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第6話 読書感想文バトル

# 読書感想文バトル



 五人が揃ってから一週間が過ぎた。五月に入って、風が少し暖かくなっている。


 放課後の部室。凛先輩がちゃぶ台の上にA4のコピー用紙の束をバサッと置いた。


「今日は合評会をやる」


「合評会?」


「全員で同じ短編を読んで、感想を書いて、発表する。文芸部の基本メニューだ」


 コピー用紙を一部ずつ配られた。八ページ。表紙に「海辺の椅子」と印刷されている。作者は知らない名前だった。有名な近代文学の短編らしい。


「一時間で読んで、四百字以内で感想を書いて、全員の前で発表。以上」


「一時間で読めるんですか、これ」


「二十ページだぞ。充分だ」


 壮介が横で絶望の顔をしていた。


「二十ページって漫画なら三分で読むけど」


「漫画じゃない。文字だ」


「文字か……」


 壮介の声のトーンが半オクターブ落ちた。


「大和さん、ゆっくりで大丈夫ですよ。わからない漢字があったら聞いてくださいね」


 詩織さんがフォローした。詩織さんは優しい。


「全部わからなかったら?」


「さすがに義務教育を疑うぞ」


 読書が始まる前に、ふとホワイトボードに目がいった。入部初日から気になっていた例のやつだ。名前と矢印が複雑に交差した相関図みたいなもの。一度消されたはずなのに、また新しいのが書かれている。


「そういえば先輩、このホワイトボードの図って何ですか。ずっと気になってたんですけど」


 凛先輩が少し照れた顔をした。クールな先輩が照れるのは珍しい。


「私のミステリ小説の登場人物関係図だ」


「あ、そういう」


「矢印の意味は左から順に、"殺意"、"アリバイ"、"共犯"」


「怖っ!」


 壮介が椅子から転げ落ちそうになった。


「消し忘れてた」


「消すんですか?」


「いや、残しておこう。資料だ」


 資料として殺意の矢印が常駐するホワイトボード。文芸部の日常は、なかなかにカオスだ。



    *



 読書が始まった。


 五人五色の読書風景だった。


 詩織さんは正座で姿勢よく読んでいる。ページに顔を近づけすぎず、離しすぎず、ちょうどいい距離。真剣な目が文字を追っている。途中からペンを取り出してメモを取り始めた。最初は余白にキーワードを書いていたが、だんだんペンが加速して、気づけばノートを開いている。


「千歳、感想じゃなくて新作のプロットが書かれてるぞ」


 凛先輩が詩織さんのノートを覗き込んだ。


「あっ。すみません、読みながら浮かんでしまって」


「浮かぶのはいいけど、今は感想を書け」


「はい。でも第三段落の海鳴りの描写を読んだとき、新しい短編のオープニングが完全に見えてしまって」


「天才のマルチタスクは後にしろ」


「見えてしまったものは消せないんです」


「消さなくていいから別のノートに書け。感想用と創作用を分けろ」


「ノートが足りません。明日買ってきます」


「お前のノート消費量はちょっとおかしい」


 凛先輩自身はソファで猫のように丸まって読んでいた。文庫本を読むときと同じ姿勢だ。違うのは、コピー用紙のあちこちに付箋がペタペタ貼られていくことだった。黄色い付箋が紙の端からはみ出している。覗き見したわけじゃないけど、付箋の一枚に「第二段落:動機の暗示? アリバイ不成立の可能性あり」と書かれていた。殺人事件は起きていない純文学なのに、アリバイを検証している。この先輩の脳内にはミステリフィルターが常時起動しているらしい。


 壮介は五分で集中力が切れた。


「なあ陽翔、ここ何て読むの?」


「どこ」


「この漢字」


「"佇む"。たたずむ」


「たたずむって何?」


「立ってることだよ」


「じゃあ"立ってる"って書けばいいのに」


「ニュアンスが違うんだよ。ただ立ってるんじゃなくて、じっと立ってる感じ」


「じっと立ってるのと、ただ立ってるのって何が違うの?」


「雰囲気が」


「雰囲気って食えるの?」


「食えないし、さっきから質問が全部"食えるの"で終わるのやめてくれないか」


「腹減ってるんだよ!」


「読みながら食うなよ!」


 壮介がコンビニで買ったおにぎりを半分食べながら読書をしている。器用なのか不器用なのかわからない。おにぎりの米粒がコピー用紙に落ちて、凛先輩が「食べるか読むかどっちかにしろ」と叱った。壮介は両方やめなかった。


