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第1話: 俺の青春、打ち切りENDなんだが

 放課後。教室の空気が入れ替わる時間だ。椅子の音が減り、残った生徒の呼吸だけになる。空気にも定員がある。人が減ると、静けさが席につく。


 窓の向こうでサッカー部がアップを始めていた。ホイッスルが鳴って、短い掛け声が重なる。ボールを蹴る乾いた音。スパイクが芝を噛む音。全部知ってる。耳ではなく、膝が覚えている。全部、身体が覚えてる。


 左膝。無意識に、手が伸びていた。サポーターを外した跡がうっすら残る手のひらで、制服越しにあの鈍い痛みの記憶を撫でる。もう痛くはない。でも「痛かった」という記憶だけが、いつまでも膝に棲みついている。


 俺の青春は打ち切りだ。連載途中で切られた漫画みたいに、途中でぶつ切り。クライマックスも見せ場もない。あの怪我の瞬間に、全部が止まった。


 クラスメイトが立つ。バッグ、靴音、笑い声。野球部、バスケ部、吹奏楽部。行く場所のある人間たちだ。俺の鞄には教科書しか入っていない。スパイクの代わりに英語の問題集。笑えるくらい軽い。


 まあ、帰るか。


 そう思って鞄を持ち上げた瞬間、廊下側から腕を掴まれた。指の力が意外に強い。


 *


「朝倉、お前今暇だろ」


 振り返ると担任の霧島遥が立っていた。


 スーツのネクタイが緩んでいて、ワイシャツの裾が片方だけズボンからはみ出している。手に持っているのは教科書ではなく文庫本で、しかもポケットにもう一冊ねじ込んでいる。やる気のない大人の見本みたいな人だが、目だけが妙に鋭い。


「暇じゃないです」


「嘘つけ。部活やめて毎日まっすぐ帰ってるだろ、担任から聞いた」


「先生が俺の担任でしょ」


「だから知ってる」


 反論の余地がなかった。


「どこ行くんですか」


「俺が顧問をやってる部がある。存続の危機だ」


「それ俺に関係ないですよね」


「文芸部だ」


「文芸部」


 聞き覚えはある。入学式のときに配られた部活一覧の、いちばん下のほうに小さく載っていた気がする。


「書くやつですか」


「読むのでもいい。座ってるだけでもいい。頭数が足りないんだ」


「俺、国語の成績3ですよ」


「俺は新人賞の最終選考落ちだ。学校の成績なんか関係ない」


 先生のほうが深刻じゃないですか。そう思ったが口には出さなかった。この人の口調には冗談と本気の境界がない。どっちに転んでもいいように投げてくる。


「まあ来い。嫌なら帰ればいい。ただし帰る前にお茶くらい飲んでいけ」


「お茶で釣るんですか」


「茶菓子もある。凛が毎日持ってくる」


「凛って誰ですか」


「来ればわかる」


 腕を掴まれたまま、廊下を歩かされる。体育館の横を通り過ぎると、バスケ部のドリブル音が壁越しに響いていた。渡り廊下に出ると、それが遠ざかっていく。足音が自分と先生の二人分だけになった。


 旧校舎に入った瞬間、空気が変わった。


 埃っぽい匂い。古い本の匂い。蛍光灯が片方だけ切れかけていて、廊下の明るさがまばらだ。校庭から聞こえていた掛け声が、もうほとんど届かない。別の世界に入っていくみたいだった。


 階段。二階。突き当たり。古い戸の向こうに明かり。畳と古紙の匂い。隙間から漏れている。匂いのほうが、俺より先にこの部室を知っていた。


 霧島先生がその戸をスライドさせた。


 *


 最初に目に入ったのは、畳だった。


 六畳の元和室。い草がへたっている。靴を脱いだ。毛羽立ちが足裏に触れた。部室が俺の体温を測っている。


 壁一面を埋める本棚は、横積み・二重詰め・ジャンルぐちゃぐちゃの三重苦で、ミステリの隣に詩集、その上に辞書、さらにその上に漫画という無法地帯になっている。


 西日が畳を斜めに切っていた。埃が光の中を泳いでいる。空気の色が橙に変わると、い草の匂いも濃くなる気がした。


 そして——ちゃぶ台で原稿用紙に向かう少女がいた。試合中にフリーの味方を見つけたときみたいに、視線が吸い寄せられた。


 黒髪。背中まで。リボンがずれている。本人は気づいていない。手元のペンだけが正確に動いている。ペン先が原稿用紙を引っ掻く、小さくて規則的な音。横顔。まつげの影。窓から入る西日がまぶたの輪郭をやわらかくなぞっている。


 心臓が一回、余計に打った。誤植みたいな一拍。理由はわからない。わからないまま、目が離せなかった。


 少女が顔を上げた。目が合う。一拍の間。


「あ……いらっしゃいませ」


 喫茶店じゃない。


「霧島先生から伺っています。新しい部員候補の方ですよね」


「まだ候補とも言ってないんですが」


「朝倉陽翔さん。一年三組。元サッカー部。身長百七十二センチ。好きな食べ物はカレーうどン。最近よく行くコンビニは学校裏のセブン。よく買うのはカフェオレと肉まんです」


「なんで俺のプロフィールそんな詳しいんですか!? ていうかコンビニの購買傾向まで把握してるんですか!?」


「取材は小説家の基本です」


 にっこり笑ってそう言った。その笑顔に悪意は一ミリもない。ないからこそ、背筋に何か走った。


「千歳詩織です。一年二組です。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします……?」


 千歳詩織。声は柔らかいのに、目はペンの先みたいに鋭い。


「おー、ほんとに連れてきたんだ。先生にしては仕事が早い」


 低い声。ソファの方から。冬の廊下を抜ける風みたいな声だった。本の山の向こうから顔を出した人物は、長い髪に切れ長の目をした先輩だった。ゆっくり起き上がって、髪がさらっと揺れる。かっこいい。


