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第11話:手紙を書こう(ただし宛先は自分)

 金曜日の放課後だった。七月の二週目。


「今日はちょっと変わったことをしたい」


 凛先輩がソファから立ち上がった。手にはコンビニの袋。中から封筒と便箋の束を取り出して、ちゃぶ台の上に置いた。


 五人分。丁寧に数えて、一人ずつの前に配っている。


「全員、一年後の自分に手紙を書け」


「手紙?」


 壮介が便箋を一枚つまみ上げた。


「そう。一年後の自分に宛てた手紙だ。内容は自由。一年後の自分に言いたいことを何でも書け。ただし、絶対に他の人に見せるな」


「LINEじゃダメ?」


「手書きだ。封をして、本棚の奥に入れる。一年後の今日、全員で開ける」


 詩織さんが目を輝かせた。万年筆を握る手に力が入っている。


「素敵ですね。時を超える手紙」


「言い方がカッコいい」


「カッコいいだろう。俺が考えた」


 凛先輩がほんの得意げだった。が企画を立てる時は、いつもわずかに笑っている。掟を作る時も、合宿の計画を立てる時も。部長としての顔の裏に、


「面白いことを仕掛ける」


 側の喜びが透けている。


「先生も書いてください」


 凛先輩が霧島先生に便箋を差し出した。先生はソファの端で缶コーヒーを飲んでいた。


「顧問も?」


「部員全員です。先生も部員みたいなものでしょう」


「昇格か降格か分からないな」


 先生が便箋を受け取った。渋い顔だが、断る気はないらしい。


 五枚の便箋と五枚の封筒が、ちゃぶ台の上に並んだ。全員に一セットずつ。それぞれが書く準備を始めた。先生は赤ペンしか持っていなかったので、俺がボールペンを貸した。


「じゃあ始めろ。制限時間は三十分」


 凛先輩の合図で、声が止まった。


 *


 五人が便箋に向かっている。


 筆記の音だけが部室に響く。夕方の日差しが窓から差し込んで、ちゃぶ台の上を斜めに照らしている。畳の匂いと、インクの匂いと、一杯の匂い。


 いつもの部室だ。だが空気がほんの違う。普段は台詞と笑い声で埋まっている部室が、今は筆記の音だけで呼吸している。


 壮介。


 一番最初に書き終えた。所要時間三分。封筒に「一年後の俺さまへ」と太い字で書いて、便箋を折りたたんで入れて、封をした。満足げに腕を組んでいる。


「凛先輩、書けた!」


「お前、何行書いた」


「三行!」


「少なっ」


「でも濃い三行だ!」


「三行で何が書けるんだ」


「全部!」


「壮介、もう少し書き足せ。一年後の自分に三行は失礼だぞ」


「一年後の俺は三行で十分だと思う!」


「根拠は」


「一年後の俺もバカだから、長い手紙は読まない!」


「自分で自分をバカと言うな。それは俺の仕事だ」


「先輩、それフォローになってません!」


 凛先輩が壮介の封筒を取り上げた。


「書き直せ。最低十行」


「十行!?」


「三行の三倍以上!」


「計算は合ってるが、三行が少なすぎるんだ」


 壮介が新しい便箋を受け取って、渋い顔で書き始めた。ボールペンを動かす手が止まったり動いたり。三分で書き終えた男が、今度は苦戦している。


 凛先輩は対照的に時間をかけていた。書いては消し、書いては消し。何度目かの消しゴムの後、天井を見上げた。窓の外を一瞬だけ見て、またペンを走らせた。今度は消さなかった。迷いが消えた顔だった。


 詩織さん。


 筆記の音が、止まったり走ったりしている。書くペースが不安定だ。普段の詩織さんは一定のリズムで書く。取材ノートの時も、原稿の時も、筆記音は規則正しい。


 でも今日は違う。速くなったり、遅くなったり。途中で手が止まって、何かを考えて、またペンが動く。


 一度だけ、詩織さんがちらりとこちらを見た。


 俺と目が合いかけて、すぐに便箋に視線を戻した。ペンがかすかに速くなった。何を書いたのかは分からない。分からないけど、その一瞬の視線が、嘘チャレンジの時の「何とも思っていません」を思い出させた。