 壮介の質問攻めで俺の読書は完全に妨害されていた。隣にいるのが間違いだった。席替えを要求したい。


 それでも何とか集中して読み進めた。「海辺の椅子」は短い小説だった。海辺に椅子を置いて座っている男の話。男は何かを待っている。何を待っているのかは最後まで明かされない。海が見えて、風が吹いて、時間が過ぎていく。それだけの小説。


 でも読み終わったとき、胸に何かが残った。


 サッカーで言うなら、ロスタイムのホイッスルが鳴った後に残る余韻みたいなものだ。試合は終わったのに、身体がまだ走りたがっている感覚。この小説を読んだ後の感覚は、それに近い。


 俺は余白にメモを取った。「この主人公、フォワードなのにベンチに座ってる感じがする」。自分でも何を書いているのかわからないが、ペンが勝手に動いた。


 霧島先生はデスクで読んでいた。が、三行目で手が止まった。赤ペンを手に取りかけて、やめた。また取りかけて、やめた。三回目でとうとう赤ペンを握ってしまい、原稿の余白に赤い丸をつけかけて、慌てて消した。


「先生、何してるんですか」


「職業病だ。誤字脱字が気になって内容が頭に入らない」


「感想を書いてくださいね。校閲じゃなくて」


「善処する」


「善処じゃなくて確約してください」


「確約は社会人として軽率にできない」


「先生、ここは学校です」


 壮介がまた手を挙げた。


「なあ、なんでこの主人公はずっと椅子に座ってるの? 暇なの?」


 全員が手を止めた。


「いや、それは」


 答えに詰まった。凛先輩も、詩織さんも、一瞬黙った。


「暇じゃない」


 凛先輩が言った。


「"待っている"んだ」


「何を?」


「それを考えるのが読書だ」


「めんどくさ!」


「面倒だから面白いんだよ」



    *



 一時間後。全員の感想がちゃぶ台の上に並んだ。


「じゃあ順番に発表する。私から行く」


 凛先輩が自分の感想用紙を手に取った。背筋を伸ばして読み上げ始める。


「"主人公が椅子に座って海を見ている理由は、誰かを待っているのではなく、監視しているのだと考える。根拠は第三段落にある。主人公の視線が海面の一点に固定されていること、および第五段落で潮の満ち引きの時間を正確に把握していることから、主人公は海を観察している。これは何者かの痕跡を追っている行動パターンと一致する。私の仮説では、主人公は探偵であり、Bが犯人だ"」


「先輩、これミステリじゃないんですけど」


「あらゆる小説にはミステリの要素がある」


「ないですよ」


「ある」


「犯人って誰ですか。登場人物、主人公一人しかいないですよ」


「一人だからこそ疑わしい。もっとも疑わしいのは常に最も近くにいる人間だ」


「一人しかいなかったら最も近くにいるの自分じゃないですか」


「つまり主人公自身が犯人だ」


「何の犯人なんですか!?」


 壮介が手を叩いた。


「先輩の感想、意味わかんないけど面白い!」


「褒められてるのか馬鹿にされてるのか判断に困るな」


 次は詩織さん。用紙をちゃぶ台に広げて、姿勢を正した。万年筆で書かれた感想は、字が綺麗すぎて印刷に見える。


「"主人公の心象風景が季節の移ろいと同期しています。第二段落の海鳴りは主人公の内面の震えと対応しており、第四段落で風が止む描写は感情の凪を表しています。特に注目すべきは末尾の一文で、椅子の影が砂に伸びていく描写は時間の経過と主人公の孤独が重なり合い——"」


