1.指
第十話 復讐のフィクサー (全15予定)
短編のわりに長めになってしまったので、なるべく削って修正していく予定でございます。
トラブルは必ず退社一分前に起こる。
大手総合出版社、談英社に入社して十三年目。渉外係長の亀井英雄は、毎度のことだが、自分の運のなさを呪った。
遅刻してはならない時に限って、時計の針は遅れている。
デートの日に限ってクレーム処理に追われて残業になるのが常。
退社前、ふと差出人が不明だったので後回しにしていた封筒を思い出し、開けてみると、出てきたのは身代金要求の脅迫状だった。
第一事業局、『週刊マンデー』の編集長、武田大地と引き換えに、現金十六億八千二百万円を要求するものだった。
亀井は血相を変え、帰り支度をしていた上司に報告した。
武田はこの二日無断欠勤していたため、すぐに警察に通報しようという声もでたが、警察に知らせると彼の身の安全は保障しないと書かれてあり、重役を集めた会議を経て、意思が決定したのは、その明くる日だった。
帰るに帰れず、完徹した亀井は有無を言わさずに、その担当に据えられた。
「失敗したら、分かっているだろうね」営業部長は睨みをきかせる。
編集局長は「いったい、どうやって十六億を持って警察から逃げおおせるつもりだ! 不可能だろ! いいか、すべて記録するんだぞ!」と目を輝かせた。
副社長から「社長ならともかく、一編集長で十六億とは高い、一千万にまけるように交渉しろ」と言われた時は、いくら何でも無理だと思った。
どうして、よりによって僕なのか。
部長が担当しろ!
いや、代表は社長だろ!
と心の中で思った。
その一方で、武田編集長、特に親しいわけでもないが、同じ社員として、大先輩の救出に力を貸したい、そう思いつつも、危険手当は出るのだろうか、残業代は出るのだろうか、と様々な思いが頭の中をまわり続ける。
亀井は重役会議室を出ると、胃薬をのんでから110番通報した。
「不可能犯罪係に知らせなくていいんですかね」
特殊犯捜査係の若手刑事、大木はヘッドホンをいじりながら口をひらいた。
談英社六階、広い会議室の一角に設置されたブースの真ん中には、一つの携帯電話があり、それには録音機や音声分配器が接続されている。
その周りで刑事たちは誘拐犯からの連絡を待つ準備にいそしんでいた。
「素人呼んでどうすんだよ」
初老の刑事は、壁に貼られた禁煙と書かれた紙を忌々しそうに横目で見た。
「だけど山さん、青酸カリ事件の時だって、あっという間の解決だったじゃないですか。楽できるんじゃありません?」
別の刑事が「おい、大木、お前プライドあるのか。俺たちだけじゃ力不足だって言いたいのかよ」と彼の頭をつつく。
「あ、いやあ、そんな訳ないですよ。ただ、ちょっと、まあ、一緒に仕事できたらなあって……」
彼は頭を掻き、少しだけ頬を染めた。
「奴さんたち仕事ができないとは思わんが、頭が、七光りで昇進したお嬢さんだしな……」
半生を刑事として生活してきた漢たちは、てきぱきと手を動かしている。
誘拐事件の97%は解決する。現在まで、身の代金の受け渡し成功率は0%。誘拐事件は、特殊犯捜査係だけで十分である。
なぜ不可能犯罪係を呼ぶ必要があるのか。
「でも、FBIで経験積んだって聞いてますけど……」
「餅は餅屋、奴さんたちの出る幕はねえよ。たとえ本部長に頭下げられたってお断りだ」初老の刑事はきっぱりと言う。
「逮捕時には人手を借りるかもしれないがね」と別の刑事。
そのとき、会議室に「すみません、ちょっとトイレ長引きまして……」と顔色悪い男が腰を低くして入って来た。
被害者対策班の金子警部は、私語を慎むように刑事たちを窘めた。
二日後、八月十日、十一時二十二分、犯人からの電話が入った。
無精ひげを生やし、やつれた亀井は刑事に促されて受話器を取った。交渉を試みようとしたが対話の余地はなく、無機質な抑揚のない一方的な言い分を聞くだけに終わった。
ジュラルミンケースに入れられた十六億八千二百万円は、長年付き合いのある警備会社の現金輸送車に積み込まれた。
亀井は携帯電話を握りしめ、その助手席に乗り込む。運転は捜査員のひとりが行うことになった。
授受の場所や方法などは何も指示されなかった。ただ「金を車に積み、十二時に八王子に向かえ」というものだった。
輸送車は文京区の本社ビルを出発すると、新宿を経て、甲州街道を西に進んだ。
特殊係は三十人ほど捜査員を動員して、目立たないようにその後を追った。
都心の高層ビルから、次第に空が広がり、緑が増え、田舎の風景に変わっていく。
玉川をわたり、八王子駅に近づいたところで、犯人から電話があり、十六号線を北へ進むように指示があった。
言われた通り進む。
再び玉川をわたり、狭山湖を右手に過ぎる。出間川に沿って北上し、荒川に当たると、また電話があり、今度は川を下って海に行くように言われた。
車は、時々住宅地の細道に入りながらも、やがて葛西臨海公園に辿り着いた。
そこで次の指示を待つも、その後、電話は一向にかかって来ない。
そのうちに日が沈む。
大勢の捜査員に遠巻きに監視された現金輸送車は、寂しく道路脇に佇み、オレンジ色の街灯の下、空しく時間は過ぎていった。
三日後、談英社に郵送された封筒から出て来たのは、一通の手紙、そしてビニールとガーゼに包まれた、一本の、切断された人間の指だった。
誘拐に慣れているはずの特殊犯の捜査員たちも、皆、息を呑み、顔色を変えた。
「本部、指示送れ!」
「待機! 待機しろ。鑑識を送る!」
騒然とする中、血に塗れた指を見た亀井は、白目を剥いて意識を失った。