 ただし後頭部に盛大な寝癖がついている。


「桐谷凛、二年。一応部長やってる」


「一応ですか」


「部員が私と千歳と先生しかいないからな。部長もなにもない。ただの称号だ」


「三人……」


「廃部ラインが五人。あと二人足りない。で、お前が四人目の候補」


「いやまだ入るとは」


「入るよ」


 断言された。


「先生がお前を連れてきた時点でもう決まってる」


「横暴じゃないですか」


「横暴じゃない。必然だ。この部に"候補"で終わった人間はいない」


「歴代何人いるんですか、その候補」


「お前が初めてだ」


「サンプル数が少なすぎる!」


 凛先輩の口角が一ミリ動いた。笑ったのか。瞬きの間に消えた。この人の感情は、インクが乾くより速い。


「まあ座れ。茶を出す」


 気づいたら卓の前に座らされていた。凛先輩が棚から急須を取り出して、慣れた手つきでお茶をいれ始める。


「あの、湯呑みが五つあるんですけど」


「来客用」


「来客って俺のことですよね。すでに俺が来ること前提で用意されてません?」


「先生が今日連れてくると言っていたからな」


「計画的犯行じゃないですか」


「計画は犯罪じゃない。段取りだ」


 霧島先生がソファに沈んだ。三秒で寝息。この人の入眠速度は異常だ。


「先生!? 顧問でしょ!?」


「……部員が増えたら起こしてくれ……」


 詩織さんが棚からブランケットを取り出して、先生にかけた。


「手際良すぎません?」


「毎日やってますから、もう自動です」


「いつものことです。気にしないでください」


「いつもなんですか」


「はい。先生はだいたい十五分で起きます。缶コーヒーを飲みながら赤ペンを持つのが復活の合図です」


「缶コーヒーが復活の鍵なんですね」


「先生の生命維持装置だと思ってください」


「言い方がだいぶ不穏なんですが」


「お茶、淹れたぞ」


 凛先輩が湯呑みを差し出してきた。


「ありがとうございます」


「飲め。落ち着くから」


「落ち着かないといけないような状況なんですか」


「お前、ツッコミが上手いな」


「褒められてるのか警戒されてるのかわかりません」


「褒めてる。この部にはツッコミが足りなかった」


 お茶をすすった。


「お茶、美味いですね」


「凛先輩が淹れるお茶は美味しいんです」


「淹れ方にこだわりが?」


「温度だ。七十五度。高すぎると苦い」


「詳しいですね」


「お茶は推理の友だ」


 畳とインクの匂い。グラウンドの汗臭さとは全然違う。ここには点数もタイムもない。


 *


 お茶を二口目いったところで、詩織さんがA4用紙の束を差し出してきた。五枚。表紙に手書きで「短編・窓辺の声」と書かれている。


「よかったらこれを。読んでいただけると嬉しいです」


「はあ」


「感想をいただけたらもっと嬉しいです」


「はあ……」


「できれば三百字以上の感想をいただけたら、私は本日中に次作の執筆に入れます」


「プレッシャーかけてきてますよね!?」


「プレッシャーではありません。動機付けです」


 目がキラキラしている。この輝きの前で「読みません」は物理的に言えない。


「じゃあ読みます」


「ありがとうございます!」


 声のトーンが二段階跳ね上がった。さっきまで静かにペンを走らせていた人と同一人物なのか怪しい。


 義務感で一行目に目を落とした。


 三行で空気が変わった。


 一行目で、呼吸が変わった。主人公の少年が窓辺に座って外を眺めているだけの場面なのに、こっちの胸の奥が反応する。文字を目で追っているはずなのに、身体で読んでいる。


 風の温度、光の角度、机の木目の手触り。五感のどれもが正確に、だけど押しつけがましくない。


 ページをめくる手が速くなっていた。


 二枚目の途中で気づいた。義務で読んでいたはずなのに、続きが知りたくて読んでいる。文字が頭の中で映像になっていく。


 三枚目あたりで、妙なことに気づいた。


 主人公の少年。運動部を怪我で辞めた設定。少しぶっきらぼうだけど根は優しい性格。好きな食べ物がうどん。


 うどん。


 読み進めるたびに一致点が増えていく。放課後の教室で一人になる主人公の描写が、やけにリアルだった。窓の外にグラウンドが見えている。練習する元チームメイトの声。それを聞きながら膝に手を置いている。