 壮介の首がガクッと落ちた。三行目で寝始めた。


「大和さん」


「! 起きてる!」


「聞いていませんでしたね?」


「聞いてた! えっと……海鳴りが……えっと……鳴ってた?」


「もう少し具体的にお願いします」


「海鳴りがすごく……鳴ってた?」


「程度を加えただけですね」


「詩織さんの感想は文芸評論みたいになってるんですよ。もう少し噛み砕いてもらっていいですか」


「噛み砕きますと、"美しい小説です"の一言です」


「だいぶ噛み砕かれましたね。間がなさすぎる」


 凛先輩が口を挟んだ。


「千歳の感想は読み物としては面白いが、誰にも伝わらないのが弱点だな」


「伝えているつもりなんですが」


「お前の"つもり"と壮介の"理解"の間には、太平洋くらいの距離がある」


「太平洋は広すぎませんか」


「広いから問題なんだ」


 次は壮介。


「いいか? 読むぞ」


 壮介が感想用紙を掲げた。四百字の枠に対して、書かれていたのは一行だった。


「"主人公がずっと座ってるから、途中で立ち上がって走り出せばいいのにと思った"」


 沈黙。


 全員が壮介を見た。


 凛先輩が最初に口を開いた。


「意外と核心突いてない?」


「え?」


「"動けない人間が動き出す物語"として読めば、壮介の感想は正しい。主人公に"走れ"と言えること自体が、読書体験としてまっとうだ」


「俺、褒められてる?」


「微妙なラインだ。でも悪くない」


「やった!」


「ただし四百字の枠に一行はどうかと思うけどな」


「質より量だろ!」


「逆だ。量より質だ」


「じゃあ俺は質で勝った!」


「勝ち負けじゃないんだが」


 次は俺の番だった。


 感想用紙を手に取った。自分で書いた文章を読み返す。正直、感想になっているのかわからない。凛先輩がミステリを語り、詩織さんが文学論を展開し、壮介が一行で核心を突いた後に、俺は何を言えばいいんだ。


「読みます。"なんていうか、この主人公はフォワードなのにベンチに座ってる感じがした。走りたいけど走れない。試合に出たいのに出られない。海を見ているのは、グラウンドを見ているのと同じだと思った。俺がサッカー部を辞めたとき、教室の窓からグラウンドを見ていた。あのときの気持ちに似てるなって"」


 言葉が止まった。


「すみません、感想になってないですよね。サッカーの話になっちゃって」


 部室が静かだった。凛先輩がソファで腕を組んでいる。詩織さんがじっと俺を見ている。壮介が珍しく黙っている。


 霧島先生が赤ペンを机に置いた。


「それは立派な感想だ」


「え?」


「自分の体験と物語を重ねられるのは、読書の才能だぞ。感想ってのは本の説明じゃない。その本を読んで自分の中に何が起きたかを書くものだ。お前の中にはサッカーが起きた。それでいい」


 少し驚いた。霧島先生が真面目に褒めてくる瞬間は、未だに慣れない。この人は普段あんなに寝ているくせに、大事なところでだけ起きている。


「朝倉くんの感想、私はすごく好きです」


 詩織さんが言った。小さな声だった。でもはっきり聞こえた。


「"フォワードなのにベンチに座ってる"っていう比喩が、この小説のことだけじゃなくて、朝倉くん自身のことも言っているから。だから響くんだと思います」


 何か返そうとしたけど、うまく言葉が出てこなかった。代わりに「ありがとうございます」とだけ言った。


 最後は霧島先生。


「読む。"三行目に脱字がある。第五段落の文末表現が統一されていない。第七段落のルビに誤りがある。全体的にリズムが——"」


「先生。感想ですよ。校閲じゃなくて」


「……職業病だな」


「内容の感想をお願いします」


「いい小説だよ。読んだ後に腹が減る小説だ」


「腹!?」


「わかる!」


 壮介が叫んだ。


「俺も読んだ後なんか腹減ったんだよ!」


「先生と壮介の感性が一致するのが一番怖いんですが」


「いい小説は腹が減るんだ。これは真理だ」


「先生、それ真理ですか?」


「俺の中では真理だ」



    *



 凛先輩がホワイトボードの前に立った。マーカーを手に取って、全員の感想のキーワードを書き出していく。


 凛:「監視」「犯人」「ミステリ」。


 詩織:「心象風景」「海鳴り」「純文学」。


 壮介:「走れ」「少年漫画」。


 陽翔:「ベンチ」「グラウンド」「スポーツ」。


 霧島:「脱字」「校閲」「腹が減る」。


 五人のキーワードがホワイトボードに並んだ。同じ小説を読んだとは思えないカオスな地図が完成していた。


「凛先輩、これ線で結んで相関図にしません?」


「やろうとしたが無理だ。ミステリと少年漫画とスポーツと純文学と校閲を一つの図に収める方法が存在しない」


「文芸部って自由ですね」


「自由っていうか無法地帯だよ」


「無法地帯の何が悪い」


 凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。ホワイトボードを一歩引いて眺めている。カオスな感想地図を、満足そうな目で見ている。


