第7話 壮介の短編が世界を壊す
# 壮介の短編が世界を壊す
合評会から二日後の水曜日。
壮介が引き戸を蹴るように開けた。
「引き戸を蹴るな」
凛先輩の声が飛ぶ。もはや定型文だ。壮介が部室に来るたびにこのやりとりが発生する。引き戸は横にスライドさせるものであり、蹴って開けるものではない。だが壮介にその概念はない。
「書けた! 短編! 読んでくれ!」
手にA4用紙が一枚。たった一枚。壮介が高々と掲げている。全員の顔に期待と不安が半分ずつ浮かんだ。壮介が「書けた」と言うときの期待値は、宝くじの当選確率くらい低い。だが万が一がある。万が一を信じたい気持ちが、半分ある。
「タイトルは?」
「"俺VS巨大カレーうどん"」
「カレーうどん!? 俺のネタ取るなよ!」
「パクリじゃない。オマージュだ」
「お前、オマージュの意味わかって使ってるか?」
「かっこいい言葉だから使った!」
「知ってる言葉を使うな」
凛先輩が冷たく言った。壮介は気にしていない。
「読み上げる! 全員聞いてくれ!」
凛先輩がソファから身を起こした。
「いいだろう。全員、正座で聞け」
「正座必要ですか?」
「礼儀だ。人の作品を聞くときは正座する。うちのルールだ」
「今作りましたよね、そのルール」
「作った。でも今後の定例にする」
全員が畳の上に正座した。霧島先生までソファから降りて正座している。珍しい。先生の正座は膝が微妙に浮いていて、五秒後にはあぐらに崩れそうだった。
壮介がA4用紙を目の前に掲げた。深呼吸。声を張った。
*
「"俺VS巨大カレーうどん"。大和壮介作」
壮介の声が部室に響く。推定八十五デシベル。朗読にしては音量が大きすぎる。
「"ある日、学校に巨大なカレーうどんが現れた。でかい。校舎よりでかい。カレーの匂いがすごい。みんな逃げた。でも俺は逃げなかった。なぜなら俺はカレーうどんが好きだからだ"」
壮介が一息ついた。ここまでで半分らしい。
「"俺はカレーうどんに立ち向かった。素手で。武器はいらない。カレーうどんに武器を使うのは失礼だ。なぜなら相手は食べ物だからだ。俺は食べ物を尊敬している"」
何を言っているのかわからない。わからないが、壮介の声には妙な迫力があった。本人が大真面目だからだ。声がでかいのも今だけは長所に転じている。ホールに響く朗読みたいな声量だ。六畳の部室にはオーバースペックだが。
「"俺はうどんのスープを全部飲み干した。全部だ。何リットルあったかわからない。たぶん学校のプールくらい。腹がパンパンになった。でも飲み干した。そしたら巨大カレーうどんは消えた。スープがなくなったからだ。残ったのは麺だけだ。麺は食った。世界は平和になった。おわり"」
壮介がA4用紙を下ろした。
「三百文字。ぴったり」
「ぴったりじゃないだろ。数えたのか」
「数えた。三回数えた」
「三回数えるくらいなら推敲しろ」
沈黙が落ちた。
五秒。
長い五秒だった。部室の壁掛け時計がカチカチ音を立てていた。外からグラウンドの掛け声が微かに聞こえた。壮介が全員の顔を見回している。期待に満ちた目だ。子犬が「褒めて」と言っている目に似ている。体格は大型犬だが。
凛先輩が最初に口を開いた。
「ツッコミどころしかないんだが、どこから行く?」
俺が手を挙げた。
「まず、カレーうどんに意志はない」
「ある。カレーうどんには魂がある」
「ない」
「ある! カレーうどんを食べたことないの!?」
「食べたことあるけど魂は感じたことない」
「感じてないだけだ! 舌が鈍い!」
「舌の話じゃない。論理の話だ」
詩織さんが手を挙げた。
「なぜ素手なんですか?」
「ロマンだよ」
「ロマンで校舎より大きいカレーうどんに勝てるんですか」
「勝てた。作品の中で勝ってるから」
「それは作者権限の濫用では」
「作者権限って何」
「自分が書いたから何でもありにしていいという意味ではないということです」
「つまり何でもありってこと?」
「逆です」
凛先輩が指を折りながらカウントした。
「ツッコミ項目。一、カレーうどんが校舎より大きい根拠がない。二、"素手で食べ物と戦う"の意味がわからない。三、プール一杯分のスープを飲める人間はいない。四、それで世界が平和になる理由がない。五、三百文字で世界を救うな」
「五個もある!?」