 おい。これ。


 五枚目を読み終えた。顔を上げる。定位置の向こうで凛先輩がニヤニヤしていた。寝癖はいつの間にか直っている。


「すごく面白いです」


 嘘じゃない。この人の文章には、読む人間を別の場所に連れていく力がある。


 詩織さんの表情が一瞬で変わった。花が咲くみたいな笑顔になる。


「本当ですか!?」


「本当です」


「どのあたりが!?」


「全体的に。比喩が特にすごいです」


「比喩! 具体的にどの比喩ですか!?」


「えっと、三ページ目の——ところで一つ聞きたいんですけど、この主人公って」


「フィクションです」


「まだ聞き終わってないんですが」


「完全なフィクションです。モデルはいません。いません」


「いや、うどんが好きで運動部辞めてて放課後一人でいる男子って、割と限定されませんか」


「日本には約六千万人の男性がいます。その中でうどんが好きな人は推定二千万人。うち運動部経験者は」


「統計で煙に巻こうとしてますよね!?」


 凛先輩が定位置からボソッと言った。


「あれ、三日前から書き始めてたよ。お前の入部が決まった日から」


「凛先輩!?」


 詩織さんが跳ねるように振り返った。顔が赤い。


「あくまで取材として! プロフィールを参考に人物造形を行っただけです! 小説的手法として! 創作の技術として!」


 早口がどんどん加速している。


「"取材"って言えば何でも許されると思ってません?」


「許されます! 小説家にとって取材は神聖な行為です!」


「神聖のハードルが低くないですか」


 凛先輩がお茶を啜った。涼しい顔で。


「千歳、見苦しいぞ」


「先輩が余計なことを言うからです!」


「事実を述べただけだ」


「事実の開示にもタイミングがあります!」


「お前の小説にはタイミングの概念がちゃんとあるのに、実生活にはないんだな」


「それは関係ないです!」


 凛先輩が俺のほうを見て、かすかに口角を上げた。


「面白いだろ」


「面白いかどうかの前に、状況の理解が追いつかないんですが」


「追いつかなくていい。そのうち慣れる」


 照れくさかった。自分に興味を持ってもらえたことが。詩織さんは俺の何かに「書きたい」と思ったのだ。


 詩織さんの文章はすごい。


 *


 結局その日のうちに仮入部届を書かされた。


 凛先輩が引き出しから用紙を取り出した。もう印刷済みだった。


「用意がいいですね。もう印刷してあるんですか」


「当然だ。先生が連れてくると言った時点で準備した」


「俺の意思は」


「お前の意思は尊重する。ただし"入部する"という意思だけを尊重する」


「選択肢がひとつしかないじゃないですか」


「一つあれば十分だ」


 先輩の論理に勝てる気がしない。たぶん推理小説のトリックを考え慣れている人間には、人を説得するなんて朝飯前なんだろう。


「動機は何でもいい。"先生に脅された"でもいい」


 ペンを持った。動機欄の前で手が止まる。


 窓の外、空がオレンジから紫に変わりかけている。部室の壁掛け時計がカチカチと秒針を刻んでいた。畳の匂い。お茶の湯気。


 ペンのカリカリという音——詩織さんがもう書き始めている。さっきまで顔を真っ赤にしていたのに、もうペンを握っている。切り替えが早すぎないか。


 凛先輩は定位置で文庫本を開いているが、ページをめくる気配がない。視線がこっちに向いている。霧島先生は寝ている。ブランケットの下から規則的な寝息が聞こえる。


 なんで文芸部に入るのか。


 正直なところ、消去法だ。


 でもさっき読んだ五枚のことを考えた。窓辺の少年が外を眺めている場面。あの文章を読んでいた数分間、足の痛みも、グラウンドの記憶も、全部忘れていた。誰かが紡いだ言葉の中にいた。あの感覚は初めてだった。


