霧島先生が一杯を置いた。そこから身体を起こして、壮介のほうを見た。いつもの脱力した空気が消えている。
「あれでいい」
「え?」
「お前の四十二文字を読んで、腹が減った。それは"伝わった"ということだ」
声が止まった。
「文芸部は小説家を量産する場所じゃない。書くことで、ものの見方が少しだけ変わる場所だ」
缶コーヒーの缶を指で弾いた。
「カルビが"ビカビカ光ってた"と書いたとき、お前は焼肉を見る目が変わっている。今まで何気なく食っていた焼肉に、言葉を与えた。それだけで十分だ」
この部室に来るようになって三日間、一度も黙ったことがなかった男が、黙っている。
「入りたいなら入れ。書けるかどうかは後から考えろ」
「でも凛先輩が入部条件——」
「あれは凛が勝手に言っただけだ。俺が顧問だ。俺の権限で許可する」
「教育的判断と言え」
「教育的判断って言えばなんでも通ると思ってません!?」
「通る。顧問だからな」
「部長の権限は!?」
「顧問の下位互換」
「ひどい! 私が三日間考えた入部テストを一言で無効化しないでください!」
「三日も考えてたのか」
「考えました! "百文字"という絶妙なハードルを設定するのに二時間かかりました!」
「二時間かけて百文字を考えたのか。お前のほうがよっぽど文芸部員だな」
「当然です! 部長ですから!」
霧島先生が一杯を飲み干した。
「凛、お前の入部テストは間違ってない。"何か書け"は正しい条件だ」
缶を置いた。
「ただ、タイミングの問題だ。大和はもう書いた。四十二文字書いた。テストはクリアしている」
凛先輩が口を開きかけて、閉じた。
「先生がそう言うなら、認めます。ただし、部長として一つ条件を追加します」
「なんだ」
「明日、もう一度何か書いてくること。四十二文字でもいい。焼肉でもいい。ただし、今日より一文字でも多く」
壮介が凛先輩と霧島先生の言い合いを見ながら、ぽつりと言った。
「じゃあ、ちゃんと考えてくる」
「考える?」
「入部届。ちゃんと書きたいから。明日まで待ってくれ」
真面目な顔。こいつがこういう顔をするのは、部活の試合前くらいしか見たことがない。
凛先輩が腕を組んだ。口元がほんの緩んでいた。
「待つ。好きなだけ考えろ」
「ただし明日までな!」
「明日までだ」
*
帰り道。俺と壮介の二人だった。
いつもなら昨日のテレビの話、今日の弁当の話、明日の焼肉の話。話題が尽きることがない。
でも今日は静かだった。
信号が赤に変わって、交差点で立ち止まる。
「なあ陽翔」
「ん」
「俺ほんとに書けるようになると思う?」
「知らねえよ。俺だって書けないから」
「じゃあなんでお前は入ったの」
「面白い小説を読んだから」
「あー、千歳ちゃんの?」
「そう」
「いい動機だな。シンプルで」
信号が青に変わった。歩き出す。壮介がポケットからスマホを取り出した。
「何してんの」
「宿題。明日までに何か書いてく」
「え、まじで?」
「先生が"あれでいい"って言っただろ。あの言葉、なんかすげえ刺さったんだよ」
壮介がスマホの画面を見つめている。フリック入力のキーボードが表示されている。まだ何も打っていない。白い画面。
「四十二文字の焼肉で腹が減ったって言ってもらえたの、初めてだったんだ。俺の書いたもので、誰かが何か感じてくれたの」
「壮介」
「だから、もうちょっとちゃんと書いてみたい。百文字じゃなくて。もっと」
歩きながらスマホに向かう壮介を見て、思った。
こいつ、意外と真面目に考えてるんだな。
「明日、何書いてくるか楽しみにしてるよ」
「プレッシャーかけるなよ!」
「かけてない。本心だ」
