第10話:文芸部、予算を勝ち取れ
七月第二週。月曜日。朝の空気がもう夏だった。教室の窓から入る風が、肌に熱を運んでくる。部誌の第二号を配り始めてから一週間が経った。十冊のうち九冊はすでに読者の手に渡っている。残り一冊は壮介が「記念保存用」と言って本棚に飾った。
放課後。蒸し暑い廊下を抜けて旧校舎に入る。七月の旧校舎は、窓を開けても風が通らない。汗が額に浮く。
部室に入ると、凛先輩がホワイトボードの前に立っていた。マーカーを持って数字を書いている。いつもは「掟」とか「締切」とか「壮介の古典成績」とかが書いてある。今日は違う。
「夏合宿予算」
その下に項目が並ぶ。交通費、宿泊費。食費、雑費。合計の横に赤いマーカーで「五万三千円」。
その隣に「部費残高」八千円。
差額、四万五千円。
四万五千円。高校生の部活動の追加予算としては途方もない金額だ。サッカー部なら遠征費として普通に出るはずだが、文芸部は違う。文芸部に四万五千円の予算をつけてくれる学校は、たぶん日本中探してもない。
「足りない」
凛先輩が振り返った。目が据わっている。ミステリの犯人を追い詰めるときよりも鋭い。プリン事件の解決よりも本気の目だ。
「圧倒的に足りない」
「圧倒的ですね」
「生徒会に追加予算を申請する必要がある」
「通るんですか」
「通すんだよ」
霧島先生がソファの端から声を出した。
「凛、目が怖いぞ」
「怖くないです。本気なだけです」
「本気と怖いは両立する」
「先生、顧問として何かしてくれないんですか」
「俺にできることは缶コーヒーを差し入れることくらいだ」
「缶コーヒーでは合宿に行けません」
「じゃあ缶コーヒーを我慢して差額に充てたらどうだ」
「先生が一日何本飲んでるか計算したんですが、一ヶ月で缶コーヒー代が約八千円です」
「部費と同額!?」
「同額です。先生の缶コーヒー代で部費が倍になります」
「それは困る。缶コーヒーは俺の生命線だ」
「合宿も文芸部の生命線です」
「……善処する」
「善処じゃなくて具体的にお願いします」
壮介がちゃぶ台の前で腕まくりをした。文字通りの「戦う」の構えだ。「予算ってどうやって取るの?戦う?」
「プレゼンで取る」
「プレゼン?パワポ?俺得意だよ」
「お前にパワポさせたら何が起きるか分からない」
「大丈夫、任せろ」
嫌な予感がした。
詩織さんが万年筆を置いた。
「私もプレゼン資料のためにデータを集めます。文芸部の活動実績を数値化して」
「実績が薄いのが問題なんだ。部誌二号とコンクール入賞ゼロ。数字にすると悲惨だ」
「薄いなりに盛ります」
「盛るな。正確にいけ」
「正確に盛ります」
「矛盾してるが、まあいい」
詩織さんが取材ノートを開いた。体育祭の実況小説の反響データがびっしり書かれている。SNSの投稿数、声をかけてくれた生徒の数、「語彙が足りない」が何回リツイートされたか。いつの間にこんなデータを集めていたのか。
「体育祭の実況小説は、SNSで少なくとも五十件以上の投稿がありました。"文芸部の実況"というキーワードで検索した結果です」
「五十件もあったのか」
「"語彙が足りない"単体で二十三件です」
「壮介の語彙力のなさが数値化された」
「数値化された!俺の語彙力のなさにデータの裏付けが!」
「それは喜ぶところではない」
*
翌日の放課後。
生徒会室のドアの前に立っていた。凛先輩と俺の二人だ。壮介には「待機命令」が出ている。理由は
「何を言い出すか分からないから」
正しい判断だ。
指先が冷たい。
凛先輩がドアをノックした。三回。均等な間隔。この人はノックにも品がある。
「どうぞ」
澄んだ声が返ってきた。ドアを開ける。
生徒会室は部室の三倍くらい広かった。窓が大きくて、西日が差し込んでいる。書類の山が三つ。ホワイトボードにスケジュール表。
壁に生徒会の活動方針が額装されている。うちの部室とは別の星の景色だ。うちの部室は畳とちゃぶ台とソファと本棚だ。こっちは長テーブルとパイプ椅子と書類棚だ。
その文明の中心に、一人の女子が座っていた。 長い黒髪をハーフアップにまとめて、生徒会の腕章を完璧に着用している。姿勢がいい。背筋が定規で引いたみたいにまっすぐだ。目が鋭い。
書類の上を走る赤ペンのスピードが尋常じゃない。一文読んでは赤を入れ、一文読んでは赤を入れ。俺たちが入ってきても手を止めない。
三秒後、ペンが止まった。顔が上がった。
「文芸部の桐谷さんですね。追加予算の申請と聞いています」
天城瑠璃。二年生。生徒会長。凛先輩とは学年が同じだが、空気がまるで違う。凛先輩が「自由」なら、この人は「秩序」だ。