 ペンを動かした。


 動機欄に書いた文字——「面白い小説を読んだから」


 詩織さんが横から覗き込んだ。


 真っ赤になった。


 さっきの赤さを上回っている。赤を通り越して、もう信号機みたいだ。


「あ、あの」


「事実です」


「事実ですか」


「面白かったんで」


 詩織さんが両手で顔を覆った。指の隙間から目だけが覗いている。なんか目がうるんでいる。


「……ありがとう、ございます」


 声が小さくなった。さっきまでの取材モードが消えている。詩織さんの素の声は、万年筆の筆跡みたいに細い。


「千歳、いい笑顔だな」


「凛先輩!」


 凛先輩がソファから声を飛ばしてきた。


「よし。これで四人。あと一人だな」


「俺に心当たりはないですよ」


「いるでしょ、お前の周りに」


「いません」


「暇そうで、断りにくくて、うるさい人間」


 脳裏に浮かんだ。弁当を二段重ねで食う、声のでかい、あの男。サッカー部時代からの親友。給食のカレーうどンを三杯おかわりして保健室に運ばれた伝説の持ち主。


「いや、あいつだけはダメだ。絶対にダメだ」


「その反応、つまりいるのね」


 凛先輩が獲物を見つけた猫みたいな目になった。


「ぜひ紹介してください」


 詩織さんがいつの間にかノートを広げていた。ペンを構えている。さっきまで顔を赤くしていたのが嘘みたいに、目が完全に切り替わっている。


「言わないからな! 言ったら終わりだ!」


「大丈夫です。千歳なら名前がなくても特定できる」


「それが怖いんだよ!」


 凛先輩が涼しい顔で湯呑みを置いた。


「安心しろ。もう調査済みだ」


「は?」


「大和壮介。一年三組。お前の隣の席。好きな食べ物は焼肉。口癖は"暇すぎて死ぬ"。最近サッカー部にほとんど行ってない」


 データが完璧だった。凛先輩がスラスラと読み上げていく。詩織さんが微笑んだ。


「先輩と手分けしました」


「共犯じゃねえか!」


「共犯ではありません。共同調査です」


「言い方を変えただけですよね!?」


 凛先輩が腕を組んだ。


「連れて来い。方法は任せる。ただし結果は出せ」


「部長命令ですか」


「部長命令だ」


「入部初日に部長命令って重くないですか」


「重いか軽いかは結果で決まる。成功すれば軽い命令だったことになる」


「なんですかその結果論」


「結果が全てだよ。千歳、大和壮介の情報をまとめてプリントにしろ」


「もうしてあります」


「もうしてあるんですか!?」


 詩織さんがノートの間からA4一枚を抜き出した。「大和壮介 基本データシート」と書かれている。顔写真つき。どこで撮ったんだ。


「いつ作ったんですかこれ」


「今朝です。霧島先生から"今日連れてくる"と聞いた時点で、周辺人物の調査に入りました」


「仕事が速すぎる。CIAか」


「CIAではありません。千歳詩織です」


「知ってます」


 霧島先生がブランケットの下で寝返りを打った。


「凛、あんまり新入りをいじめるなよ」


「いじめてません。教育です」


「起きてたんですか先生」


「寝てた。今起きた」


「嘘ですよね」


「半分嘘だ。半分は夢の中でお前たちの会話を聞いていた。なかなか面白い掛け合いだな」


「夢の中で聞いてるって、それもう起きてるじゃないですか」


「意識の問題だ。深く考えるな」


 この部、全員が一癖ある。誰ひとりとして普通じゃない。なのに、なぜか噛み合っている。歯車の形がバラバラなのに、回すと動く時計みたいだ。


 壊れかけの時計。けれど、ちゃんと時を刻んでいる。


 *


 帰り支度をして戸に手をかけたところで、背後から声がかかった。


「朝倉くん」


 振り返ると、詩織さんが卓の向こうから小さく手を振っていた。


「明日もお待ちしています」


「はい」


「あと、今日の感想なんですけど」


「はい?」


「どの場面で一番引き込まれたか、どの一文が最も印象に残ったか、その一文を読んだときの心拍数の体感変化、可能であれば五段階評価で。できれば明日までに」


「宿題のボリュームがおかしくないですか!?」


「感想は宿題ではありません。取材です」


「取材のハードルだけは一流ですね!」


 凛先輩がソファに横になりながら片手を上げた。


「じゃあな朝倉。明日から地獄だ」


「地獄って言わないでください」


「楽しい地獄だよ」


「矛盾してません?」


「矛盾は小説の基本だ。覚えとけ」


 名言なのか暴論なのか判断がつかない。


 戸を閉めた。すりガラスの向こうで、カリカリ。もう書いている。この人は呼吸するようにペンを動かす。


 旧校舎。足音だけが反響する。渡り廊下を抜けると、遠くに部活の声。体育館、グラウンド、音楽室。みんなそれぞれの場所で、それぞれの放課後を過ごしている。


 校門を出て振り返った。


 旧校舎の二階、端っこの窓に明かりが灯っている。橙色の小さな四角い光。凛先輩と詩織さんがまだ残っているのだろう。あの部室だけが光っている。


 校庭のほうに目をやると、もう暗かった。サッカー部はとっくに練習を終えている。ナイター照明も消えている。あの場所には、もう誰もいない。


 でも旧校舎の窓だけが光っていた。


 ポケットに手を入れた。仮入部届の控え。紙一枚。薄い。けれどこの紙が、俺の放課後の行き先を変えた。紙一枚で世界は変わる。原稿用紙と同じだ。


 「面白い小説を読んだから」


 それが俺の動機だ。足を壊した元サッカー部員が、なぜか文芸部に入部届を出した。終わったはずの放課後に、なぜか続きが生えてきた。


 空はもう紺色に変わりつつある。その境目に、薄い橙が一筋だけ残っていた。灰色だと思っていた放課後に、ほんの色がついた。


 明日から俺は文芸部員だ。


 文芸部って、何するんだ。


 今さらすぎる疑問を抱えたまま、俺は家に向かって歩き出した。


 *


 あの疑問は、翌日の放課後になっても消えなかった。


 授業終了のチャイムが鳴った瞬間、身体が勝手に動いた。鞄を掴んで立ち上がっている。


 隣の席の壮介が目を丸くしている。


「陽翔、お前最近帰るの早くない?」


「部活」


「は? 部活? お前サッカー辞めたじゃん」


「文芸部」


「ぶんげい」


 壮介の目が点になった。口が開いている。パソコンのフリーズ画面を人間にしたらこうなる。


「文字で芸をするやつ?」


「とにかく書くやつ」


「お前が? 書くの?」


「書くらしい」


「何を?」


「俺もわからん。じゃあな」


 壮介が何か言いたそうにしていたが、足が止まらない。放課後に向かう場所があるというのは、こういう感覚か。昨日、凛先輩から「遅い」と言われたのが地味に効いている。


 二日目で遅刻したら何を言われるかわからない。あの先輩は淡々と致命傷を与えてくるタイプだ。


 渡り廊下を抜けて旧校舎に入る。昨日は霧島先生に腕を掴まれて連行されたこの道を、今日は自分の足で歩いている。その違いに少し心臓が一拍、跳ねた。昨日と同じ階段。昨日と同じ廊下。昨日と同じ戸。


 スライドさせた。


 万年筆が紙を引っ掻く音が耳に滑り込んできた。規則的で、静かで、不思議と心拍が落ち着く音だ。


 詩織さんがちゃぶ台でいつもの位置に座っている。いつもの、って昨日見ただけなのに。もう風景の一部になっている。黒髪のロングが背中に流れていて、ペンがリズムよく原稿用紙の上を走っている。


「先輩、その本すごく古いですね」


「古書店で見つけた。三ヶ月探した」


「三ヶ月も」


「本は出会いだ。急ぐと逃げる」


 霧島先生がデスクで赤ペンを走らせている。


「先生、今日は起きてるんですね」


「失礼な。昨日が例外だ」


「昨日が通常で今日が例外では」


「ただいま」


「お疲れ様です」


「お帰りなさい」


 詩織さんが顔を上げずに言った。


「ここは俺の家ですか」


「凛先輩もそうおっしゃいます。"ただいま"と言って入ってこられるので」


「先輩が言ったら成立しちゃうんですね」


 ソファから凛先輩の声が飛んできた。


「遅い。もう始まってる」


「何が始まってるんですか」


「日常が」


「抽象的すぎません?」


 霧島先生が赤ペンを止めずに言う。


「早く座れ。お前の席はちゃぶ台の南側だ」


「いつ席が決まったんですか」


「昨日千歳が決めた」


「え」


 詩織さんがにっこり笑った。


「朝倉くんは南側が似合うと思いまして」


「席に似合うとかあります?」


「あります。南側は窓から光が入る位置なので、表情が観察しやすいんです」


「観察」


「取材上の都合です」


「やっぱりそういうことですか」


 南側に座った。昨日と同じ席。木目の手触りが馴染んできている。


 サッカー部は半年いても空気が変わらなかった。いつも走って、蹴って、叫んでいた。ここは真逆だ。静かで、ゆるくて、全員がバラバラのことをしている。


 なのに、なぜか居心地が悪くない。


 *


 凛先輩が立ち上がった。ソファから離れるとき、座面の凹みを手のひらで一度押した。自分の場所を確認するような仕草だった。ホワイトボードの前に移動する。字が意外と丁寧だった。


