第4話 入部届が書けない男
# 入部届が書けない男
壮介が部室に居座るようになって、三日が経った。
入部届は出していない。「見学者」を名乗っている。見学者のくせにコンビニ袋を持参してお菓子を広げ、ソファでゴロゴロし、大声で「今日は何する?」と聞いてくる。
「活動」
凛先輩が文庫本から目を離さずに答えた。
「活動って?」
「書くこと」
「あ、パス」
このやりとりが三日連続で繰り返されていた。まったく同じ台詞を、まったく同じトーンで、まったく同じ結末で。凛先輩のほうは面倒がっているのかと思いきや、ちゃんと毎回律儀に答えている。たぶん壮介が聞くのをやめたら、逆に心配するタイプだ。
一日目。壮介は部室に入って三十秒で畳に寝転がった。ゴロゴロと転がり、本棚にぶつかり、文庫本が三冊落ちてきた。凛先輩に「畳は布団じゃない」と叱られた。
二日目。壮介はコンビニの肉まんを六個持ってきた。「差し入れ」と称していたが、本人が五個食べた。残りの一個を凛先輩に差し出したら、凛先輩は「肉まんは受け取らない主義だ」と言いながら食べていた。主義が弱い。
三日目。壮介はホワイトボードに自画像を描いた。棒人間に「壮介」と吹き出しがついている。凛先輩が黙ってイレイサーで消した。壮介が描き直した。凛先輩がまた消した。この攻防が五回繰り返された。六回目で壮介がマーカーのインクを使い切って決着がついた。
「俺は部員じゃないからな。見学者だからな」
「見学者がお菓子持ち込まないだろ」
「差し入れだよ」
「差し入れにしては本人が一番食べてるけどな」
凛先輩が壮介の広げたコンビニ袋を覗き込んだ。
「見学者の差し入れは受け取らない主義だけど、このチョコは例外」
「主義が三秒で崩れたんですけど」
「チョコに罪はない」
「先輩のロジックたまに壊れますよね」
詩織さんが壮介の横で万年筆を走らせながらメモを取っていた。壮介がそれに気づく。
「詩織ちゃん、何書いてんの?」
「大和さんの行動記録です」
「え、俺の?」
「はい。来室時刻、持参物、発言回数、声量の推定デシベル値を記録しています」
「デシベル値!?」
「大和さんの通常会話は推定七十五デシベルです。掃除機と同じくらいですね」
「掃除機!? 俺そんなにうるさい!?」
「興奮時は九十デシベルに達します。電車のガード下と同じです」
「電車の!? もっとやばいじゃん!」
「全人類が取材対象です」
「スケールがでかいよ」
俺がツッコむと、詩織さんがこちらを見てにっこり笑った。
「朝倉くんのデータはもっと詳細ですよ」
「嬉しくない情報をありがとうございます」
入部してから十日ほど経って、部室の空気はすっかり変わっていた。以前は万年筆のカリカリ音と、凛先輩がページをめくる音と、たまに霧島先生の寝息しか聞こえない静かな空間だった。今は壮介の声が常に充満している。音量が三倍になった。下手すると五倍だ。
静かだった部室が、騒がしくなった。
でも不思議と、悪い変化じゃなかった。
*
四日目の放課後。凛先輩が壮介を呼び止めた。
「大和、そろそろはっきりさせよう」
「何を?」
「入るのか入らないのか」
壮介がお菓子のポッキーをくわえたまま固まった。
「うーん、まだ迷ってる」
「三日間見学して、まだ迷うのか」
「だって俺、何もできないし。書けないし」
「じゃあ条件を出す」
凛先輩がソファから立ち上がった。ホワイトボードの前に立つ。マーカーを手に取って、大きく書いた。
「入部条件:何か一つ書け」。
「何でもいい。百文字でもいい。文章を一つ書け。それが入部届の代わりだ」
「百文字?」
「百文字。作文用紙の四分の一だ」
「余裕じゃん!」
「じゃあ書け。今すぐ」
凛先輩が古いノートPCを壮介の前にセットした。テキストエディタの白い画面。カーソルが点滅する。
壮介がキーボードに指を置いた。
五分経過。画面は白いまま。
「書けた?」
「待って、今考えてる」
十分経過。壮介の指がキーボードの上で泳いでいるが、文字は出ない。指が動いているのにキーを押していない。エアタイピングだ。
十五分経過。壮介が「あー」と声を出した。
「書けた?」
「いや、"あー"って言っただけ」
「声は文字数にカウントされないぞ」
三十分経過。
画面に表示された文字——「あ」。
「一文字!?」
凛先輩が素で叫んだ。クールな先輩がツッコミ側に回るのは珍しい光景だ。