「内容を聞かせてください」
凛先輩が企画書を差し出した。天城さんが受け取り、一読する。ページをめくるスピードが速い。速読だ。だが目は正確に文字を追っている。赤ペンを握ったまま読んでいる。修正したい衝動と戦っているように見えた。
「文芸部の昨年度の活動実績は——部誌二号、コンクール入賞ゼロ。率直に言って、追加予算を出す根拠が薄いです」
率直だった。直球だった。ストレートのど真ん中だった。
だが凛先輩は動じなかった。部室で足を組んでいるときとは別人みたいに、背筋が伸びている。
「今年は状況が違う。部員が五人に増え、体育祭での実況小説は好評だった。SNSでも話題になっている」
「実況小説は承知しています。学内での反響があったことも。ただ、それは活動実績と呼ぶには——」
「根拠が必要だというのは理解しています。だからこそ、夏合宿で成果を出す。コンクールに出場し、入賞を目指す。合宿はそのための投資です」
「投資、ですか」
天城さんの眉がわずかに動いた。
「投資には回収計画が必要です。具体的な数値目標はありますか」
「あります」
凛先輩が企画書の二ページ目を開いた。
「三つの数値目標を掲げます。一、夏のコンクールで入賞一名以上。二、部誌の定期発行、年四号。三、文化祭での展示来場者五十名以上」
天城さんが数字を見ている。目が鋭い。電卓のような目だ。数字を入力して、弾いて、判定している。
「五十名。根拠は」
「昨年度は来場者ゼロです。何もしなかったから。今年は違う。企画を立てます」
「企画の具体案は」
「合宿中に策定します。現時点では未定ですが、方向性は体験型の文芸イベントを検討しています」
天城さんが企画書を閉じた。
「保留にします。企画書の再提出をお願いします。費用対効果の分析を加えてください」
凛先輩が一礼した。俺も頭を下げた。生徒会室を出る。廊下の空気が涼しく感じた。生徒会室の空気は、物理的にではなく精神的に暑かった。
「保留、か」
凛先輩が廊下を歩きながら言った。
「一発では通らないと思っていた。天城は甘くない」
「凛先輩、あの人のこと知ってるんですか」
「学年が同じだ。一年のときから成績は学年トップ。生徒会は一年から入って、二年で会長になった。努力と実績の人だ。だから実績がない相手には厳しい」
「嫌な人ですか」
「いや。正しい人だ。正しいから手強い」
凛先輩が前を向いたまま笑った。
「面白い。もう一回行くぞ」
*
部室に戻ると、壮介がちゃぶ台の上にUSBメモリを掲げていた。
「おかえり! 朗報だ! 俺、プレゼン資料作った!」
部室の空気が凍った。全員の手が止まった。
「見せてみろ」
凛先輩の声が低い。嫌な予感しかしない。
ノートPCにUSBを差す。ファイルを開く。
一枚目。
「文芸部 最強計画」
タイトルだ。背景が炎だ。フォントが極太ゴシックだ。文字が赤と黄色の交互だ。目が痛い。
「壮介、なんで背景が炎なの」
「文芸部の情熱を表現した!」
「燃えてるのは予算だよ」
凛先輩が冷静にツッコんだ。俺は心の中で拍手した。
二枚目。活動実績のグラフ。全部右肩上がりだ。部誌の発行数、来場者数、知名度、全てが急上昇している。
「壮介、このグラフのデータは何だ」
「気合い」
「気合いでグラフを捏造するな」
「捏造じゃない。未来予測だ」
「未来予測に根拠が必要だろ」
「俺の勘」
「却下」
三枚目。「目標:全国制覇」のスローガン。背景がさらに炎。文字が大きくなっている。画面の九割が炎だ。
「全国制覇って、文芸部に全国大会はあるのか?」
「ないけど、あったら制覇する!」
「ない大会を制覇する宣言に意味はあるのか」
「気持ちの問題だ!」
四枚目。予算の使い道。「カレーうどン代:五千円」という項目がある。しかも円グラフの三分の一を占めている。
「壮介」
「はい」
「カレーうどンは予算に入れるな」
「合宿の食費だよ!」
「食費の内訳にカレーうどンだけ独立させるな。しかも全体の三分の一ってどういう計算だ」
「カレーうどンは三食に入るから!」
「三食カレーうどンは栄養が偏る」
「偏らない! カレーは野菜だ! うどんは炭水化物だ! 完全食だ!」
「完全食ではない」
詩織さんが控えめに手を挙げた。
「大和さん、スライドの炎の背景は何を表しているんですか?」
「文芸部の情熱!」
「火災報知器が鳴りそうですね」
「詩織ちゃん、それツッコミ? ボケ?」
「感想です」
凛先輩がノートPCを閉じた。静かに、だが完全に。
「全没」
「全没!?」
「スライドは全て作り直す。俺が」
「先輩が!? 俺の三日間の努力は!?」
