第9話 霧島先生は夢の残骸で酒を飲む
# 霧島先生は夢の残骸で酒を飲む
部誌の締切が三日後に迫った金曜日のことだった。
放課後の部室で、本棚の整理をしていた。凛先輩の発案だ。「部誌を完成させる前に、本棚を片付けろ。資料が見つからないと話にならない」。正論だ。この本棚はずっとカオスだった。ミステリの隣に料理本、その上に漫画、さらにその上に辞書。いつか大規模な整理をしなければ、と全員が思いながら誰もやらなかった。今日がその日だ。
俺と壮介が下段を担当し、凛先輩と詩織さんが中段。霧島先生は上段を受け持った。先生は身長があるので、上段に手が届く。踏み台なしで最上段まで届くのは先生だけだ。
「先生、上のほう埃がすごいですよ」
「知ってる。三年は触ってないからな」
「三年!?」
「俺が顧問になる前からある本もある。考古学の領域だ」
先生が最上段の本を一冊ずつ取り出していく。古い文庫本。変色した辞書。見たことのない雑誌のバックナンバー。埃が舞い上がるたびに壮介がくしゃみをした。
そのとき、先生が奥の本を引っ張った拍子に、何かが一緒にずれた。
バサッ。
本棚の最上段から、紐で束ねられた原稿用紙の束が落ちてきた。俺の足元に落ちた。百枚以上はある。厚い。紐が少し黄ばんでいた。古いものだ。
拾い上げた。埃を払うと、全ページにびっしりと赤ペンが入っているのが見えた。字は霧島先生の筆跡だったが、インクが色褪せている。何年も前のものだ。
「先生、これ何ですか?」
先生の表情が、一瞬で変わった。
普段の脱力した顔が消えた。目が鋭くなった。口元が硬くなった。入部してから一度も見たことのない顔だった。
「触るな」
声のトーンが違った。いつもの、ぼそぼそした、缶コーヒーを飲みながらの声じゃない。鋭い。短い。拒絶の音だ。
部室が静まった。壮介が手を止めた。詩織さんの万年筆が止まった。
凛先輩が原稿の束に近づいた。床に落ちた一枚を拾い上げる。
「これ、先生の小説ですか」
「凛、返せ」
先輩が紙を見つめている。赤ペンだらけの原稿。文字の上に文字が重なり、余白に修正案が書き込まれ、矢印で段落の入れ替えが指示されている。推敲の跡だ。何度も何度も書き直した跡。
「返せ」
凛先輩が黙って原稿を先生に返した。先生がそれを受け取って、束の中に戻した。紐をきつく結び直す。手が少しだけ震えていた。
誰も何も言わなかった。
「今日はここまでにしよう。帰れ」
先生がそう言って、原稿の束をソファの横に置いた。缶コーヒーを開ける。プシュッという音だけが部室に響いた。
*
壮介と詩織さんが帰った後、俺と凛先輩が残った。
帰らなかった理由は、自分でもわからない。凛先輩も帰らなかった。先輩はソファの端に座って、文庫本を開いたが、ページをめくっていなかった。同じページをずっと見ている。読んでいない。
霧島先生は缶コーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。夕日が傾きかけている。空がオレンジ色に染まっていた。
「聞きたいか」
先生が言った。窓の外を見たまま。
「聞いていいなら」
「聞かれたくなかったら、お前らを帰してる」
先生がもう一口コーヒーを飲んだ。それから、ソファに深く座り直した。
「大学時代の話だ」
声のトーンが変わっていた。さっきの鋭さはない。代わりに、少しだけ疲れたような、でもどこか諦めに似た穏やかさがあった。酒のつまみ話をするときの声に近い。軽い。軽いのが、逆に重い。
「俺は小説家になりたかった。大学に入ってから三年間、毎日書いた。朝起きて書く。講義の合間に書く。夜バイトが終わってから書く。一日も欠かさなかった」
「三年間毎日ですか」
「毎日だ。書けない日もあった。一行も出てこない日もあった。でも机の前には座った。白紙の前に座って、何も書けないまま二時間が過ぎる日もあった」
「それでも座り続けたんですか」
「座り続けた。座ることだけが、俺にできることだったからな」
その感覚は少しだけわかる。サッカー部のときも同じだった。調子が悪い日でも練習には出た。走れなくても、グラウンドには立った。
「新人賞に五回応募した。一次選考落ち、二次選考落ち、一次落ち、一次落ち。四連敗だ」
「四回落ちてもまだ出したんですか」
「出した。五回目に最終選考に残った」
凛先輩が顔を上げた。
