第11話 凛先輩のミステリ講座(殺人は起きない)
# 凛先輩のミステリ講座(殺人は起きない)
部誌の創刊号が完成してから数日が経った五月の火曜日。
放課後、部室の引き戸を開けたら、いつもと様子が違った。
ちゃぶ台が壁際に寄せられている。代わりにホワイトボードが部屋の中央に移動していた。その前に凛先輩がマーカーを持って仁王立ちしている。ホワイトボードには赤い字で大きく書かれている。
「ミステリ創作講座 第1回」。
全員の座る位置にプリントが配られていた。凛先輩の手作りだ。図解入り。フォントが整っていて、矢印やイラストまで描かれている。いつ作ったんだこれ。
「先輩、テンション高くないですか」
壮介が畳に座りながら言った。
「高い。これはミステリの話だからな」
凛先輩の目がいつもと違った。キラキラしている。好きなものを語る前の、抑えきれない興奮。ソファでクールに文庫本を読んでいるときとは全然違う。声のトーンが半音くらい高い。話すスピードも速い。
好きなことの前だとこんな顔するんだな、この人。
普段はソファで寝癖をつけながら文庫本を読んでいるクールな先輩。ツッコミは鋭いけど、基本的には省エネで、必要最低限のことしか喋らない。それが今日は違う。マーカーを握る手に力が入っている。ホワイトボードに書いた字もいつもより大きい。「ミステリ」の「ミ」の字が特にでかい。気合が入りすぎて筆圧がおかしなことになっている。
サッカー部の先輩がフォーメーション論を語るときの目と同じだ。ジャンルは全然違うけど、熱量は同じ。好きなものの前では誰だって饒舌になる。
「千歳はプリントにメモ取る準備できたか」
「できています」
詩織さんが万年筆を構えていた。ノートも開いている。この人はいつでも準備ができている。
「先生は」
「聞いてる。缶コーヒー飲みながらだが」
霧島先生がソファで缶コーヒーを開けた。プシュッ。いつもの音。いつもの姿勢。ただし今日はプリントをちゃんと手に持っている。興味がないわけではないらしい。
「では始める」
凛先輩がマーカーのキャップを外した。カチッという音が、部室に響いた。
*
凛先輩がホワイトボードに三つの言葉を書いた。
「①フーダニット ②ハウダニット ③ホワイダニット」。
「ミステリの三要素だ。①フーダニットは"犯人は誰か"。②ハウダニットは"どうやったか"。③ホワイダニットは"なぜやったか"。ミステリは要するにこの三つの"?"を読者に投げかけて、回収する文学だ」
「意外とシンプルなんですね」
「シンプルだからこそ奥が深い。千年やっても答えが出ない」
「千年やるんですか」
「比喩だ」
「千年のミステリ! 壮大!」
「壮介、比喩の意味はわかるな」
「わかる! 大げさに言うやつ!」
「合ってるけど言い方が雑だ」
凛先輩がホワイトボードに矢印を追加した。三つの要素が互いに矢印でつながっている。
「この三つは独立しているようで、実はつながっている。"誰がやったか"がわかると"なぜやったか"が見えてくる。"どうやったか"がわかると"誰がやったか"が絞れる。一つの謎を解くと、別の謎のピースが埋まる。パズルみたいなものだ」
「サッカーで言うと、パスの出し所がわかるとフォーメーションが見えてくる、みたいな感じですか」
「朝倉、いい例えだな。まさにそれだ。ミステリはフォーメーションだ」
「サッカーの比喩でミステリを理解するのは新しいですね」
「何でもいい。自分に近いものに置き換えて理解するのが一番速い」
詩織さんがプリントにメモを取りながら手を挙げた。
「ミステリの構造は恋愛小説にも応用できますね」
「どういうことだ」
「"誰が誰を好きか"がフーダニット。"どうやって気づくか"がハウダニット。"なぜ好きになったか"がホワイダニット。恋愛小説も三つの謎で構成されています」
凛先輩が一瞬黙った。
「千歳、お前はなんでも恋愛に変換するな」
「変換ではなく、構造の類似性を指摘しただけです」
「恋愛に変換する癖があるって自覚はないのか」
「ありません。事実を述べているだけです」
霧島先生が後ろから声を出した。
「いい視点だと思うぞ。物語の構造は万能だ。ミステリでも恋愛でも、読者に"?"を投げかけて回収する。骨格は同じだ」
「先生がまともなことを言っている」
「たまには言う」
