第六話 揺務なんよ ―生活が揺れるんよ―
天鏡殿の奥、観測の間は朝の光を拒むように静かだった。
黒檀の柱は影を深く落とし、空気は薄く、
まるで生活そのものがここでは許されていないようだった。
兵卒が一歩踏み入れた瞬間――
足音が“ふっ”と空気に吸われて消えた。
兵卒 「歩いとるのに……音がせんのんよ……」
剛明 「なんでかなぁ?」
理策 「報告します。生活音が消音されたようです」
姫様――天華は、静けさの中で嬉しそうに微笑んだ。
天華 「ほいじゃけぇ、自然に静かなんよ!」
観測の間の静けさに戸惑いながら、玲音が慌てて駆け込んできた。
しかし状況が飲み込めず、まずは礼儀が口をついた。
玲音 「し、失礼いたします……!
天鏡殿書記見習い・玲音、参りました……!」
静けさの中でその声だけが妙に浮いた。
天華 「おお、来たんじゃね。ほいじゃけぇ、自然に静かなんよ!」
玲音 「えっ……あっ……姫様、申し訳ありません……
その……まずはご挨拶をと思いまして……
でも……音が……せんのんよ……!?」
兵卒「ほんま、なんも聞こえんのんよ!」
玲音 「えっ!? 音が……消えたんですか!?
これ生活の基盤が崩れとるんよ!?
あっ……姫様、申し訳ありません……でも音がせんのは困るんよ……!」
兵卒「生活感が……薄うなっとるんよ……」
剛明が観測用の玉を持ち上げた。
すると玉の輪郭が“すっ……”と薄くなり、
まるで存在を拒むように空気へ溶けていく。
剛明「玉が……薄うなっとるんよ……これでは観測にならんのんよ……」
天華「ほいじゃけぇ、自然に観測できるんよ!」
理策「報告します。何故か、形状が消失しつつあります」
玲音「形が薄うなるって何なん!?
これ観測どころか生活の道具も使えんやつなんよ!!
あっ……姫様、失礼しました……でも薄うなるんよ……!」
剛明が観測についての説明を始めた。
剛明「観測とは――」
その声が途中で“ふっ”と消えた。
礼珠「説明が……途中で消えたんよ……」
天華「ほいじゃけぇ、自然に静かなんよ!」
理策「報告します。何故か、声が消音されたようです」
玲音「声が消えるってどういうことなん!?
説明が聞こえんかったら仕事にならんのんよ!?
あっ……姫様、申し訳ありません……でも消えたんよ……!」
文靖が竹簡をめくる。
しかし、めくった動きの余韻が消え、
めくったのに、めくった感じがしない。
文靖「……めくったのに……めくった感じがせんのんよ……」
天華「ほいじゃけぇ、自然に静かなんよ!」
理策「報告します。何故か、動作の痕跡が消失しています」
玲音「動いたのに動いた感じがせんのんよ!?
これ生活の実感が全部なくなるやつじゃろ!?
あっ……姫様、失礼しました……でも消えとるんよ……!」
兵卒「歩いとるのに踏みしめ感がせんのんよ……
物を置いても重みが伝わらんのんよ……
竹簡をめくっても“めくった感じ”がせんのんよ……
体を向けても重心が動かんのんよ……
息しとるのに胸が動いとらんのんよ……
生活の実感が……全部薄うなっとるんよ……」
牧玄が観測のために水鉢を運んできた。
この間に入った瞬間、水面の揺れが止まり、
匂いが空気に触れた途端に消えた。
牧玄「……何故か、水の匂いが、せんのんよ……?」
剛明「何か起こっているようだ」
理策「報告します。生活物資が、消音・消香の段階に入ったようです。」
天華「ほいじゃけぇ、自然に静かなんよ!」
玲音「水の匂いが消えるって何なん!?
これ料理も洗い物もできんやつじゃろ!?
あっ……姫様、申し訳ありません……でも水が薄うなっとるんよ……!」
兵卒「水面が……揺れんのんよ……
手を近づけても冷たさが伝わらんのんよ……
水をすくおうとしても重みが感じられんのんよ……
器の底が見えとるのに、水の存在がわからんのんよ……
生活の実感が……また一つ……消えとるんよ……」
水の輪郭が“すっ……”と薄くなり、
最後には空気へ溶けるように消えた。
牧玄「……水が……水が……消えたんよ……」
剛明「観測用の生活物資が消失しました。」
理策「報告します。完全消失です。」
天華「ほいじゃけぇ、自然に観測できたんよ!」
剛明「……観測記録が、読めんのんよ……
文字が……薄うなっとるんよ……どがーにもならんのんよ!」
理策「報告します。記録そのものが消失しつつあります。観測出来ても記録できません。」
文靖「……持っとるのに……持っとる感じがせんのんよ……」
玲音「姫様……観測も生活も……
どっちも実感が薄うなっとります……
このままでは……天鏡殿の務めが……」
天華「ほいじゃけぇ、自然に静かなんよ。
静けさは、観測の本質なんよ。」
兵卒「観測も……生活も……
どっちも……ままならんのんよ……
静けさが……全部持っていっとるんよ……」
剛明「……本日の観測は……ここまでで……中断とするんよ……」
天華「ほいじゃけぇ、自然に終わったんよ?」
玲音「終わったんじゃなくて……“消えた”んよ……姫様……」
観測の間は、生活の気配をすべて失うという不思議な状態となった。
そして、ただ静けさだけが残っていた。