「最終選考」
「五作品に残った。あの夜は、受かると思った。確信に近かった。三年間書き続けた。五回応募した。四回落ちた。でも五回目は違った。手応えがあった。だからバイト帰りに一人で安い居酒屋に入って、ビールで前祝いをした。一人で」
「一人でですか」
「友達に連絡する前に、まず自分で祝いたかった。三年分の努力を、誰よりも先に自分で認めてやりたかった。二百五十円のビールで」
二百五十円のビール。その安さが生々しかった。
「翌日、電話が来た。"残念ながら"」
沈黙。
「選考委員の評価は覚えてるよ。十年経った今でも。"文章力はある。だが物語に熱がない。登場人物が誰も泣いていない"」
「文章力はあるって言われたんですよね」
「そこを拾うか」
「事実じゃないですか」
「お前、優しいな」
「優しくないです。事実を言っただけです」
「事実をそのまま言えるのが優しさだよ。大人になるとな、事実にいちいち解釈を加えたくなる。"文章力はあるが"の"が"のほうばかり聞こえるようになる」
「先生は"ある"のほうを聞けなかったんですか」
「聞けなかった。十年間ずっと"が"のほうだけ聞いていた」
「もったいないですね」
「もったいないか。そうかもな」
先生が少しだけ笑った。缶コーヒーの笑い方だ。口元だけの、音のない笑い。
「それ以来、自分の小説は書いてない。教員になって、文芸部の顧問をやって。まあ、物語の近くにはいる生活だよ。選手じゃなくて解説者みたいなもんだ」
選手じゃなくて解説者。
その言葉が胸に刺さった。
俺のサッカーと同じだ。グラウンドに立てなくなって、フェンス越しに試合を見ている。走れなくなって、膝を押さえて、窓から練習を眺めている。あっち側にいた人間が、こっち側に来た。先生も、俺と同じだ。
好きなことを続けられなくなった人間の顔を、俺は知っている。鏡で毎日見ていたから。
凛先輩が横で黙っていた。文庫本を閉じて、膝の上に置いている。先輩の目元が、少しだけ赤い。普段クールな先輩が感情を見せるのは、めったにないことだ。
「先輩、花粉症ですか」
「違う」
「でも目が」
「違う。聞くな」
*
シリアスな空気が部室を満たしていた。夕日が畳を橙色に染めている。霧島先生が缶コーヒーを飲んで、凛先輩が黙って、俺が何を言えばいいかわからなくて、三人がそれぞれの位置で静かにしていた。
引き戸がバンと開いた。
「忘れ物ー!」
壮介だった。
鞄を片手に、もう片方の手でスマホを振りながら入ってきた。充電ケーブルを部室に置き忘れたらしい。
一歩入って、止まった。
「あれ、なんか暗い?」
「暗くない」
「暗いじゃん。なんか重い空気だし、目が赤い人いるし」
壮介が凛先輩を見た。
「花粉症だ」
「五月に?」
「五月にも花粉は飛ぶ」
「嘘っぽい」
「嘘じゃない」
壮介がちゃぶ台の上に原稿の束があるのを見つけた。さっき先生がソファの横に置いたのを、凛先輩がちゃぶ台に移していた。
「お、これ先生の?」
「触るな」
先生がまた鋭い声を出した。でもさっきほどの硬さはなかった。壮介相手だと、どうしても気が抜けるらしい。
「先生の小説なんだって?」
「誰に聞いた」
「空気で察した」
「お前が空気を察するのか」
「たまにはな!」
「たまに察するくらいなら、普段から察してほしいんだが」
「普段は察さない主義だ!」
「それは主義じゃなくて能力の問題では」
「能力と主義の区別は難しいところだ」
凛先輩が冷静にツッコんだ。壮介は気にしていない。
壮介がちゃぶ台の前にどっかり座った。充電ケーブルの回収はどこかに行った。あぐらをかいて、原稿の束をちらっと見て、それから先生の顔を見た。
「先生、じゃあもう一回書けばいいじゃん」
全員が止まった。
壮介だけが平然としている。ジャージのポケットに手を突っ込んで、あぐらをかいて、まっすぐ先生を見ている。
「お前なあ」
「だって文芸部の顧問が書かないのおかしくない? 俺でも書いたのに」
「お前の"書いた"はカウントしていいのか微妙だけど」
凛先輩が横から刺した。
「三百文字書いたぞ! 先生はゼロじゃん! 俺の勝ち!」
「勝ち負けの問題じゃないんだが」
「勝ち負けだよ! 先生、俺の四十二文字の焼肉エッセイに"あれでいい"って言ったじゃん」
先生の手が止まった。
