第3話 見上げたんよ
朝の眩しい光が兵舎の黒鉄瓦に反射し、干された札甲の影が砂地の訓練場に長く伸びていた。
兵舎は笑天宮の北側に位置し、武骨な鉄梁と堅固な木材を組んだ建物は、朝の冷気の中でもわずかに温かい。その質感から鉄の殿とも呼ばれている。
その訓練場の脇に、天華がひょっこりと現れた。
天華「んー……朝の空、ちぃと高い気がするな」
蘭花「ふふふ、流石は姫様! 朝空の圧倒的な高さとその奥にある天意まで感じ取られるとは、まさに大吉兆の兆しでございますね!」
薄花「……そうなんよ……姫様……この朝の清らかな光……まるで新しい命の息吹が姫様の尊き御心に静かに寄り添っているのでございます……美しゅうございます……」
天華は誇らしげにふんすと胸を張って笑った。
その様子をすぐ近くで見守っていた理策、剛明、牧玄、そして琴雪が語り出した。
理策「恐れながら申し上げます。朝の空が高く見えるのは、太陽の高度角と大気による光の散乱角の変化による視覚的錯覚です」
剛明「天華、朝からそんなに上ばかり見とると普通に首痛めるぞ」
牧玄「姫様、どれほど高く見えようとも空は餅のように食えんぞ。見るだけにしんちゃい」
琴雪「朝の空……それは清らかに始まる……姫様の心の始まり……」
ーーなぜかしら、この素朴な呟きが宮廷学者たちのあいだに瞬く間に伝わる。
学者①「聞いたか! 姫様が、朝の空が高いと感じられた! これは我が国の気象学に革命をもたらす大発見じゃ!」
学者②「むむむ、自称気象学の権威である私より凄いとは……」
学者③「すぐさま朝空の高さを姫様視線スケールで正確に測り直すシステムを構築すべきじゃ!」
学者④「至急、姫様の朝空観測理論をまとめ、天華国学会に提出するんじゃ!」
学者⑤「天華国学会での歴史的発表は、是非とも私にお任せください!!」
太后は自室で官吏から報告を受けた。
太后「宮廷学者殿……おぃ! 天華はただ朝の空を見上げただけじゃぞ!」
ここは外朝庭園・梅林。光と風をふんだんに取り込むために設計された庭園区画である。
この区画は一般開放されているエリアと隣接しているが、皇族たる天華様の身を守るため、重厚な囲障で明確に区切られ、鋭い眼光の警護兵たちがズラリと立ち並んで警戒に当たっている。
天華は安全な囲障の内側の長椅子で、ぼーっと昼の空を見上げている。
天華「昼の空、ちぃと白う見えるな」
蘭花「ふふふ、流石は姫様! 昼の光が織りなす白さの真髄まで見抜かれるとは、これまた吉兆でございますね!今宵は良い夢が見られますね」
薄花「……そうなんよ……この白さ……まるで柔らかい雲が姫様の御心を優しく包んでいるのでございます……」
天華はふんすと胸を張った。
理策「恐れながら申し上げます。昼の空が白く見えるのは、大気中の微粒子による散乱現象です」
剛明「天華、昼の空は太陽の光で白う見えるのが普通じゃ」
牧玄「姫様、空はどう見えたところで綿菓子のように食えんぞ。見るだけのものじゃ」
琴雪「昼の空……それはふわりと舞い散る……姫様の心の淡雪……」
囲障の向こう側に集まっていた庶民や子供たちが、警護兵の手前で身を乗り出して口々に大騒ぎし始める。
警護兵①「これ! 押し寄せるな! 囲障から下がるのだ! 姫様の安全を守れ!」
警護兵②「お前たち、静かにせんか!暴れると引っ捕らえるぞ!」
子供①「(囲障越しに)姫様ー! 空白いん? なんでなん!?」
子供②「(ぴょんぴょん跳ねて)白いん!? もしかして甘いん!? 食べられるん!?」
