8.ビル封鎖
犯人からの連絡が入ると、早乙女は冷や汗を拭った。
運転席の大木刑事が口を開く。
「今度は、六時までに、VH、3CFに行け、らしいですね。犯人、三時の指示はスルーですか?」
「とりあえず、首の皮一枚はつながったって事か。今度のタイムリミットは、約一時間半……」山本刑事が早乙女に目を向ける。
早乙女は紙とペンを持って計算をしていた。
数字を導き出し、それを「すみません、合っているでしょうか」と氷室に見せた。
氷室はしばらく見てから頷く。
「……合っている、と思います、ですが、餅柿様にも確かめていただいた方が宜しいかと存じます」
早乙女はすぐに餅柿に電話し同意が得られると、地図で場所を確認して無線機を手に取った。
四時五十八分。
警視庁に戻って予備の機械を調整していた餅柿は、メールした犯人の位置を特定すると、静かにガッツポーズをした。
本郷市民センター。
低層階は区役所であり、一般公開されている展望台からは、遠く高尾山や秩父の山々が見渡せる。
その三十階の展望台付近が発信源である。屋上かもしれないし、一階下かもしれない。
餅柿は、すぐさま捜査本部に報告する。
本郷市民センターには、一分もかからず、大勢の警官が押し寄せ、ビルは封鎖された。
現金輸送車は八高線沿いに南下し、首都圏中央連絡自動車道に入った。
長い紅梅トンネルを抜けると、玉川にかかる二段トラス橋がある。上段が南方面行き、下段が北方面行き。
住宅に近い場所には、防音壁が設置されているが、中央部から南の河原の辺りは壁がなく開放的であり、空が広く、玉川の川面が見える。
橋の真ん中で速度を落とすのに気づいた亀井が尋ねる。
「ちょっと、高速ですけど、橋の上で停車するんですか」
刑事は無表情に「ええ」と答えた。
現金輸送車は、ウインカーを点灯させ、目いっぱい左に寄せる。
他の何台かの覆面パトカーは回転灯をつけて、現金輸送車の前後、少し離れた場所に停車せざるを得なかった。
時計を見ると、五時二十五分。
指定の時間には、まだ三十分以上残っている。
脇を、大型トレーラーが猛スピードで走り抜けていく。
衝突したら頑丈な現金輸送車であっても、ひとたまりもないだろう。
たぶん即死だ。
石油タンクローリーがすれすれで通り過ぎ、風圧で車が揺れる。
もし、全速で突っ込んできたら、大爆発。自分や刑事たち全員あの世行きだろう。
事故が起きるのは、起きて欲しくない時か、それを忘れている時だけ。
シートベルトをしたままの亀井は、ぎゅうっと携帯を握りしめた。
早乙女たちは、高速の橋が一望できる近くの別の橋上にいた。彼らは途中で高速を降り一般道を通って来ていた。
広めの歩道があるが、狭い二車線なので、車は橋のたもと、商店の駐車場に置いてある。
トラス橋の上段に停車した現金輸送車を望遠鏡で確認する。その向こうには傾いた太陽と、深緑の山々。
あと一時間もすれば日の入りだろう。
川には船は皆無。渓流下り用の船も今日は見えない。
「あと三十分ですか」と大木刑事は欄干にもたれかかった。
「油断するんじゃねえぞ。いつ何があってもおかしくねえ」初老の刑事は警戒を怠らなかった。
「本郷の方は大丈夫ですかね。犯人、捕まればいいですけど」
「組織相手なら一人捕まえたって、害者の身の安全は確保できねえ。ビル内の一般市民の安全確保も一苦労だろうな。それよりもだ、なんか忘れてねえか?」
「え、何です?」
「お前じゃねえよ」
「暗号ですね」と早乙女。
「山さん、説明なんて、いいじゃないですか。警部、俺は信じてますよ。警部が正しいって」
「馬鹿野郎、俺たちが信じるのは人間じゃねえ。証拠と論理だ。理由なく信じるなら、刑事なんて辞めて、牧師か占い師にでもなんな」
「大木さん、ありがとう、信じてくれて嬉しいわ」
大木の一瞬引きつった顔がほころんだ。
「吽岩橋じゃあ、動かないのが正解だって、何で分かったんだ?」
早乙女は決まりの悪い顔をした。
「いえ……、確信はありませんでした」
「賭けだったのか」
「はい……、正しいと分かったのは、犯人から次の連絡があった時です」
山本が先を促す。
「橋で、はじめのメールが発信された時刻は、三時一分。制限時間を設け、暗号を用いました」
刑事二人は頷く。
「山さんもおっしゃっていた通り、犯人は、行先を難解にさせています。それは、犯人が十六億を手に入れる事を、二の次にしているからじゃないでしょうか」
山本は「推測、だな」と言って、煙草を取り出すと火をつけた。
「これまでの状況から考え、犯人は警察がどう動くか見ている。どこで、どう監視しているか、まだ分かりませんが、切羽詰まった時に、私たちが無暗に行動するか、あるいは、その場に留まるのか、それを評価しているのかもしれません」
「そいつも推測だ。ちなみに俺たちを付け回す怪しい車があるが、それは仲間の監視下で泳がせてある。まあいい。続けてくれ」
「はい、話は逸れましたが、解読のヒントは時刻でした」
「時刻?」二人はシンクロして聞き返した。
