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第12話:夏の予感

「夏合宿 行き先選定会議」


 ホワイトボードに凛先輩が書いた。マーカーの色は青。今日は青。合宿の行き先を決めるのは、凛先輩にとっても楽しいことらしい。


 七月も後半に入っていた。期末テストの結果が返ってきて、全員の成績が出揃った。壮介が古典四十八点で赤点回避を祝っていたのが一番の騒ぎだ。俺もサッカー部の頃より成績は上がっている(先生は缶コーヒーを飲んでいた)。テストが終われば、次は夏だ。


 全員がちゃぶ台を囲んでいる。凛先輩がソファから立ち上がって、ホワイトボードの前に立った。


「予算は通った。日程は八月の第二週。二泊三日。残る問題は行き先だ」


「海!」


 壮介が即答した。立ち上がった。拳を突き上げた。


「却下はまだしていない。理由を述べろ」


「理由! 泳げる! 焼ける! 花火ができる! バーベキューができる! あと——」


「あと?」


「水着!」


 部室に一瞬、間が空いた。俺と凛先輩と詩織さんの三人が壮介を見た。壮介は拳を突き上げたまま固まっている。自分が何を言ったか分かっていない。いや、分かっている。分かっていて言っている。それがあいつだ。


「動機が不純すぎる」


「何が不純だよ! 夏は海だろ!」


「夏イコール海という前提が短絡的だ」


 凛先輩が腕を組んだ。


「私は山を推す。理由は三つ。静かで書ける。ペンションを借りれば安い。そして——虫が少ない」


「先輩、山は虫が多いですよ」


「……我慢する」


 凛先輩の表情が一瞬だけ曇った。虫が苦手らしい。ミステリの密室トリックは何時間でも考えるのに、虫には勝てないのか。


「詩織さんは?」


「私は海です。波の音は創作にポジティブな影響を与えるというデータがあります。聴覚的な白色ノイズが集中力を高めて——」


「データで選ぶのか」


「感覚でも選んでいます。海の匂いが好きなんです。潮風の中で万年筆を握ると、指先がよく動きます」


「朝倉は?」


 凛先輩が俺を見た。


「俺はどっちでもいいです。書ける環境なら」


「日和見か」


「意見がないだけです」


「意見がないのが一番困る。どっちか選べ」


「じゃあ……海で」


 壮介が「よっしゃ!」と叫んだ。海派が三人(壮介・詩織さん・俺)、山派が一人(凛先輩)。多数決なら海の勝ちだ。


「待て。多数決では決めない」


 凛先輩が言った。


「なぜですか」


「少数派の意見を聞かない組織は腐る。これは部長としての方針だ」


「先輩がその少数派なんですけど」


「だからこそ言っている」


 壮介が海派の理由をボードに書き始めた。


「①泳げる ②焼ける ③カニが食える ④花火ができる ⑤水着」


 凛先輩が⑤を無言で消した。壮介が書き直している。凛先輩がまた消した。あいつがまた書いた。先輩がマーカーを取り上げた。


「⑤は議論の対象外だ」


「表現の自由!」


「部長権限で却下する」


 凛先輩が壮介のリストの横に、山派のリストを書き始めた。


「山の良いところ。①静かで書ける。②ペンションなら安い。③空気がきれい。④星が見える。⑤虫が」


 凛先輩のマーカーが止まった。


「⑤は?」


「……虫は我慢する」


「先輩、虫が苦手なんですか?」


「苦手ではない。好きではないだけだ」


「それを苦手と言うんですよ」


「言うな」


 詩織さんが手を挙げた。


「私は海派ですが、凛先輩の意見も理解できます。静かな環境は創作に必要です。でも波の音は静かさと集中力を両立できるんです。ジョン・ミルトンも海の近くで『失楽園』を——」


「千歳、ミルトンは内陸で書いてたぞ」


「あっ、すみません。取材不足でした」


「お前の取材はたまに雑だな」


 壮介が追加の主張を始めた。


「海ならカニが食える!」


「カニは予算に入っていない」


「じゃあ魚! 釣る!」


「釣り道具は誰が持ってるんだ」


「買う!」


「予算」


「先輩、予算予算って生徒会みたいですよ」


「予算は大事だ。天城に怒られる」


 壮介がちゃぶ台を叩いた。


「海! 海! 海!」


 凛先輩がソファに深く座り直した。


「山。山。山」


「膠着だ」


 俺が呟いた。詩織さんが取材ノートを開いてメモを取り始めた。


「海vs山論争。壮介=感情派。凛先輩=論理派。論点の噛み合わない議論は、小説の対話シーンの参考になります」


 この人は何でも取材に変えるな。


 *


 議論が平行線のまま十五分が経った。海派は「泳ぎたい」、山派は「静かに書きたい」。どちらも正しい。どちらも譲らない。あいつの声がどんどん大きくなり、凛先輩の声がどんどん低くなり、詩織さんがメモを取り続け、俺が板挟みになっている。