「うん。これが文芸部だ」


「これが?」


「同じ本を読んで、全員違うことを考える。最高じゃない?」


 壮介が手を挙げた。


「俺の感想は評価しないの?」


「論外」


「ひどい!!」


「嘘。お前のが一番面白かった」


「え、まじ?」


「"走れ"って感想は、ある意味この小説への最高の褒め言葉だ。動けない人間に"走れ"と言えるのは、お前が走れる人間だからだ」


 壮介がきょとんとした。それから、にかっと笑った。


「俺、走るの得意だからな!」


「知ってる。文芸部で一番足が速いのはお前だ」


「文芸部で足の速さを競ってどうする」


 凛先輩が少しだけ笑った。いつもの一瞬の笑みではなく、少しだけ長い笑み。壮介の一行の感想が、先輩にとっても嬉しかったのだと思う。


 霧島先生がソファで伸びをした。


「合評会、悪くないな。月一でやるか」


「月一? 定例化するんですか?」


「部の活動として正式に組み込む。毎月第一月曜。課題図書は持ち回りで選ぶ。異論は?」


 全員が顔を見合わせた。異論はなかった。


「じゃあ来月の課題図書は誰が選ぶ?」


「俺! 俺が選ぶ!」


 壮介が真っ先に手を挙げた。


「お前が選ぶのか。何を選ぶ気だ」


「少年ジャンプ!」


「却下」


「なんで!?」


「小説を選べ」


「漫画も文芸じゃん!」


「漫画は漫画だ。来月は詩織が選べ」


「はい。では谷崎潤一郎の——」


「壮介が寝る。朝倉が選べ」


「俺ですか? 小説あんまり読まないんですけど」


「だからいい。読まない人間が選ぶ本は、意外と面白いことがある」


「プレッシャーなんですけど」


「来月までに一冊読んでおけ。自分が面白いと思ったものでいい」


「了解です」



    *



 帰り支度をしながら、ホワイトボードの感想地図を眺めた。


 ミステリ。純文学。少年漫画。スポーツ。校閲。五つの読み方が、同じ一冊の短編から生まれている。正解はない。全員が違っていて、全員が正しい。


 読み方に正解がないなら、書き方にも正解がないのかもしれない。カレーうどんでもいい。焼肉でもいい。「走れ」の一行でもいい。この部には「間違い」がない。


 帰り道、学校の裏手にある図書館に寄った。


 自分でも驚いている。図書館に足を踏み入れるなんて、中学の読書感想文以来だ。あのときは嫌々だった。今は、自分の意思で来ている。


 さっきの短編が載っている作品集を探した。カウンターの司書さんに聞いたら、文庫コーナーの端っこにあると教えてくれた。棚の下のほうに、少し日焼けした文庫本が一冊あった。手に取った。


 さっき読んだ「海辺の椅子」以外にも、同じ作者の短編が七つ入っている。表紙のデザインは地味だ。サッカー漫画の派手な表紙とは全然違う。背表紙の文字は小さくて、見落としそうなくらい控えめだ。


 ぱらぱらとめくった。「海辺の椅子」のページを開く。さっき部室で読んだのと同じ文字が並んでいる。でもコピー用紙で読んだときと、文庫本で読むのでは、不思議と手触りが違った。紙が薄くて、ページをめくる指に微かに抵抗がある。活字の大きさも違う。


 もう一つの短編の冒頭を読んでみた。三行読んだだけで、さっきと同じ感覚が来た。文字が映像になる。場面が頭の中に浮かぶ。言葉の向こう側に世界がある。


 この作者の文章が好きだと思った。理由はうまく説明できない。凛先輩みたいに構造分析はできないし、詩織さんみたいに心象風景がどうとか語れない。でも好きだった。読んでいると、胸のどこかが動く。サッカーボールが足に吸い付いたときの、あの「合ってる」感覚に少し似ていた。


 図書カードに名前を書いて、借りた。


 図書館を出た。夕暮れの空はまだ明るい。鞄に文庫本を入れた。教科書の横に、薄い本が一冊増えた。サッカーシューズの代わりにはならない。グラウンドの代わりにもならない。


 でも鞄がちょっとだけ重くなった。


 悪くない重さだと思った。


 歩きながら、今日の合評会のことを思い出していた。凛先輩のミステリ分析。詩織さんの文学評論。壮介の「走れ」。霧島先生の「腹が減る」。俺の「ベンチに座ってるフォワード」。五人全員が同じ小説を読んで、五人全員が違うことを言った。


 正解はなかった。間違いもなかった。


 読み方に正解がないなら、書き方にも正解がないのかもしれない。カレーうどんでもいい。焼肉でもいい。「走れ」の一行でもいい。この部には「間違い」がない。


 来月の合評会では俺が課題図書を選ぶことになっている。何を選ぼう。まだ小説をほとんど読んだことがない俺が、みんなに読ませる本を選ぶ。プレッシャーだ。でも凛先輩が「読まない人間が選ぶ本は意外と面白い」と言っていた。


 じゃあまず、今日借りたこの文庫本を全部読もう。この作者の他の作品も読んでみよう。そこから選べばいい。


 鞄の中の文庫本に手が触れた。薄い背表紙の感触。


 文芸部に入る前の俺の鞄には、教科書しか入っていなかった。それが今は、カレーうどんのエッセイのメモと、課題図書のコピーと、図書館で借りた文庫本が入っている。


 鞄が少しずつ重くなっていく。


 その重さが、嫌じゃなかった。

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