壮介がプリントを見つめている。首を傾げている。
「壮介、プリントが逆だぞ」
「え」
ひっくり返した。
「あ、日本語だったのか」
「何語だと思ってたんだ」
「暗号かと」
「ミステリ脳になるのは良いことだが、方向が違う」
「方向はこれから正す!」
「正してくれ」
凛先輩がプリントの裏面を指さした。
「裏にはミステリの名作リストを載せてある。初心者向けに十冊選んだ。全員、最低一冊は読め。壮介は絵が多いやつを選んだから安心しろ」
「俺だけ絵が多いの!?」
「配慮だ。感謝しろ」
「配慮がちょっと失礼!」
*
「では実践に移る」
凛先輩がホワイトボードを消して、新しい文字を書いた。
「実践課題:部室プリン消失事件」。
「推理をしてもらう。題して"部室プリン消失事件"」
「プリン?」
「本日の放課後、この冷蔵庫に入っていた私のプリンが消えた」
凛先輩が部室の隅にある小型冷蔵庫を指さした。部室にある唯一の電化製品だ。中に凛先輩がプリンを入れていたのは知っていた。昨日「明日食べる」と言っていたのを覚えている。
「これは架空の事件ではない。マジの事件だ。私のプリンが消えた」
「マジの事件!?」
「マジだ。私のプリンが消えた。許せない」
「先輩、プリン好きなんですか」
「好きだ。悪いか」
「ギャップ萌え!」
「殴るぞ」
壮介が慌てて口を閉じた。凛先輩の「殴るぞ」にはシャレにならない気配がある。プリンへの愛が深い。
「容疑者は、本日この部室に出入りした全員だ。すなわち、私、千歳、壮介、朝倉、そして霧島先生。五名。全員にアリバイを聞く。正直に答えろ」
「全員容疑者なんですか」
「ミステリの基本は全員を疑うことだ。身内だからといって例外はない」
「先輩自身も容疑者なんですか」
「当然だ。探偵と容疑者を兼ねるのもミステリの醍醐味だ」
凛先輩がホワイトボードに五人の名前を書いた。横に「容疑者」と記した。全員の名前の横に空欄がある。アリバイが成立すれば○、不成立なら×を書くつもりらしい。
「まず推理タイムだ。各自の仮説を聞かせろ。壮介から」
「俺から!?」
「被害者が犯人指名するのもミステリの作法だ」
「作法なんだ。じゃあ言う。俺の推理」
壮介が立ち上がった。ちゃぶ台の前でポーズを決めた。人差し指を天に向けている。探偵のつもりらしい。
「犯人は、プリンそのものだ」
沈黙。
「プリンが自分の意志で冷蔵庫から脱走した」
さらに沈黙。
「プリンに意志はない」
「ある。カレーうどんにもあっただろ」
「それはお前の小説の中の話!!」
「小説の中が現実じゃないとは限らない!」
「限る! 完全に限る!」
「プリンは甘い。甘さには人を誘惑する力がある。つまりプリンには意志がある」
「論理が壊滅してるんだけど」
「壊滅してない! 直感だ! 直感もミステリに必要だって先輩言ってた!」
「言ってない。直感は推理の補助であって、根拠なしの直感はただの妄想だ」
「妄想をミステリに!」
「するな」
凛先輩がホワイトボードの壮介の名前の横に「推理:不採用」と書いた。壮介が「ひどい!」と叫んだ。
「次。千歳」
詩織さんが立ち上がった。ノートを開いている。メモがびっしりだ。いつの間に。
「冷蔵庫の温度変化から推定しました」
「温度変化?」
「はい。冷蔵庫のドアが開閉されると、庫内温度が一時的に上がります。今日の昼休みから五時限目の間に、冷蔵庫が二回開かれた形跡があります」
「千歳、お前なんでそんなこと知ってるんだ」
「冷蔵庫も取材対象です」
「取材の範囲が広すぎる!」
「冷蔵庫の中は部員の嗜好が反映されます。凛先輩がプリンを入れていること、霧島先生が缶コーヒーの予備を入れていること、壮介さんがおにぎりを入れていたこと——すべて記録しています」
「おにぎりまで!? 俺のおにぎり記録されてたの!?」
「記録しています。コンビニのツナマヨ、週三回の頻度です」
「ツナマヨの頻度まで!?」
「すべてのデータには意味があります」
詩織さんの推理は論理的だったが、結論には至らなかった。温度変化から犯行時刻は絞れるが、犯人特定には追加情報が必要だと。
「次、朝倉」
俺の番だ。
「消去法でいきます。まず全員のアリバイを確認しましょう。凛先輩は?」
「昼休みから五時限目の間、生徒会に呼ばれていた。証人は生徒会長」
「アリバイ成立。詩織さんは?」
