第1話 自然に歩くんよ
笑天宮は、古装時代の建築様式を色濃く残す巨大な宮殿であり、外朝(政務・儀式)と内廷(生活)が明確に分かれている。
初代皇帝が「人々が笑って暮らせる国を作るんよ」からはじまり、掲げた明るい国の理念により、深く光を取り込む構造と自然の風が心地よく通り抜ける設計が最大の特徴となっている。外朝は「国の形」、内廷は「心の形」を象徴するとされている。
その外朝と内廷を結ぶ美しい中外回廊の外に広がる中外庭苑には、薄紅色の桃花が咲き誇り、時折吹くやわらかな春風が花びらを舞い散らせていた。
天華「んー……今日の道、ちぃと歩きやすいな」
蘭花「ふふふ、流石は姫様! 道の歩きやすさという極微なる兆しまで一瞬で見抜かれるとは、これぞ絶対なる吉兆の兆しにございます! 歩くだけで吉を呼ぶとは、流石姫様でございますね!」
薄花「……そうでございます……姫様……この歩み……まるで朝の清らかな風が、姫様の尊き御心に静かに寄り添っているのでございます……美しゅうございます……」
天華は「ふふふ」と誇らしげに胸を張って笑った。
その様子をすぐ近くで見ていた理策、剛明、牧玄、そして琴雪が語り出す。
理策「恐れながら申し上げます。歩きやすさを感じておられるのは、単に舗装された地面の平面度と摩擦係数の状態が良いという物理的要因によるものです」
剛明「天華、歩きやすいけぇって調子に乗ってパタパタ歩いとると普通に躓いて転ぶぞ」
牧玄「姫様、どんなに歩きやすい道であっても、道は道であって餅のように食うことはできませんぞ。」
琴雪「ふふ……歩みを進める姫様……心の輪郭が……しなやかに地に描かれております……」
──しばらくして、この「歩きやすいな」という一言が市中に伝播する。
商人「聞いたか! 天華様が歩きやすいと感じられた日は大吉兆じゃ! この日に物を買わんと損するぞ!」
職人「天華様が踏まれた歩きやすい道こそ運命の道じゃ! 暦職人を集めよ、今日から暦を作り直すぞ!」
占師「今日から天華様の歩み占いを天華国の絶対基準にするんじゃ! 一歩の踏み込みで運勢を占うぞ!」
老人「わしの家の前はボコボコで歩きにくいぞ。天華様の吉兆が来んけぇ、なんとかしてくれ」
女将「天華国は天華様の国なんだよ!歩きやすいに決まってるわよ!」
それらの大騒ぎの噂は、当然のように太后の耳にも入る。
太后「……どうしてそうなる。天華はただ、道を踏んで歩いただけじゃ」
御政殿前の広場・月台には、隙間なく精密に噛み合わされた石畳は、何千人もの職人が何ヶ月もかけて磨き上げた一級品であり、降り注ぐ陽光を浴びて目も眩むほど、純白に輝いている。
その眩しい石畳の上を、金糸が鮮やかに映える赤黒の豪華な古装を纏った天華が、急ぎ足で歩いていく。
天華「ほいじゃけぇ、ちぃと急ぐけぇ、速う歩くで!」
蘭花「ああっ、お待ち下さい姫様! 私の足では追いつけません! ですが……急がれるお姿すらも、なんと可憐で優雅な振る舞いでございましょうか!」
薄花「……姫様……その風を切る速さ……まるで光そのものが姫様の御心を追いかけているのでございます……」
その様子を近くで見ていた理策、剛明、牧玄、琴雪が再び語り出す。
理策「恐れながら申し上げます。速く歩いた場合、得られる結果は単位時間あたりの移動速度が向上するという事実のみです」
剛明「天華、急いで速う歩くと普通に息切れして後でバテるぞ」
牧玄「姫様、どれほど速う歩いたところで、移動時間が縮むだけで道は食えんぞ」
琴雪「速い歩み……それは溢れ出る姫様の……心の熱き躍動……」
──しばらくして、この「速う歩く」が市中に爆発的に伝播する。
子供①「みんなー! 姫様、歩くのめっちゃ速いってさ! なんでそんな速いん!?」
子供②「速いん!? すげえ! ワシも走る!!」
子供③「みんなー! 姫様が速う歩いとるそうだ! ワシらも速う歩くのじゃー!」
子供④「私は誰よりも速くあるけるんよー!」
子供⑤「荷物持ったら早うあるけんわっ」
それらの子供たちの暴走の噂は、速やかに太后の耳にも入る。
太后「……どうしてそうなる。天華はただ、用事があって急いだだけじゃ」
正午を回ると、南北に長い中外回廊はまばゆい黄金色の陽光に満たされ、まるで光で作られた幻想的なトンネルのようになった。
天華「んー……今度は、ゆっくり歩こか」
蘭花「ふふふ、流石は姫様! 急緩を自在に操るゆったりとした歩み……それこそが王者の余裕、至高の優雅さでございますね!」
薄花「……姫様……そのゆるやかな歩み……まるで穏やかな夕暮れが姫様の御心に寄り添っているのでございます……美しゅうございます……」
その様子を近くで見ていた理策、剛明、牧玄、琴雪がみたび語り出す。
理策「恐れながら申し上げます。ゆっくり歩いた場合、移動効率が低下し、目的地への到着時間が遅延するだけです」
剛明「天華、そうやってゆっくりしすぎると、本当にあっという間に日が暮れて晩飯の時間が遅れるぞ」
牧玄「姫様、どれほどゆっくり歩いても、時間が稼げるだけで道は煎餅のように食えんぞ」
琴雪「ゆるやかな歩み……それは深く静かな……姫様の心の静穏……」
──しばらくして、この「ゆっくり歩く」が市中に伝播し、新たなビジネスへと昇華する。
話屋①「大変じゃ! 姫様が今度はゆっくり歩かれとるらしいぞ!」
話屋②「ゆっくり歩くのは……そうか! 天下泰平と謙虚の象徴らしいぞ!」
話屋③「国中に広めるんじゃ! 今日から姫様のゆっくり歩きの儀を執り行うぞ!」
話屋④「よし、このゆっくり歩き講話の瓦版を売れば、一儲け出来るぞ!」
話屋⑤「俺が先に話そう。姫様のゆっくり歩くのはーー」
それらの怪しいビジネスの噂は、容赦なく太后の耳にも入る。
太后「……どうしてそうなる。天華はただ、気分でゆっくり歩いただけじゃ」
自室にて太后は頭を抱えるのだった。