 その時、定位置の端から声がした。


「海と山、両方行ける場所にすればいいだろ」


 霧島先生だった。一杯を啜りながら、窓の外を見ている。全員が振り返った。見ているだけだ。それが発言した。


「先生!?」


「知り合いの民宿がある。海沿いの山の中腹にある」


「海沿いの山の中腹?」


「歩いて十分で海に出られる。窓を開ければ山の空気が入る。海派も山派も満足するだろう。安い。飯もうまい」


 全員の目が輝いた。壮介が飛び上がった。


「先生すげえ!! 神!!」


「珍しく役に立ちましたね」


 凛先輩が言った。


「"珍しく"は余計だ」


 詩織さんの表情が変わった。手を動かしり直している。


「海も山もです! 最高の取材環境です! 波の音を聞きながら山の空気を吸って書けるんですよ!」


「取材環境で場所を選ぶのか」


「もちろんです。環境が変われば文体が変わります。文体が変われば物語が変わります」


「大げさだな」


「大げさではありません。科学的根拠が」


「また科学か」


「先生、その民宿って大丈夫ですか? 幽霊とか出ませんよね」


 俺が聞いた。先生が一杯を飲みながら答えた。


「出ない。たぶん」


「"たぶん"は不吉ですよ」


「冗談だ。俺も学生時代に何度か泊まった。いい場所だ」


「先生の学生時代って、何年前ですか」


「聞くな。傷つく」


 壮介が先生の横に座って言った。


「先生、そこで何してたんですか? 合宿?」


「友達と泊まって、原稿を書いてた。朝から晩まで」


「先生も書いてたんですか!?」


「顧問になる前は書く側だった。もう随分前の話だ。言ってなかったか」


「言ってませんでした!」


「そうか。まあ、今は教える側だ」


 先生が窓の外を見た。一杯を啜った。先生が学生時代に使った民宿。先生がかつて小説家を目指していた頃の記憶。その場所を、今度は俺たちが使う。


 行き先が決まった。海沿いの山の中腹にある民宿。名前は「かもめ荘」。


 *


 行き先が決まったら、次はルールだ。凛先輩がボードの空いたスペースに書き始めた。


「合宿にはルールがある」


「ルール?」


「四つだ」


 凛先輩がマーカーを走らせた。


「一、全員、合宿までに原稿を一本仕上げてくること」


「二、合宿中に全員の作品を合評する」


「三、最終日に全員が新しい作品を一本書く」


 三つ目まで書いて、凛先輩が振り返った。


「四」


「四?」


「以上のルールを守らない者は、海に沈める」


「④が物騒!!」


「冗談だ。山に埋める」


「変わってない!!」


 壮介が叫んだ。凛先輩が薄く笑っている。


「原稿って、コンクール用のでいいんですか?」


「もちろん。夏のコンクール締切は合宿後だ。合宿中に完成させるくらいの気持ちで来い」


 詩織さんが手を挙げた。


「楽しみです。朝倉くんのコンクール作品、合評で読めるんですね」


「まだ途中だけど」


「途中でも読みたいです。朝倉くんの文章は、途中でも面白いんです」


「ありがとう。プレッシャーだけど」


 凛先輩がボードのルールを二重線で囲んだ。


「以上だ。甘えるな。全員、原稿を持って来い」


 壮介が手を挙げた。


「凛先輩、ルール①の"原稿一本"って、どれくらいの長さですか」


「最低一千文字」


「一千文字か。俺今どれくらいだっけ」


「前回の報告では二百文字だったな」


「五倍か」


「計算は合ってる。あと二週間で五倍にしろ」


「五倍って結構きつくないですか」


「きつい。だからやる意味がある」


「先輩って時々すごいこと言いますよね。怖いけど」


「怖がれ。部長だからな」


 凛先輩がマーカーのキャップを閉じた。ルールが書かれたボードを全員が見つめている。四つのルール。その下に壮介の棒人間が追加されている。壮介がいつの間にか書いたらしい。棒人間が海で泳いでいる。


「壮介、ホワイトボードに落書きするな」


「落書きじゃない。合宿のイメージイラストだ」


「棒人間がイメージイラストか」


「部誌の表紙も棒人間だったじゃないですか!」


「あれは壮介の個性だと認めてやった。でもホワイトボードは公共物だ」


「個性を認めてくれたんですか!?」


「今認めた。消すな。残しておく」


 壮介が笑った。凛先輩もほんの笑った。ボードの隅に、壮介の棒人間が泳いでいる。合宿のルールの横に。真面目とバカが同居している。


 *


 翌日。壮介が部室に紙を持ってきた。


「合宿のしおり、作った!」


 A4の紙を二つ折りにした手作りパンフレットだった。表紙に「文芸部 夏合宿 in 海と山」と書いてある。


 その下に棒人間のイラスト。五人の棒人間が海の前に立っている。一人だけ浮き輪をつけている。壮介だ。残りの四人もそれぞれ特徴が描き分けられている。棒人間のくせに、全員が誰だかわかる。


「壮介、俺の棒人間だけ手ぶらなんだけど」


「何持たせればいいか分からなかった!」


「ペンとか」


「あっ、そうか。ペンか。描き足す!」


 壮介がボールインクで俺の棒人間にペンを描き足した。棒人間の手から棒が生えて、ペンなのか剣なのか分からない何かになった。


「これペンに見えるか?」


「見える! たぶん!」


「たぶんって何だよ」


 中を開いた。持ち物リストが書いてある。


「水着、浮き輪、花火セット(大量)、虫取り網、バーベキュー用トング、ポータブルスピーカー、日焼け止め、サングラス」


 そして一番下に、小さな字で。


「筆記用具」


「壮介。筆記用具が一番小さいのはなぜだ」


 凛先輩が指でその文字を指した。確かに、他の項目は太いマーカーで書いてあるのに、筆記用具だけがボールペンの細字だ。豆粒みたいに小さい。目を凝らさないと読めないレベルだ。


「スペースがなくて」


「優先順位の問題だろ」


「違うよ! 全部大事だよ!」


「文芸部の合宿で筆記用具が最小サイズなのは、お前だけだ」


「あとテント要らないからな。旅館だぞ」


 俺がツッコんだ。壮介がしおりを見直した。


「え!? キャンプじゃないの!?」


「話聞いてたか!?」


「聞いてた!」


「聞いてた顔じゃない!」


 壮介のしおりは全没になりかけたが、凛先輩が「棒人間のイラストだけは採用してやる」と言った。壮介が「やった!」と叫んだ。棒人間の採用で喜べる男。この男の喜びの閾値は低い。


 詩織さんがしおりを受け取って、インクで修正を入れ始めた。持ち物リストの「水着」の横に「原稿用紙」を追加し、「花火セット(大量)」を「花火セット(適量)」に修正し、「虫取り網」を消して「参考文献(二冊まで)」を追加し、「筆記用具」を太い字で書き直した。壮介のしおりが詩織さんの編集で文芸部仕様に生まれ変わっていく。裏面にはこの人が「合宿心得」を書き足した。


「一、書くこと。 二、読むこと。三、笑うこと」


 掟の三つだ。


 四つ目は書かなかった。


「泣くな」は、書かないほうがいいと思ったのかもしれない。


「詩織ちゃん、俺のしおりが別物になっていく」


「改訂版です。初版は大和さん、改訂版は千歳詩織。共著ということで」


「共著!? 俺の名前が先!?」


「もちろんです。原案は大和さんですから」


 壮介が笑った。自分のしおりが共著になったことが嬉しいらしい。


 霧島先生が完成したしおりを手に取って読んだ。一杯を飲みながら、表紙の棒人間を見つめている。


「なかなか良いしおりだ」


「先生にも渡しますよ!」


「ありがたく受け取っておく」


 先生がしおりをポケットに入れた。棒人間のイラストが先生のアロハシャツのポケットから半分だけ見えている。


 壮介が急に真剣な顔になった。


「なあ、合宿って何持ってけばいいの? マジで」


「しおりに書いてあるだろ。お前が作ったやつに」


「あれは理想のリストで、実際に何を持っていけばいいのか分からない」


「理想と現実が乖離してるのか」


「乖離してる! かいりって何!?」


「離れてるってことだ」


「離れてる!」


 凛先輩が壮介の肩を叩いた。


「壮介。最低限必要なものを言ってやる。ノート。ペン。着替え。洗面用具。以上」


「少ない!」


「文芸部の合宿に必要なものはノートとペンだけだ。あとは人間として必要なものだ」


「人間として必要なもの」


「着替えと歯ブラシだ」


「俺は人間としてカレーうどンも必要です」


「カレーうどンは現地で作れ」


「作っていいんですか!?」


「キッチンが使えるらしいからな。ただし全員分の夕食も作れよ」


「カレーうどン!?」


「普通のカレーでいい」


 壮介の目が輝いた。合宿でカレーを作れる。筆記用具よりもカレーが大事らしい。


 一年前の七月はサッカー部の夏合宿を準備していた。走り込みメニューと体力強化計画。今はノートとペンの準備をしている。全然違う夏だ。けれど胸の奥のワクワクは同じだ。足は走れないが、胸は走っている。


 机の上にコンクール原稿のノートがある。途中まで書いた物語。走れなくなった主人公が、別の走り方を見つける話。


 ノート。最後に書いた一文を読み返した。


「走れ、朝倉、インクで走れ」


あの日書いた一行が、まだここにある。ここから先を、合宿で書く。書き上げる、五人で。海と山と、かもめ荘で。


 夏が来る。俺たちの最初の夏が。


 窓を閉めた。蝉の声が少し遠くなった。


 *


 コンクール宣言をした日から三日が経った。放課後の部室。


 全員が原稿に向かっていた。いつもの部室だが、空気が違う。コンクールの締切が見えている。七月の終わり。夏休みに入ったら本格的に追い込みだ。


 凛先輩がソファで赤ペンを走らせている。自分の原稿を校正しているのだ。凛先輩の校正は厳しい。自分の文章に対しても容赦がない。赤ペンが原稿用紙の上を何度も往復している。書いては消し、消しては書く。