「図書館にいました。司書の先生と本の相談をしていたので証人がいます」
「アリバイ成立。壮介は俺と一緒に教室で弁当食べてた。アリバイ成立。となると、昼休みに部室にアクセスできたのは」
全員の視線がソファに向いた。
霧島先生が缶コーヒーを飲んでいる。飲みながら、こちらを見ている。目が泳いでいる。明らかに目が泳いでいる。
「先生」
「なんだ」
「昼休み、どこにいましたか」
「職員室だ」
「証人は」
「いない。一人だった」
「一人で職員室に?」
「昼休みの職員室は空くんだ。他の先生は食堂に行く」
「では先生だけがアリバイのない人間ということになりますね」
「偶然だ」
「ミステリに偶然はありません」
凛先輩がホワイトボードにバツ印を書いた。霧島の名前の横に。
「先生。私のプリン」
「……」
「先生」
「…………美味かった」
「「「「犯人確定!!」」」」
四人の声が重なった。霧島先生がソファで小さくなっている。缶コーヒーを盾にしている。大人が高校生四人に追い詰められている図は、見方によってはコメディだし、見方によっては悲惨だ。
「弁償してください」
「給料日まで待て」
「顧問の権限で弁償を命じます」
「顧問の権限で却下する」
「それは権力の濫用です!」
「教育的プリンだった。味を確認する必要があった」
「教育的プリンって何ですか!」
「生徒が食べているものの品質を管理するのは顧問の義務だ」
「プリンは先輩の私物であって生徒の共有物ではありません」
「共有化を推進した。教育改革だ」
「改革の名のもとにプリンを食べないでください!」
壮介が手を叩いた。
「でも先輩、推理合ってたじゃん! アリバイで犯人特定した! すごい!」
「もちろんだ。犯人が先生だと最初から分かっていた」
「え、最初から?」
「今日の講座のために泳がせたんだ。実践課題にちょうどいいと思ってな」
霧島先生の顔が引きつった。
「利用されてた!?」
「プリンを食べた代償だ。教育的利用を受け入れろ」
「プリン一個でここまでやるか」
「プリンへの愛を甘く見るな。ちなみに先生、明日プリンを持ってきてください。同じ銘柄で」
「覚えてるのか、銘柄まで」
「当然だ。あれはスーパーの特売で買った限定品だ。もう売ってないかもしれない。見つからなかった場合は二個で弁償」
「条件が悪化してる!」
「交渉とはそういうものだ。ミステリの犯人は司法取引でも不利になる」
「司法取引がプリンの話か」
俺がツッコんだ。この部のやりとりは、毎回どこに着地するかわからない。
*
事件が解決した後、凛先輩の声のトーンが少し変わった。さっきまでの興奮が落ち着いて、静かな声になった。
「なぜ私がミステリを好きか、話していいか」
全員が頷いた。壮介も、珍しく黙って聞いている。
「ミステリは"答えがある物語"だ」
凛先輩がホワイトボードに向き直った。マーカーのキャップを外して、何も書かなかった。ただマーカーを握って、ホワイトボードの白い面を見つめていた。
「現実には答えがないことばかりだ。なんで雨が降るのか、なんで人は嘘をつくのか、なんで好きなものがあるのか。全部に答えがあるわけじゃない。でもミステリの中では必ず犯人が見つかる。真実に辿り着ける。どんなに複雑な事件でも、最後には"こういうことだったのか"って分かる。その安心感が好きなんだ」
部室が静かだった。万年筆の音もない。缶コーヒーの音もない。凛先輩の声だけが畳の上に落ちていく。
「答えがある世界が好き。だからミステリを書く。俺が作る物語の中では、必ず答えを用意する。読者を迷わせて、最後にちゃんと辿り着かせる。それが俺のミステリだ」
壮介がぽつりと言った。
「先輩、いい話」
「気持ち悪い顔で聞くな」
「気持ち悪くない! 感動してるんだ!」
「感動の顔がそれか。もう少し表情の引き出しを増やせ」
「引き出しは一つしかない! 全力の顔!」
「お前らしいな。嫌いじゃない」
凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。照れ隠しにプリントを配り始める。
「宿題だ。全員、五百字以内のミステリ短編を来週までに書いてこい」
「えー!」
壮介が悲鳴を上げた。
「五百字! 俺の最高記録は焼肉の四十二文字なんだけど!」
「十倍以上書けということだ。成長しろ」