 あの時の赤い耳。0.5秒ズレた目線。今日の詩織さんの目線は、あの時よりもっと短かった。だが確かに、こちらを向いていた。


 詩織さんは便箋に何枚使うつもりだろう。一枚目の裏に書き始めている。


 霧島先生。


 一杯を卓の端に置いて、静かに書いている。表情が読めない。いつも読めないけど、今日はいつもより読めない。先生の手元は俺からは見えない位置にある。しかし、指を動かす速度は一定だった。迷いがないのか、あるいは迷いを見せないことに慣れているのか。


 先生は一度だけ手を止めた。一杯を持ち上げて、一口飲んで、また書き始めた。手紙の途中でコーヒーを挟む人を初めて見た。しかし先生らしいと思った。先生にとって一杯は句読点みたいなものだ。文章の区切りに一口飲む。


 先生の一年後は、また同じ場所にいるのだろう。この部室で、一杯を飲みながら、俺たちを見ている。


 けれど今日は、先生自身が書いている。誰に見せるでもなく、一年後の自分だけに。先生にとっての「書く」は、俺たちとは少し意味が違うのかもしれない。


 そして、俺。


 便箋の前で手を動かしている。


 一年後の自分に、何を書けばいいのか。


 一年前の自分を思い出した。一年前の今頃は、足のリハビリをしていた。松葉杖は取れていたけど、走れなかった。


 校庭に立てなかった。教室と家を往復するだけの日々。灰色だった。あの頃の自分に「一年後、お前は文芸部で手紙を書いてるぞ」と言ったら、信じないだろう。「文芸部って何だ」と聞き返すだろう。「畳の上で卓を囲んで文章を書く部活だ」と答えたら、「何が楽しいんだそれ」と言うだろう。


 楽しいんだよ、と一年前の自分に言いたい。お前が想像もしなかった場所で、お前が想像もしなかった人たちと、お前が想像もしなかったことをしている。


 カレーうどンのエッセイを読んで笑ったり、嘘をつく練習をして全員にバレたり、プリンの犯人を推理したり。くだらないことばかりだ。けれど全部、灰色じゃない。


 ペンが動いた。何を書いたかは、ここには書かない。一年後の自分だけが読むものだ。しかしペンを走らせている時、心の中にあったのは不安と、期待と、少しの祈りだった。


 一年後の自分が、今の自分を笑ってくれればいい。


「お前、まだそんなこと考えてたのか」


 って。もっと書けるようになっていてほしい。


 もっと言葉にできるようになっていてほしい。


 途中で一回だけ手が止まった。何かを書こうとして、やめた。まだ書けない言葉がある。一年後なら書けるだろうか。


 分からない。分からないから、そのぶんの余白を残した。便箋の最後の二行が空白になった。一年後の自分が、そこに何かを書き足してくれればいい。


 十五分ほどで書き終えた。便箋を三つ折りにして、封筒に入れた。封をしている。表に書いた。


「一年後の朝倉陽翔へ」


 自分の名前を自分に宛てて書くのは、変な気分だった。宛先が自分なのに、差出人も自分だ。それでもこの手紙を書いた自分と、読む自分は、きっと少し違う人間だ。


 *


 全員が書き終えた。壮介は結局二十分かかった。凛先輩が「何行書いた」と聞いたら「十二行!」と答えた。「最低ラインは超えたな」と凛先輩が言った。壮介がガッツポーズをした。十二行でガッツポーズ。あいつの基準は常に低空飛行だ。


「さて、封印するぞ」


 凛先輩が本棚に向かった。部室の壁際にある、古い木の本棚。部誌のバックナンバーと、凛先輩が持ち込んだミステリと、詩織さんの参考文献と、霧島先生が昔から置いている文庫本が並んでいる。その一番奥の、棚の裏側に近いスペース。