「新入部員オリエンテーション、やるぞ」


「オリエンテーションって、ちゃんとあるんですね」


「当然だ。うちは弱小だが、やるべきことはやる」


 ホワイトボードの横に足をそろえて座っている。昨日の定位置でごろごろしていた人とは別人みたいだ。


「朝凪高校文芸部。活動内容は四つ。 一、月一回の部誌発行。二、年二回の文芸コンクール応募。三、文化祭での展示。四、日常的な創作活動」


「意外とちゃんとした活動なんですね」


「"目標"な。あくまで"目標"だ。実績を聞くな」


「聞いていいですか」


「ダメだ」


「昨年の部誌は二号まで出ました」


 詩織さんがさらっと言った。凛先輩の眉がピクッと動いた。


「千歳。実績を言うな」


「事実ですので」


「事実は時に暴力だぞ」


「すみません。でも正直に申し上げると、コンクール応募はゼロでした」


「千歳!!」


「文化祭の展示もできませんでした」


「お前もう黙れ!!」


 霧島先生が赤ペンを走らせながら呟いた。


「人数が足りなかったんだ。仕方ない」


「先生のフォローは嬉しいですけど、顧問も何も書いてなかったですよね」


「俺は管理職だ。現場の仕事はしない」


「顧問って管理職ですか?」


「精神的管理職だ」


「なんですかそれ」


 凛先輩が咳払いをした。ホワイトボードの文字を指でトンと叩く。


「過去はいい。問題は今年だ。今年は四人いる。あと一人来れば五人。五人いれば全部できる」


「全部やるんですか」


「全部やる。で、今月の部誌だが」


「今月?」


「テーマは自由。ジャンルも自由。エッセイでも日記でも感想文でもいい。字数は最低五百字。締切は来週の金曜」


「来週!? 俺も書くんですか!?」


「部員だからな」


「昨日入ったばっかりなんですけど!」


「新人だからこそ新鮮な文章が書ける。むしろ好都合だ」


「鬼ですか」


 霧島先生が顔を上げずに言った。


「鬼は編集業界では褒め言葉だ」


「先生は味方してくれないんですか」


「俺は中立だ」


「それは味方じゃないですよね」


 詩織さんがフォローするように言った。


「ジャンルは本当になんでも大丈夫ですよ。朝倉くんがどんな文章を書くのか、とても楽しみです」


「その"楽しみ"は取材的な意味ですよね」


「取材的な意味と、純粋な意味と、両方です」


「割合は」


「九対一です」


「取材が九ですか」


「はい」


「正直すぎません?」


 凛先輩が腕を組んだ。


「あと、朝倉。壮介って誰だ。お前が昨日"絶対ダメ"って言ってた奴」


「なんで覚えてるんですか」


「"絶対ダメ"な人間ほど部に必要だからな。連れて来い」


「まだ言いますかそれ」


「部長命令は撤回しない主義だ」


 *


 オリエンテーションが一段落して、凛先輩がお茶を淹れ直した。二杯目。湯呑みの中で茶柱が立っていた。


「先輩、茶柱です」


「見えてる。これで今月の運を使い切った気がする」


「ネガティブですね」


「リアリストだ」


 壮介の話で盛り上がっていた空気が落ち着いて、部室にいつもの静けさが戻りかけていた。先生が相変わらず寝ているかと思ったら、いつの間にか起きて赤ペンを走らせていた。復活が静かすぎて誰も気づかなかった。


「先生、いつ起きたんですか」


「さっきからずっと起きてる」


「嘘ですよね」


「三割は嘘だ」


「七割は寝てたんですか」


「七割は戦略的仮眠だ」


 詩織さんがクスッと笑った。万年筆のキャップを指で回す癖がある。考え事をするときにやるらしい。


「朝倉くん、聞いてもいいですか」


「はい?」


「なぜ、書くことに興味を?」


「いや、まだ興味があるとは言ってないんですが」


「でも仮入部届に"面白い小説を読んだから"と書かれましたよね。読むことと書くことは、別の行為です。読んで面白いと思ったから書きたくなった——その間に何がありましたか」


 鋭い質問だ。詩織さんの目がペンの先みたいに細くなっている。


「何って言われても。さっき先輩の小説読んで、すげえなって思って。それだけです」


「"すげえな"の中身を言語化できますか」


「できませんけど」


「できないものを文字にするのが小説です。できないからこそ書くんです」


「哲学的ですね」


「哲学ではありません。技術です。感情に名前をつける技術」


 凛先輩がお茶をすすりながら言った。


「千歳は感情に名前をつけるのが上手い。俺はどちらかというと、構造で感情を伝えるタイプだ」


「構造って?」


「ミステリの話をする。トリックには二種類ある。読者を騙すトリックと、読者に気づかせるトリック」


「気づかせるトリック?」


「伏線だ。最初は何でもない一文に見える。でも最後まで読むと、あの一文がすべてを支えていたと分かる。それが構造で感情を伝えるということだ。読者が"騙された"のではなく"気づけた"と思える瞬間。あの瞬間のために俺は書いている」


「先輩がミステリを書く理由って、そこなんですか」


「そこだ。読者にプレゼントを渡す感覚だな。ただし包装紙が七重くらいに巻いてあって、しかも鍵がかかっていて、鍵を開けるヒントが本文中に散らばっている」


「それプレゼントというより試練では」


「試練を楽しめる人間がミステリの読者だ。千歳はどうだ。なぜ書く」


 詩織さんが万年筆のキャップを止めた。少し考えている。


「人を見るのが好きだからです」


「見る?」


「はい。人が話しているとき、指先が動くとか、目線がずれるとか、声のトーンが変わるとか。そういう小さな変化を見るのが好きです。見たものを言葉にして残すと、その人のことを一生忘れない気がするんです」


「取材って、そういうことか」


「そうです。私にとって取材は、人を記憶に刻む行為です。書くことで、その人が私の中に残る」


 詩織さんがこちらを見た。一瞬だけ。すぐにノートに目を落とした。


「だから朝倉くんの歩き方も、声のトーンも、全部記録したいんです。消えてしまう前に」


「消える?」


「人の仕草は変わります。一年後の朝倉くんは、今とは違う歩き方をしているかもしれない。だから今のうちに書いておきたい」


「俺の歩き方、そんなに変わりますかね」


「変わります。足が治れば、かばう動作が減ります。そうしたら今の歩き方は消えてしまう。消える前に記録したい。それが私の"書く理由"です」


 先生が赤ペンを止めた。


「俺の理由も聞くか」


「聞きたいです」


「暇だったからだ」


「先生のはダメですね」


「ダメか。じゃあ言い直す。孤独だったからだ」


 部室が静かになった。先生の声にはいつもの脱力感がなかった。


「大学時代、友達が少なかった。少ないっていうか、深い付き合いの奴がいなかった。授業が終わると一人で帰って、一人で飯を食って、一人でベッドに入る。その時間が長すぎたんだ。だから書いた。一人の時間を、誰かがいる時間に変えるために」


「書くと、誰かがいる?」


「登場人物がいるだろう。小説を書いている間、俺は一人じゃない。主人公がいて、脇役がいて、敵がいて、味方がいる。全員俺が作った人間だけど、書いている間は本物と同じだ。一人暮らしの部屋に、架空の住人が増えていく」


