物理記録の揺らぎ
放課後。
教室は静かだった。
ほとんどのやつは帰っている。
俺と佐倉、それと——神崎だけが残っている。
「優くん、まだ帰らないの?」
佐倉が少し呆れたように言う。
「まだだ」
短く返す。
机の上には、昼休みに使ったノート。
あの時書いた内容。
物理的に残した記録。
「……確認する」
小さく呟く。
ゆっくりとノートを開く。
ページをめくる。
そして——
「……あるな」
文字は残っている。
消えていない。
『クラウドの記録が消える理由』
『知っている』
『神崎は否定しない』
全部、そのままだ。
「ほら、ちゃんとあるじゃん」
佐倉が少し安心したように言う。
「だから言ったでしょ、紙は消えないって」
「まだ分からない」
俺は視線を外さない。
「時間が経ってるだけだ」
条件が違えば、結果も変わる。
「……疑いすぎじゃない?」
「かもな」
だが、それで終わらせる気はない。
俺はページをもう一度見直す。
一文字ずつ、確認する。
その時だった。
「……?」
違和感。
ほんのわずかだ。
だが確実に引っかかる。
「どうしたの」
佐倉が覗き込む。
「……これ」
俺は指で文字をなぞる。
『知っている』
その“いる”の部分。
「薄くなってないか」
佐倉が目を細める。
「え?……いや、気のせいじゃない?」
「……いや」
違う。
さっき見た時より、確実に。
ほんの少しだけ、色が抜けている。
「優くん、怖いこと言わないで」
「事実だ」
俺はそのまま見続ける。
数秒。
変化はない。
だが——
「さっきより、薄い」
確信に変わる。
「そんなわけ……」
佐倉が言いかけたその時。
「……あ」
小さく声を漏らす。
「なに?」
「今……ちょっとだけ」
佐倉の視線が文字に固定される。
「消えた……?」
完全じゃない。
だが、確かに。
ほんの一瞬だけ、線が途切れた。
「……やっぱりか」
俺は小さく呟く。
クラウドだけじゃない。
物理も、影響を受ける。
「優くん、これやばいって」
佐倉の声が少しだけ震える。
「ノートだよ?紙だよ?」
「関係ない」
俺は即答する。
「記録である以上、対象になる」
「対象って……」
「消える対象」
言葉にすると、妙に現実味が増す。
「じゃあ……これ全部?」
佐倉がノートを指す。
「その可能性はある」
俺はゆっくりとページをめくる。
他のページ。
何も書かれていない部分。
問題ない。
変化はない。
「……全部じゃないな」
「え?」
「関係ある部分だけだ」
今回の内容。
神崎との会話。
クラウドの消失。
そこに関連する記録だけ。
「……選別されてる?」
佐倉が小さく言う。
「多分な」
無差別じゃない。
意図がある。
もしくは条件。
「優くん」
佐倉が少しだけ距離を取る。
「それ……やばいやつだよね」
「やばいな」
否定はしない。
むしろ確定に近い。
その時だった。
「見てるね」
後ろから声がする。
振り返らなくても分かる。
神崎だ。
「見てるよ」
俺はそのまま答える。
「ちゃんと」
神崎が少しだけ近づいてくる。
「どう?」
「予想通りだ」
俺はノートを軽く叩く。
「物理も対象になる」
神崎はそれを見て、ほんの少しだけ笑う。
「……そうだね」
あっさり認める。
「止められないのか」
俺は聞く。
神崎は少しだけ首を傾げる。
「止める理由ある?」
質問で返す。
いつも通りだ。
「あるだろ」
「記録が消えるんだぞ」
「うん」
神崎は頷く。
「でも、それが普通だから」
その一言。
理解が一瞬遅れる。
「……は?」
思わず声が出る。
「普通?」
「うん」
神崎は淡々と言う。
「残らない方が、普通」
意味が分からない。
だが、軽く流していい言葉でもない。
「どういう意味だよ」
俺は聞く。
神崎は少しだけ考えるように視線を動かす。
「優くん」
名前を呼ばれる。
「どこまで残ると思う?」
また質問。
だが今回は違う。
「……全部だろ」
俺は答える。
「記録されるものは」
神崎はゆっくりと首を振る。
「違うよ」
小さく言う。
「残る方が、例外」
その言葉に、背中が少しだけ冷える。
「……なんだよそれ」
理解が追いつかない。
「全部消えるってことか?」
神崎は答えない。
ただ、少しだけ視線を逸らす。
「帰るね」
それだけ言う。
まただ。
肝心なところで止まる。
「おい——」
呼び止めるが、振り返らない。
そのまま教室を出ていく。
「……なんなんだよ」
俺は小さく呟く。
ノートに視線を戻す。
『知っている』
さっきより、さらに薄くなっている。
「……進行してるな」
止まらない。
ゆっくりだが、確実に。
「優くん……」
佐倉が不安そうに言う。
「これ、どうするの?」
「どうもしない」
俺はノートを閉じる。
「続けるだけだ」
「やめないの?」
「やめない」
即答する。
「ここまで見えたら、止まれない」
クラウド。
物理。
そして——
「……範囲はまだ広がる」
小さく呟く。
記録だけじゃない。
その先がある。
多分。
「……次はどこまで消えるかだな」
放課後の静けさの中で、その言葉だけがやけに重く響いた。