「三日もかけてこれだったのか」
壮介がちゃぶ台に突っ伏した。「俺のクリエイティビティが否定された」と呟いている。俺は壮介の肩を叩いた。
「お前の情熱は伝わった。伝わり方が間違ってただけだ」
「慰めになってない!」
霧島先生が一口飲んで言った。
「壮介、お前のスライドは面白かった。プレゼン資料としては零点だが、エンターテインメントとしては百点だ」
「先生、その評価は嬉しいんですか悲しいんですか」
「どっちでもいい。お前らしいということだ」
壮介がわずかに顔を上げた。
*
壮介のスライドが全没になった翌日。凛先輩が部室に来るなり、ホワイトボードの前に立った。
「天城を説得する方法を考える。全員参加だ」
「全員で?」
「全員だ。天城が"保留"と言った理由を分析する。保留は拒否ではない。条件が揃えば通る。条件を揃えるのが俺たちの仕事だ」
凛先輩がマーカーで書き始めた。
「天城の指摘は三つ。一、活動実績が薄い。二、数値目標が曖昧。三、費用対効果が不明。この三つを潰す」
「先輩、分析が速い」
「ミステリの推理と同じだ。相手の思考を逆算する」
「生徒会長をミステリの容疑者みたいに分析するのはどうかと思いますけど」
「容疑者じゃない。読者だ。天城は俺たちの企画書の"読者"だ。読者が何を求めているかを分析するのは、作家の基本だろう」
「先輩、たまにすごく正しいこと言いますね」
「たまにじゃない。いつもだ」
詩織さんが取材ノートを開いた。
「体育祭のSNS反響データ、まとめてあります」
「持ってるのか」
「はい。"文芸部"というキーワードが含まれる投稿を全部記録しました」
「何件ある」
「五十三件です。そのうち"語彙が足りない"が二十三件、"十一秒間の永遠"が十五件、"文芸部の実況面白い"が八件、その他が七件です」
「データがある。これは使える」
「あと、体育祭後に文芸部について聞いてきた生徒のリストも作りました」
「リスト!?」
「二十一人です。名前と学年とどの実況が面白かったかを記録しています」
「詩織さん、いつそんなの」
「取材です。体育祭の翌週に全員にインタビューしました」
「二十一人にインタビュー!?」
「二十一人のうち三人は"次の部誌が読みたい"と言ってくれました」
凛先輩の目が光った。
「それだ。"次の部誌が読みたい"という需要がある。つまり文芸部には潜在的な読者がいる。読者がいるということは、活動に意味がある。活動に意味があるなら、予算にも意味がある」
「先輩、論理の組み立てが速すぎません?」
「ミステリ脳だ。因果関係を繋ぐのは得意だ」
壮介が手を挙げた。
「俺にできることある?」
「ある。お前は"熱量担当"だ」
「熱量担当!?」
「データと論理は俺と千歳が揃える。でも天城を動かすのは数字だけじゃない。最後の一押しは"この部活を応援したい"と思わせる熱だ。その熱を出すのはお前の仕事だ」
「俺が熱を出す!」
「ただし、部室で出せ。生徒会室には連れていかない」
「え!? 俺行けないの!?」
「お前を連れていくと何を言い出すか分からない。"カレーうどン代五千円"とか言い出す」
「言わない! ……たぶん言わない!」
「"たぶん"が入る時点でアウトだ」
「先輩ひどい!」
「ひどくない。リスク管理だ。壮介は部室で待機。ただし部室で全力の応援をしろ。俺たちが帰ってきた時に"おかえり"と言え。それがお前の仕事だ」
「"おかえり"を言うのが仕事!?」
「交渉が成功しても失敗しても、帰ってきた時に"おかえり"がある。それが大事だ。サッカーで言えば、試合から帰ってきたチームを迎えるサポーターだ」
「サポーター! かっこいい!」
「お前が一番やりやすい仕事だろう」
「やりやすい! 得意! "おかえり"は任せろ!」
俺が手を挙げた。
「俺は何をすれば?」
「朝倉、お前は"体験者の声"だ。文芸部に入って三ヶ月で何が変わったか、天城に直接話せ。データは千歳が出す。論理は俺が出す。でも"この部活に入って人生が変わった"という生の声は、お前にしか出せない」
「俺の体験談を話すんですか」
「怪我でサッカーを辞めた人間が、文芸部で居場所を見つけた。それは天城にとって初めて聞く話だ。データより響く」
「そんなの恥ずかしいですけど」
「恥ずかしいから響くんだ。作り物じゃない言葉は強い。千歳の取材ノートがいい例だ。あれは本当に見たことを本当に書いている。だから読む人間の心を動かす」
「私の取材ノートと一緒にしないでください」
「本質は同じだ。本当のことを本当に言う。それが一番強い」
詩織さんがノートを閉じた。
「凛先輩、私の役割は?」