「ここに入れる。一年後の今日まで、誰も触るな」


 五通の封筒が、本棚の奥に並べて置かれた。壮介の封筒が一番太い。十二行なのに太い理由は、便箋を雑に折ったからだ。


 凛先輩の封筒は薄くて綺麗に折られている。詩織さんの封筒からは微かにインクの匂いがする。ペンのインクは乾くのに少し時間がかかる。


 先生の封筒は何の特徴もない。俺の封筒は、壮介の次に雑だった。


 五通の手紙が本棚の奥に消えた。暗くて見えない場所。部誌のバックナンバーの裏側。普段は誰も手を伸ばさない空間に、五人分の言葉が封じ込められた。


「一年後。全員でここに来て、一緒に開ける。約束だ」


 凛先輩の声が、いつもよりほんの柔らかかった。


 壮介が手を挙げた。


「一年後って、俺たち二年で、凛先輩三年だよな。全員いるかな」


「いるに決まってる。なんでいないんだ」


「いや、なんとなく。一年って長いなって」


「長くない。あっという間だ」


 凛先輩が本棚を閉じた。手紙が見えなくなった。


 俺が言った。自分でも理由は分からなかったけど、口から出た。


「全員でまたここにいますよ。一年後も」


 四人の視線が俺に集まった。


「根拠は?」


 凛先輩が聞いた。


「ない。でもそう思う」


「根拠なしか。壮介の未来予測みたいだな」


「俺の勘と一緒にしないでください」


「勘だろ」


「勘ですけど。でも、ここにいたい人が五人いれば、一年後もここにいるでしょう。ここにいたくない人がいますか?」


 誰も答えなかった。全員が首を振るか、黙って笑った。声に出さなくても、この場にいること自体が答えだった。


 凛先輩が笑った。


「いい予言だ。信じてやる」


「予言じゃなくて、願望です」


「願望でもいい。言葉にしたものは叶う確率が上がる。文芸部員なら知ってるだろう」


「それは凛先輩の法則ですか」


「俺の法則だ。覚えておけ」


 *


 家路。


 壮介と二人で歩いている。他の三人はそれぞれの方向に散った。


「なあ陽翔」


「ん」


「手紙、何書いた?」


「見せるなって言われただろ」


「見せなくていい。何行書いたか教えて」


「十行くらい」


「俺より少ないじゃん!」


「お前は最初三行だっただろ」


「最終的には十二行だ! 勝った!」


「手紙に勝ち負けはない」


 壮介がにかっと笑った。


「俺、三行目に何書いたか教えてやろうか」


「いいのか? 秘密だろ」


「三行目だけなら大丈夫だ。"カレーうどンはまだ好きですか"」


「一年後の自分にカレーうどンの安否確認したのか」


「大事じゃん! 一年後にカレーうどンが嫌いになってたら大事件だ!」


「ならないだろ」


「分かんないよ! 人は変わるんだ!」


「カレーうどンの好みは変わらないだろ」


「それは分からない! だから確認するんだ!」


「じゃあ一行目と二行目は?」


「それは秘密!」


「三行目だけ教えるのかよ」


「三行目が一番大事だから! 一行目と二行目はおまけ!」


 壮介の手紙の三行のうち、メインがカレーうどンの安否確認。残りの二行がおまけ。壮介の優先順位は本当に独特だ。


「なあ壮介」「ん」「お前さ、文芸部に入って何ヶ月だ」「三ヶ月くらい? 四月の終わりに入ったから」「三ヶ月で変わったことある?」「変わったこと?」「何でもいい。自分の中で」