「先輩、何回直してるんですか」


「七回目だ」


「七回!?」


「ミステリは七回推敲して初めて読める文章になる」


「七って根拠あるんですか」


「ない。気が済むまで直すと、だいたい七回になるだけだ」


「感覚なんですね」


「論理と感覚は両立する。ミステリのトリックは論理で組むが、文章の美しさは感覚で磨く」


 壮介がちゃぶ台の端でスマホを握っている。フリック入力で何かを打っている。表情が真剣だ。壮介が真剣にスマホを打つのは、普段はLINEとゲームだけだ。今日は違う。


「壮介、何書いてる」


「カレーうどンの小説」


「進んでる?」


「百文字書いた」


「百文字! ゼロから百! すごいじゃん!」


「すごいか!?」


「すごい。ゼロから一への距離が一番遠い。お前はもうそこを越えた」


「越えた! 俺越えた!」


「内容は?」


「"学食のカレーうどンは三百五十円だ。俺はそれを毎日食べている"から始まる」


「出だしが事実だな」


「事実から始めろって凛先輩が言った。凛先輩のミステリも事実から始まるらしい。"密室は存在した"みたいに」


「壮介が凛先輩の技法を取り入れてる!?」


「取り入れた! パクった!」


「パクったって言うな。学んだと言え」


「学んだ!」


 詩織さんが万年筆を置いた。


「壮介さん、百文字の続き、どんな展開ですか」


「えーと、毎日食べてるカレーうどンが、ある日突然味が変わるんだ」


「味が変わる?」


「同じカレーうどンなのに、いつもと違う味がする。なんでかわからない。で、調べていくと——」


「調べていくと?」


「学食のおばちゃんが、その日だけ出汁を変えてたんだ。鰹節じゃなくて昆布にしてた」


「出汁の違いに気づく壮介くんがすごいですね」


「俺は毎日食べてるから分かるんだ! 三百六十五日分のデータが舌に蓄積されてる!」


「舌にデータが蓄積」


「お前の舌はデータベースか」


「データベースだ! カレーうどンデータベースだ!」


 凛先輩が赤ペンを止めた。


「壮介。その話は面白いぞ」


「え!? 先輩が面白いって言った!?」


「出汁が変わった理由を追う。それはミステリだ。日常の中の小さな謎。なぜ今日だけ味が違うのか。犯人はおばちゃんだ。動機は——おばちゃんにも何かあったはずだ。それを書け」


「おばちゃんの動機!?」


「出汁を変えた理由だ。おばちゃんにも物語がある。毎日カレーうどンを作っている人間にも、"今日だけ違うことをしたい日"がある。それを壮介が気づく。カレーうどンを通じて、おばちゃんの人生に触れる」


「先輩、今ので俺の小説のプロットが完成した気がする」


「プロットは骨だ。肉はお前が書け」


「肉! カレーうどンだけに肉!」


「うまいこと言うな」


「うまくない?」


「うまくないけど、壮介らしい」


 俺はPCの前で指を動かしていた。三千字から四千字の壁を越えようとしている。主人公が書くことを選ぶ瞬間。凛先輩が言った"転換点"。


「朝倉くん、進んでますか」


「少しだけ。三千五百字くらい」


「五百字増えましたね」


「微増だけど」


「微増でも前に進んでいます。文章は一歩ずつしか進みません」


「詩織さんは?」


「七千二百字です。あと三千字弱で完成します」


「速いな」


「速くないです。凛先輩はもう八千字を超えてます」


「先輩はバケモノですから」


「バケモノと言うな」


 凛先輩がソファから声を飛ばした。耳がいい。


「すみません。天才です」


「天才でもない。量を書いているだけだ。質は推敲で上げる」


「先輩、書く速度と推敲の回数、どっちが大事ですか」


「推敲だ。一回で完璧な文章を書ける人間はいない。最初の原稿はゴミだ。二回目で形になる。三回目で読める。四回目で面白くなる。五回目で光る。六回目で削る。七回目で完成する」


「七段階あるんですか」


「俺の経験則だ。壮介は一回で終わるから二百文字なんだ」


「一回で終わらせちゃダメなの!?」


「ダメだ。書き直せ」


「書き直すの!? 百文字を!?」


「書き直せ。百文字を書き直して、百五十文字にしろ。書き直すたびに五十文字増える」


「その計算だと七回書き直して三百五十文字!?」


「計算は合ってる。お前にとっての三百五十文字は、俺の八千字と同じ密度の成果だ」


「俺の三百五十文字が先輩の八千字と同じ!?」


「努力の量としては同じだ。壮介が三百五十文字を七回推敲して書くのと、俺が八千字を七回推敲して書くのは、同じだけの"向き合い"だ」


「先輩……」


「感動するな。事実を言っただけだ」


 壮介がスマホを握り直した。目が光っている。百文字を書き直す気になったらしい。


「先生、コメントありますか」


「ない。お前たちは自分でやれ。俺は見守る」


「見守るだけですか」


「見守るのが顧問の仕事だ。口を出すのは求められた時だけにする」


「先生、今日は缶コーヒー何本目ですか」


「三本目だ」


「三本! コンクール前だからストレスですか」


「ストレスじゃない。応援だ。お前たちが書いてる間、俺はコーヒーを飲んで応援している」


「飲んでるだけじゃないですか」


「飲むことが応援だ。黙って見守って、一杯を飲む。それが俺のやり方だ」


「先生のやり方、独特すぎます」


「独特なのは文芸部の伝統だ」


 部室に夕日が差し込んできた。七月の夕日は長い。橙色の光がちゃぶ台の上を斜めに切っている。原稿用紙の白さが橙に染まっている。


 五人がそれぞれの場所で書いている。凛先輩はソファで七回目の推敲。詩織さんはちゃぶ台で万年筆。壮介はスマホで百文字の書き直し。先生は定位置で三本目の缶コーヒー。俺はPCのキーボード。


 コンクールまであと三週間。


「全員」


 凛先輩が顔を上げた。


「合宿で完成させるぞ。五人全員の作品を。一作も欠けるな」


「はい」


「はい」


「はい!」


「善処する」


「先生、お願いします」


「凛、最近、なんだかつらいことが多い」


 *


 夏休み初日に学校に来ている。サンダルの底からアスファルトの熱が伝わる。


 負けた気がする。夏休みという言葉には「休み」が入っているのに、朝九時に制服じゃない格好で校門をくぐるのは、何かの罰ゲームだろうか。


 廊下。足音だけ。夏休みの校舎は空っぽだ。文化部の大半は休んでいる。文芸部だけが律儀に集合している。凛先輩が「夏休み初日、朝九時、部室集合。遅刻不可」と前日にLINEで通達した。


 引き戸を開けた。


「おはよう」


 凛先輩が既にいた。ソファに座って文庫本を読んでいる。いつもの光景だが、一つだけ違う。制服じゃない。サマーワンピースだ。


 白い。肩が少し出ている。学校で凛先輩の私服を見るのは初めてだった。商店街のフリルのブラウスとはまた違う。ワンピースの先輩は、なんというか、普通に女子高生だった。


「先輩、その」


「ワンピースに何か文句あるか」


「いえ。似合ってます」


「前も同じことを言っただろ。レパートリーを増やせ」


 商店街の件を覚えている。当然だ。凛先輩は何も忘れない。


 壮介が入ってきた。Tシャツに短パンにサンダル。完全にオフモードだ。海に行く格好だ。部室に来る格好ではない。


「夏休みだ!! 最高!!」


「最高なのに学校に来てるけどな」


「呼ばれたから来た! 俺は忠実な部員だ!」


「忠実な部員は遅刻しない」


「五分前だ!」


「凛先輩は三十分前にいたぞ」


「先輩と比べるな!」


 詩織さんが入ってきた。麦わら帽子をかぶっている。白いブラウスにロングスカート。夏っぽい。


 麦わら帽子の下から黒い髪が流れている。日差しを避けるためだろうが、似合っている。部室で麦わら帽子はミスマッチだけど、詩織さんが被ると「取材に行く文学少女」に見えるから不思議だ。