「十倍は無理! 三倍がいいところ!」
「三倍でも百二十六文字だ。全然足りない」
「じゃあ五倍!」
「五倍でも二百十文字。まだ足りない」
「算数で負けた!」
「算数の問題じゃない。文字数の問題だ」
「プリン事件を参考にしていい。犯人は先生だ」
「俺を犯人にするな」
「事実だからいいでしょう」
「事実でも嫌だ」
「じゃあプリンを返してください」
「もう胃の中だ」
「最悪です」
「先生、来週までにプリン弁償と五百字のコラムを書いてください」
「コラム!? 俺もか!?」
「顧問コラムです。前回の部誌でも書くはずだったのに書かなかったでしょう」
「書かないと言ったはずだ」
「缶コーヒー代を人質にします」
「……善処する」
「善処じゃなくて確約してください」
「確約は社会人として」
「前も聞きました。先生、ここは学校です」
詩織さんがメモを取り終えて、万年筆を置いた。
「ミステリ短編、楽しみですね。私、ミステリは書いたことがないので挑戦してみたいです」
「千歳のミステリは見てみたいな。お前の純文学的な視点でミステリを書いたらどうなるか」
「恋愛ミステリにしていいですか」
「好きにしろ。ジャンルの融合は文学の歴史そのものだ」
「恋愛ミステリか。"誰が誰を好きか"が謎で、"なぜ好きになったか"が真相。面白いかもしれない」
詩織さんの目が一瞬だけ俺のほうを向いた。一瞬だけ。すぐにノートに戻った。
見なかったことにした。
*
帰り道。
壮介と並んで歩いている。夕焼けの住宅街。今日は詩織さんが図書館に寄ると言って先に別れ、凛先輩は反対方向に消えた。
「なあ陽翔、帰り道にもミステリあるんじゃない?」
「ないよ」
「あの電柱の影に犯人が隠れてるかもしれないぞ」
「いない」
「あのコンビニの店員が実は裏で組織を動かしてて」
「普通の店員だ」
「ミステリ脳になってきた!」
「方向が間違ってるって先輩も言ってたろ」
「方向はいいんだよ! 大事なのは"?"を持つことだって先輩言ってたじゃん」
「それはそうだけど、日常にミステリを見出すのと妄想するのは違うからな」
「同じだよ! 想像力!」
壮介の論理は穴だらけだが、「"?"を持つことが大事」という凛先輩の講座のエッセンスだけは正確に受け取っている。この男はいつもそうだ。九割がデタラメで、一割だけ核心を突いている。
分かれ道で壮介と別れた後、一人で歩きながら考えた。
凛先輩が好きなものを語る姿は、サッカー部の先輩がフォーメーションを語るときと似ていた。目が輝いていて、声が速くなって、身振りが大きくなる。好きなものに対する熱量は、ジャンルを超えて同じなんだな。ミステリでもサッカーでもカレーうどんでも。
ミステリは「答えがある物語」だと凛先輩は言った。答えがある安心感が好きだと。現実には答えがないことばかりだけど、ミステリの中では必ず真実に辿り着ける。その言葉がずっと頭の中で回っている。
俺はまだ、自分の「答え」を見つけていない。サッカーを辞めて文芸部に来て、カレーうどんのエッセイを書いて、合評会をやって、部誌を作った。全部面白かった。でも「俺はこれが好きだ」と、凛先輩みたいにはっきり言える何かは、まだ見つかっていない。
凛先輩にはミステリがある。詩織さんには物語への愛がある。壮介にはカレーうどんと焼肉がある。霧島先生には缶コーヒーと、棚の奥に眠る原稿がある。
俺には何がある?
カレーうどンのエッセイか。部室の一日か。サッカーの比喩が混ざるツッコミ文体か。まだ名前がつかない。でもぼんやりと、輪郭だけは見えてきている気がする。書くことが嫌じゃない。読むことも嫌じゃない。部室にいることが好きだ。あのちゃぶ台の前に座って、五つの音を聞きながら過ごす時間が好きだ。
それは「答え」ではないかもしれない。でも「手がかり」くらいにはなっている気がする。ミステリの三要素で言えば、俺はまだフーダニットの段階だ。「自分が何者か」がまだわからない。でもハウダニットとホワイダニットの片鱗くらいは見え始めている。
まあいい。今は宿題がある。五百字のミステリ短編。犯人は先生。プリン事件がモデル。壮介がどんなミステリを書いてくるかだけは、予想がつかない。たぶん巨大カレーうどんが犯人だろう。
明日の部活も、たぶん情報量が多い。
でもそれが嫌じゃなくなっている自分がいる。むしろ楽しみだ。