子供③「みんなー! 姫様が白い空を食べるかもしれんぞーーーっ!」
住民①「おー、警護兵どの怒らんでくれ。姫様のお姿拝めて眼福じゃなぁ。」
住民②「確かに空が白いですなぁ。こりゃあ明日も晴れますかいねぇ」
太后は自室でこの様子を官吏から報告された。
太后「……お前たち、何を大騒ぎしておるのだ。天華はただ昼の空を見ただけじゃぞ」
天華が内廷門近くの回廊の長椅子でぼーっとくつろいでいると、雲の切れ目から鮮やかな黄金と赤の夕陽が差し込んできた。
天華「夕の空、ちぃと赤うなっとるな」
蘭花「ふふふ、流石は姫様! 夕焼けの内に潜む無限の深みまで感じ取られるとは、お見事でございますね!」
薄花「……そうでございます……この赤さ……まるで聖なる陽炎が姫様の御心を優しく照らしているのでございます……」
天華は誇らしげに胸を張って笑った。
理策「解説いたします。夕焼けが赤く見えるのは、波長の短い青い光が散乱し尽くし、波長の長い赤い光のみが届くためです」
剛明「天華、夕焼けに見とれてぼーっとしとると、すぐ日が暮れて帰るのが遅くなるぞ」
牧玄「姫様、どれほど赤く熟しているように見えても、空はリンゴのように食えんぞ。リンゴは美味いぞ」
琴雪「夕の空……それは赤く滾る……姫様の心の焔……」
ーーなぜかしら、この話が市中の話屋たちに伝播した。
話屋①「大変じゃ! 姫様が夕焼けが赤いと言われたらしいぞ!」
話屋②「赤い空は姫様の情熱的な御心の象徴らしいぞ! これは間違いなく天下泰平の吉兆の報せじゃ!」
話屋③「国中に広めるんじゃ! 明日から姫様の夕焼け感謝の儀を毎夕催すぞ!」
話屋④「わしが茶房で一番最初に語ってやるぞ、任せろ!」
太后は自室で官吏から市中報告を受けた。
太后「……どうしてそうなる。天華はただ夕の空を見ただけじゃ」
寝所へ向かう中外回廊から夜空を見上げれば、そこには大小無数の星々が、まるで砂袋をひっくり返したかのように、またたきながら満天の天の川の帯を形作っている。
今にも星々の重みで天が落ちてくるのではないかと錯覚するほどだ。
天華「夜の空、ちぃと重たい気がするな」
蘭花「ふふふ、流石は姫様! 夜空の静寂に宿る無限の重厚さまで感じ取られるとは、お見事でございますね!」
薄花「……そうでございます……この重さ……まるで深い静寂が姫様の御心に優しく寄り添っているのでございます……美しゅうございます……」
理策「恐れながら申し上げます。夜の空が重く見えるのは、背景の絶対光量が減少し、空間の奥行き認識が低下するためです」
剛明「天華、夜の空をずっと見とると、あくびが出て眠うなるぞ。はぁぁ、確かに眠くてなるな……」
牧玄「姫様、どれほど重そうに見えても空は食えんぞ。さあ、早く寝所へお入りくだされ」
琴雪「夜の空……それは果てしなく深い……姫様の心の深淵……」
ーーなぜかしら、この夜の呟きが宮廷占師たちに伝わる。
占師①「姫様が夜の空が重いと言われた日は大吉兆じゃ!」
占師②「夜空の重さは、国家の運命がドッシリと安定する吉相の印じゃ!」
占師③「今日から夜空重み占いを我が国の公式占い基準にするんじゃ!」
占師④「某は公式占師基準が、多すぎてどうすれば良いかわかりません。姫様、お助けを!」
太后は自室で宮廷占師の暴走について官吏から報告を受けた。
太后「……どうしてそうなる。天華はただ、夜の空を見上げただけじゃぞ……」
太后は、そんな宮廷占師たちに深くため息をついた。




