からし絞殺未遂事件
「先輩、これ、いらないすか」
捜査報告書を書いていた剣崎は、向かいの机から身を乗り出す猫屋敷に目をやった。
モニター脇から差し出された、掌の上には、小さなビニール袋が乗っている。
中身は黄色い。
「なんだ」
「からしっす」
「なんでだ……」
「昼、納豆食べたんすけど、俺、醬油に花かつお派なんすよ。捨てるのもったいないし」
剣崎は、さっきから部屋が納豆臭かったのは、こいつの所為かと、ため息をついた。
「そんなもん人にやるな。マジックで賞味期限と名前書いて、冷蔵庫に入れとけ」
「えー、でも、使わないす。俺、辛いの苦手なんスよねー」
猫屋敷が腰を椅子に戻すと、早乙女が言った。
「猫君、辛いの苦手なの?」
猫屋敷の顔がほころぶ。
「そうす! 係長、これ、いらないすか!」
「ええ、いらないわ」
爽やかに言われ、猫屋敷は残念そうに、差し出した掌を引っ込めた。
「でも、大丈夫。猫君でも食べられる方法がある」
「なんすか?」
「温めるの」
「?」
首をかしげる猫屋敷。
「納豆におまけで付いているのは、洋からしが使われてるわ。辛みが和からしに近い、ブラウンかブラック、オリエンタルタイプが用いられる。主成分は、アリルイソチオシアネート。洋からしは、和からしほど揮発性は高くないから、日持ちが必要なチューブや個包装の製品にしやすいの」
「はあ」
「使用目的は、納豆の臭いを和らげることね。からしの芳香性、脱臭効果を狙ったもので、これは嗅覚に作用して、臭いを感じ難くするというもの。これを、マスキング効果と言うけど、これで、納豆の臭いが苦手な人でも、臭いが気にならなくなる。活性炭のように臭い成分を吸着するとか、次亜塩素酸のように酸化させるものではないのね」
「はぁ……」
「で、このアリルイソチオシアネートは、熱に弱いから温めると辛みが抜ける。しばらくお湯につければ、猫君でも食べられるわ」
そう言って、早乙女は拳の親指をたてた。
それを聞いて、餅柿が申し訳なさそうに、小さな声で言った。
「あのう……、しかしですね……」
「なあに?」
「あ、いえ、なんでもありません……」
「なんすか! 聞きたいっス!」
餅柿に身体を向ける猫屋敷。
「あ、いえ、そのう、からしが無くても納豆を食べられるのに、わざわざ辛みを抜いて入れる必要性は無い、と考えます……」
早乙女は顎を摘まんだ。
「……それも、そうね……」
「こういうのは、どうでしょう」餅柿が続ける。
「剣崎君、時々、ボンカレーを食べてますね」
「はい」と剣崎。
「それにトッピングするんです」
「は?」
剣崎の顔が固まる。
「洋からし、マスタードとも言いますが、カレーを作る際、はじめマスタードシードを油で炒めることがあります。これは辛さを目的とするのではなく、マスタードの風味、香味を加えるためです」
「そういえば」と早乙女が言う。
「民間療法でマスタードを胸に塗るって言うのがあったわね。体温で温められた成分を、呼吸で体内に取り込んで……」
「マスタードガスすか! 毒ガスじゃないすか! 先輩、殺しちゃダメっす!」
「よく聞け」剣崎がドスの効いた声を出した。
「猫君、マスタードガスの成分は、硫化ジクロロジエチルよ。全く別物。ちなみにマスタードガスは、マスタードの香りがすることから名前がついたけど、硫化ジクロロジエチルには臭いがない。香りは合成過程で一緒に作られる、アリルイソチオシアネートに似た硫化物ね。マスタードは、風邪などの呼吸器疾患に使われた。ヴィックス・ヴェポラッブみたいな感じかしら。きっと抗菌作用や抗炎症作用が期待されたのね」
餅柿が続ける。
「最近、アリルイソチオシアネートに、がん予防効果があると論文を読みました。昔、ある天才外科医が、『ボンカレーはどう作っても旨いのだ』と言ったと聞いたことがあります。マスタードとカレーは相性が良いですから、煙草を吸う剣崎君は、からしを、こう、たっぷりとカレーにかけて、蒸気を、こう、肺に吸い込んで……」
「折角ですが。遠慮します」
剣崎が少し頭をさげて話を遮ると、餅柿は寂しそうな顔をした。
剣崎の机に、こっそり、からしを置こうとしていた猫屋敷は、静かに腰を椅子に戻した。
「難問ね……」
「はい……」
早乙女と餅柿は、腕を組んで考え込む。
静かな空間、猫屋敷がおそるおそる口を開いた。
「……あの……、やっぱり捨てちゃおう、かな?」
「もったいないだろ!」
剣崎が怒鳴ると、猫屋敷はビクついた。
その時、「失礼いたします」と氷室が顔を出した。
皆の顔が晴れる。
「……? 如何なさいました?」氷室は静かな部屋を見渡した。
「氷室さん!」
猫屋敷が駆け寄る。
「これ、いらないすか!」
黄色い小袋を見て、氷室は眦を下げた。
「からし、でございますね? お借りしても宜しいですか」
「はい! どうぞっす!」
猫屋敷が嬉々として、それを渡すと、氷室は恭しく受け取る。
皆が、これで終わった、と、ほっと息をついた。
「猫屋敷様、少々、両手を拝借しても宜しゅうございますか?」
猫屋敷は「はあ」と言って、水を掬うように掌を前に出した。
「皆様、こちらのからし、ご覧下さいませ」
氷室が、右手に摘まんだ小袋を、左手に乗せ、それを猫屋敷の掌の上に近づけた。
氷室は嬉しそうに、両手を貝のように合わせて振る。
皆、からしがどうなるのか、わくわくして待った。
コインになるのだろうか?