「まだある。六、"おわり"で終わるな。七、タイトルに"VS"を使うのは小説としてどうなのか。八——」
「もうやめて! 俺のメンタルが!」
霧島先生が顔を伏せていた。肩が震えている。笑いを堪えている。顔が赤い。缶コーヒーを握ったまま、プルプルしている。
「先生、呼吸してください」
「……面白い。面白いが……」
「面白いんですか!?」
「面白い。だがお前はもう少し文字数を書け」
「文字数?」
「三百文字で世界を救う小説は、人類の歴史上存在しない」
「じゃあ俺が最初だ!」
「それは偉業ではなく暴挙だ」
壮介がA4用紙を胸に抱えた。けっこう落ち込んでいるのかと思ったら、全然落ち込んでいなかった。にこにこしている。
「でも面白かったんでしょ? 先生笑ってたじゃん」
「笑ったのは認める」
「じゃあいい! 笑わせたもん勝ちだ!」
その開き直りだけは、ちょっと羨ましいと思った。
*
凛先輩が立ち上がった。ホワイトボードの前に移動して、マーカーを手に取る。先輩がホワイトボードの前に立つときは、何かを企んでいるときだ。
「せっかくだ。全員で壮介の短編をリライトしよう」
「リライト?」
「同じテーマで全員が書き直す。題材は"VS巨大カレーうどん"。各自の文体で。制限時間三十分」
「えっ、全員やるんですか」
「全員やる。先生も」
霧島先生が缶コーヒーを飲みかけて止まった。
「俺もか」
「顧問も書く。うちの方針だ」
「そんな方針あったか」
「今作った」
壮介が両手を突き上げた。
「俺の作品が原作! みんな俺の原作のリライトだからな! 俺が原作者だ!」
「原作と呼んでいいのかは議論の余地があるが、まあいい。始めろ」
全員がそれぞれの持ち場についた。凛先輩がソファでノートを開く。詩織さんが万年筆を構える。俺がPCの前に座る。壮介がスマホを握る。霧島先生が赤ペンを置いて、代わりに鉛筆を取り出した。
三十分。テーマは「VS巨大カレーうどん」。
バカみたいなテーマだ。でも全員が大真面目に書き始めた。部室に五種類の筆記音が重なっていく。凛先輩のペンがノートの上を走る音。詩織さんの万年筆のカリカリ音。俺のキーボードのカタカタ音。壮介のスマホのタップ音。霧島先生の鉛筆がコリコリと紙を掻く音。
三十分はあっという間だった。
*
「時間だ。発表する」
凛先輩が最初に読み上げた。
「"カレーうどん失踪事件"。桐谷凛作」
全員が居住まいを正す。凛先輩の声は低くて、ミステリの朗読にぴったりだった。
「"学食のカレーうどんが消えた。調理室には鍋が残されていたが、中身は空。容疑者は五名。全員にアリバイがあった。しかし、カレーのスープに含まれる小麦粉の粒子を分析すると、犯行時刻は午前十一時三十二分と特定される。アリバイが成立しない人物が一人だけいた。犯人は——調理員のBである。動機はシンプルだった。Bはカレーうどんが、世界で一番好きだったのだ"」
壮介が拍手した。
「めちゃくちゃ面白い! でも原作のカケラもない!」
「原作にカケラがないのが悪い」
「ひどい!」
「カレーうどんをミステリにできる先輩はすごいと思いますけど、これ原作の面影が完全にゼロですよね」
「ゼロだ。誇りに思え。お前の原作が優秀なリライトを生んだ」
「褒められてるのか貶されてるのかわからない!」
次は詩織さん。用紙をちゃぶ台に置いて、姿勢を正して読み始めた。
「"私は、カレーうどんに出会った。否、それは邂逅と呼ぶべきものであった。澄んだ出汁の底に沈む麺の一本一本が、私という存在の脆さを映していた。湯気の向こうに、誰かの笑顔が見える。あの人も、カレーうどんを好きだと言っていた。あの人の声を、私はまだ覚えている"」
「怖い! なんで泣いてるの!?」
「泣いてません。これは創作です」
「嘘だ! 声が震えてたぞ!」
「演技です。朗読における感情表現です」
凛先輩が腕を組んだ。
「千歳、テーマが巨大カレーうどんからだいぶ離れてるぞ。純文学に振りすぎだ」
「カレーうどんを題材にした場合、純文学的アプローチが最も新規性があると判断しました」
「判断の方向が独特すぎる」
「でもめちゃくちゃ上手いですよね」
「上手い。上手いのが問題だ。上手すぎてカレーうどんが可哀想になる」
「カレーうどんが可哀想ってどういう状況なんですか」