「"あ"って深い文字だと思うんだよ。あいうえおの最初。すべての始まり」
「哲学で逃げるな」
「"あ"は母音の頂点だぞ!」
「頂点でも一文字は一文字だ」
壮介のタイピングが壊滅的だということがここで判明した。ホームポジションを知らない。人差し指だけで打っている。一文字打つのに三秒かかる。
「スマホならどうだ。スマホで書け」
凛先輩がスマホへの切り替えを許可した。壮介の目が輝く。
「スマホなら書ける!」
フリック入力で猛然と打ち始めた。速い。PCとは比べものにならない速度で文字が流れていく。三分で画面がテキストで埋まった。
「書けた! 読んでくれ!」
壮介がスマホを差し出す。凛先輩が受け取って、画面を覗き込んだ。
一拍の沈黙。
凛先輩の表情が微妙に歪んだ。
「……読むぞ。"今日文芸部きた! やばい! 先輩かわいい! うどん食いてえ! 陽翔のカレーうどんの話まじウケる笑笑。霧島先生寝すぎワロタ。明日も行く! 以上!"。……絵文字とスタンプ記号だらけだが、これは何だ」
「俺の日記!」
「これは小説ではない。LINEのスクショだ」
「最先端の文学だよ!」
「違う」
「SNS文学!」
「そんなジャンルは存在しない」
詩織さんが手を挙げた。
「あの、厳密に言えばSNS文学という概念自体は研究対象として存在するんですが」
「千歳、今それを言うと壮介が調子に乗る」
「すみません」
「調子乗ってた! もう乗ってた!」
壮介がスマホを振り回している。凛先輩がため息をついた。かなり深いため息だった。
*
壮介に文章を書かせるのが絶望的であることが判明したので、詩織さんが立ち上がった。
「私が教えます」
ホワイトボードの前に移動する。マーカーを手に取って、図を描き始めた。四つの箱が縦に並んで、「起」「承」「転」「結」と書かれている。
「物語には構造があります。まず"起"で状況を設定します。次に"承"で状況を発展させます」
「待って。状況って何?」
「えっと、物語の最初に置かれる前提のことです。たとえば"ある少年が学校にいる"というのが状況です」
「学校にいる。うん、わかる」
「次に"承"でその状況を深掘りします。少年が何を感じているのか、何を見ているのか」
「感じてること? 腹減った、とか?」
「ええと、もう少し物語的な感情を」
「喉渇いた?」
「それも身体感覚ですね。あの、大和さん、心の中に物語はありませんか? 誰でも、日常の中にドラマがあるはずです。それをそのまま書けば」
「ないんだが、心の中に」
詩織さんが固まった。天才が初めて壁にぶつかった顔だった。「書けない人」の気持ちが本当にわからないのだ。書くことが呼吸のように自然な人間には、書けないことが理解できない。
「え、本当にないんですか?」
「ない。ゼロ」
「ゼロですか」
「ゼロ。まっさら。真っ白。雪原」
「雪原は比喩としてはいいですね」
「え!? それ比喩なの!? ただの感想なんだけど!」
「大和さんは無自覚に比喩を使える人なのかもしれません」
「褒められてるのか観察されてるのかわからん!」
「両方です」
詩織さんの教え方は、明らかに壮介に合っていなかった。書くことが呼吸のように自然な人間には、書けないことが理解できない。
「じゃあ"転"の説明をしますね。物語に予想外の展開が起きるパートです」
「予想外? たとえば?」
「たとえば、主人公の前に突然謎の少女が現れるとか」
「それさ、詩織ちゃんの小説じゃん。陽翔がモデルのやつ」
「フィクションです!」
「いいじゃん、俺も出してよ。かっこいい役で」
「大和さんをモデルにするなら、声の大きな焼肉好きの冒険者ですね」
「冒険者! いいね! 俺主人公!」
「脇役です」
「脇役!?」
凛先輩が見かねて割って入った。
「千歳、交代だ。私がやる」
凛先輩がホワイトボードの起承転結を消した。代わりに一行だけ書いた。
「昨日の夕飯を書け」。
「大和、世界一簡単な方法を教えてやる。昨日の夕飯、何を食った」
「焼肉」
「それを膨らませろ。誰と食べた」
「家族」
「どこで食べた」
「家。ホットプレートで」
「何の肉だった」
「カルビが多めだった。あとハラミ。タン塩も少し」
「食べてどう思った」
「幸せだった」
「もう少し情緒はないのか」