「本心って言われると余計にプレッシャーだっつの!」
壮介が笑った。いつもの全力の笑顔。しかしその奥に、さっきまでの真剣さが残っている。
分かれ道に来た。壮介は右、俺は真っ直ぐ。
「じゃあな陽翔。明日、書いてくから。何書くかはまだ決めてないけど」
「決めてないのかよ」
「今から考える!」
走っていった。壮介の背中が夕焼けの中に小さくなっていく。鞄が揺れている。あの鞄の中には部活シューズは入っていない。
明日、あいつが何を書いてくるのか。
正直、想像がつかない。四十二文字の焼肉エッセイの男が、一晩で何を書いてくるのか。「また明日も焼肉がいい」の先に、何があるのか。
でも胸の奥がかすかに騒がしかった。不思議と、楽しみだった。
霧島先生が言っていた。「書くことで、ものの見方が少しだけ変わる場所だ」と。
あの先生は普段寝てるくせに、たまに核心を突いてくる。カレーうどンの汁みたいに、予測できないタイミングで。
空が茜色から紺色に変わりかけている。
明日の放課後が、わずかに待ち遠しい。
*
放課後のチャイムが鳴ったとき、壮介は教室で仁王立ちしていた。
スマホを右手に掲げている。
「書いてきた!」
「お前、授業中に書いてただろ」
「五時間目の古典の時間に」
「授業聞けよ」
「古典より文芸のほうが大事だろ!」
「お前が文芸を語る日が来るとは思わなかった」
「行くぞ! 部室!」
「お前のほうが俺より急いでどうする」
壮介が鞄を引っ掴んで教室を飛び出した。
引き戸を壮介がスライドさせた。バンと開く。いつも通り、勢いが強すぎる。
「書いてきた!!」
凛先輩がいつもの場所で文庫本を閉じた。
「読ませろ」
「いや、読み上げる」
壮介がスマホを両手で構えた。
「自分で?」
「自分で。俺の声で読む」
凛先輩が少し目を細めた。
全員が壮介を見ている。
壮介がいるのに静かだ。初めてのことかもしれない。
「タイトル。"俺の親友がいつの間にか文芸部にいた件"」
壮介がスマホの画面を見つめた。一回深呼吸した。
「"陽翔が部活を辞めた日、俺は何も言えなかった。膝を壊した親友に、なんて声をかけていいかわからなかった。焼肉おごるよ、って言った。バカだと思う。でもそれしか思いつかなかった"」
壮介の声が部室の畳の上に落ちていく。
「"あいつは教室で笑わなくなった。昼休みに一緒に弁当を食べても、前みたいに笑わなかった。目がどこか遠くを見てた。たぶん校庭のほうだったと思う"」
「"でも最近、あいつがまた笑うようになった。放課後にどこかに行って、帰ってくると少しだけ顔が明るい。聞いたら文芸部だって言った。文芸部って何するのかよくわからないけど、行ってみた。変な部だった。先輩は怖くてかっこいいし、詩織ちゃんは何でも取材って言うし、先生は寝てるし"」
凛先輩が微かに口角を上げた。霧島先生が一杯を飲もうとして、止めた。
「"でも陽翔が楽しそうだった。あいつがカレーうどンの文章を読み上げてるとき、前みたいな顔してた。部活やってたときの顔。何かに夢中になってるときの顔。だから俺も、この変な部にいてみようかなって思った。書くのは下手だけど。四十二文字しか書けないけど。でもここにいたら、陽翔が笑ってるのが見れるから。まあいいかって思った。以上"」
壮介がスマホを下ろした。
「二百文字。ちょっとオーバーしたかも」
一瞬、間が空いた。
長い沈黙だった。ペンの音も、ページをめくる音も、一杯を飲む音もしない。壮介の声の残響だけが、畳の上をゆっくり転がっているような静けさだった。