「おはようございます。夏休みですね」


「夏休みですね」


「朝倉くん、今日は何時に起きましたか?」


「七時くらい」


「私は五時に起きました。朝焼けを見ながら原稿を書いていたら、こんな時間に」


「五時!? 夏休み初日に五時起き!?」


「夏の朝は静かで書きやすいんです。蝉が鳴き始める前の、あの静寂が好きで」


「詩織さんは夏休みも文芸部員だな」


 霧島先生が最後に来た。アロハシャツにチノパン。サングラスを額に上げている。缶コーヒーを二本持っている。一本は飲みかけ、もう一本は未開封。予備の缶コーヒーを持ち歩く人を初めて見た。


「先生、南国ですか」


「夏は南国スタイルだ。年に一度の解放だ」


「スタイルの問題じゃなくて、普通にアロハシャツが派手です」


「教頭に怒られるから校外でしか着られない。今日は夏休みだから着た」


「教頭に見つかったら」


「見つからない。教頭は夏休み中は出勤しない」


 先生のアロハシャツは赤と茜色の花柄だった。文芸部の顧問としては破壊力がある。壮介が「先生カッコいい!」と言ったが、壮介の美的感覚は信用できない。


 *


 全員が揃った。五人。私服の部室。いつもと同じ畳の匂いだが、空気が違う。制服がないだけで、こんなに雰囲気が変わるのか。全員の私服姿が新鮮だ。部室がわずかに開放的に見える。夏休みの魔法だ。


 凛先輩がソファから立ち上がった。ホワイトボードの前に立つ。マーカーを取る、赤だ。楽しいことを決める青じゃない。予定を組む赤だ。


「今日中に夏のスケジュールを全部決める。決めないと間に合わない」


 ホワイトボードに凛先輩が書き始めた。マーカーが走る。文字が並ぶ。七月下旬から八月末まで。六週間分のスケジュール。


 書き終わった。


 ボードが真っ赤だった。余白がない。七月の最終週から八月の最終週まで、びっしりと予定が書かれている。


 壮介がボードを見つめた。目が点になっている。


「先輩」


「なんだ」


「休み、どこ?」


「ない」


「夏休みの意味!!」


 壮介が叫んだ。正しいツッコミだ。凛先輩のスケジュールには「休み」の文字が一つも入っていない。毎日何かが予定されている。部活、執筆、読書、合宿、コンクール準備、部誌制作。六週間で休みゼロ。ブラック企業もびっくりだ。


「凛先輩、さすがに休みは入れましょうよ」


「入れてある。ここ」


 凛先輩が八月十四日を指した。お盆だ。


「一日!?」


「お盆は休むべきだろう。先祖に敬意を払え」


「先祖への敬意で一日だけ!?」


「文句があるなら言え。スケジュールは調整可能だ」


「全面的に文句がある!」


 *


 スケジュールの話し合いが始まった。壮介の


「休みを増やせ」


 運動と凛先輩の


「予定を減らすな」


 主張がぶつかっている。いつもの光景だ。


 その最中に、凛先輩がA4の紙を全員に配った。


「夏の課題図書リスト」


 紙を見た。本のタイトルがずらりと並んでいる。三十冊。


「三十冊!?」


 壮介が紙を二度見した。三度見した。


「先輩、俺のペース分かってますよね? 一冊二週間ですよ?」


「夏休みは六週間ある。つまり三冊は読める」


「三十冊のうちの——え、三冊!? 残り二十七冊どこ行った!?」


「来年読め」


「来年に持ち越すの!?」


「読書は積み重ねだ。一年で三冊ずつ読めば、十年で三十冊だろう」


「十年計画かよ!」


 凛先輩が壮介用のリストを別に作っていた。紙の端に「壮介用(初級)」と書いてある。


「壮介にはこっちだ。十冊。全部薄い。絵が多い」


「絵が多い!? 俺は幼児か!?」


「幼児ではない。初級者だ。ライトノベルも入れてある」


「ライトノベルは読める!」


「だから入れた。読めるものから始めろ」


 壮介が「初級者用リスト」を読み始めた。ぶつぶつ言いながらも、タイトルを確認している。


「これ知ってる」


「これ面白そう」


「これ表紙がカッコいい」


 文句を言いつつも読む気はあるらしい。


 詩織さんがリストを見て手を挙げた。


「凛先輩、このリストに追加してもいいですか? おすすめが十冊ほど」


「四十冊は多い」


「じゃあ五冊」


「三冊にしろ」


「四冊」


「三冊」


「三冊半」


「半分の本があるか」


「短編集なら半分読めます」


 凛先輩がほんの笑った。詩織さんの交渉は凛先輩に似てきている。天城さんとの予算交渉を思い出した。数字を刻んでいく戦い方。文芸部の交渉術は先輩が起源だ。


 結局、詩織さんの追加三冊が認められた。合計三十三冊。壮介が「増えた!!」と叫んだ。壮介用リストは変わっていない。十冊のまま。


「先輩、リストの中に俺でも読めるやつある?」


「全部読める。日本語で書いてある」


「読めるかどうかじゃなくて、楽しく読めるかどうかの話!」


「楽しさは読者が見つけるものだ。本はお前を楽しませる義務はない。お前が本から楽しさを見つけろ」


「先輩、時々カッコいいこと言いますよね。でも三十三冊は多い」


「壮介用は十冊だと言ってるだろう」


「十冊でも多い!」


「なら五冊にしてやる。ただし感想文つきで」


「感想文!? 一冊につき何文字!?」


「五百文字」


「五百文字! 壮介の短編より長い!」


「壮介の短編が短すぎるんだよ」


 壮介が初級者用リストを握りしめた。目が泳いでいる。計算している。五冊×五百文字=二千五百文字。壮介の過去最高文字数が一千二十だから、感想文だけで過去最高の二倍以上になる。


「先輩、これ実質的な文字数トレーニングですよね」


「気づいたか。鋭いな壮介」


「褒められてるのか貶されてるのか分からない!」


「両方だ」


 霧島先生が一杯を飲みながら言った。


「凛、課題図書に俺のおすすめは入れないのか」


「先生のおすすめは?」


「太宰治の『走れメロス』」


「なぜメロス」


「走る話だから。朝倉が走る話を書くなら、走る文学を読んでおいたほうがいい」


 先生がぽつりと言った。俺を見ていない。一杯を見ている。しかし言葉は俺に向けられていた。


「先生、それ追加していいですか」


「好きにしろ。百ページもない。すぐ読める」


 凛先輩がリストに「走れメロス(霧島推薦)」と書き加えた。三十四冊目。壮介が「また増えた」と呟いたが、今度は文句は言わなかった。メロスは壮介も知っている。教科書に載っているからだ。


 *


 課題図書の話が一段落した後、凛先輩がスケジュールに戻った。八月の第二週に「合宿(かもめ荘)」と書かれている。その前の週に「コンクール原稿締切」と赤い字で書いてある。