 壮介が少し考えた。歩きながら考える壮介は珍しい。いつもは歩きながら叫ぶか、歩きながら食べるか、歩きながら走り出すかのどれかだ。


「漢字が読めるようになった」


「そこか」


「馬鹿にすんな! "佇む"が読めるようになったんだぞ! あと"邂逅"も!」


「"邂逅"は詩織さんの小説に出てきたやつか」


「そう! 最初は何語かと思った! 日本語だった!」


「日本語だよ。古い言い回しだけど」


「あと"韜晦"も読めるようになった!」


「お前、難しい漢字ばっかり覚えてるな」


「凛先輩のミステリに出てくるんだよ! 先輩の小説読んでると漢字力が上がる!」


「文芸部の副産物だな」


「副産物って何」


「おまけみたいなもんだ」


「おまけ最高!」


 壮介が急に真面目な顔になった。歩く速度が少し落ちた。


「あとさ」


「ん」


「人の話を聞くのが上手くなった気がする」


「え?」


「部室でみんなの原稿を読むじゃん。合評会で感想を言うじゃん。あれって、人の書いたものをちゃんと読んで、ちゃんと感じて、ちゃんと言葉にしないといけないだろ。それが教室でも使えるようになった」


「どういうこと?」


「クラスメイトがさ、悩み事を話してくることがあるんだよ。前は"大丈夫だよ!"で終わってた。でも最近は、相手が何を言いたいのか、ちゃんと聞くようになった」


「壮介、お前それすごいことだぞ」


「すごくないよ。当たり前のことだ」


「当たり前のことを当たり前にできるのがすごいんだよ」


「お前、前に同じようなこと言ってなかった?」


「言ったっけ」


「言った。練習の時に詩織ちゃんに。"普通のことを普通に言える人は少ない"って」


「覚えてたのか」


「覚えてるよ。俺はバカだけど、いい言葉は忘れない」


 壮介の記憶力は偏っている。数学の公式は一つも覚えないくせに、人が言った良い言葉は全部覚えている。


「なあ陽翔」


「ん」


「お前は? 三ヶ月で変わったこと」


「俺?」


「お前が一番変わったと思うぞ。田中も言ってただろ。"目が生きてる"って」


「田中の話か」


「あいつの言葉、俺も同じこと思ってた。お前、四月の最初は本当に死んだ魚の目だったからな」


「ひどい比喩だな」


「事実だ! 今は違う。目が光ってる」


「光ってるかは分からないけど」


「光ってるよ。特に書いてるとき。PCの前で指が動いてるとき、お前の目がキラキラしてんの、俺見てるから」


「壮介、お前そういうところだけ詩織さんに似てるな」


「似てない! 俺は取材じゃなくて、ただ見てるだけだ!」


「見てるのは同じだろ」


「見方が違う! 詩織ちゃんは分析して見てる。俺はただ嬉しくて見てる」


「嬉しくて?」


「お前が元気になってるのが嬉しいんだよ! 親友が死んだ魚から生き返ったら嬉しいだろ!」


「死んだ魚から生き返るって、ゾンビみたいだな」


「ゾンビじゃない! 復活だ! 不死鳥だ!」


「話が大きくなりすぎ」


 壮介が笑った。全力の笑顔。夕焼けの中で。


「俺さ、文芸部に入って良かった。四十二文字しか書けないし、漫画しか読めないし、プレゼンは全没だし。でも良かった」


「俺もだよ」


「お前はエースだろ。俺みたいなやつが言うから意味があるんだ」


「エースって凛先輩が言ってるだけだぞ」


「凛先輩が言うなら事実だ。あの人が嘘つくと思うか?」


「つかないな」


「だろ。お前はエースだ。俺は——」


「編集長だ」


「編集長!」


 壮介がガッツポーズをした。


「コンセプト担当の編集長!」


「コンセプトだけだけどな」


「コンセプトは一番大事だ! アイデアがなければ何も始まらない!」


「それは否定できない」