「千歳。お前はデータと、もう一つ。天城の表情を読め」
「表情?」
「お前は人間観察のプロだ。天城がどの数字に反応して、どの言葉で眉が動くか。それをリアルタイムで読み取って、俺に合図を送れ」
「合図って、どうやって」
「ペンを左手に持ち替えたら"天城が興味を示した"。右手に戻したら"まだ足りない"。それだけでいい」
「了解しました。取材の応用ですね」
「取材じゃない。作戦だ」
「作戦も取材の一種です」
「お前の取材の範囲は無限だな」
霧島先生が缶コーヒーを飲みながら言った。
「俺は何をすればいい」
「先生は企画書に顧問としてのコメントを一言添えてください。"文芸部の活動は教育的に意義がある"と」
「教育的に意義がある、か。嘘ではないな」
「嘘じゃないんですか」
「お前たちが入部してから、国語の成績が全員上がっている。壮介を除いて」
「壮介を除くな!」
「事実だ。壮介は国語四十七だった」
「四十七は上がった! 前は四十三だった!」
「四点アップを成長と呼ぶかどうかは議論の余地があるが、ゼロではない。教育的効果はあると言える」
「先生が認めてくれた!」
「認めたのは四点だけだ」
凛先輩がホワイトボードに作戦図を完成させた。
凛:論理・交渉 → メイン
詩織:データ・観察 → サポート
陽翔:体験者の声 → 切り札
壮介:おかえり担当 → 待機
先生:顧問コメント → 援護射撃
「全員に役割がある。部長だけが戦うんじゃない。文芸部全員で予算を勝ち取る」
「先輩、チームプレーですね」
「チームプレーだ。ミステリは一人で書くが、交渉はチームでやる」
「先輩が"チーム"って言うの、珍しいですね」
「珍しくない。俺は最初から五人のチームだと思っている」
凛先輩がマーカーのキャップを閉じた。
「明後日、再交渉する。全員準備しろ」
「はい!」
「はい」
「はい!」
壮介だけ返事が大きかった。待機担当なのに。
*
二日後。
凛先輩が一晩で作り直した企画書とスライドを持って、再び生徒会室のドアをノックした。今度は俺と詩織さんも一緒だ。壮介は再び待機命令。「前回より厳重な待機」と凛先輩が言った。壮介は部室でカレーうどンのエッセイの続きを書いている。
「失礼します」
天城さんが顔を上げた。前回と同じ姿勢。同じ赤ペン。書類の山は少し減っている。仕事が速い人だ。
三人が座る前に、俺は詩織さんの右手を確認した。万年筆を握っている。右手。まだ「興味なし」の状態だ。
「再提出の企画書です」
凛先輩が差し出した書類は、前回とは格が違った。表紙からして違う。フォントが整っている。根拠のあるグラフだ。壮介の「気合いグラフ」とは対極にある、データに基づいたグラフだ。
「文芸部は今年、三つの数値目標を掲げます」
凛先輩がプレゼンを始めた。論理で武装した声だ。
「一、夏のコンクールで入賞一名以上。五名全員がコンクールに作品を提出予定です。昨年度はゼロでした」
「二、部誌の定期発行。年四号を予定。印刷は学内設備を使用し、制作費を抑えます」
「三、文化祭での来場者50名以上。体育祭のSNS反響数から推定した数字です。詳細は企画書の四ページにまとめました」
天城さんが四ページを開いた。学内アンケートの結果。SNSの投稿数。他校の文芸部の文化祭来場者数との比較。
「合宿は三日間の集中執筆です。合評会で互いの作品を磨き、コンクール入賞に必要な質を確保します。予算はそのための投資です」
沈黙。天城さんが企画書を最初から読み直している。赤ペンは握ったままだが、動いていない。
「データは認めます。体育祭の反響があったことも。ただ——」
天城さんがページを閉じた。
「文芸部の活動が"必要"であることと、予算を出す"根拠"があることは別です。反響があったのは事実でしょう。しかしそれは体育祭という既存のイベントに乗っただけです。文芸部独自の成果とは言い切れません」
鋭い。正確だ。凛先輩の論理の穴を一発で突いてきた。
詩織さんの手を見た。右手のまま。まだだ。
凛先輩が間を置かずに返した。
「その指摘は正しい。体育祭は既存のイベントです。だからこそ、文化祭では文芸部独自の企画で成果を出します。来場者50名は、体育祭の反響を土台にした数字です」
「土台にした、というのは仮定ですね。保証はありますか」
「保証はありません。しかし根拠はあります」
凛先輩が俺を見た。一瞬だけ。「行け」の目だった。
「朝倉。話せ」
心臓が跳ねた。恥ずかしいと言った。恥ずかしいから響くと凛先輩が返した。
「あの、俺は——」
天城さんの目がこちらを向いた。赤ペンが止まった。