壮介の文章は、文法がめちゃくちゃだった。主語と述語がねじれているところが三箇所あった。「笑わなくなった」と「笑わないった」が混在していた。たぶん変換ミスだ。句読点の打ち方もおかしい。段落の概念がそもそもない。全部が一つの塊として流れている。
でも。
「焼肉おごるよ、って言った。バカだと思う」
この二文を読んだとき、胸の奥が熱くなった。
壮介があのとき焼肉を奢ってくれたのは覚えている。足を壊した翌週の土曜日だった。カルビを焼きながら壮介が「食え食え」と言っていて、俺は「ありがとう」とだけ言った。
それ以外に何も話さなかっている。あいつも何も聞かなかった。黙って肉を焼いて、黙って食べた。
あのとき壮介が「何も言えなかった」と思っていたことを、俺は今日初めて知った。
凛先輩が最初に口を開いた。
「文法は壊滅的だな」
詩織さんが続けた。
「誤字が七箇所あります」
霧島先生が言った。
「段落という概念がない」
壮介の顔が引きつった。
「えっ、ダメ?」
「お前ら!!」
俺が叫んだ。
「褒めるところから入れよ!!」
三人が同時に口を開いた。
「でも」
凛先輩が言った。「良かった」
詩織さんが言った。「伝わりました」
霧島先生が言った。「うん」
壮介がぱちぱちと瞬きした。
「え、まじ? やった!」
やった、と言って両手を突き上げた。スマホが天井に向かって掲げられている。
俺は少し目が熱かった。それを隠すように視線をそらした。
「……ありがとな」
「え、何? 告白?」
「違えよ」
「だって"ありがとう"って急に言われたら驚くじゃん!」
「文脈で読めよ」
「俺に文脈を読む力はない!」
「知ってるよ」
*
凛先輩が引き出しから入部届を取り出した。
「書け」
一文字。いつも通り短い。
壮介がボールペンを受け取った。ちゃぶ台の上に紙を広げて、勢いよく名前を書き始めた。
「大和……壮……」
ペンが止まった。インクが紙に染みを作る。止まった時間の痕跡だ。
「"壮"ってどう書くんだっけ」
「お前の名前だろ!」
「漢字が出てこない!」
「士に丬だ。壮大の壮」
「壮大! 壮大な名前だな! 俺にぴったり!」
「自分で言うな」
壮介がボールペンを走らせた。
名前欄に「大和壮介」
動機欄に「何書こう」
「何でもいいって言ったろ」
壮介がしばらく考えて、動機欄にこう書いた。
「親友がいるから」
四文字。四十二文字の焼肉エッセイよりさらに短い。
でもその四文字を見た瞬間、足が熱くなった。部活を辞めた日にも出なかった熱が、ボールペンの四文字から来た。この男の言葉は、いつも裸で飛んでくる。でも俺はそれを見て、またちょっと鼻の奥がつんとした。
「先輩、何か問題ですか」
凛先輩が入部届を受け取って、名前欄をチェックした。眉が寄っている。
「大和、"壮"の字が違うぞ」
「え?」
「これ"荘"になってる。荘園の荘。別の字だ」
「あっ」
「書き直せ」
二枚目の用紙が出てきた。壮介が今度は慎重にボールペンを動かした。五人目の名前が正しく書かれた入部届が完成している。凛先輩がそれを掲げた。
「はい。これで文芸部は正式に五人。廃部回避だ」
霧島先生が定位置から声を出した。
「やっと五人か。長かったな」
「先生が何もしなかったからですよ」
「朝倉を連れてきたのは俺だ」
「それだけじゃないですか」
「種を蒔いたのは俺だ。育てたのはお前たちだろう」
凛先輩が一瞬だけ言葉に詰まった。
「たまにいいこと言うから困るんですよ、先生は」
凛先輩が入部届を本棚の横の壁に画鋲で留めた。五人分の名前が並んだ用紙が、窓から差す光に照らされている。桐谷凛。千歳詩織。朝倉陽翔。大和壮介。そして顧問欄に霧島遥。
「記念すべき再出発だ」
凛先輩がそう言って、壁の入部届を見上げた。その横顔が、ほんの柔らかくなっていた。