「否定できないだろ! だから俺は文芸部にいていいんだ!」


「いていいに決まってるだろ。お前がいないと部室が静かすぎる」


「静かすぎるのは良くない!」


「良くない。うるさいくらいがちょうどいい」


「うるさいのは俺の仕事だ!」


「知ってる」


 駅前で壮介と別れた。


「じゃあな! 明日もな!」と叫んで走っていった。


 いつもの全力ダッシュ。あいつは帰り道もフルスピードだ。走る時の壮介は格好いい。言ったら調子に乗るから言わないけど。


 一人になった。


 夕方の空が広い。雲が少なくて、橙から紫に変わりかけている。蝉がどこかで鳴き始めていた。


 便箋の最後の二行を空白にした。あの余白に、一年後の俺は何かを書き足すだろうか。


 *


 日曜日の商店街。母さんに頼まれた買い物——醤油と味噌と卵。七月の日差しが首筋を焼いている。


 古書店の前で足が止まった。正確には、目が止まった。ショーウインドウを覗き込んでいる女性がいた。長い髪。見覚えのあるシルエット。


 後ろ姿だけで分かる。あの立ち方。片足に重心を寄せて、ほんの首を傾げる姿勢。部室でソファに座っている時と同じ角度だ。

 凛先輩だった。制服じゃない。白いフリルのブラウスにジーンズ。学校で見る「クールビューティ」とは別人のような雰囲気だった。髪を下ろしている。学校では後ろで一つに束ねていることが多いのに、今日は下ろしている。肩にかかる黒い髪が、古書店のガラスに映っている。


 柔らかい。それが最初に浮かんだ言葉だった。部室にいる凛先輩は鋭い。ソファに座っていても目が鋭い。


 ホワイトボードの前に立つと声が鋭い。壮介をツッコむ時の言葉が鋭い。もっとも今、古書店のショーウインドウを覗き込んでいる凛先輩は、全部の角が丸くなっていた。


「凛先輩?」


 声をかけた。凛先輩が振り返った。一瞬、目が大きくなった。驚いた顔。すぐにいつもの表情に戻す。


「朝倉。奇遇だな」


「先輩、その……フリルの……」


 凛先輩の目が細くなった。声が半音下がった。


「何か文句あるか」


「いえ、似合ってます」


「……バカ。面と向かってそういうこと言うな」


 凛先輩が視線を逸らした。凛先輩が照れるのを見るのは初めてだった。部室ではどんなボケを壮介が投げても動じない人が、「似合ってます」の一言で赤くなっている。


「で、お前は何でここに」


「買い物です。醤油と味噌と卵」


「生活感がすごいな」


「母さんに頼まれまして」


「そうか。じゃあ行け。醤油と味噌と卵を買え」


「先輩は?」


「俺は本を見てるだけだ。一人で」


「一人で」


「そう。一人で。休日は一人で過ごすのが好きなんだ」


 凛先輩が古書店のショーウインドウに目を戻した。


「先輩、もしよかったら、その古書店、一緒に見てもいいですか」


 凛先輩が振り返った。二秒の沈黙。


「好きにしろ」


 凛先輩が古書店のドアに手をかけた。ドアベルが鳴った。小さな金属音。カランカラン。凛先輩の歩く後ろについていく。商店街の古書店で追うのは初めてだった。フリルのブラウスの後ろ姿は、制服の後ろ姿よりも小さく見えた。


 *


 古書店の中は薄暗かった。


 天井が低くて、棚が高い。本の壁に囲まれている。紙の匂いが濃い。古い紙と、新しい紙と、インクの匂いが混ざっている。部室の本棚の匂いを十倍にしたような空気だ。


 凛先輩の足取りが変わっていた。棚の間を縫うように歩く。店主のおじいさんが奥から声をかけた。


「おう、桐谷さん。いらっしゃい」


「お久しぶりです」


 凛先輩が笑った。学校では見たことがない顔だった。壮介にツッコむ時の鋭い笑みでもなく、予算が通った時の得意げな笑みでもなく、ただ本が好きな人間の、純粋な笑顔だった。