「俺はサッカー部でした。一年の春に膝を壊して、走れなくなりました」
天城さんの表情が変わらない。聞いている。
「サッカーを辞めた後、学校に行く理由がなくなりました。教室にいても、放課後になっても、行く場所がなかった。部活がないと、学校はただの建物です」
自分の声が聞こえている。震えていない。不思議だ。恥ずかしいはずなのに、言葉が出てくる。
「文芸部に入って、変わりました。書くことが見つかった。走れなくなった人間が、ペンで走る方法を見つけた。——これは俺だけの話です。でもこういう生徒が、学校にはもっといるかもしれません。行く場所がない生徒が。文芸部は、そういう生徒の居場所になれる部活です」
沈黙。
詩織さんの手が動いた。万年筆を左手に持ち替えている。
天城が興味を示した——のサインだ。
天城さんが俺を見ていた。赤ペンを持つ手が、わずかに下がっていた。書類を修正する構えではなかった。ただ聞いている手だった。
「……続けてください」
「合宿は三日間です。その三日間で、五人が全員原稿を完成させます。学校の中じゃ書けないものがある。壁の外に出て、空気を変えて、初めて出てくる言葉がある。俺はまだ三ヶ月しか書いていません。だからこそ、この合宿で一段上に行きたいんです」
凛先輩が引き継いだ。
「企画書の最後のページに、顧問からのコメントを添えています」
天城さんがページをめくった。霧島先生の直筆コメント。赤ペンで書かれた一行。
「"文芸部の活動は、生徒の表現力と自己理解を育てる教育的効果がある。合宿はその集大成として必要な場である"——霧島遥」
「顧問が教育的効果を認めているんですね」
「はい。国語の成績も、入部前と比較して部員全員が向上しています。詳細は五ページに」
天城さんが五ページを開いた。成績推移のグラフ。詩織さんがまとめたデータだ。壮介の四点アップも含まれている。四点は四点だが、グラフにすると上向きの矢印になる。
天城さんが企画書を閉じた。テーブルの上に両手を置いた。赤ペンは横に置いている。修正する気がない姿勢だった。
「悪くないです」
天城さんが顔を上げた。
「ただ、全額は出せません。他の部活との予算バランスがあります。半額なら」
「六割」
凛先輩が即座に返した。
「五割五分」
「五割八分」
天城さんの口の端がわずかに動いた。
「桐谷さん。交渉が上手いですね」
「文芸部ですから。言葉が武器です」
「では五割五分で。端数は切り上げます」
予算の五十五パーセントが承認された。凛先輩が書類にサインしている。天城さんもサインしている。二人のペンの音だけが静かな生徒会室に響いた。
帰り際、天城さんが凛先輩を呼び止めた。
「桐谷さん。一つ聞いていいですか」
「はい」
「次の部誌、いつ出ますか」
凛先輩の足が止まった。俺の足も止まった。詩織さんの足も止まっている。
「七月末を予定していますが。なぜ?」
天城さんの表情が一瞬だけ揺れた。瞬きよりも短い時間。
「なんでもありません」
早足で席に戻った。赤ペンを握り直して、書類に向かった。
*
部室に戻ると、壮介が卓の前で待っていた。
「おかえり! どうだった!?」
「通った。五十五パーセント」
「通った!? やった!!」
壮介が立ち上がってガッツポーズをした。卓が揺れた。コンビニの袋が出てきた。中にジュースが五本入っている。
「打ち上げだ! 合宿決定の乾杯!」
「いつ買ったんだ、これ」
「さっき。通ると思って先に買った!」
「通らなかったらどうするつもりだったんだ」
「その時はやけ酒の代わりにやけジュースだ!」
紙コップが配られた。全員分。五つ。
「合宿決定、乾杯!」
紙コップが軽い音でぶつかった。オレンジジュースが少しこぼれた。壮介が「もったいない!」と叫んで、こぼれた分を指ですくった。
「壮介、行儀が悪い」
「もったいない精神だよ!」
霧島先生がジュースを一口飲んで、すぐに缶コーヒーを開けた。
「先生、ジュースは」
「甘い。俺には甘すぎる」
「先生の缶コーヒーも甘いでしょう。微糖って書いてありますけど」
「コーヒーの甘さとジュースの甘さは別物だ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
詩織さんがジュースを一口飲んで、取材ノートの新しいページを開いた。
「合宿 Day 0」
まだ行ってもいないのに、記録が始まっている。
「詩織さん、気が早い」
「備えあれば憂いなしです。合宿で何を取材するか、リストを作っておきたいんです」
「取材リスト」
「はい。朝焼けの色。波の音。砂浜の温度。民宿の畳の匂い。全員の寝顔」
「寝顔はやめてくれ」