*
「全員揃ったし、改めて自己紹介しよう」
ちゃぶ台。五人。先輩が座って、円が閉じた。霧島先生だけいつもの場所だが、身体をこちらに向けている。
「桐谷凛、二年。ジャンルはミステリ。部長。目標は全員で文芸コンクールに出すことだ」
「千歳詩織です。ジャンルは何でも書きます。目標は、皆さんの物語を読むことです」
詩織さんの目がちらっと俺を向いた。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。
「朝倉陽翔。好きなジャンルはまだわかりません。目標は、とりあえずあれ以外も書けるようになること」
「大和壮介! 好きなジャンルは少年漫画! 目標はこの部を学校で一番有名にすること!」
「スケールでかすぎない?」
「文芸部なめんな!」
「お前が一番なめてたろ数日前まで」
「過去の俺は関係ねえ!」
霧島先生が一杯を掲げた。
「霧島遥。顧問。新人賞最終選考落ち。目標は定年まで生き延びること」
全員が黙った。
「先生の目標が一番切実ですね」
「切実さでは負けない」
「競う必要ないですからね」
「先生、新人賞のことをそんなにさらっと言っていいんですか」
「もう時効だ。十年以上前の話だからな」
「十年!? 先生けっこう長いこと引きずってるんですね」
「引きずってないさ。笑い話にできるようになっただけ成長したんだ」
「笑えてないですけど」
「笑ってるよ。心の中で」
「見えません」
「見せる必要がない。顧問は裏方だ」
*
壮介がコンビニ袋を取り出した。
「祝いだ! 五人揃った記念!」
「お前いつの間にコンビニ寄ったんだ」
「部室に来る前に! 今日入部届出すつもりだったから、菓子買ってきた!」
「準備がいいな」
「大和にしては計画的だ」
凛先輩が感心したように言った。
「にしては、が余計です!」
袋からお菓子が出てきた。ポッキー、チョコパイ、ポテトチップス、グミ。量が多い。
「五人分にしては多くないか」
「予備だ! 足りなかったら困るだろ!」
「壮介、予備って自分の分だろ」
「半分は予備で半分は俺の分だ!」
「正直すぎる」
凛先輩がポッキーの箱を手に取った。
「乾杯するか」
「ポッキーで乾杯?」
「お茶もあるぞ。湯呑みを出せ」
詩織さんが手際よく急須を準備した。五つの湯呑みにお茶を注いでいく。先生だけ缶コーヒーだ。湯呑み四つと缶一本。五人分の飲み物が卓に並んだ。
「文芸部の正式メンバーが五人になったことを祝して」
「先輩、急にかしこまりますね」
「式典は大事だ」
「ポッキーの式典って」
「形式が大事なんだよ。内容は問わない」
「内容を問わない式典ってどうなんですか」
「乾杯」
湯呑みを合わせた。カチン。缶コーヒーの缶がぶつかる音も混ざった。
「先生、もう少し優しくぶつけてください。湯呑み割れます」
「缶のほうが硬い。割れるのは湯呑みだ」
「だから優しくって言ってるんですよ」
「教師は力加減が苦手だ」
「苦手じゃなくて雑なだけでは」
壮介がポテチの袋をバリバリ開けた。音がでかい。
「うるさい」
「ポテチを静かに開ける方法はない!」
「ある。ゆっくり開ければいい」
「ゆっくりは待てない!」
「お前の人生の九割の問題は"待てない"から生まれてる気がする」
「残りの一割は?」
「声量」
「俺の声は才能だ!」
「才能と騒音は紙一重だ」
詩織さんがチョコパイを半分に割って、片方を俺に差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「お祝いですから」
「二人で半分こしてる! 青春!」
壮介が指をさした。