「先生……」


「だからお前たちが来てくれて助かった。実在する人間と話せると、架空の人間に頼らなくて済む」


「先生、今ちょっといいこと言いましたね」


「たまには言う」


「缶コーヒーで口を湿らせた後だけですけどね」


「コーヒーは潤滑油だ」


 凛先輩がソファの上で足を抱えた。珍しい姿勢だ。


「三人とも理由がバラバラだな。俺は構造で伝えたい。千歳は人を記憶したい。先生は孤独を埋めたかった」


「朝倉くんは?」


「俺はまだわかんないです」


「それでいい。書いてるうちに見つかる」


 凛先輩がそう言って、お茶の最後の一口を飲んだ。


「さて」


 凛先輩が立ち上がった。目がいつもの鋭さに戻っている。


「書く前に、見せたいものがある」


「見せたいもの?」


「ついてこい」


 凛先輩が本棚の前に移動した。棚の一番下の段を指さす。


「ここに並んでるの、何だと思う」


「本ですよね」


「部誌だ」


 背表紙を見た。手書きの字で番号が振られている。1号、2号。


「二冊しかないですけど」


「二冊しかない。先輩がいた頃は月刊だったらしいが、部員が減って年に二冊が限界だった」


「先輩がいた頃って」


「俺が入部する前のことだ。三年前まで文芸部には十人くらいいたらしい」


「十人!? 今の二倍以上じゃないですか」


「卒業と同時にみんな辞めていった。残ったのが俺と千歳と先生だけだ」


「三人で二冊は立派じゃないですか」


「立派じゃない。苦肉の策だ。一冊につき二人しか書けないから、ページ数が足りない。先生のコラムを入れてもスカスカだった」


 詩織さんが横から補足した。


「一号は十二ページです。二号は十四ページ。市販の文芸誌と比べると薄いですが」


「薄くても出した。出すことに意味がある」


 凛先輩が部誌を手に取った。一号。表紙は凛先輩の手書きだ。シンプルだが字が綺麗で、タイトルのレタリングに凝っている。


「先輩が描いたんですか」


「千歳が描くと装飾過多になるから俺が引き受けた」


「装飾過多って」


 詩織さんが少し恥ずかしそうに笑った。


「一号の表紙案を三つ出したんですが、全部凛先輩に却下されまして」


「どんなのだったんですか」


「一案目が花柄のボーダーに金の箔押し風デザインで、二案目が万年筆のイラスト入りのアールヌーヴォー調で、三案目が——」


「一案目で十分だ。つまり過剰だった」


「デザインに情熱を込めただけです」


「情熱の量が部誌のページ数を超えていた」


 中を開いた。凛先輩のミステリ短編と、詩織さんの恋愛小説と、霧島先生の五行コラムが載っている。


「先生のコラム、五行なんですか」


「締切の三分前に書いた。一行一分だ」


 霧島先生がいつもの場所から答えた。


「一行一分って、むしろ推敲する暇がないから逆に味が出てるんですよ」


「千歳、それはフォローなのか皮肉なのか」


「フォローです。先生の五行は好きです」


「……ありがとう」


 先生が照れている。珍しい。缶コーヒーの缶で口元を隠しているが、見えている。


 凛先輩が本棚の別の段を指さした。


「こっちは参考資料だ。文芸コンクールの過去の入賞作品集、文芸誌のバックナンバー、それから先生の私物の小説が混ざっている」


「先生の私物って」


「俺が置いていったわけじゃない。棚に入れたら棲みついた。本は勝手に増殖する」


「増殖しません」


「する。本棚に隙間を作ると、三日で本が生える」


「先生の部室での生態系がすごいですね」


 凛先輩がホワイトボードの横に移動した。


「次。ここが執筆スペースだ」


「ちゃぶ台と椅子——じゃなくて畳ですよね」


「畳に正座か、あぐらか、寝転がるかは自由だ。PCは一台しかないから交代で使う。手書き派は原稿用紙。千歳は万年筆。壮介はスマホだろうな」


「先輩はどっちですか」


「PC。ミステリはプロットの管理が面倒だから手書きでは追いつかない」


「先生は?」


「赤ペン。俺は添削しかしない」


「書いてくださいよ」


「書かない」


「先生、いつもそれですね」


「いつもだ。一貫性がある」


「一貫性って言えば聞こえはいいですけど」


 凛先輩が急須の横にある箱を開けた。中にはペンが何本も入っている。ボールペン、シャーペン、マーカー。それと赤ペンが三本。


「赤ペンが多くないですか」


「先生の分だ。先生は赤ペンを週に二本消費する」


「二本!?」


「添削量が異常なんだ。俺たちの原稿に入る赤が多すぎて」


「それは俺たちの原稿の質の問題じゃないのか」


「両方だ。お前たちの質が低いのと、先生の赤ペン癖が強いのと」


「先生の赤ペンには愛がありますよ」


 詩織さんが真面目な顔で言った。


「愛で赤ペンを消費されても困る」


「困らないです。先生の赤は、私たちの文章を良くしてくれる赤です」


「千歳がそう言うなら、まあ」


 凛先輩が箱を閉じた。


「最後。冷蔵庫」


「冷蔵庫?」


「小型だが部室にある。お茶の葉と先生の缶コーヒーのストックが入っている」


「なんで冷蔵庫を紹介するんですか」


「部室は生活空間でもある。放課後の数時間をここで過ごすんだから、快適さは重要だ。お茶が切れたら言え。補充する」


「先輩がお茶を管理してるんですか」


「部長の仕事だ。部の予算でお茶を買う。菓子代は各自負担。先生の缶コーヒーは先生の自腹」


「自腹は辛い」


「顧問の義務だ」


「義務じゃないです。好きで飲んでるだけです」


「好きで飲んでも自腹は自腹だ」


「事実ですね」


 ツアーが終わった。十分くらいの短いツアーだった。


「以上がこの部室の全てだ。畳六畳、本棚一つ、ちゃぶ台一つ、ソファ一つ、ホワイトボード一つ、PC一台、冷蔵庫一台。予算は月八千円。部員は四人と顧問一人」


「少ないですね」


「少ない。だがこれで十分だ。本を読んで、文を書いて、お茶を飲む。それ以上何がいる」


「先輩、ミニマリストですか」


「ミニマリストじゃない。リアリストだ。あるもので戦う」


 *


 オリエンテーションが終わると、凛先輩が隅のノートPCを指さした。


「書け」


「え、もう?」


「善は急げ。締切まで一週間しかない。朝倉、あのPCを使え」


 古いノートPCの前に座らされた。電源を入れると、ファンが唸りを上げる。テキストエディタの白い画面が現れる。カーソルが点滅している。


 何も浮かばない。


 指がキーボードの上で止まる。サッカー部では「走れ」と言われれば走れた。「蹴れ」と言われれば蹴れた。身体を動かすことには慣れていた。だが「書け」は全く勝手が違う。頭の中にぼんやり存在する「何か」が、文字になる前に霧散してしまう。