「取材です」
「寝顔が取材になるのか」
「なります。人は眠っているときが一番素です。無防備な表情には、起きているときには見えない本質が表れるんです」
「やめてくれ。頼む」
壮介が卓を叩いた。
「俺のスライドが却下されたことは忘れてないからな!」
「忘れろ」
「忘れない! 炎の背景は最高だった!」
「最高じゃなかった」
「凛先輩のプレゼン見てないけど、絶対俺のほうがインパクトあった!」
「インパクトと説得力は別だ」
「来年は俺のスライドで!」
「来年もお前のスライドは使わない」
「ひどい!」
合宿が決まった。初めて部室の外に出る。五人で。原稿とペンとカレーうどンへの想いを詰め込んで。
*
七月の部室。合宿の予算が通ってから二日が経っていた。壮介のスライドが全没になった傷はまだ癒えていないらしく、ちゃぶ台の隅で「炎の背景は悪くなかった」と呟いている。凛先輩はソファでミステリを読んでいる。霧島先生は今日は不在。職員会議だ。
詩織さんが手を止めた。ノートの上に両手を重ねて、小さくため息をついた。
「どうした千歳、手が止まるなんて」
凛先輩がミステリから目を上げた。
「嘘のシーンが書けないんです」
「嘘?」
「はい。新作の短編で、主人公が恋心を隠すために嘘をつく場面があるんですけど、その心理描写がどうしても書けなくて」
詩織さんが原稿を見つめている。ペンのキャップを回している。考えている顔だ。けれどペンは動かない。書けない時の詩織さんは、いつもキャップを回す。くるくる、くるくる。
「嘘をつく人の気持ちが分からないんです。なぜ本当のことを言わないんでしょう。本当のことを言ったほうが楽じゃないですか?」
「言えないから嘘をつくんだろ」
俺がツッコんだ。詩織さんが首を傾げた。
「でも、本当のことを言ったほうが楽じゃないですか?」
「楽かどうかの問題じゃないんだよ。言えない事情があるから嘘をつくんだ」
「事情、ですか」
「恥ずかしいとか、傷つけたくないとか、いろいろあるだろ」
詩織さんが真剣な顔で頷いた。ペンをノートに戻して、何かを書こうとした。また止まった。
「やっぱり分かりません。私、嘘がつけないんです」
「つけない?」
「つこうとすると、顔に出ます。全部」
凛先輩がミステリを閉じた。ソファから身を起こす。面白いものを見つけた時の顔だ。プリン消失事件の時と同じ顔。犯人を追い詰める直前の、あの好奇心に満ちた目。今回の対象は詩織さんの「嘘がつけない」という弱点だ。
「じゃあ練習しよう」
「練習?」
「嘘をつく練習だ。作家は自分に書けないものを書くために、体験する必要がある」
「体験」
「そうだ。やってみろ。嘘をつけ」
詩織さんの目が丸くなった。壮介がちゃぶ台から顔を上げた。「面白そう!」と言った。面白そうだ。
こうして、文芸部史上初の「嘘チャレンジ」が始まった。
*
ルールは単純だった。
詩織さんが嘘を言う。俺たちが騙されたら詩織さんの勝ち。騙されなかったら負け。凛先輩が審判を務める。壮介は観客兼実況担当を自称した。誰も頼んでいない。
「いいか千歳。嘘をつくコツは三つだ」
凛先輩がホワイトボードにマーカーで書き始めた。
「一、目を逸らさない。二、声のトーンを変えない。三、手を動かさない。この三つを守れば、大抵の嘘は通る」
「目を逸らさない。声を変えない。手を動かさない」
詩織さんが復唱した。真剣だ。ノートにメモまで取っている。嘘のつき方をメモする人間を初めて見た。
「では始めます」
詩織さんが姿勢を正した。深呼吸をした。真剣な顔。まるでコンクールの壇上に立つ前みたいだ。嘘をつくのにそこまでの覚悟がいるのか。この人は。
「今日はいい天気ですね」
窓の外を見た。土砂降りだった。雨粒が窓ガラスを叩いている。校庭は水たまりだらけだ。
「窓見えてるよ詩織ちゃん」
壮介が即座にツッコんだ。詩織さんが慌てた。
「雨でも心は晴れやかということを」
「無理があるぞ」
凛先輩が腕を組んだ。
「千歳。目を逸らすなと言ったのに、嘘を言った瞬間に窓を見た」
「見てません」
「今の方が嘘としては上手い。反射的に否定するほうがお前は得意らしい」
一問目、失敗。
「二問目いきます」
詩織さんが部誌の最新号を手に取った。自信作だ。表紙を壮介がデザインして、中身は全員の短編が載っている。詩織さんが一番長い作品を書いた号だ。
「この部誌は……あまり面白くありません」
声は平静だった。だが、目が泳いでいる。唇が引きつっている。部誌を持つ手が微かに震えている。全身が「嘘です」と叫んでいる。
「全部のパーツが本音を叫んでるよ」
