10.突入
組織とは不思議なものだ。
知能指数が100の人間が三人集まれば、集団の知能指数は140に上昇する。三人寄れば文殊の知恵効果だ。
だけど、十五人集まると60に下がる。
亀井は、重役会議室の真ん中で、上役たちのアホな議論――犯人の真の目的とは?犯人の言葉の意味とは何か?など――を聞き流しながら、そんな事を考え、そして、なぜだろうと思った時、ふと思いついた。
責任を取りたくないからだ。
人は、自己を表現し実現しようとする。
人から承認されたい、愛されたい、何かしらの組織に所属したいと欲求する。
だけど、責任は取りたくない。意思決定に関わりたくないのだ。
結局、なんとなく空気で決まるか、問題を先延ばしにするか、責任を誰かに押し付ける。
もし、うちの会社、取締役が100人だったら知能指数はもっと下がるだろうな……。そういえば、暴力団の構成員は何人くらいなんだろう……、国会議員は何人いたっけ……。
そんな事を考えて時間が流れていく。
重役会議室を出た亀井は、廊下で主任から、通常業務は滞りないと報告を受け、係にはもう自分は必要ないんじゃないかと、より一層、気分を落ち込ませた。
「係長」
力なく目を向けると、桃井明代が階段の踊り場の陰から、こっちを見て手招きしている。
その後ろには、いつもトラブル時にお世話になっている警備の大槻が、心配そうな顔つきをしていた。
刑事たちは机を囲み、店屋物をとって食事していた。
「昨日の二つ目、玉川の橋ですが……」
早乙女が口を開くと、にしん蕎麦のツユをすすっていた初老の刑事は、彼女の方に顔を向けた。
「ん、ああ……、知ってたのか」
「はい、2005年の紅梅市幼児殺害事件ですね。以前、未解決事件ファイルで知り……、今朝、その遺留品を確認して来たところです」
山本は箸を置いて、遠くに目をやる。
彼が強行班にいた時である。
晩夏、橋の下の河原に、首を絞められ殺された小さな遺体が流れ着いた。大勢の捜査官が動員されたが、犯人に辿り着けなかった事件である。
「あの子の無念を晴らしてやれなかったのは心残りだ……」
肉厚のかつ丼を食べ終わった大木や猫屋敷たちは、聞き耳を立てた。
「それに、一つ目の橋は、出間市幼児連続誘拐殺人事件で遺体が発見された場所ですよね」
「だな、1995年から二年間に、三人の子が誘拐された。三人とも殺されて、あの、吽岩橋近辺に遺棄された。しばらく日本中がそればかり報道していたが……」
「ちょ、ちょっと待って下さいっす!」と猫屋敷。
「なんで今回の誘拐で、その場所が受け渡し場所になるんすか」
剣崎は「それを、皆、考えてるんだろ」と言って、ラッキョウと福神漬けをスプーンで口に入れた。
「あっそうすか! それに、なんすか、さっき聞いたけど、アレ、時の関節が外れているとか、ティービーとか」
「そうすか、とは何だ、それにTVじゃない、to be or not to be、だ」と剣崎。
「ハムレットでございます」
足を組み、優雅にコーヒーを飲んでいた氷室が静かに言った。
「シェイクスピアの悲劇、主人公のセリフね。The time is out of joint……, I was born to set it right……」早乙女が補足する。
「何すか? それ」
「父親を殺された王子の復讐劇でございます。復讐が要因となり、主人公、主要人物がみな亡くなる、名作中の名作でございます。少々、いえ、かなり長い作品ではございますが」
大木刑事が「復讐?ですか、そうすると……、今回の誘拐は子供を殺された遺族による復讐って事ですか? この会社の従業員、桃井明代さんのお姉さんは、その誘拐殺人事件の被害者だと判明してますけど……」と困った顔をする。
「彼女には……、てか、お前、ここの従業員全員にアリバイがあっただろ、怪しげな行動や通信記録もない。たとえ他の家族だとして、何で武田を誘拐すんだ」と山本。
「すよねー。復讐すんなら、犯人に、すよねー」
猫屋敷にドヤ顔で言われると、大木は目を剥き、拳と歯を見せつけた。
「その事件について調べたけど、三件のうち二件は、武田さんのアリバイはしっかりしてるわ。取材で九州、沖縄に行っていた。犯人は他にいるわね。彼の指から検出された皮膚片と、誘拐された幼児に付着していた毛髪のDNAが一致したの。武田さんは、その幼児誘拐犯に拉致された可能性が出て来たわ」
「ど、どうゆう事っす?」