「いや、ほんとに幸せだったから。焼肉って幸せじゃん。ホットプレートの上で肉がジュウジュウ言ってて、煙がもくもく上がってて、妹が"煙たい"って文句言ってて、母さんが"窓開けなさい"って叫んでて。でもその全部がなんか、よかったんだよ」
凛先輩が一瞬黙った。それから小さくうなずいた。
「それを書け。今の言葉をそのまま文字にしろ」
壮介がスマホを構えた。フリック入力が始まる。
五分。
「書けた!」
速い。さっきの三十分の「あ」は何だったんだ。
凛先輩がスマホを受け取って読み上げた。
「"カルビが油でビカビカ光ってた。タレにつけた。白いごはんに乗せた。口に入れた。ウマい。以上"」
沈黙。
「何文字?」
凛先輩がカウントした。
「四十二文字」
「百文字に届いてないんですが」
「半分以下だ」
壮介が胸を張った。
「でも書けた!」
「四十二文字で胸を張るな」
「四十二文字に焼肉の全てが詰まってる!」
詩織さんが真顔で言った。
「確かに、ミニマリズム文学として読めなくもないですね。"ビカビカ"という擬態語に、焼肉の本質が凝縮されています」
「読めないよ。いや読めるのか? いやいや読めないだろ」
「ミニマリズム!」
壮介が嬉しそうに叫んだ。意味をわかっているかどうかは怪しい。
霧島先生がデスクから声を飛ばした。赤ペンを走らせる手は止めていない。
「"ビカビカ"は良い擬態語だ」
「先生に褒められた!!」
「ただし、"以上"で終わるのは投げやりだ。"以上"の先に、もう一文あるといい」
「もう一文?」
「"また食いたい"でも"幸せだった"でもいい。お前の気持ちが入った一文だ」
壮介がスマホに向かった。十秒で追加した。
「"また明日も焼肉がいい"」
「……お前らしいな」
霧島先生が小さく笑った。缶コーヒーを一口飲んで、赤ペンに戻った。
*
帰り支度の時間になった。
全員が鞄を手に取ったところで、霧島先生が壮介を呼び止めた。
「大和」
「はい?」
「さっきの焼肉の文章」
「あれ? ダメでしたか?」
霧島先生が缶コーヒーを置いた。ソファから身体を起こして、壮介のほうを見た。珍しく真剣な目だ。いつもの脱力した空気が消えている。
「あれでいい」
「え?」
「お前の四十二文字を読んで、腹が減った。それは"伝わった"ということだ」
部室が静かになった。凛先輩が文庫本を閉じた。詩織さんの万年筆が止まった。俺もPCの画面から目を離した。霧島先生が真剣に喋るのを聞くのは、入部してから初めてだった。
「文芸部は小説家を量産する場所じゃない。書くことで、ものの見方が少しだけ変わる場所だ。カルビが"ビカビカ光ってた"と書いたとき、お前は焼肉を見る目が変わっている。今まで何気なく食っていた焼肉に、言葉を与えた。それだけで十分だ」
壮介が黙っていた。壮介が黙るのは珍しい。この部室に来るようになって三日間、一度も黙ったことがなかった男が、黙っている。
「入りたいなら入れ。書けるかどうかは後から考えろ」
「でも凛先輩が入部条件——」
「あれは凛が勝手に言っただけだ。俺が顧問だ。俺の権限で許可する」
凛先輩が立ち上がった。
「先生!? ルールは!?」
「顧問権限でルール変更」
「横暴です!」
「教育的判断と言え」
「教育的判断って言えばなんでも通ると思ってません!?」
「通る。顧問だからな」
「部長の権限は!?」
「顧問の下位互換」
「ひどい! 私が三日間考えた入部テストを一言で無効化しないでください!」
「三日も考えてたのか」
「考えました! "百文字"という絶妙なハードルを設定するのに二時間かかりました!」
「二時間かけて百文字を考えたのか。お前のほうがよっぽど文芸部員だな」
「当然です! 部長ですから!」
詩織さんがノートにメモしていた。ちらっと見えた。「部内権力構造。顧問>部長。部長は三日間の準備を一言で覆される。要追加取材」。取材してる場合か。
霧島先生が缶コーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱に放り込む。入った。
「凛、お前の入部テストは間違ってない。"何か書け"は正しい条件だ。ただ、タイミングの問題だ。大和はもう書いた。四十二文字書いた。テストはクリアしている」
凛先輩が口を開きかけて、閉じた。それからため息をついた。長くて深いため息だった。
「先生がそう言うなら、認めます。ただし、部長として一つ条件を追加します」
「なんだ」