次は俺。
PCの画面を読み上げた。
「"第四クォーター、残り三十秒。カレーうどんが怒涛のスープ攻撃を仕掛けてくる。顔面にカレーの飛沫が飛ぶ。目に染みる。だが俺は止まらない。ここで退くのはフォワード失格だ。箸を構える。足を踏ん張る。膝が痛む。でも関係ない。これが最後の一口だ。スープの底に沈んだ最後の麺を掬い上げる。持ち上げる。口に入れる。噛む。飲み込む。終了のホイッスルが鳴った。俺たちの勝ちだ"」
壮介が目を輝かせた。
「これ好き!! 試合感ある!! 膝が痛むのに走るとこ最高!」
「書いてるうちにサッカーの試合になってた。カレーうどんと戦ってたはずなのに」
凛先輩がうなずいた。
「確かにアツい。無駄に」
「無駄にって言わないでください」
「いや褒めてる。お前の文章はスポーツの実況みたいなテンポがある。カレーうどんでそのテンポが出るのは才能だ」
「カレーうどんで才能って言われても嬉しいのか微妙なんですけど」
「題材は関係ない。文体に個性がある。それが大事だ」
詩織さんがメモを取っていた。もちろん取材だ。
「朝倉くんの文章、"膝が痛む。でも関係ない"のところ、すごくいいです」
「え、そこですか」
「はい。カレーうどんの話なのに、ふっと本当の感情が覗くところが。フィクションの中にノンフィクションが混ざっている。それが朝倉くんの文章の特徴だと思います」
「フィクションにノンフィクションが混ざるって、いいことなんですか」
「最高にいいことです」
詩織さんの目が真っ直ぐだった。取材モードの目ではなく、純粋に感動している目だった。そういう目で見られると、耳のあたりが少し熱くなる。
確かに、「膝が痛む」は書くつもりじゃなかった。カレーうどんとの戦いを書いていたはずなのに、指が勝手に打っていた。無意識だった。
最後は霧島先生。
先生は鉛筆で書いたルーズリーフを一枚持っている。全員が注目する。先生が創作するのを見るのは初めてだ。
「読む」
「お願いします」
「"選評:本作『俺VS巨大カレーうどん』は、大胆な題材選びが光る意欲作である。スケール感は評価できるが、カレーうどんの描写に具体性が欠ける。'でかい'だけでは読者の想像力を刺激しない。味、匂い、温度、粘度、色彩——五感を総動員した描写を求めたい。また、主人公の動機が'好きだから'では物語としての厚みに欠ける。なぜ好きなのか。いつから好きなのか。'好き'の解像度を上げることが、次作への課題である。以上。次作に期待する"」
全員が固まった。
「先生、それ作品じゃなくて選評ですよね」
「選評だ」
「リライトしてくださいって言ったんですけど」
「これが俺のリライトだ。編集者は作品を書かない。作品を評価する」
「先生それズルくないですか!?」
「ズルくない。これが出版業界のリアルだ」
「出版業界に逃げないでください」
壮介が手を叩いた。
「でも先生の選評、めちゃくちゃ的確じゃん! "五感を総動員した描写を求めたい"って、つまり匂いとか味とか書けってことだろ? それ次書くとき意識してみる!」
全員が壮介を見た。
「お前、今めちゃくちゃまともなこと言ったな」
「言った? 俺が?」
「先生の選評をちゃんと理解して、次に活かそうとしてる。それ、作家としてすごくまっとうな反応だぞ」
凛先輩が少し驚いた顔をしていた。壮介は自覚がない。自覚がないまま、時々核心を突く。この男の不思議なところだ。
霧島先生が小さく笑った。
「大和、お前の次作は五感を入れろ。"ビカビカ"みたいな擬態語をもっと使え」
「ビカビカ! 使う!」
「ビカビカは焼肉のときの表現だけどな」
「カレーうどんにも使える! カレーの汁がビカビカ光ってた!」
「それは合ってるかもしれない」
*
リライト大会が終わった後、凛先輩がホワイトボードに四つのリライト作品のタイトルを書き出した。
「カレーうどん失踪事件」(凛)。
「カレーうどんとの邂逅」(詩織)。
「第四クォーター」(陽翔)。
「選評」(霧島)。
その下に、原作。
「俺VS巨大カレーうどん」(壮介)。
五つのタイトルがホワイトボードに並んでいる。ミステリ、純文学、スポーツ実況、選評、そしてバトルもの。全部同じ「カレーうどん」から派生している。同じ題材なのに、五人が書くと五つの全然違う作品になる。合評会のときと同じだ。同じものに触れても、全員が違う方向に走る。
