便利
体育の時間。
グラウンドに出た瞬間、やる気が一気に削がれる。
「今日は持久走だー」
奈々ちゃん先生の一言で、周りから微妙な空気が漏れる。
好きなやつは好きなんだろうが、俺には理解できない。
ただ走るだけの何が楽しいのか。
俺は軽くため息をつきながら列に並ぶ。
「優くん頑張ってねー」
横から佐倉が軽い調子で声をかけてくる。
「応援するくらいなら代わりに走れ」
「それは無理ー」
いつものやり取りだ。
こういうどうでもいい会話をしている間に、整列が終わる。
気づけば佐倉はいつの間にか前の方に行っていた。
別に珍しい事でもない。
あいつはああいうところだけ要領がいい。
「よーい、スタート」
掛け声と同時に全員が一斉に走り出す。
俺は無理をせず、後ろの方で一定のペースを保つ。
最初から飛ばすやつは後で死ぬ。
これは経験則だ。
数分も経つと、周りの呼吸が荒くなってくる。
俺も例外ではない。
「……だるい」
小さく呟く。
その時、前方に見覚えのある背中が目に入る。
神崎だ。
無駄のないフォームで、一定の速度を保っている。
特別速いわけじゃないが、全く乱れていない。
妙に安定している。
俺はなんとなくペースを少し上げて、その後ろに近づく。
理由は特に無い。
ただ、気になっただけだ。
「お前、余裕そうだな」
横に並びながら声をかける。
神崎は少しだけこちらを見る。
「普通」
短い返事。
それ以上でもそれ以下でもない。
「普通、ね」
俺は軽く息を吐く。
この距離なら分かる。
呼吸も、心拍も、ほとんど乱れていない。
チップ越しでも感じ取れるくらいには安定している。
やっぱり、普通じゃない。
「なぁ」
もう一度声をかける。
「何」
「お前、本当に——」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
何を聞くつもりだったのか、自分でもよく分からない。
神崎は少しだけ首を傾げる。
「……いや、何でもない」
俺は視線を前に戻す。
聞いたところで答えるとは思えない。
そもそも、何を基準に疑っているのかも曖昧だ。
ただ一つ言えるのは——
こいつは何かがおかしい。
「ねぇ」
神崎が小さく声を出す。
今度は向こうからだ。
「優くん」
名前を呼ばれて、一瞬だけ足が止まりそうになる。
「なんだよ」
「クラウド、便利?」
淡々とした声。
だがその質問は、妙に引っかかる。
「は?」
思わず聞き返す。
「便利かどうか聞いてるだけ」
俺は走りながら考える。
クラウドが便利かどうか。
そんな事を、わざわざ聞く意味。
普通は考えない。
便利かどうかなんて気にせず使うか、そもそもあまり使わないかのどっちかだ。
俺みたいに細かく頼るやつの方が少数派だ。
そして——
クラウドに存在しないこいつが、それを聞く理由。
「……まぁ、便利なんじゃねーの」
適当に答える。
「そう」
それだけ言って、神崎はまた前を向く。
会話はそこで終わる。
風の音と足音だけが続く。
俺は走りながら考える。
クラウドが便利かどうか。
そんな事を、わざわざ聞く意味。
そして——
クラウドに存在しないこいつが、それを聞く理由。
「……やっぱり変だな」
小さく呟く。
ゴールはまだ先だ。
だが俺の中では、別の何かが動き始めている気がした。