「連れか?」


 店主のおじいさんが俺を見た。


「後輩です」


「彼氏じゃないのか」


「違います」


 凛先輩の声に一切の迷いがなかった。まあ、事実だけど。


 凛先輩が棚を歩き始めた。一冊一冊を丁寧に手に取り、装丁を確認し、ページを開いて、匂いを嗅いだ。


「先輩、今、本の匂い嗅ぎました?」


「嗅いだが」


「古書の匂いを嗅ぐんですか」


「古い本は匂いがいい。時間の匂いがする」


「時間の匂い」


「何十年も棚の中にいた本は、紙が空気を吸い込んでいる。その時代の空気が詰まってるんだ。昭和の匂い、平成の匂い、全部違う。これは昭和四十年代の匂いだな」


 真剣な顔で。本の匂いを鑑定している凛先輩は、ミステリの講座を開いている時と同じ目をしていた。


 棚の前で凛先輩が一冊を手に取り、パラパラとページをめくった。


「これは活版印刷だ。文字のインクが紙に凹凸を作ってる。指で触ると分かる」


 確かに、文字の部分がわずかに盛り上がっている。


「活版印刷の本は読んでると指先が喜ぶんだ。今の本にはない感覚だぞ」


「先輩、詳しいですね」


「月に二回、三年通えば詳しくもなる。俺の知識の半分は、この店と図書室でできてる」


「残りの半分は?」


「ミステリだ」


「先輩、いつもここに来るんですか?」


「月に二回くらい。中学からの趣味だ」


 凛先輩が棚の奥に手を伸ばした。本を引き抜いて、表紙を見つめる。


「笑うなよ」


「笑いませんよ。カッコいいと思います」


「お前は本当に思ったことをそのまま言うな」


「詩織さんほどじゃないですけど」


「千歳は言いすぎる。お前はちょうどいい」


 凛先輩がミステリの棚に移動した。さっきまでの穏やかな目が、狩人の目になっている。指先が背表紙の上を滑っていく。一冊ずつ確認している。


「先輩、探してる本があるんですか」


「ある。三ヶ月前から探してる。絶版になった推理小説の初版だ。どの古書店にも在庫がなくて、ネットでも見つからなかった」


「三ヶ月も」


「本探しは忍耐だ。急ぐと出会えない。本のほうから来るのを待つんだ」


「本のほうから来る?」


「ミステリ読みの迷信だ。本気で探してる本は、いつか棚の中からこちらを呼ぶ。"ここにいるぞ"って」


 棚の奥で、凛先輩の手が止まった。一冊を引き抜いた。表紙を見て目が輝いた。


「あった」


 声が弾んでいる。本が呼んだのはずだ。三ヶ月の忍耐が実った瞬間だ。


「先輩、何の本ですか」


「絶版のミステリだ。ずっと探してた。初版だぞ、初版」


 凛先輩が本を胸に抱えた。大事そうに。まるで赤ん坊を抱くように。いや、赤ん坊よりも丁寧だろう。


 値札を見た。凛先輩の顔が曇った。


「高い」


「いくらですか」


「お前に言う必要はない」


「でも顔が渋いですよ」


「来月の小遣いが消える」


「先輩でも予算の壁があるんですね」


「生徒会より厳しい壁だ。自分の財布は」


 三秒の沈黙。凛先輩が本を棚に戻しかけて——戻さなかった。もう一度胸に抱えた。


「買う」


「買うんですか」


「後悔はしない。本への投資に後悔はない」


 レジに向かう凛先輩の背中は、予算交渉に勝った日と同じくらい堂々としていた。


 *


 古書店の近くの喫茶店に入った。


 「ここでいいか」


「はい」


 凛先輩がアイスティー、俺がアイスコーヒー。窓際の席。午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。