「部誌に全員分のリライトを載せたら面白くないか?」
凛先輩がホワイトボードを眺めながら言った。
「え、載せるんですか、これを」
「載せる。"同一テーマ・五人五色リライト特集"。部誌の企画としてはかなり面白い」
「俺の原作も載るの!?」
「載せる。比較対象として必要だ」
「比較対象!」
「お前の三百文字が起点になって、四つの作品が生まれた。それ自体が一つの企画だ」
壮介が嬉しそうに胸を張った。
「俺、原作者じゃん!」
「原作の質はさておき、発想の起爆力は認める」
詩織さんがノートに書き込んでいた。
「部誌の構成案を作ってもいいですか? リライト特集のページ割りを考えたいんですが」
「頼む。千歳、お前が構成を担当しろ。朝倉はカレーうどんエッセイの続きも部誌に載せろ。壮介は次作の短編を書け。今度は五百文字以上」
「五百! ハードル上がった!」
「三百文字の次が五百文字だ。段階的な成長を目指せ」
「段階的な成長!」
「部誌の締切は来週金曜。変更なし。遅れた者はホワイトボードの殺意の矢印リストに名前を追加する」
「それは脅迫では」
「動機付けだ」
帰り支度をしながら、俺は壮介の背中を見ていた。
壮介は何も書けない。三百文字の短編はツッコミどころしかなかった。文法は壊滅的で、展開は無茶苦茶で、オチも何もない。巨大カレーうどんと素手で戦って、スープをプール一杯分飲み干して世界が平和になる。馬鹿馬鹿しい。子供が思いつきで書いた絵日記のほうがまだ構成がしっかりしている。
でも壮介が書いたものを読んで、全員が笑った。
霧島先生が笑いを堪えて窒息しかけた。凛先輩がツッコミ項目を八つも数えた。詩織さんが「素手なのはなぜ」と真面目に質問した。そして全員が「じゃあ俺ならこう書く」と思った。凛先輩はミステリにした。詩織さんは純文学にした。俺はスポーツ実況にした。霧島先生は選評という反則技に出た。壮介の三百文字がなかったら、誰もカレーうどんでリライトなんてやらなかった。
壮介は文芸部で一番書けない人間だ。
でも壮介がいると、全員が何かを書きたくなる。
触媒、という言葉を理科の授業で習ったことがある。自分自身は変化しないけど、他の物質の化学反応を促進する物質。壮介はたぶんそれだ。自分では傑作は書けない。でも周りの人間の中にある何かに火をつける。壮介が馬鹿なことを全力でやるから、全員が「負けてたまるか」と思って本気で書く。壮介が恥ずかしがらずに三百文字を差し出すから、全員が「じゃあ俺も出そう」と思える。
それはたぶん、文芸部に一番必要な才能だ。
凛先輩が最後に言った言葉を思い出す。「壮介は文芸力じゃなくて突破力」。そうかもしれない。壁を壊すのはいつも壮介だ。壁の向こうに何があるかは壮介自身にもわからない。でも壊した穴から、全員が先に進める。
「なあ陽翔、明日もリライトやる!?」
壮介が振り返って叫んだ。校門の向こうで夕日が沈みかけている。
「明日は普通の部活だよ」
「えー、リライト楽しかったのに!」
「毎日やったらネタが尽きるだろ」
「尽きない! 次は"俺VS巨大焼肉"で!」
「お前のテーマ、食べ物しかないのか」
「食は人生だ!」
「その言葉だけは否定できないんだよな」
「あと"俺VS巨大ラーメン"と"俺VS巨大ハンバーグ"もある!」
「全部食べ物じゃないか」
「食べ物以外で書けって言われても困る!」
「困るな。お前の場合は困る」
壮介がニカッと笑って走っていった。声がでかくて、足が速くて、原稿用紙の使い方を知らない男。でもあいつが書いた三百文字のおかげで、今日の文芸部は今までで一番賑やかだった。
部誌の締切まであと五日。俺はカレーうどんエッセイの仕上げをしなきゃいけない。壮介は五百文字の新作を書かなきゃいけない。凛先輩はミステリリライトの推敲をするだろうし、詩織さんは構成案を練るだろう。霧島先生は選評を載せるのか本当の作品を書くのか、まだ揉めている。
全員がバラバラのことをしている。でも全員が同じ部誌に向かっている。
文芸部って、こういうことなのかもしれない。
帰り道の空は、今日もオレンジ色だった。鞄の中には、部誌に載せるカレーうどんエッセイの原稿が入っている。