「そうゆうことだよ」と剣崎。
「じゃ、じゃあすよ、その二十五年前の殺人犯は、武田さんを誘拐して、で、身の代金の受け渡し場所を、昔の犯行現場?にして、何企んでんすか? それが何の復讐になるんすか? 訳わかんないす。ああ、腹減ったっす! かつ丼、大盛にすれば良かったっす!」
剣崎は「もし、十六億をしかるべき所に分配する、ってのが遺族に賠償金として、って意味なら、犯人が、その事件を反省し償うために、武田を誘拐した……、ありえないな……」と言って腕を組んだ。
「山さん、当時はどうでした? 紅梅市と出間市の殺人事件は関係あると考えられていたんですか?」早乙女が聞く。
「いや、誰もそうは思わなかった、と記憶している。埼玉の方は、もう犯人が最高裁で有罪になってたからな。無罪を訴えて控訴していたが、ひっくり返らなかった。ええと、誰だったか……」
「佐々木、佐央里様でございますね」
皆が氷室に目を向けた。
「佐々木様は、1996年に逮捕されております」
氷室がコーヒーカップを置くと、椅子の下に置いていた紙袋から、『週刊マンデー』の束を取り出して机の上に積み上げた。
『悪女! 幼児誘拐殺人犯の猟奇的生活!』
『現代の鬼子母神! 恐ろしき家系図』
『繰り返された狂気の中絶! 被害者は三人だけじゃない!』
ひと際目を引く見出しが並んでいる。
刑事たちはパラパラとページをめくる。
逮捕された翌週から長期間にわたって、何度も散々な言いようで書かれていた。
最初期から、執筆の殆どは武田大地である。
「まだ取り調べ中、起訴もされてない時期よね……」
「ひどい有様だったな。これだけじゃねえ。日本中のマスコミが、彼女が犯人だと決めつけていた」
日付を確認した早乙女は悲し気な目をし、初老の刑事は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「て事は、その人が記事を書かれたのを逆恨みして、武田さんを誘拐したんすか。裁判はどうなったんすか。今はどうしてるんすか」
「佐々木様は、死刑の判決が下され、長年拘置されていたようでございます。ですが、2014年、弁護士連合会が働き続け、新たな証拠と、警察の証拠隠匿発覚などにより、地裁によって死刑と拘置の執行停止が命じられました。再審が始まりましたが、その頃には深く心を病んでいた佐々木様は、無罪を勝ち取ることなく、2017年、自らお命を絶たれたようでございます」
大木刑事が息を呑んだ。
「で、では、亡くなっているんですね……。しかも冤罪の可能性が高い……。ご家族は、ご主人はいるんですか」
「はい、ご主人、佐々木清志様は、ご存命にございます。亀井様にお聞きしたところ、他の報道関係が謝罪を発表し、冤罪の可能性を報道する中、談英社だけがそれを無視していたようでございます。ご主人と弁護士は、謂れのない記事に対して、刑事告訴を検討しましたが、亀井様は、謝罪文を掲載すると約束し、告訴を取り下げてもらった、と、おっしゃっております。しかしながら、それから三年、会社は謝罪する事なく、謝罪文も掲載されておりません」
「そ、そんなの、嘘つきじゃないすか!」猫屋敷は涙目で声を荒げる。
「それを恨みに思って、ご主人が犯行に及んだ……、というのは」と大木。
「はい、ご主人は都内の医療センターに入院中でございます。末期がんで、今は寝たきりでございます。歩ける状態ではございません」
「それでは、そのご主人は犯人、ではない……」
大木の隣で、猫屋敷はハンカチを持って「う、うう」と涙を拭いていた。
「午前中、ご主人に面会し、少しだけお話することが出来ました。奥様は繊細で神経質でしたが、心優しい女性であったと、おっしゃっておりました。子供が大好きで、一姫二太郎に憧れて、ご夫婦、いつもその話で華を咲かせていたようでございます。しかしながら、流産の気があり、何度も悲しい思いをされました。妊娠初期に取り調べされ、眠ることは許されず、嘘の自白を強要され、トイレに行くことは許されず、取調室、刑事たちの前でさせられたようでございます。不当な拘留によって再び流産し、その後、有罪の判決が下されました。結局、お子様を持つ夢は果たされずじまいで、あの世に旅立たれたのでございます」
猫屋敷は机に伏せて「アアー!」と号泣した。
剣崎は、鬼のような顔つきで雑誌を睨んでいる。
その時、早乙女の携帯が鳴る。
彼女は、話を聞くと、厳しい顔つきで皆に言った。