「明日、もう一度何か書いてくること。四十二文字でもいい。焼肉でもいい。ただし、今日より一文字でも多く」
壮介が凛先輩と霧島先生の言い合いを見ながら、ぽつりと言った。
「じゃあ、ちゃんと考えてくる」
「考える?」
「入部届。ちゃんと書きたいから。明日まで待ってくれ」
壮介の顔は、さっきまでのへらへらした表情とは違っていた。真面目な顔。こいつがこういう顔をするのは、サッカーの試合前くらいしか見たことがない。
凛先輩が腕を組んだ。口元が少しだけ緩んでいた。
「待つ。好きなだけ考えろ」
「ただし明日までな!」
「明日までだ」
*
帰り道。俺と壮介の二人だった。
いつもなら壮介は歩きながら喋り続ける。昨日のテレビの話、今日の弁当の話、明日の焼肉の話。話題が尽きることがない。
でも今日は静かだった。
しばらく並んで歩いた。夕焼けが街路樹の影を伸ばしている。電線に鳥が一列に並んでいた。信号が赤に変わって、交差点で立ち止まる。
「なあ陽翔」
「ん」
「俺ほんとに書けるようになると思う?」
壮介が前を向いたまま言った。横顔が夕日に照らされている。
「知らねえよ。俺だって書けないから」
「じゃあなんでお前は入ったの」
「面白い小説を読んだから」
「あー、千歳ちゃんの?」
「そう」
「いい動機だな。シンプルで」
信号が青に変わった。歩き出す。壮介がポケットからスマホを取り出した。
「何してんの」
「宿題。明日までに何か書いてく」
「え、まじで?」
「先生が"あれでいい"って言っただろ。あの言葉、なんかすげえ刺さったんだよ」
壮介がスマホの画面を見つめている。フリック入力のキーボードが表示されている。まだ何も打っていない。白い画面。
「四十二文字の焼肉で腹が減ったって言ってもらえたの、初めてだったんだ。俺の書いたもので、誰かが何か感じてくれたの」
「壮介」
「だから、もうちょっとちゃんと書いてみたい。百文字じゃなくて。もっと」
歩きながらスマホに向かう壮介を見て、思った。
こいつ、意外と真面目に考えてるんだな。
バカで、声がでかくて、焼肉とカレーうどんしか語彙がないような男だけど。「あれでいい」の一言で、何かに火がついた顔をしている。サッカーの試合前に見せるあの目と、同じ目をしている。
「明日、何書いてくるか楽しみにしてるよ」
「プレッシャーかけるなよ!」
「かけてない。本心だ」
「本心って言われると余計にプレッシャーだっつの!」
壮介が笑った。いつもの全力の笑顔。でもその奥に、さっきまでの真剣さが残っている。
分かれ道に来た。壮介は右、俺は真っ直ぐ。
「じゃあな陽翔。明日、書いてくから。何書くかはまだ決めてないけど」
「決めてないのかよ」
「今から考える!」
走っていった。壮介の背中が夕焼けの中に小さくなっていく。鞄が揺れている。あの鞄の中にはサッカーシューズは入っていない。俺と同じだ。教科書とスマホと、たぶんお菓子の残り。
明日、あいつが何を書いてくるのか。
正直、想像がつかない。四十二文字の焼肉エッセイの男が、一晩で何を書いてくるのか。「また明日も焼肉がいい」の先に、何があるのか。
でも楽しみだった。不思議と、楽しみだった。
霧島先生が言っていた。「書くことで、ものの見方が少しだけ変わる場所だ」と。
あの先生は普段寝てるくせに、たまに核心を突いてくる。カレーうどんの汁みたいに、予測できないタイミングで。
空がオレンジから紺色に変わりかけている。
壮介がサッカー部を辞めかけていることは、昼休みの屋上で聞いた。理由はまだ詳しく聞いていない。聞いたほうがいいのかもしれない。でも今はまだ、聞かなくていい気がする。壮介が自分で話したくなったときに、聞けばいい。
俺だって、膝を壊した日のことを壮介に詳しく話したことはない。壮介は聞いてこなかった。聞かなくても隣にいてくれた。だから俺も、聞かずに隣にいる。それでいい。
明日の放課後が、少しだけ待ち遠しい。
あいつが何を書いてくるのか。四十二文字の焼肉エッセイの男が、一晩で何を持ってくるのか。
「カルビが油でビカビカ光ってた」。
霧島先生はあの四十二文字を読んで「腹が減った」と言った。伝わった、と言った。
四十二文字で人の腹を減らせるなら、それはもう立派な才能じゃないのか。
壮介は気づいていない。でも俺は気づいた。あいつの言葉には、飾りがない分だけ、妙に刺さるものがある。
明日が楽しみだ。