 凛先輩が古書店の紙袋を大事そうに足の上に載せている。


「朝倉」


「はい」


「なんで文芸部に入ったか、前に聞いたよな」


「はい。部室でちゃぶ台を囲んだ日に」


「俺の理由も話しておく」


 凛先輩がアイスティーのストローを回した。氷がグラスの中でカランと鳴った。


「中学の時、クラスの人間関係に疲れた」


 トーンが静かだった。部室で掟を読み上げる時の声とは全然違う。


「友達がいなかったわけじゃない。でも、"友達でいるための演技"が疲れた。笑いたくない時に笑う。興味がない話に付き合う。それが普通だって分かってた。みんなやってることだ。でも俺には合わなかった」


「演技」


「一人で本を読む場所が欲しくて、文芸部に入った。逃げ場として」


 凛先輩がアイスティーを一口飲んだ。


「高校に上がった時、文芸部は俺と千歳と先生しかいなかった。廃部寸前。正直、どうでもいいと思った。廃部になったら図書室で読書すればいい。一人で本が読めれば、場所はどこでもよかった」


 凛先輩の目が窓の外を向いた。商店街の人通りを見ている。だが見ていない。過去を見ている。


「でも千歳が泣いたんだ」


「詩織さんが?」


「"この部がなくなったら、私の居場所がなくなります"って。あいつが泣くの、初めて見た。万年筆を握ったまま泣いてた。ノートにインクが落ちて滲んで。あいつの文字はいつも綺麗なのに、その時だけ崩れてた。それを見て——決めた。潰させない。この部を」


「それで部長に」


「なった。自分から言い出した。"俺がやる"って。先生は驚いてた。俺が一番やる気なさそうだったからな」


「先生も一緒だったんですか」


「ずっといた。先生は最初から顧問だ。千歳と先生と俺。三人だけの文芸部。部室は今と同じ場所だが、ちゃぶ台は一つで、ソファもボロくて、本棚は半分空だった。あの頃は寂しい部室だった。でも千歳がいたから、場所として成立していた」


 凛先輩の声はいつもより柔らかい。部長としてではなく、一人の先輩として話している。喫茶店のざわめきと、氷の音と、凛先輩の声。三つの音が重なっている。


「お前が入って、壮介が入って、今五人だ。もう廃部はない。でも、"ある"だけじゃ意味がない。部誌を出して、コンクールに出て、文化祭をやって。"続ける"ことに意味がある。俺が卒業した後も」