「チョコパイの半分こが青春か」
「青春以外の何だよ!」
「お菓子の分配だよ」
「分配にはドラマがある!」
「ない」
「ある! 誰にどの菓子を渡すかで人間関係がわかる! 詩織ちゃんが陽翔にチョコパイの半分を渡したのは——」
「壮介、それ以上言ったら明日から菓子禁止だ」
凛先輩が冷たく遮った。詩織さんが赤くなっている。チョコパイを渡しただけなのに。
「俺にもチョコパイくれよ!」
「大和、お前にはポッキーをやる」
「なんで俺だけポッキーなの!」
「身分の差だ」
「文芸部に身分あるのかよ!」
「ある。部長はチョコパイ、新入りはポッキー」
「不平等だ! 革命を起こす!」
「革命するなら原稿用紙に書け」
霧島先生がチョコパイを丸ごと口に入れた。
「先生、一口が大きすぎます」
「教師の特権だ」
「食べ方にも特権があるんですか」
「ある。給食指導で培った早食い技術だ」
「それ技術と言っていいんですか」
「生存技術だ。昼休みは十五分しかない」
壮介がポッキーをくわえたまま言った。
「なあ、文芸部って最高じゃない?」
「唐突だな」
「だって菓子食って、お茶飲んで、みんなでしゃべって。最高だろ」
「お前の"最高"の基準が低すぎる」
「低くていいんだよ! 幸せの基準は低いほうがいい!」
先輩が少し笑った。今日の先輩はよく笑う。
「一理ある。じゃあ壮介の"最高"をもう少し高いところに持っていくぞ」
「どうやって?」
「書くことだ。書いて、読んで、また書く。それを繰り返して、お前の"最高"がどこまで上がるか見てみたい」
「先輩がそれ言うとかっこいいな」
「かっこいいからじゃなくて本気で言ってる」
「本気のほうがかっこいいよ」
*
自己紹介が終わると、凛先輩がボードの前に立った。
「五人揃ったからには、最初の仕事をする。部誌のテーマ会議だ」
全員にマーカーが配られた。ホワイトボードに自分の案を書けという指示だ。
凛先輩が書いた。「密室」
詩織さんが書いた。「初恋」
俺が書いた。「日常」
壮介が書いた。「最強決定戦」
四つの単語がボードに並んだ。方向性がバラバラすぎる。
「壮介、"最強決定戦"って何」
「文芸部最強トーナメント! 第一回戦、原稿用紙VS万年筆!」
「何を競わせるんだ」
「存在感!」
「原稿用紙に存在感で勝ち目あるか?」
「いえ、原稿用紙には四百字を受け止める包容力があります」
詩織さんが真顔で言った。乗るな。
「万年筆にはインクの美しさがあります」
「それは万年筆の強みであって原稿用紙との比較にならないのでは」
「第二回戦、ちゃぶ台VSソファ!」
「もう何の話かわからない」
「家具バトルだ!」
「文芸部の議題じゃないだろそれ」
「第三回戦、凛先輩VS霧島先生!」
「人を競わせるな」
「それは権限闘争として昨日決着がついている」
凛先輩が冷たく言った。
「顧問が勝ちましたよね」
「その話はするな」
霧島先生が小さく笑った。
凛先輩がため肩の力を抜いた。けれどし口元は笑っている。
「結論。自由テーマ。各自好きなものを書け。以上」
「全員一致で何も決まらなかったんですが」
「これぞ民主主義だ」
「民主主義の敗北では?」
「敗北じゃない。全員の意見を尊重した結果の自由だ」
「ポジティブすぎません?」
霧島先生が手を挙げた。
「顧問として一つだけ言っておく。締切は来週の金曜。遅れた奴は部誌に名前を載せない」
「鬼ですね」
「鬼は褒め言葉だと前も言ったろ」
「壮介、お前書けるのか?」
「書ける! 四十二文字は超える!」
「ハードルが低い」
「低いところから始めるのが成長の基本だ!」
「お前がそれ言うと説得力がないんだよ」