「嘘をつこうとしているのに、身体が拒否しているんです」
「それはもう体質だな」
凛先輩が冷静に分析した。
「千歳、お前は嘘をつくと自律神経が反応するタイプだ。嘘をつくたびに心拍数が上がって、毛細血管が拡張して、顔が赤くなる。嘘発見器が要らない人間だ」
「人間嘘発見器と呼ばないでください」
「俺が呼んだんじゃない。お前の身体がそう証明しているんだ」
二問目、失敗。壮介が拍手した。
「面白い! もっとやって!」
詩織さんが壮介を見た。
「面白がらないでください」
「でも面白いんだもん!」
凛先輩があいつの頭を小突いた。
「お前は黙って見てろ」
「三問目いきます」
詩織さんが壮介に向き直った。
「大和さんの短編は……文学的に……難解で……」
声がどんどん小さくなっている。目が左上を向いている。指がペンをくるくる回している。凛先輩が言った「嘘のコツ」を三つとも破っている。
「褒めてくれてるのか貶してるのか分からない!」
「どっちも嘘がつけないからこうなる」
壮介が首を傾げた。
「ていうか詩織ちゃん、俺の短編読んだ?」
「読みました。三回読みました」
「三回!? マジ!?」
「はい。一回目は内容を把握するため、二回目は文体を分析するため、三回目は純粋に楽しむためです」
「三回読む理由がちゃんとあるの!? 感想は?」
「元気が出ました」
「それ褒めてるの?」
「褒めています。大和さんの文章は読むと元気が出るんです。カレーうどンを食べた後みたいに」
「カレーうどンと同じ扱いなら最高の褒め言葉だ!」
「壮介の褒められ基準がカレーうどンなの、どうにかならないのか」
凛先輩がため息をついた。
「千歳。最後だ。本番いくぞ」
「本番?」
「朝倉に向かって嘘を言え」
詩織さんの表情が変わった。さっきまでのリラックスした空気が消えた。背筋が伸びた。手を止めた。俺のほうに向き直った。
目が合った。
詩織さんの目はいつもの色だ。穏やかで、まっすぐで、奥に何かが光っている。取材モードの時とは違う。あの鋭い観察者の目じゃない。もっと柔らかい目だ。
「朝倉くんのことは——」
一拍。
「——何とも思っていません」
声は平静だった。今までの三問と違って、声は震えていない。トーンも変わっていない。凛先輩の教えた「三つのコツ」を守っている——声だけは。
だが。
耳が赤かった。耳の先端から付け根にかけて、じわりと赤みが広がっている。目線が0.5秒だけ右にズレた。ほんの一瞬。すぐに戻した。けれどズレた。スカートの端を、左手の指がギュッと握っている。爪が白くなるくらい。
一瞬、間が空いた。二秒。
「嘘じゃん」
壮介が言った。あっさりと。容赦なく。
「全身が嘘だと叫んでいるな」
凛先輩が言った。声が弾んでいる。残酷に。
「え……え?」
俺は意味を処理していた。「何とも思っていません」が嘘。ということは、つまり。何かを思っている? 何を? 俺のことを? 何を思って?
「取材です!!」
詩織さんが立ち上がった。椅子が畳の上で滑った。顔が赤い、耳だけじゃない。頬も、首筋も、全部赤い。
「今のは嘘の練習の一環として!!」
「嘘の練習の嘘が一番本当っぽいの、面白すぎるだろ」
凛先輩が声を出して笑っていた。
詩織さんが手を握りしめて、ちゃぶ台に座り直した。まだ赤い。赤いまま取材ノートを開いて何かを書き始めた。書いている内容は見えない。見ないほうがいい気がした。
壮介が俺の隣に来て小声で言った。
「なあ陽翔、今の見た?」
「見てたけど」
「詩織ちゃんの耳、トマトみたいだったぞ」
「トマトは言い過ぎだ」
「トマトだった! 赤いトマト!」
「トマトは赤いに決まってるだろ」
「じゃあ完熟トマト!」
「余計ひどいわ」
凛先輩が壮介の頭を軽く叩いた。
「千歳が聞いてるぞ。黙れ」
「あっ、すみません」
詩織さんは聞こえていないふりをしていた。それでも耳の赤さが増していた。
「フィクションです。今のは全てフィクションです」
「千歳、お前は嘘がつけないと証明されたばかりだぞ。フィクションと言い張るのも嘘だ」
「フィクションです!」
「声が裏返ってるぞ」
詩織さんが手を止めいて、両手で顔を覆った。耳の赤さが指の隙間から見えていた。
*
休憩時間。
壮介が俺を廊下に連れ出した。部室のドアを閉めて、壁にもたれる。廊下は静かだった。放課後の校舎は人が少ない。
「なあ陽翔」
「ん」
「さっきの詩織ちゃんの嘘、どう思った?」
「どうって……嘘つくの下手だなって」
「そこじゃなくてさ」
壮介が真面目な顔をしている。いつもの全力ボケの表情じゃない。
「"何とも思ってない"って嘘、つまり"何か思ってる"ってことだろ」