「コンクールの締切は合宿の前の週だ。つまり合宿に行く前に、原稿を仕上げて提出する必要がある」


「先輩、俺もコンクールに出していいですか」


 口が先に動いていた。考える前に言っていた。全員の手が止まった。


「出していいかじゃない。出したいのか?」


「出したいです」


 凛先輩の目がかすかに大きくなった。驚いている。


「理由は」


「書きたいものがあるんです。走れなくなった奴が、別の走り方を見つける話。ずっと書いてて、途中で止まってたんですけど、合宿で仕上げたいと思って」


「走れなくなった奴」


「はい」


「別の走り方」


「はい」


 凛先輩が二秒黙った。それから言った。


「書け」


 短い一言だった。しかしその一言に、凛先輩の全部が入っていた。許可じゃない。期待だ。


「書きます」


「コンクールの規定は一万字だ。今どこまで書いた」


「三千字くらいです」


「あと七千字。三週間で書けるか」


「書けます。たぶん」


「たぶんは要らない。書けるか」


「書けます」


 凛先輩が頷いた。ボードの「コンクール出場者」の欄に、俺の名前を書き足した。凛、詩織、壮介の三人の下に


「朝倉陽翔」


 四人目。赤いマーカーで書かれた自分の名前を見て、胸の奥がざわついた。もう引き返せない。


 詩織さんが俺を見ていた。万年筆を握ったまま。目がまっすぐだ。嘘チャレンジの時とは違う目だ。今は——期待で光っている。


「壮介も出すのか」


「出す!! 俺も——いや待て千二十文字で出していいのか——出す!!」


「作品は?」


「カレーうどンのエッセイ!」


「エッセイ部門はないぞ」


「ないの!?」


「小説部門だけだ」


「じゃあカレーうどンの小説!」


「内容は任せる。ただし千文字以上は書け」


「千文字!! 約束する!!」


 詩織さんが微笑みながら言った。


「全員で出るんですね。楽しみです」


「詩織さんは何を書くんですか」


「まだ秘密です。でも——朝倉くんの作品が読めるのが、一番楽しみです」


 その声には「取材です」がついていなかった。ただの本音だった。


「なあ、全員でコンクール出るんだろ。せっかくだから互いの作品のテーマ、今言い合おうぜ」


 壮介が卓を叩いた。


「テーマ?」


「何について書くか。それを知っておいたほうが、合宿の合評会で役に立つだろ」


「壮介がまともなこと言ってる」


「まともなことも言う!」


「先輩から」


「俺は"密室"だ。閉じた空間の中で起きる犯罪。ただし今回は、密室の中に"想い"を閉じ込めた人間の話だ。物理的な密室と、心理的な密室が重なる」


「心理的な密室って」


「言いたいことがあるのに言えない。それは心の密室だ。鍵は自分の中にある。その鍵を見つける物語」


「先輩、それ嘘チャレンジの詩織さんじゃないですか」


「違う。フィクションだ」


「先輩も嘘つくんですね」


「嘘ではない。着想を得ただけだ」


「詩織さんは?」


「"手紙"です」


「手紙?」


「出さない手紙。書くだけの手紙。相手に届けることが目的じゃなくて、書くことで自分の気持ちを確認する。そういう手紙を書き続ける女の子の話です」


「今日の手紙企画と関係ある?」


「ないです。偶然です」


「詩織さんの"偶然です"はもう誰も信じてないぞ」


「偶然です!」


「壮介は?」


「カレーうどンだ!」


「知ってる。テーマは?」


「テーマもカレーうどンだ!」


「カレーうどンの何を書くんだ」


「一杯のカレーうどンを全力で描写する! 凛先輩が言った! 千日分の経験を一杯に凝縮しろって!」


「壮介の作品が一番異色だな」


「異色は武器だ!」


「お前の武器リスト、増える一方だな」


「俺は?」


「朝倉は何を書くか、自分で言え」


「走れなくなった人間が、別の走り方を見つける話。テーマは——"居場所"かな」


「居場所」


「サッカー部を失って、居場所がなくなって、文芸部で新しい居場所を見つける。その過程を書きます」


「朝倉くん、それは朝倉くん自身の話ですよね」


「フィクションだよ」


「フィクションですか」


「フィクションだ。主人公の名前は違う」


「名前だけ変えてもフィクションにはなりませんよ」


「詩織さんの"出さない手紙"もフィクションじゃないでしょう」


「フィクションです!」


「お互い様だな」


 凛先輩が全員の顔を見回した。


「密室。手紙。カレーうどン。居場所。四つの物語が出揃った。全部違うテーマだ。全部違う文体で、全部違う角度から書かれる。それが文芸部の強みだ」


「先生は書かないんですか」


「書かない」


「善処するって言ってましたよね」


「善処は検討するという意味だ。検討した結果、書かない」


「先生の検討、短すぎません?」


「長い検討は必要ない。書かないものは書かない」


「でも先生、コンクールに"出さない"のと"書けない"のは違いますよ」


「どっちだと思う」


「書けないんだと思います」


「失礼だな」


「失礼じゃないです。先生は書ける人です。書けるのに書かないのは、書けないより辛いと思います」


 先生が缶コーヒーを飲んだ。いつもより長い一口だった。


「お前たちの原稿を読むのが、今の俺の仕事だ。それで十分だ」


「十分じゃないと思いますけど」


「十分だ。お前たちが書いたものが面白ければ、俺は幸せだ。顧問ってのはそういう生き物だ」


 先生が笑った。目元だけで。


 *


 スケジュールが固まった。


 七月最終週:原稿執筆+課題図書読み始め。八月第一週:コンクール原稿仕上げ+提出。八月第二週:合宿(かもめ荘・二泊三日)。八月第三週:部誌制作。八月第四週:夏休み後半の執筆+読書。お盆の一日だけ休み。


 壮介が「地獄のスケジュールだ」と言った。凛先輩が「地獄じゃない。充実だ」と返した。充実と地獄の境界線は曖昧だ。


 詩織さんがスケジュールを取材ノートに写していた。完全コピーだ。日付も時刻も全て。その横に自分用のメモを追加している。


「執筆時間帯:朝五時〜七時(蝉の鳴く前)」


 「取材時間帯:午後。原稿仕上げ:夜」


詩織さんは凛先輩のスケジュールに加え、自分用の予定まで重ねている。二重構造だ。


 俺もノートにスケジュールを書き写した。コンクール締切までの日数を計算した。二十一日。三千文字から一万文字まで七千字。一日あたり三百三十三文字。壮介の文字数よりは多いが、不可能な量ではない。書ける。書くしかない。


「あと一つ」


 凛先輩がボードに追記した。


「八月最終週。花火大会」


「花火!?」


 壮介が目を輝かせた。


「駅前の商店街で毎年やってるやつだ。全員で行こう」


「先輩から遊びの提案!?」


「遊びじゃない。取材だ」


「先輩が取材って言った! 詩織ちゃんの真似!」


「真似じゃない。花火は文芸のテーマとして重要だ。一瞬で消える美しさ、夜空に広がる色彩、音の振動。全部書くための素材になる」


「先輩、本音は?」


「花火が好きだ。文句あるか」


「ない!! 花火最高!!」


 壮介が立ち上がって拳を突き上げた。予算会議の時と同じポーズだ。こいつは嬉しい時に拳を突き上げる。花火と聞いただけでテンションが天井を突き抜けている。


「浴衣で行こう!」


「浴衣?」


「花火大会は浴衣だろ! 全員浴衣!」


「壮介は浴衣持ってるのか」


「ない! 買う!」


「予算」


「自腹!!」


 凛先輩が少しだけ考えた。


「浴衣か。悪くないな」


「先輩も浴衣!?」


「持ってる。去年のやつがある」


「先輩の浴衣!! 見たい!!」


「当日まで秘密だ」


 詩織さんが取材ノートに何かを書いた。


「花火大会、浴衣。八月最終週」


 その下に小さく何かを書き足している。見えない。見ないほうがいいかもしれない。


 凛先輩が花火を好きだと言った。古書店に通うのが好きで、ミステリが好きで、プリンが好きで、花火が好き。部室の中では部長の顔しか見せない人が、夏休みの開放感でわずかに蓋が緩んでいる。