テーマ会議の後、各自が執筆に入った。
号令はない。凛先輩が文庫本を閉じた。パタン。それだけ。
五人が五人とも、違うことをしている。
リズムも速さも全然違う。なのに不思議と、一つの空間に溶け合っている。
窓から夕日が入ってきた。畳が茜色に染まっていく。本棚の背表紙が光を受けて、タイトルの金文字がかすかに光った。壁に画鋲で留められた入部届が、夕日に照らされている。五人分の名前。
なんでこの部にいるんだ、俺。
方向が全部違う。なのに同じ卓を囲んでいる。
同じことをしなくても、一緒にいられる場所。
*
下校時間のチャイムが鳴った。
初めて、五人で校門を出た。
霧島先生は途中で「職員室に戻る。お前たち、ちゃんと帰れよ」と言って校舎のほうに消えた。手を振る先生の背中が、いつもよりわずかに軽く見えた。一杯の空き缶が、ポケットから覗いている。
凛先輩は校門の先の分岐点で立ち止まった。
「私はこっちだ。じゃあな」
片手を上げて、反対方向に歩いていく。凛先輩の帰り際はいつも短い。
残ったのは俺と壮介と詩織さんの三人だった。壮介が真ん中を歩いている。三人の足音が、夕暮れのアスファルトの上で不揃いに鳴っている。
「明日は何書く?」
壮介が言った。
「締切を守れ!」
遠くから凛先輩の声が飛んできた。もう角を曲がったはずなのに、声だけ届く。耳がいいのか、それとも予知能力でもあるのか。
「朝倉くんのうどんの続き、楽しみにしてますね」
詩織さんが微笑んだ。その笑顔を見て、またほんの腹の底が動いた。何の動きなのかは、まだわからない。
「壮介の焼肉の続きも、期待してます」
「詩織ちゃんに期待された!!」
「声がでかい」
「期待されたらでかくなる!」
「うるさいよ二人とも」
詩織さんの分かれ道が来た。小さく手を振って、住宅街の角に消えていった。黒い髪が夕風に揺れた。
残ったのは俺と壮介だ。
しばらく無言で歩いた。夕焼けが屋根の向こうに沈んでいく。空が橙から紫に変わりかけている。
「なあ陽翔」
「ん」
「俺、入ったな。文芸部」
「入ったな」
「入部動機、"親友がいるから"って書いたけど」
「見た」
「あれ、半分嘘だ」
「は?」
「半分は本当。お前がいるから入った。でもあと半分は、あの部室が居心地よかったから」
壮介が前を向いたまま言った。
「畳の匂いとか、お茶の匂いとか。凛先輩のツッコミとか、詩織ちゃんの取材とか、先生の缶コーヒーとか。全部ひっくるめて居心地がよかった。部活にいたときとは違う種類の居心地。なんていうか、力を抜いてていい場所?」
「ああ」
「だから"親友がいるから"は半分だ。もう半分は"居場所があったから"」
壮介がにかっと笑った。
「でも入部届の動機欄に"居場所があったから"って書くの恥ずかしいから、お前のせいにした」
「俺のせいにするなよ」
「いいだろ別に。お前のせいで俺の人生は大体なんとかなってるんだから」
「何だよそれ」
「褒めてるんだよ」
分かれ道に来た。壮介が右に曲がる。
「じゃあな! 明日も部室な!」
「うん」
「俺、明日は百文字超える!」
「目標が低い」
「低いところから始めるのが!」
「はいはい、知ってる」
壮介が走っていった。背中が小さくなっていく。
一人になった。
空を見上げた。星が一つだけ見えた。まだ明るいのに、気の早い一番星だ。
バラバラだ。全部。
でも今日、五人の席が揃った。卓の周りに、五つの居場所ができた。
灰色だった放課後が、こんな色になるとは思わなかった。何色かはまだわからない。たぶん、悪くない色だと思う。
明日も部室に行く。
それだけのことが、腹の底をほんの騒がせた。