 十分経過。書けた文字数、ゼロ。


 二十分経過。まだゼロ。


 三十分経過。画面が白い。白すぎる。カーソルが点滅している。脈拍みたいに。お前の心臓は動いているのに、指は止まっているぞ、と。


「焦るな」


 凛先輩が定位置から声をかけてきた。文庫本から目を離さないまま。


「最初から書ける奴なんていない。私だって最初はひどかった」


「先輩の"最初"がどんなだったか想像できないんですが」


「ミステリを書こうとして、一行目で犯人を名乗らせた。トリックも推理もなし。自白から始まる推理小説」


「それはもう推理小説じゃないですよね」


「だから成長の余地があった」


 詩織さんがそっと横に来た。卓の角に足をそろえて座り、こちらを見る。距離が近い。ペンの残り香がかすかにした。


「朝倉くん、なにか好きなものはありますか」


「好きなもの?」


「好きなもののことを書くのが一番楽です」


「好きなもの……サッカー、カレーうどン、昼寝」


 詩織さんが即座にノートを開いた。ペンが走る。


「メモするほどの情報じゃないでしょ」


「すべての情報には価値があります」


「カレーうどンと昼寝に価値がありますか」


「あります。たとえば、サッカーとカレーうどンの共通点を考えてみてください」


「ないだろそんなもん」


「ありますよ」


 詩織さんが真っ直ぐこっちを見た。


「どちらも朝倉くんの"好き"が共通点です」


 一瞬、言葉が出なかった。


 こいつ、たまにすごいこと言うな。


 なんか気が楽になった。難しく考えなくていいのかもしれない。好きなものを書けばいい。カレーうどンのことなら、いくらでも書ける気がした。


「じゃあカレーうどンのことでいいですか」


「もちろんです。カレーうどンについて書いてください」


「真面目に言ってます?」


「大真面目です。カレーうどンの何が好きですか」


「汁が飛ぶところ」


「飛ぶところ?」


「食べてると絶対に汁が飛ぶじゃないですか。白い制服めがけて。あの瞬間のどうしようもなさが好きっていうか、もう諦めるしかないっていうか」


「それを書いてください。今言ったことを、そのまま」


 半ば投げやりにキーボードを叩き始めた。


 最初の一文。


「カレーうどンの汁が制服に飛ぶあの瞬間、人は全てを諦める」


 何書いてんだ俺。


 でも指が止まらなかった。次の文が出てくる。また次の文。あの汁の放物線について。白シャツへのダメージについて。


 食堂でカレーうどンを注文する人間の覚悟について。


 気づいたら五百字くらいの文章が画面にあった。


 *


「読んでいいか」


 凛先輩が手を伸ばした。画面をこちらに。逃げ場がない。


 凛先輩が読み上げる。


「"カレーうどンの汁は人を選ばない。白シャツだろうが制服だろうがジャージだろうが、等しく襲いかかる。あの放物線は芸術であり、暴力であり、カレーうどンの意志である"」


 一瞬、間が空いた。


 やばい。笑われる。カレーうどンの意志ってなんだ。自分で書いておいてなんだが、頭がおかしい文章だ。


「この比喩、すごく身体的でいいですね!」


 詩織さんだった。目が輝いている。


「え?」


「"放物線は芸術であり暴力であり意志である"。この三段構成、すごくリズムがいいです。しかも"意志"で終わるのが面白い。カレーうどンに意志があるという発想が」


「いや、そこ褒めるところですか?」


 凛先輩がうなずいた。


「"カレーうどンの意志"って表現、好きだ。生きてるよ、このうどん」


「生きてるかどうかはさておき」


「続きも読むぞ。"箸でうどんを持ち上げる動作は、サッカーでいうロングキックに似ている。溜めて、振って、飛ばす。違うのは飛ぶ先だ。ボールはゴールに向かうが、カレーの汁は制服に向かう。狙いすましたかのように胸元に着弾する。それでも人はうどんを食う"」