「科捜研からよ。武田さんの爪から出て来た皮膚片、誰のものか判明したわ。山井里香。彼の元妻だった」
「え? どういうことです? え? 誘拐犯は、元……妻?」大木は混乱する。
初老の刑事は腕を組んで、背もたれに寄り掛かった。
「やはり、自作自演の線も濃くなってきたか」
「やはり、って何です。狂言だったって事ですか。夫婦で組んで、自分の指を自分で切って送り付けてきたって事ですか」大木刑事が身を乗り出す。
「ああ? 誘拐の基本だ。まず、本人と家族を疑えってな。それに山井が元看護士なら、切断した指の応急処置くらいは何とかなるだろ。治療をした医者がまだ見つからないのは、これで説明がつく」
「それなりゃ、ころされる心配は、もうないすか」涙と鼻水でぐしょぐしょの猫屋敷が言った。
「な訳あるか。可能性の一つだって事だ」山本は、ぶっきら棒に言った。
「元妻が、暴力団と組んで、あるいは脅されて、武田を誘拐した可能性もある」と剣崎。
「あ、あの、じゃあ、あのメッセージは? 復讐ってなんすか?」
「レッド・へリング、ミスディレクションとも考える事もできますが……」
氷室は口髭を摘まんで撫る。山本刑事は早乙女に尋ねた。
「警部殿は、犯人についてどう思う?」
「一般論でよろしければ」
「ああ」
「誘拐犯のほとんどは、計画性がなく衝動的に行動する境界性パーソナリティー障害を持ちます。あるいは空想虚言者、粘着気質がある場合もあり、冷静で知的な誘拐犯は、極まれです」
「だな」
「今回のような脅迫状、謎解きの指示、ハムレットの引用など、劇場犯罪を犯す人物は、演技性パーソナリティー障害を持つと考えられます。思春期以降に挫折し、みじめな生活をしていた犯人は、警察を翻弄させ、マスコミで報じられることで、自己顕示欲を満足させている可能性があります。」
「ふむ」
「その一方、海外の携帯電話を用い、まったく警察に足を掴ませません。餅柿警部補が発信場所を特定し、ビルを封鎖しましたが、犯人はそれを物ともせず、別の場所から再び電話をかけています。警察を出し抜いたとか、誇る素振りが無いのは、精神年齢は低くなく、知的である、と考えることもできますが……」
「滅茶苦茶だな」
刑事たちはため息をついて押し黙る。
突如、猫屋敷が叫んだ。
「ああ! 分かったっす!」
皆が猫屋敷に目を向けた。
「武田さんと元妻は共犯だったんす!」
「それ! さっき、俺が言った事だろ!」と大木刑事が、手背で猫屋敷の肩を叩く。
「ち、違うっす。二十五年前っす。幼児誘拐っす! で、被害者の家族が、復讐のために、二人を誘拐したんす! どおす! どおすか!」
氷室は優しく微笑み、口髭を摘まんだ。
「あ……、もしかして」大木刑事がつぶやく。「十六億円、受け渡さなくてもいいんじゃないですか?」
皆の視線が集まる。
「あ、いえ、犯人にとってって、意味ですけど、その、今このビルに保管してあるんですよね。それを盗み出した方が、ひょっとして楽かなぁ、なんて、今ふと思ったりして。出版社だけあってトラックの出入りも頻繁だし。もしかして、最初から会社に現金を置かせ、それを盗み出すつもりで身代金を要求した可能性もあるんじゃ……」
「警備は十分だ。大木、可能性を考えるのはいいが、常に最悪を想定しておけ……。ま、いずれにせよ、真相を、はっきりさせねえとな……」
山本刑事は腕時計を見ると、ゆっくりと腰を上げた。
早乙女は剣崎に目を向ける。
「剣崎君、もしよければ、この後、強制捜査があるから、SITの部隊と一緒に、薬銃課(薬物銃器対策課)に合流してくれる?」
剣崎は眉を微かに動かし、「了解です」とだけ言った。
「あ! 俺も行っていいすか!」猫屋敷が立ち上がって、手をあげた。
早乙女は「危険かもしれないわ」と言うと、猫屋敷は「お願いっす」と合掌する。
早乙女は剣崎を上目づかいに見た。
「……剣崎君、いい?」
剣崎は「了解です」と返事をすると、猫屋敷に「邪魔だけはすんなよ」と言った。
「はい! 分かってるっす! 先輩、目輝いてるっすね! ほんとは嬉しいんすよね! 分かるっす! 分かるっすよ! カチコミっすよね! 俺も男っすから! 何でも言って下さいっす。何したらいいすか!」
剣崎は目を閉じて「まず黙れ……」と言った。
そして「遺書を書け」と付け加えた。
氷室は早乙女に、「こちらの方を調べていただけますか」と、折り畳んだ紙片を手渡した。