お菓子だろうか?
それとも、消えるのか?
「さあて、こう致しますと」
氷室の手の間から、からしの袋が溢れ落ちて、猫屋敷の掌に積み重なった。
黄色い山。
数十個に増えた、からし。
まるでジャックポットである。
「……」
早乙女も餅柿も、皆、口をぽかんと開けた。
静まりかえる刑事部屋。
氷室が珍しく困惑する。
「あのう……、驚いて下さるのは嬉しいのですが、驚きすぎでは……」
猫屋敷は、からしを返そうと一瞬思ったが、さらに増えることを恐れて早乙女に、顔を向けた。
早乙女は、さっと目を逸らす。
その時、事務の天海が部屋に飛び込んで来た。
「皆さーん、報告でーす! 滞っていた経費落ちまーす! あ……あれ……、どうしました?」
目をパチクリさせる天海に、猫屋敷は両手の、からしの山を見せた。
「いらないスか?」
「え?」
「からしっす」
「見れば分かるけど、いらないの?」
コクリと頷く猫屋敷。
「なんで?」
「使わない、から?」
「なら貰う」
「え? いいんスか? てか、どうすんす、これ?」
天海は不思議そうな顔をする。
「どうすんすって、ホットドックだって、アメリカンドックだって、おでんだって、使い道いっぱいあるでしょ。このくらい、すぐなくなっちゃうよ。ありがと、猫ちゃん」
天海は、ラッキーとばかり、からしを受け取る。
無駄に深く考えすぎていた早乙女と餅柿は、その手があったか!と、掌を拳でポンと叩いた。
「でも、いいんすか?」
「なにが?」
「また太るすよ」
「……」
猫屋敷は、天海の、ふくよかな胴体に目を向けた。
「おい!」と剣崎が囁く。
夏にはアイスやかき氷。初秋には旬のフルーツやスイーツ。
最近の体重増加を気にしていた天海は、顔を引き攣らせた。
「ほほう、猫ちゃん、死にたいようね」天海は手をポキポキ鳴らす。
「ちょ、ちょっと待つっす! 誤解っす!」
「なにが?」天海は顎を上げる。
「からしを貰ってくれるのはありがたいっす! けど、俺! 天海ちゃんを心配してるんす!」
真剣な眼差しに、天海は「え? え?」と少し狼狽した。
「心配? わたしの、こと?」
「そうっす!」
「え、その……、なんで?……」天海はもじもじした。
猫屋敷は天海に近づき、彼女の両肩に手をやった。
普段は、おちゃらけた雰囲気で気づかなかったが、間近で見ると、結構イケメンである。アイドルグループにいてもおかしくはない。
猫屋敷は、ダンスするように、ゆっくりと天海を回転させた。
「ちょ、ちょっと、猫ちゃん……」ちらちらと目を泳がす天海。
「だって、っすよ! これ以上、食い過ぎて、ぶくぶく太ったら、まるで、ドネルケバブっす! え? なに? ぐふっ!」
天海は軽やかな身のこなしで猫屋敷の背後に回り込むと、彼の首に左腕を回し、足を絡ませ、裸締めを極めた。
逃れられない猫屋敷。
天海は、頭をロックした右腕に力を込めながら、早乙女に目を向け、冷たい声で言った。
「いいですか?」
「……ほどほどにね」早乙女は、仕方ないと思いつつ、猫屋敷を心配する。
「死なない程度にな」目頭を摘まんでいる剣崎も答えた。
餅柿は、若い女性の熱い(背後からの暴力的な)抱擁を止めるべきか、止めざるべきか迷った。
これはチョークスリーパーだろうか?
それとも、スリーパーホールドだろうか?
チョークスリーパーなら早く止めるべきだ。
餅柿は鑑別しようと、眼鏡に手を添え、目を凝らした。
天海の腕をタップし続ける、赤い顔の猫屋敷。
天海は、捜査一課のマドンナ的存在である。
彼女を狙っている若手刑事も多いと噂を聞く。
餅柿は、しばらく鑑別を試みたが、やがて諦め、この密着をご褒美に感じる男性も多いだろう……、まあいいか、と結論を下した。
氷室はと言えば、戯れる男女を、まるで孫が遊んでいるのを見る祖父のように、温かい目で見守った。
そして、早乙女から事の成り行きを聞くと、楽しそうに言った。
「これが本当の、わらしべ……、いえ……、からしべ長者でございますね」
了
猫屋敷「どこが! っす、ぐえーっ!」
お読みくださりありがとうございます。
しばらく余暇の時間は、また模型製作に費やしますので、更新おやすみでございます。
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(#^-^#)つ