 先生が一杯の二本目を開けた。


「花火大会か。俺は引率が必要だな」


「先生も来るんですか」


「顧問だからな。お前たちだけで夜に出歩かせるわけにはいかない」


「先生、花火好きですか?」


「嫌いじゃない。缶コーヒー片手に見る花火は悪くない」


「先生は何を見ても缶コーヒーが手にありますね」


「これは俺の酸素だ」


 先生の一杯は一日何本だろう。


 *


 昼前に解散になった。


 帰路。壮介と並んで歩いている。日差しが強い。壮介のTシャツの背中に汗のシミができている。サンダルがパタパタと音を立てている。夏の帰り道だ。


「陽翔、コンクール出るんだな」


「ああ」


「走れなくなった奴の話って、お前のこと?」


「フィクションだよ」


「嘘つけ。詩織ちゃんに言わせたら一秒でバレるぞ」


「まあ、少しだけ自分が入ってるかもしれない」


「少しじゃないだろ」


「少しだって」


「陽翔、お前の嘘は詩織ちゃんの次に下手だ」


「お前、最近ツッコミが上手くなったな」


「ツッコミじゃない。事実だ。お前が書く文章は、全部お前から出てる。サッカーの描写も、走れなくなった悔しさも、全部本物だろ。だからお前の文章は読むと胸がざわつくんだ」


「壮介、お前いつからそんな文芸批評を」


「批評じゃない! 感想だ! 俺にも感想くらいある!」


「それは知ってる。お前の感想はいつもまっすぐだ」


「まっすぐ!? 褒めてる!?」


「褒めてる」


「よっしゃ!!」


 壮介がガッツポーズをした。歩きながらガッツポーズ。サンダルが脱げかけた。慌てて拾う。壮介の人生は常にドタバタだ。


 壮介がにかっと笑った。


「俺もカレーうどンの小説書くからな! お前に負けないぞ!」


「カレーうどンで勝負するの?」


「カレーうどンは最強のテーマだ!」


「ジャンル的に厳しい気がするけど」


「ジャンルを超えるんだよ! カレーうどンは全ジャンルに対応する!」


 壮介が走っていった。「じゃあな! 俺カレーうどン食いに行く!」と叫んで。小説の取材かもしれない。ただ食べたいだけかもしれない。たぶん後者だ。


 一人になった。


 夏休みの住宅街を歩いている。子どもたちが公園で水遊びをしている。アイスクリームの移動販売車が音楽を流している。夏だ。完全に夏だ。


 ポケットからノートを取り出した。小さなメモ帳。コンクール原稿のアイデアを書き留めるために持ち歩いている。三千文字の続き。走れなくなった主人公が、別の走り方を見つける話。


 ノートにペンを走らせた。一行。メモだ。合宿で使うかもしれないフレーズ。


「走れなくなった奴は、走れなくなったことを知っている。だから別の道が見える」


 サッカーの怪我も、文章も同じのだろう。壊れた場所は、一番よく知っている場所だ。


 良いフレーズかどうか分からない。けれど書いた。


 翌朝、壮介が部室に入ってくるなり叫んだ。


「プール行こう!」


 *


 その前日の話をしておく。


 夏休み二日目の部活。全員が原稿を持ち寄って、コンクールの進捗報告会をやった。


「まず俺から」


 凛先輩が原稿の束を卓に置いた。


「ミステリ短編。タイトルは"最後の読者"。図書館を舞台にした密室ものだ。閉館後の図書館で本が一冊消える。犯人は図書館にいた五人の利用者の中にいる」


「先輩、五人って俺たちの人数ですね」


「偶然だ」


「偶然ですか」


「偶然だと言っている。登場人物に文芸部員を投影していない。断じて」


「先輩、否定が強すぎる時は怪しいって、ミステリの基本ですよね」


「黙れ」


 壮介が手を挙げた。


「先輩、その五人の中に"声がでかいバカ"はいますか」


「いない」


「本当に?」


「本当だ。声がでかいのはいるが、バカではない」


「やっぱりいるんじゃないですか!」


「壮介をモデルにしたわけではない。参考にしただけだ」


「参考!? モデルと何が違うんですか!」


「参考は部分的で、モデルは全体的だ。お前の声量だけ借りた」


「声量だけ!」


 詩織さんの番。


「恋愛短編です。タイトルは"窓辺の手紙"。高校生の女の子が好きな人に手紙を書く話です。でも手紙は出さないんです。書いて、読み返して、引き出しにしまう。その繰り返しが三年続きます」


「出さない手紙の話か」


「はい。手紙を書くこと自体が目的になっている女の子の話です。相手に届けることが目的じゃなくて、自分の気持ちを言葉にすることが目的になっている」


「詩織さん、それ取材ノートの話じゃないですよね」


「違います! フィクションです!」


「声が裏返ってる」


「裏返ってません!」


 凛先輩が小さく笑った。


「千歳、お前の小説はいつも作者の体温が高い。体験から書いているのが透けて見える。それは長所だ。ただし長所が弱点になる場合もある。距離を取れ」


「距離、ですか」


「主人公と作者が近すぎると、読者が入り込む余地がなくなる。お前の場合、主人公の感情を書きすぎる傾向がある。少し引け。読者に想像させろ」


「想像させる……」


「ミステリでは"書かないこと"が最大のトリックだ。恋愛小説でも同じだろう。全部を書くな。七割書いて、三割を余白にしろ」


「七割と三割。覚えておきます」


 詩織さんがノートにメモを取った。凛先輩のアドバイスを一字一句記録している。


 俺の番。


「スポーツエッセイを小説に変えます。タイトルは仮で"走れ、朝倉"。走れなくなった主人公が、書くことで走り方を見つける話。今三千字です」


「三千字か。あと七千字。間に合うか」


「間に合わせます」


「読ませてみろ。今書いた分を」


 ノートを渡した。凛先輩が読む。一分くらい。ページを二回めくった。


「冒頭がいい。"膝を壊した日、俺の足にはまだ芝の匂いが残っていた"。この一行で主人公の過去が見える。情報量が多い。ただ」


「ただ?」


「中盤が弱い。主人公が書き始める動機が薄い。"なんとなく書き始めた"では読者が付いてこない。きっかけが欲しい」


「きっかけ」


「主人公が書くことを選ぶ瞬間。それが物語の転換点だ。サッカーで言えば、試合の流れが変わるゴールだ。その一点がないと、物語が動かない」


「サッカーの比喩で説明してくれるの助かります」


「お前にはサッカーで説明するのが一番伝わるからな」


 壮介が身を乗り出した。


「俺の番! カレーうどンの小説!」


「タイトルは」


「"俺とカレーうどンの千日戦争"!」


「千日!?」


「千日間毎日カレーうどンを食べ続ける男の物語だ!」


「それは物語なのか?」


「物語だ! 一日目、カレーうどンを食べた。二日目、カレーうどンを食べた。三日目——」


「全部同じじゃないか」


「違う! 毎日違うカレーうどンなんだ! 一日目は学食のカレーうどン、二日目は家のカレーうどン、三日目は駅前のカレーうどン!」


「場所が変わるだけで内容は同じだろ」


「違う! カレーうどンは一杯一杯が違う! 麺の太さが違う、出汁の濃さが違う、カレーの辛さが違う!」


「壮介、その熱量を別のテーマに向けられないのか」


「向けられない! カレーうどンは俺のテーマだ!」


 凛先輩が腕を組んだ。


「壮介。千日戦争は却下だ」


「却下!?」


「ただし、カレーうどンをテーマにすること自体は認める」


「認めてくれるの!?」


「条件がある。千日じゃなくて一日にしろ。一杯のカレーうどンを食べる、その一回の食事を全力で書け。千日分の薄い描写より、一日分の濃い描写のほうが百倍いい」


「一杯を全力で?」


「一杯のカレーうどンの中に、どれだけの情報があるか考えろ。湯気の温度、麺の弾力、出汁の色、カレーの粒子、箸を割る音。全部書け。五感を使え」


「五感!」


「壮介にしか書けないカレーうどンの小説を書け。お前が千日食べてきた経験の全部を、一杯に凝縮しろ」


「凝縮!!」


 壮介の目が輝いた。凛先輩のアドバイスが刺さったらしい。千日の熱量を一杯に込める。壮介にはそれが合っている。


 凛先輩がホワイトボードに全員の進捗を書いた。


 凛:8,000字(完成間近)