「はい、11Hと409を進数変換して座標にできる、という仮説をたてましたが、犯人は四時までに、と言ったのです。制限時間は五十九分。もし仮に、59進数で表されていたなら……、それを十進法に直すと、3583と13933となります。つまり、先ほど、あの車を停めた橋、元の位置と同じ座標になるのです」
「それって完全にそうじゃないですか」と大木が喜ぶ。
「いえ……、これは可能性のひとつに過ぎませんでした。他の進数であったと仮定しても、同様に、他の座標が出てきますから……。例えば、良く用いられる、62進数、あるいは四時まで、ざっと一時間だと考えて60進数……、ですが、これらを変換した座標は、太平洋上、沖合になってしまいます。ちなみに、四時をヒントと考えて、40進数、これは「H」を用いるのは44進数以上なのでありません。十六億を、船で持って来い、という要求なら分かりますが、この埼玉の奥地まで来させてから、そう要求する可能性は低いと考えられます。それに、あの場から一時間以内に移動することは無理です」
刑事たちは頷いた。
「ですが、今度は、六時までに、と言いました。暗号はVHと3CF、これも時刻がヒントであると仮定すると、メールの発信時刻は、四時五十八分、六時までは六十二分となります。62進数と見なせば、それぞれ3577、13929となり、それらの緯度経度は」
早乙女は現金輸送車が停車する橋に目を向けた。
「あの場所を表します」
大木刑事は「警部! お見事です」と拍手をした。
山本は「よりによって、ここか……」と川面に寂しげな目を向けると、煙を吐き出した。
ゆっくりと煙が流れていく。
「そう言えば、氷室さん、まだですかね」大木刑事があたりを見回す。
氷室は、車を停めた商店に入り、従業員や近所の住人と世間話をしているらしい。
「さっきの場所でも、近くの住人たちとおしゃべりしてましたね。大丈夫ですかね」
「ええ、動きがあれば、すぐに対応できると、おっしゃってましたから」
「あ、そうじゃなくて、その、猛暑で、お年寄りですから……」
噂をすれば影。
車道に長い影を伸ばした氷室が、ビニール袋をぶら下げて橋の歩道を歩いてくる。
「収穫はありましたか」
早乙女が聞くと、氷室は嬉しそうに、「ええ」と答えて、四人分のスポーツドリンクとソフトクリームを袋から取り出し、刑事たちに渡していく。
刑事たちは喜んで受け取ると欄干にもたれ掛かり、並んでアイスを舐めながら、輸送車を見守った。
消防が窓を割る。
剣崎は、消防や県警とともに山井里香宅に入って捜索したが、誰も発見できなかった。荒らされた形跡はないが、かなり散らかっており、掃除は行き届いていない。
屋内を物色していく。電話や留守電を調べ、手帳や手紙、携帯などを探していく。キッチンや冷蔵庫を覗く。
また、早乙女に頼まれた指紋や毛髪を採取した。
一緒に家に入った県警の警官は「勝手なことをしないで欲しい」と止めようとしたが、剣崎に睨まれると、すごすごと引き下がった。
その間、猫屋敷は近所の聞き込みをして回ったが、やがて戻って来た。
「先輩がいないと、けっこう色々話してくれるんすよねー」
剣崎は「なんだと」と顎を突き出す。
「俺だって」
「あはっ、先輩のは聞き込みっていうか、自白の強要じゃないすか。それじゃ誰も正直に教えてくんないすよ。先輩でも苦手なことあるんすねー。なんか、俺、ほっとするっス。あ、先輩、気にしなくていいすよ。欠点があるほうが、好感度上がるらしいすから。こうゆうの、何て言うんでしたっけ? ええと……、人間だもの?」
「死にたくなければ、その辺で止めとけ」
剣崎は「で?」と仕入れてきた情報を尋ねた。
「あ、そうすね。ええと、やっぱりこの一週間、誰も、山井里香を見てないっすね。昔は看護師だったけど、今は仕事してないっす。いつも買い物は近くのスーパーに車で行ってたみたいすけど、それも一週間、目撃はゼロっす。最後は武田さんがいなくなった日すね。車は置きっぱすから、どこ行ったんすかねー。誰も、旅行行くとか、何にも聞いてないっす。あんまり人付き合いがいい人っぽくないすね。子供から聞いたっすけど……」
「子供?」
「そおっす。うまい棒で釣って集めて聞いたんすけど、悪口が結構聞けたっす。何だっけ、ええと、変なおばさん、きもい、うざい、やばい……」
「語彙力がガキだな」
「小学生っすから、あ、中学生もいたっけ」
「それはいい」
「今どきの子、もうスマホ持ってるんすね。俺、ライン交換してきたっす」
剣崎が目を見開くので、猫屋敷は慌てて「も、もちろん自分のスマホっすよ!警電じゃないす!」と全力で両手を振った。
その時、剣崎の携帯が鳴る。
通話し終えると、彼は黙って、山井宅の薄汚れた居間の窓から外に出た。制服警官たちが恐れるように道を空けていく。
「あ、ちょっと、先輩、どこ行くんすか。ねえ」猫屋敷はついて行く。
「まだ話、途中すよ。ここ、もう、いいんすか?」
剣崎は、路上に止めた車の運転席に乗り込むと、「乗れ」とだけ言った。