「だったら先生も"あれでいい"で書けばいいんだよ。上手くなくていい。長くなくていい。四十二文字でいい。先生が自分で言った言葉だろ。俺に"あれでいい"って言ってくれたんだろ。じゃあ先生にも"あれでいい"だ」
部室が静かになった。
壮介の言葉は単純だ。論理的じゃない。構造もない。ただ「書けばいい」と言っただけだ。十年間書けなかった人間に「書けばいい」と言うのは暴論だ。暴論だが、壮介はそういう男だ。複雑なことを考えない。考えないからこそ、核心に触れてしまう。
凛先輩が小さく笑った。
「大和にしては良いこと言ったわね」
「にしては? "にしては"ってなに?」
「褒めてる。素直に受け取れ」
「にしては、は余計だ!」
「余計じゃない。お前は普段がアレだから、良いことを言ったときの落差で効果が増すんだ」
「アレってなに! アレって!」
先生が缶コーヒーの最後の一口を飲んだ。空き缶を手の中で握りつぶした。くしゃ、という音。
「お前に言われるとは思わなかったよ」
「言ったぞ! 俺が!」
「ああ。聞いた」
先生は何も約束しなかった。「書く」とは言わなかった。でも「書かない」とも言わなかった。缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に放り込んで、ため息をついた。長い、長いため息だった。
*
そのとき、引き戸がもう一度開いた。
詩織さんだった。壮介に連れられて戻ってきたらしい。
「壮介さんに"先生が大変だ"と呼ばれたんですが、何がどう大変なんですか」
「大変じゃない。先生の昔の原稿が出てきただけだ」
「原稿」
詩織さんの目が光った。取材モードの目だ。ただし今回は、いつもの好奇心とは少し違う色が混ざっていた。真剣な光。
壮介から話の概要を聞いた詩織さんが、少し考えた後、霧島先生のほうを向いた。真っ直ぐに。詩織さんがメモを取っていないことに気づいた。いつもなら何でもメモする人が、今日はペンを持っていない。聞くことに集中している。
「先生」
「なんだ」
「先生の文章、添削の赤字を読むだけでもわかります」
「何がだ」
「すごく上手いんです。構成を見抜く目も、言葉を選ぶ感覚も。私たちの原稿に入る赤ペンを見るたびに、この人は書ける人だ、と思っていました」
「買いかぶりだ」
「買いかぶりではありません。私は先生の赤ペンを一ヶ月読んできました。指摘の正確さ、代案の美しさ、余白の使い方。先生は書ける人です」
先生が詩織さんを見た。詩織さんの目は真っ直ぐだった。取材モードではない。一人の読み手として、一人の書き手に向けた目だ。
「いつか先生の小説を読んでみたいです」
短い言葉だった。飾りのない、真っ直ぐな言葉。
先生が顔をそらした。窓の外を見た。夕日が沈みかけている。空がオレンジから紫に変わりつつある。
「お前らの原稿がまともになったらな」
「俺たちの成長が条件なんですか」
「そうだ。教え子が全国入賞したら考えてやる」
「ハードル高いですね」
「俺は安売りしない」
「先生かっこいい!」
壮介が叫んだ。先生が缶コーヒーの新しいのを開けた。プシュッ。復活の音。
「うるさい。帰れ」
「帰らない! 先生の小説読みたい!」
「今日は読ませない。百年後なら考える」
「百年後って俺ら生きてないじゃん!」
「だから百年後だ」
「先生のハードル高すぎ!」
凛先輩が立ち上がった。鞄を持つ。
「先生。私も、いつか読みたいです」
それだけ言って、引き戸を開けて出ていった。短い。凛先輩はいつも短い。でもその一言に、さっきの赤い目元の感情が全部入っていた。先輩は言葉を削る人だ。削って削って、最後に残った一文だけを口にする。だからあの一言は、凛先輩の百ページ分の感想だったんだと思う。
壮介が後を追うように立ち上がった。
「俺も帰る! 先生、明日も部活な!」
「ああ」
「明日は書いてきてくれよ! 四十二文字でいいから!」
「帰れ」
「帰る! でも約束!」
「約束はしない。帰れ」
壮介が引き戸をバンと閉めて出ていった。やかましい。でもあのやかましさに、今日は救われた。
*
全員が帰った後、俺だけ残った。
先生はソファで缶コーヒーを飲んでいた。二本目だ。俺はちゃぶ台の前で、片付けの続きをしているふりをしていた。実際には手が動いていない。
「朝倉、お前も帰れ」
「片付け、終わってないので」
「嘘つけ。終わってる」
「終わってないです。上段の右端がまだ」