 凛先輩が画面から目を離した。


「サッカーの比喩が自然に入ってるな。"溜めて、振って、飛ばす"。テンポがいい。お前、身体感覚を文字にするのが上手い」


「褒められてるんですか」


「褒めてる」


「うどんの文章で」


「カレーうどンだろうが焼肉だろうが、いい文章はいい文章だ」


 霧島先生が赤ペンを置いた。いつの間にか添削の手が止まっている。


「出版社に持ち込むなよ」


「持ち込みませんよ!」


「いや、逆に持ち込んだら面白いかもしれんな」


「先生、適当すぎません?」


「適当じゃない。半分本気だ」


「半分は嘘なんですね」


「半分は期待だ」


 なんだそれ。嘘と期待の区別がつかない。


 詩織さんがノートに何か書き込んでいた。ちらっと見えた文字。


「朝倉くんの文体——身体的比喩。運動部の経験からくる動作描写。感覚優位」


「隠さないんですね」


「隠す理由がありませんので」


 開き直りが清々しい。


 *


 夕方になった。


 各自が自分の作業に没頭する時間に入った。誰が号令をかけたわけでもないのに、自然とそうなる。


 詩織さんはペンで原稿用紙に向かっている。カリカリという音が一定のリズムで刻まれている。


「詩織さん、ペンの音がメトロノームみたいですね」


「言われたことあります。中学の先生にも"千歳の筆記音はBPM72だ"と」


「計測されたんですか」


「音楽の先生だったので」


 凛先輩はソファでノートに何か書いている。覗き見る気はないが、ちらっと見えた。


「先輩、ノートの端にイラスト描いてません?」


「見るな」


「見えちゃったんですけど。人物の横顔、上手いですね」


「ミステリのプロットだ。登場人物の顔を描かないと動機が浮かばない」


「犯人の顔を先に描くんですか」


「被害者の顔だ。被害者を知らないと殺し方が決まらない」


「発想が怖い」


 霧島先生は生徒の課題に赤ペンを入れている。


「先生、赤ペンの動きだけは本気ですね」


「当たり前だ。添削は俺の唯一の取り柄だ」


「唯一って自分で言わないでくださいよ」


「事実だ。書くのは辞めたが、直すのは辞めていない」


 俺はエッセイの続きを書いていた。カレーうどンの話から派生して、学食の話になり、学食から教室の話になり、教室から放課後の話になっていた。キーを叩く指が止まらない。


 窓から西日が入ってくる。部室の空気が、夕方特有のやわらかさに変わった。


 ふと顔を上げた。


 夕光。詩織さんの髪を透かして、黒が茶に変わる。ペンを握る指、原稿に落ちるまつげの影。横顔。真剣だ。


 手が止まった。


 たぶん。視界に入っただけだ。西日がきれいだっただけだ。


 慌ててPC画面に目を戻した。


「朝倉くん、手が止まってますよ」


「い、いや、ちょっと考え事を」


「何を考えてました?」


「西日が……きれいだなって」


「西日ですか。窓から見える夕焼けは、確かに今日はきれいですね」


 詩織さんが窓のほうを見た。西日が横顔を照らしている。本人はまったく気づいていない。


「朝倉、手が止まってるぞ」


 凛先輩がソファから指摘した。


「すみません」


「西日に見とれるのは勝手だが、締切は待ってくれないからな」


 キーボードに指を戻した。


 *


 下校時間を知らせるチャイムが鳴った。


「よし、今日はここまで」


 凛先輩がノートを閉じた。パタンという音がやけに決定的だった。


 片付けをしながら、凛先輩が言った。


「朝倉、今日何文字書いた」


「えっと……千二百文字くらいです」


「上出来だ。締切まであと五百字いけるか」


「たぶん」


「たぶんじゃなく、書け。千歳は」


「八千字です」


「お前はペースが速すぎる。推敲に時間を使え」


「はい」


「先生は」


「俺は書いてない」


「来週、顧問コラムとして五百字書いてください」


「嫌だ」


「部長命令です」


「顧問に部長命令は効かない」


「じゃあ生徒からのお願いです」


「お願いはもっと効かない」


「書かないなら次の缶コーヒー代を出しません」


「書く」


「先生、ちょろすぎません?」


「缶コーヒーは命だ。命には代えられない」


 校門まで四人で歩いた。


「じゃあな」


 凛先輩が片手を上げて、反対方向に曲がった。


「先生は?」


「職員室に戻る。お前たち気をつけて帰れ」


「お疲れ様です」


「ああ。明日も来いよ」


 残ったのは俺と詩織さんだった。


「朝倉くんはどちらの方向ですか」


「駅の方です」


「私もです。途中まで一緒に歩いてもいいですか」


「どうぞ」


 夕暮れの住宅街を並んで歩いた。西の空が茜色で、電線に鳥が止まっている。二人の足音が、アスファルトの上で交互に鳴る。


 しばらく無言で歩いた。部室にいるときは卓を挟んでいるから平気だったが、横に並ぶと距離感がわからない。


「あの、歩くの速いですか?」


「え? 普通だと思いますけど」


「私、少し遅いかもしれません」


「合わせますよ」


 半歩遅くした。


「朝倉くんはどんな小説が好きですか?」


「そんなに読まないんですけど……スポーツ漫画なら」


「スポーツ漫画ですか。何が好きですか?」


「『ブルーロック』とか」


「サッカー漫画ですね。読んでみます」


「え、読むんですか?」


「はい。取材として」


「理屈が通ってるのか通ってないのかわからない」


 分かれ道に来た。俺は真っ直ぐ、詩織さんは右。


 詩織さんが立ち止まった。こちらを向く。


「朝倉くん」


「はい?」


「明日、うどんの続き、楽しみにしてますね」


 笑顔だった。夕焼けの光が横から差して、笑顔の輪郭が淡く染まっていた。


 手を振って歩き出す詩織さんの背中を見送った。黒い髪が夕風に揺れている。


「……カレーうどンの続きってなんだよ」


 一人で呟いた。


 帰宅した。鞄を椅子に放り投げて、制服のまま机に座った。


 教科書を出すつもりだった。宿題をやるつもりだった。


 なのに気づいたら、ノートを開いていた。机の上に転がっていたシャーペンを手に取って、白いページに向かっている。


 カレーうどンのエッセイの続き。


 さっき部室で書いた千二百字の続き。学食でカレーうどンが運ばれてくる瞬間の湯気の話。割り箸を割るときのあの緊張感の話。


 なにやってんだ俺。


 自分にツッコミを入れたが、ペンは止まらなかった。言葉が出てくる。文字になる。ノートの罫線の上をシャーペンが走る。さっき部室で感じたのと同じ感覚だ。頭の中にあるものが、手を通じて紙に落ちていく。止められない。


 三十分くらい書いた。顔を上げた。窓の外はもう暗い。自室の蛍光灯が白い。


 ノートを見返した。追加で六百字くらい書いてあった。合計で千八百字。カレーうどンだけでここまで書けるとは思わなかった。


 ノートを閉じた。


 天井を見上げた。


 明日も部室に行くのかと思った。行くんだろうな。帰り道に詩織さんが「楽しみにしてます」と言っていた。あの笑顔を思い出す。


 ……いや別に笑顔を思い出してるわけじゃない。カレーうどンの続きを楽しみにしてもらっているから、書かないといけないだけだ。義務だ。文芸部員としての義務。


 部活二日目。情報量が多すぎる。オリエンテーション、初めての執筆、あのエッセイ、身体的比喩、詩織さんの取材メモ、夕焼けの帰り道。一日でこの密度はおかしい。


 前の部活の一日は「走る」「蹴る」「走る」だった。文芸部の一日は「書く」「褒められる」「書く」「観察される」「書く」「楽しみにしてますと言われる」だ。


 情報量が、多すぎる。


 でもまあ。


 戸が閉まる音が、廊下に響いた。古い木の音。明日もあの音を聞くことになる。


 たぶん。


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