「卒業後」


「来年の三月には卒業だ。その後、この部はお前たちのものになる。俺はいなくなる。でも部は残る。残すために、今やれることを全部やっておきたい」


 凛先輩がアイスティーのグラスを回した。氷がカランと鳴った。


「合宿も、コンクールも、文化祭も、全部そのためだ。"凛がいたからできた"じゃなくて、"凛がいなくてもできる"部にしたい。そのほうが、俺が安心して卒業できる」


 凛先輩が自分のことを名前で呼んだ。


 いつもは「俺」だ。


「凛」と言ったのは、客観的に自分を見ているからだろう。


「千歳のこと、ちゃんと見てやれよ」


「え?」


「あいつ、お前が入ってから変わった。書くものも、表情も。お前がいるから——」


 凛先輩が言葉を切った。アイスティーを飲んだ。


「まあ、いい。これ以上は野暮だな」


「先輩、今の続き——」


「ない。行くか。長居しすぎた」


 凛先輩が立ち上がった。伝票を持った。


「先輩、俺が払います」


「いい。お前は後輩だ。先輩が奢る」


「でも先輩、来月の小遣いが」


「本と後輩への投資は別勘定だ」


 *


 駅前で別れた。


「今日のことは内緒だぞ」


「はい」


「フリルのブラウスの件は特に」


「はい」


「あと、古書店の件も」


「古書店もですか」


「俺の趣味だ。部室では部長でいたい。休日の俺は部長じゃない。分かるか」


「分かります」


「なら良い」


 凛先輩が手を振った。


「でもまあ」


 凛先輩が少しだけ笑っていた。


「たまにはいいか。部室の外で話すのも」


「はい。楽しかったです」


「楽しかったとは言ってない。普通だ」


「先輩、嘘つくの、詩織さんの次に下手ですよ」


「殴るぞ」


「先輩に殴られたら痛そうです」


「痛い。手加減はしない」


「やっぱり怖い」


「怖がれ。部長だからな」


「今日は休日じゃなかったんですか」


「休日でも部長は部長だ。休日モードの部長だ」


「休日モードの部長ってなんですか」


「フリルを着た部長だ」


 凛先輩が自分で言って、わずかに笑った。自分のフリルを自分で笑えるようになっている。さっきまでは触れられるのを嫌がっていたのに。


 凛先輩が歩いていった。振り返らなかった。背中がまっすぐだ。フリルのブラウスの背中が、夕方の光に照らされて白く光っていた。


 俺は立ち止まって、その背中を見送った。


 凛先輩は、「先輩」って呼ばれることに少し疲れているのかもしれない。


 部長で、先輩で、まとめ役で。掟を作って、予算を取って、スケジュールを組んで、壮介をツッコんで、詩織さんを導いて、俺を叱って。全部一人で背負っている。


 でも今日、古書店で本の匂いを嗅いでいる凛先輩は、ただの本が好きな人だった。ミステリのレア本を見つけて目を輝かせて、値段を見て渋い顔をして、結局買って、紙袋を大事そうに抱えて。部長じゃなく、先輩じゃなく、桐谷凛という一人の人間。


 俺はその人を、もっと知りたいと思った。先輩としてじゃなく、仲間として。


 *


 翌日。月曜日。部室。


 凛先輩がいつも通り定位置でミステリを読んでいた。昨日買ったレア本ではなく、いつもの文庫本だ。


 俺が部室に入ると、凛先輩が顔を上げた。目が合った。一瞬だけ微笑んだ。


 それだけで、昨日のことが共有されていると分かった。古書店と、フリルのブラウスと、喫茶店と、「潰させたくない」と、「千歳のことを見てやれ」。全部が、あの一瞬の微笑みに入っていた。


 壮介が後ろから入ってきた。


「なんか二人、仲良くなった?」


「別に」


「別に」


 ハモった。凛先輩と俺が、同時に同じ言葉を言った。


「ハモった!!」


 壮介が指を差した。


「絶対なんかあったろ! ハモるのは仲良くなった証拠だ!」


「根拠がない」


「根拠がないのも一致してる!」


「一致してない」


「してる!」


 詩織さんが入ってきた。あいつの声が廊下まで聞こえていたらしい。取材ノートを開いている。


「何かあったんですか?」


 凛先輩と俺が同時に答えた。


「何もない」


 また、ハモった。


 詩織さんの万年筆が動いた。ノートに何かを書いている。俺には見えない角度で。


「メモしておきます」


「何をメモするんだ!」


「凛先輩と朝倉くんが同じタイミングで同じ言葉を二回発言した事実です。偶然の確率は低いので、何らかの共有体験があったと推察されます」


「推察しなくていい!」


「取材です」


 詩織さんがペンを止めて、俺を見た。まっすぐな目だ。嘘チャレンジの時の赤い耳はない。だが、じっと見ている。何かを確かめるように。


「朝倉くん、昨日何をしてたんですか?」


「買い物だよ。醤油と味噌と卵」


「それだけですか?」


「それだけだ」


「嘘をついてますね」


「詩織さん、嘘発見能力だけは高いんだな」


「嘘がつけない人間は、他人の嘘に敏感です」


 凛先輩がミステリのページをめくりながら言った。


「千歳、それ以上は追求するな。野暮だぞ」


「分かりました。でもメモは残します」


「メモは自由にしろ。ただし本人の許可なく公開するな」


「しません。取材ノートは取材者の生命線ですから」


 凛先輩がミステリに目を戻した。口元がわずかに上がっている。


 フリルのブラウスを着て古書店に通う凛先輩。本の匂いを嗅いで「昭和四十年代だ」と鑑定する凛先輩。来月の小遣いを犠牲にしてレア本を買う先輩。「この部を潰させたくない」と、喫茶店で静かに語る先輩。

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