「右端は空だ」
「あ」
バレた。嘘が下手だ。詩織さんみたいに取材で逃げるスキルが欲しい。
「帰ります。でもその前に一つだけ」
原稿の束に手を伸ばした。先生が「触るなと言った」と言いかけた。
「戻します。棚に。落ちたところに」
先生の目が俺を見た。数秒。
「丁寧にやれ」
「はい」
原稿の束を両手で持ち上げた。重かった。百枚以上の原稿用紙。三年間毎日書いた人間の重さ。赤ペンだらけのページ。何度も何度も書き直した跡。選考委員に「熱がない」と言われた小説。でも先生が三年間の全力を注いだ小説。
本棚の最上段。奥のほう。壁際に、丁寧に押し込んだ。紐が解けないように、向きを揃えて。
ふと、束の最後のページが目に入った。
原稿の最終行。赤ペンで埋め尽くされた文字の海の中に、小さな余白があった。そこに、鉛筆で書かれた一行。
「続きは、いつか」。
先生の字だ。原稿を書いたときの筆跡よりも、少し大人びている。赤ペンのインクよりも新しい。たぶん、原稿を書いた後、しばらく経ってから書き加えたのだ。十年前の小説に、いつかの自分が書いた一行。
原稿を棚に戻した。紐を結び直した。丁寧に。
「先生」
「なんだ」
「何でもないです。お疲れ様でした」
鞄を持って、引き戸を開けた。
「朝倉」
振り返った。先生がソファで缶コーヒーを持ったまま、こっちを見ていた。
「原稿の扱いが丁寧だな」
「本は丁寧に扱えって、凛先輩に教わりました」
「原稿は本じゃない」
「でも誰かが書いたものです。丁寧に扱うのは当然です」
先生が何か言いかけて、やめた。缶コーヒーを一口飲んだ。
「帰れ」
「帰ります」
引き戸を閉めた。旧校舎の廊下を歩いた。窓の外はもう暗い。
帰り道。一人で歩いている。
先生にも終わりがあったんだな、と思った。好きなことに全力で取り組んで、結果が出なくて、続けられなくなった。サッカーを辞めた俺と同じだ。膝を壊した俺と、夢を壊された先生。壊れ方は違うけど、続けられなくなった痛みは似ている。
三年間毎日書いた。五回応募した。四回落ちた。五回目で最終選考に残った。二百五十円のビールで前祝いした。翌日、電話で落選を告げられた。「文章力はある。だが物語に熱がない」。
あの話を聞いているとき、俺はずっと先生の目を見ていた。先生は窓の外を見ながら話していた。淡々と。軽い口調で。でも缶コーヒーを握る指が微かに力んでいた。十年経っても、あの夜の二百五十円のビールの味を覚えているんだろう。前祝いのつもりだったビール。結果的にはただの敗北の味だったビール。
俺もサッカーの最後の試合を覚えている。膝が壊れた瞬間の音。ゴムが切れるみたいな、パチンという音。あれから何ヶ月も経つのに、夢の中でまだ聞こえることがある。
先生の「残念ながら」と、俺の「パチン」。形は違うけど、終わりの音は似ている。
でも先生は、あの原稿の最後に書いていた。「続きは、いつか」と。
やめたんじゃない。止まっているだけだ。「いつか」がまだ来ていないだけだ。十年間止まっている。でも止まっているのと、終わったのは違う。原稿はまだ本棚にある。紐で束ねられて、埃をかぶって、最上段の奥に押し込まれているけど、まだそこにある。捨てていない。「続きは、いつか」と書いた。いつかはまだ来ていないけど、可能性は残っている。
壮介が「書けばいい」と言った。詩織さんが「読みたい」と言った。凛先輩が「いつか読みたい」と言った。三人の言葉が、先生の「いつか」を少しだけ近づけたんじゃないかと思う。
俺にもそういう「いつか」があるんだろうか。
サッカーの代わりに見つけた文芸部。カレーうどんのエッセイ。合評会。壮介の三百文字。詩織さんの取材ノート。凛先輩のミステリ。全部がまだ始まったばかりだ。一ヶ月しか経っていない。
来週の金曜日は部誌の締切だ。俺のカレーうどんエッセイと、壮介の新作と、凛先輩のミステリと、詩織さんの短編。四人分の原稿を一冊にまとめる。初めての部誌。
先生は何か書いてくれるだろうか。
わからない。でも「続きは、いつか」と書いた先生なら、いつか書くと思う。いつかは今日じゃないかもしれない。明日でもないかもしれない。来週でもないかもしれない。でも、いつか。
先生が「いつか」を迎える日を、俺はこの部室で待っていたい。
空はもう紺色だった。星が三つ見えた。昨日より一つ多い。