 詩織:6,500字(推敲中)

 陽翔:3,000字(執筆中)

 壮介:0字(テーマ変更)


「壮介のゼロ字が光ってるな」


「ゼロから始める! ゼロは可能性の塊だ!」


「ポジティブすぎる」


「ポジティブは武器だ!」


「お前の武器は多いな。熱量、ポジティブ、声量。全部非文芸的だが」


「非文芸的でも文芸部にいる! それが俺だ!」


「否定できないのが悔しい」


 *


 夏休み三日目。壮介が部室に入ってくるなり叫んだ。


「プール行こう!」


 夏休みが始まって三日目。コンクールの宣言をしてから二日。ノートの文字数は三千百文字まで増えていた。


「プール?」


「市民プール! 駅前の! 五百円で入れる! 涼しい!」


「部活は?」


「部活をプールでやればいい!」


 凛先輩がミステリから目を上げた。汗で前髪が額に張り付いている。いつもはクールな凛先輩が、暑さに負けかけている。この人でも暑いものは暑いらしい。


「悪くないな」


「先輩が賛成した!?」


「この暑さで畳の上に座るのは限界がある。プールサイドで原稿を読むのもありだろう」


「先輩、プールで原稿読むんですか」


「読む。水に濡れなければ問題ない」


「プールで水に濡れないのは難しくないですか」


「パラソルの下にいれば濡れない」


 凛先輩はプールに行っても泳ぐ気がないらしい。海の時と同じパターンだ。先輩はパラソルの下で本を読むために水辺に行く。


 詩織さんがペンを止めた。


「プール、ですか」


 声が小さかった。いつもの詩織さんより、半音低い。


「詩織さんも行こう!」


「あ、はい。行きます。行きますけど」


「けど?」


「私、泳ぐのが少し苦手で」


「少し?」


「かなり」


「かなり苦手なの?」


「水に顔をつけるのが怖いんです」


 壮介が固まった。俺も少し脈が一つ、跳ねた。


「泳げなくてもプールは楽しいよ! 浅いとこあるし!」


「そうですよね。浅いところなら大丈夫です。たぶん」


「たぶんって言葉、最近この部で流行ってるな」


 *


 市民プール。駅前から歩いて十分。夏休みだから子どもたちで混んでいる。歓音が響いている、水の匂い。塩素の匂い。真夏の太陽が照りつけている。


 着替えを済ませて、プールサイドに出た。


 壮介がすでに飛び込み台の前にいた。海パンに浮き輪。浮き輪は今日も膨らませてきたらしい。学習しない男だ。


「いくぞ! 壮介スペシャルダイブ!」


「待て壮介、飛び込み台からの飛び込みは」


 遅かった。


 壮介が飛び込み台から跳んだ。両手を広げて。全身を水面に平行にして。つまり——腹打ちだ。


 バチーーーン。


 水面が爆発した。水しぶきが三メートル上がった。周りの子どもたちが「すげえ!」と叫んだ。壮介が水面に浮かんできた。うつ伏せのまま。赤い腹を上にして。


「壮介! 生きてるか!」


「生きてる……腹が……死んだ……」


「腹が死んだ」


「赤い……腹が赤い……」


 引き上げた。壮介の腹は見事に真っ赤だった。平手打ちを百回受けたような赤さだ。腹打ちダイブの破壊力は凄まじい。


「壮介、なんで腹から行った」


「カッコよく飛ぶつもりだった」


「全然カッコよくなかった」


「音はカッコよかっただろ!」


「音だけな」


 凛先輩がプールサイドの隅にパラソルとビーチチェアを設置していた。どこから持ってきたのか分からない。サングラスをかけて、文庫本を開いている。足だけ水につけている。足から下だけプール。残りは陸。完全にリゾート客だ。


「先輩、泳がないんですか」


「泳がない。読む」


「プールに来て読書だけ?」


「読書のために来た。涼しい場所で読むのが目的だ」


「それならエアコンの効いた図書館のほうが」


「図書館は静かすぎる。適度な騒がしさがあるほうが集中できる。これはミステリ研究で証明されている」


「ミステリ研究のどこにプールの騒がしさが」


「俺が今証明している」


 場所が変わっても人は変わらない。先輩が証明している。


 *


 壮介が復活した。腹打ちのダメージから三分で回復する回復力は大したものだ。


「もう一回飛ぶ!」


「やめろ」


「今度はちゃんと飛ぶ!」


「さっきもそう言ってた」


「今度こそ!」


 壮介が飛び込み台に向かった。止めても無駄だ。


 二回目、バチーーーン。また腹打ちだった。壮介が水面に浮かんだ。今度は仰向けだ。


「壮介! 向きが変わっただけだぞ!」


「進歩だ! 向きが変わった!」


「進歩の方向が間違ってる!」


 周りの子どもたちが「もう一回!」と叫んでいる。壮介が子どもたちのヒーローになっている。腹打ちダイブのヒーロー。文芸部としてはどうなのかと思うが、壮介はどこにいても人気者だ。音量がでかくて、真っすぐで、全力で。子どもたちはそういうのが好きだ。


 三回目。壮介がまた飛び込み台に立った。俺は見守ることにした。止めても無駄なら見守るしかない。


 壮介が跳んだ。今度は足から入った。普通の飛び込みだ、水しぶきは小さい。綺麗に入水した。壮介が水の中から顔を出した。


「できた!! 足から入れた!!」


「おお、普通にできたじゃん」


「二回腹打ちした甲斐があった!!」


「甲斐があったのか? あの腹の赤さに甲斐があったのか?」


「ある! 失敗は成功の母!」


 壮介の腹は赤から紫に変わりかけていた。失敗の代償は大きい。


 監視員のお兄さんが近づいてきた。


「あの、飛び込みは一回ずつ順番でお願いします。あと、腹打ちはなるべく控えてください」


「なるべく!?」


「完全にやめてください」


 壮介が監視員に注意された。文芸部として恥ずかしい。


 *


 壮介の腹打ちショーが一段落した後、俺はプールの浅いほうに移動した。


 詩織さんがプールサイドに座っていた。足だけ水につけている。


 水着の詩織さんは——見たことがなかった。白いワンピースタイプの水着だ。いつもの制服姿や私服姿とは違う。肩のラインが見えている。日焼けしていない白い肌。髪を一つに束ねている。いつもは下ろしている髪を束ねると、首筋が見える。


 詩織さんが水面を見つめている。詩織さんがペンを手にしていない姿は、たぶん初めて見る。


「詩織さん、入らないの?」


「入ります。入りますけど。少し準備が」


「準備?」


「心の準備です」


「小さい頃に、海で溺れかけたことがあるんです」


「溺れかけた?」


「はい。家族で海に行った時に、波に巻かれて、水を飲んで。お父さんが引き上げてくれたんですけど、それ以来、水に顔をつけるのが怖くて。泳げないわけじゃないんです。学校のプールの授業では泳ぎました。二十五メートル、息継ぎなしで。ただ、最初の一歩が」