「いや、あれは嘘の練習だから。お題として出されたから言っただけで」
「お題は"嘘を言え"だろ。で、詩織ちゃんが選んだ嘘が"何とも思ってない"だ。他にいくらでも嘘はあるのに、なんでそれを選んだと思う?」
「それは」
「考えろよ」
壮介が俺の目を見た。この男がこういう目をするのは、めったにない。いつもは目も口も全開で笑っているか叫んでいるかのどっちかだ。今は違う。静かだ。
「お前って時々ほんとにバカだよな」
「お前に言われたくない!」
「俺はバカだけど、お前は別の意味でバカだ」
「どういう意味だよ」
壮介がそれ以上は言わなかった。壁から背中を離して、部室のドアを開けた。
「戻ろう。詩織ちゃんが一人で赤くなってるの可哀想だし」
「壮介」
「ん?」
「さっきの、どういう意味だ」
壮介がにかっと笑った。いつもの笑顔だ。
「知らねーよ! 俺はバカだからな!」
*
部室に戻ると、詩織さんが原稿用紙に向かっていた。
さっきまで書けなかった新作の短編だ。ペンが動いている。さっきの嘘チャレンジの前とは別人みたいだ。
俺はちゃぶ台の向かいに座って、自分のノートを開いた。コンクール原稿の続き。しかし正直、詩織さんの筆記の音のほうに意識が行く。一定のリズムで紙を引っ掻く音。
凛先輩がソファからそれを見ていた。口元に小さな笑みがある。計画通り、という顔だ。嘘の練習は最初からこのためだったのはずだ。
三十分後。
「書けました」
詩織さんが原稿用紙を持ち上げた。凛先輩が受け取って読む。ページをめくる速度がいつもより遅い。
「千歳、これ……上手いぞ。嘘をつく人間の葛藤がちゃんと描けてる」
「本当ですか?」
「嘘をつかない俺が言ってるんだから本当だ」
詩織さんの顔が明るくなった。
「今日の練習で分かりました。嘘をつく人は、本当のことを言いたいのに言えないから嘘をつくんです。それはすごく苦しいことなんだと。言いたい言葉が喉の奥にあるのに、別の言葉が口から出てしまう。その瞬間の、胸が詰まるような感覚が——」
詩織さんが言葉を切った。自分で言ったことに、何か気づいたような顔をした。一瞬だけ。すぐに戻った。
「書けました。体験って大事ですね」
「作家の正しい姿勢だ」
凛先輩が原稿を返した。詩織さんが原稿を大事そうに受け取る。インクで書かれた文字が、午後の光に照らされて微かに光っている。
「でも私はもう嘘の練習はしたくないです」
「なぜ?」
「顔に出るのが恥ずかしいからです」
「短編が書けたなら成果はあっただろ。嘘の練習なしにあの短編は生まれなかった」
「それはそうですが、代償が大きすぎます」
「代償?」
「私の人格に対する信頼が揺らぎました」
「揺らいでないぞ。お前が嘘をつけないことは全員が証明済みだ」
壮介が身を乗り出した。
「何が顔に出たの?」
「何も出てません!」
「今も出てるぞ」
凛先輩が指摘した。詩織さんの耳がまた赤くなっている。
「出てません! これは気温です! 七月ですから!」
「千歳、嘘チャレンジは終わったのに、まだ嘘をついてるぞ」
「嘘じゃないです!」
「声が裏返ってる」
壮介が笑っている。凛先輩も笑っている。詩織さんだけが赤い。
詩織さんが取材ノートを開いた。赤い顔のまま、何かを書き始めた。
「何書いてるんだ?」
「取材記録です。今日の嘘チャレンジの結果を記録しています」
「どんな結果?」
「第一回嘘チャレンジ、成功率ゼロパーセント。課題は多い。しかし小説のネタとしては豊作。以上」
「豊作って」
「はい。今日だけで短編が一本書けました。取材としては大成功です」
「嘘チャレンジが取材だったのか」
「全ての体験は取材です」
*
帰路。
今日は一人だった。
夕方の空は雲が多い。さっきまでの土砂降りは止んだが、空気はまだ湿っている。アスファルトが濡れている。水たまりに空が映っている。
詩織さんは嘘がつけない。
あの一瞬、詩織さんは何を考えていたんだろう。
「何とも思っていません」
あれが嘘だった。全員がそう判定した。壮介も凛先輩も。詩織さんの身体が、全力で「嘘です」と叫んでいた。
何がバカなんだ。分からない。
分からないから考えている。合宿の準備がある、原稿の続きがある。嘘チャレンジの第二回があるだろう。ないほうがいい気もする。
でも——もしあったら、詩織さんはまた同じ嘘をつくだろうか。
「何とも思っていません」
同じ嘘を、もう一回聞いたら。俺は今度こそ、その意味を理解できるだろうか。
分からない。分からないまま、帰路についた。水たまりの中の空が、夕焼けでオレンジ色に染まり始めていた。