「息継ぎなしで二十五メートル!?」


「顔を水につけたくないから、一回も息継ぎせずに全力で泳ぎ切りました」


「それはそれですごいな」


「すごくないです。恐怖が動力になっただけです。早く水から出たくて」


「じゃあ、浅いところで立ってるだけでいいよ。無理に泳がなくても」


「はい。でも——せっかく来たので。少しだけ」


 詩織さんがプールの縁から足を降ろした。


「大丈夫?」


「大丈夫です。立てています。立てていますが」


「が?」


「動けません」


 俺は詩織さんの前に立った。水の中で。


「手、出して」


「え?」


「手を出して。引っ張るから」


 詩織さんが俺を見た。目が少し潤んでいる。


 俺はその手を握った。


 詩織さんの手は冷たかった。水の中なのに、水より冷たかった。


「歩くよ。ゆっくり」


「はい」


 一歩。詩織さんの足が動いた。水の中を一歩。俺が前を歩いて、詩織さんが後ろについてくる。手を繋いだまま。


「大丈夫。底はずっと平らだ。急に深くならない」


「はい」


「俺がいるから」


 口が先に動いた。考える前に言っていた。


「俺がいるから」


 なんだそれ。恥ずかしい。


 詩織さんの手に力が入った。ぎゅっと。握り返された。


「ありがとうございます。朝倉くん」


「別に。大したことしてない」


「大したことです。水の中で手を引いてくれる人は、いままでいませんでした」


 詩織さんの声がほんの柔らかくなっていた。さっきまでの硬い声じゃない。手を握っているうちに、指の力が少しだけ緩んだ。


 五歩、十歩。プールの浅いエリアを横断した。詩織さんが歩いている。水の中を、手を繋いだまま。水面に小さな波が立つ。二人分の歩幅で。


 プールの端まで来た。詩織さんが壁に手をついた。もう片方の手は、まだ俺の手を握っている。離さなかった、俺も離さなかった。数秒。水の音だけが聞こえた。


「詩織さん、歩けてるよ」


「本当ですね。歩けています」


「水、怖い?」


「怖いです。でも——手を握っているから、少しだけ大丈夫です」


 その言葉に、脈が一回多く鳴った。


 壮介がプールの反対側から叫んだ。


「陽翔! 詩織ちゃん! 手——手繋い——手繋いでるー!!」


 水しぶきの向こうから、全力の声が飛んできた。壮介のメガホン並みの声量がプール中に響き渡った。周りの子どもたちが振り返った。監視員のお兄さんも振り返った。


 詩織さんの手から力が抜けた。離れた。


「取材です! 水中歩行の取材です!」


 詩織さんが叫んだ。顔が真っ赤だった。耳も赤かった。嘘チャレンジの時と同じ赤さだ。


「水中歩行の取材って何だよ!」


「水の中で歩く感覚を文章にするための! 実地調査です!」


「実地調査で手を繋ぐ必要はあるのか!?」


「あります! 被験者の協力が必要なんです!」


「俺が被験者!?」


 壮介が泳いでこっちに来ようとした。凛先輩がパラソルの下から「壮介、黙れ」と一言で止めた。あいつが「はい」と水中で直立不動になった。


 詩織さんが水から上がった。プールサイドに座って、タオルで顔を拭いている。赤い。まだ赤い。タオルで隠しているが、耳の先が見えている。


「詩織さん」


「何ですか」


「水、少し歩けたじゃん」


「はい。歩けました。朝倉くんのおかげで」


「また練習しよう。合宿で海に入る前に」


「合宿の海は、深いですよね」


「浅いところもあるよ。きっと」


「きっと、ですか」


「行ってみないと分からない」


 詩織さんがタオルから顔を出した。まだ赤いけど、かすかに笑っていた。


「行ってみないと分からない。作家的に、いい言葉ですね」


「適当に言っただけなんだけど」


「適当に出た言葉が一番いいんです。推敲していない言葉には本音が入っています」


 考えるのはやめた、四回目だ、監視員が走っていく、夏の午後だ。プールの水面がキラキラ光っている。壮介がまた飛び込み台に向かっている。


「お客さん、もう飛び込みは!」「最後の一回!」「さっきも最後と言いましたよね!?」


 凛先輩がページをめくっている。プールの歓声と、ページをめくる音と、壮介の叫び声。混ざって、不思議と心地いい。


 *


 家路。四人で歩いている。夕方の日差しがまだ強い。壮介の腹はTシャツの下で紫色に変わっているはずだ。「痛くないの?」と聞いたら「痛い! でも楽しかったから気にならない!」と答えた。痛みを楽しさで上書きできる男。壮介の才能だ。


 凛先輩は日焼け対策が完璧で、肌の色が全く変わっていない。パラソルの力だ。「ミステリ三十ページ読めた。プールは良い読書環境だ」と満足そうだ。五十ページと言っていたのに三十ページに減っている。壮介の腹打ちが気になって集中できなかったのかもしれない。


 詩織さんはわずかに鼻の頭が赤い。日焼け止めを塗り忘れたらしい。


 壮介が振り返って言った。


「今日のまとめ! 壮介、腹打ち三回。凛先輩、読書五十ページ。陽翔と詩織ちゃん——」


「言うな」


「手を繋いだ!」


「言うなって!」


「取材です!」


 詩織さんが反射的に叫んだ。もう癖になっている。


 凛先輩が歩きながら言った。


「朝倉。明日から図書館で原稿を書け。コンクール締切まであと二週間半だ。プールで遊んでる場合じゃないぞ」


「はい」


「千歳もだ。原稿の仕上げは?」


「九割完成です。合宿前に仕上げます」


「壮介は」


「二百五十文字!」


「昨日より五十文字増えたのか」


「増えた! 一日五十文字ペースだ!」


「そのペースだと一万文字に五百日かかるぞ」


「五百日!? 一年以上!?」


「だからペースを上げろ」


 壮介が「うおおお」と叫んで走っていった。帰り道もフルスピード。あの男のエネルギーはどこから来るんだろう。腹打ち三回のダメージはどこに消えたんだ。


 詩織さんが俺の隣を歩いている。無言だ。さっきまでの「取材です」の声が嘘みたいに静かだ。


「明日から図書館に行かなきゃいけないね」


「私も図書館に行きます。涼しいので」


「じゃあ、隣で書いてもいいですか」


「隣」


「並んで書く、っていうか。一人で書くより、誰かが隣にいるほうが捗る気がして」


 詩織さんが俺を見た。夕焼けの光が横顔を照らしている。鼻の頭の日焼けが赤い。その赤さが、さっきの赤面とは違う種類の赤さで、なんだか可愛かった。


「はい。隣で書きましょう」


 小声だった。けれどはっきり聞こえた。詩織さんの指が鞄の紐を握り直した。指の関節が少し曲がっている。力を入れているのだ。


 家に帰った。シャワーを浴びた。プールの塩素の匂いが髪に残っている。水のない世界に戻ってきた。髪を乾かしながらノートを開いた。コンクール原稿の続き。三千文字のその先。走れなくなった主人公が、誰かの手を借りて歩き始める場面。


 今日、プールで詩織さんの手を引いた。冷たい手だった。小さい手だった。震えていた手が、少しずつ力を取り戻していった。あの感覚を、原稿に使えるのだろう。使っていいのか分からない。だが、指先に残っている。水の中の、あの手の感触が。


 手を動かした。書き始めた。さっきまで水の中にあった指が、筆記具の重さを思い出していく。爪の間にまだ塩素の匂いが残っている。あの手の感触を忘れないうちに。

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