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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第3章 飾り妻は歓迎されない

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第9話

昼を過ぎる頃には、部屋の中の空気まで乾いていた。


暖炉の火は入っているのに、じっとしていると足先から冷える。王都の屋敷なら、そろそろ侍女が茶を運んでくる刻だった。けれど、ここでは誰も来ない。


催促するほどのことでもない。


そう思って待っていたが、気づけば窓の外の光が少し傾いていた。


エレノアは立ち上がり、自分で廊下へ出た。


東棟は本邸の端に近いせいか、人通りが少ない。たまに下働きや侍女が通っても、皆きちんと立ち止まり、頭を下げ、それで終わる。


「お茶をいただけるかしら」


通りかかった若い侍女へ声をかけると、その子は驚いたように目を見開いた。


「は、はい。確認を」

「確認?」

「え……あの、女中頭へ」


ほんの一言で、その子が何かを怯えているのが分かる。


エレノアは首を振った。


「大げさなことではないわ。手が空いた時でいいの」

「ですが」

「忙しいのでしょう」

「……はい」


侍女は深く頭を下げて去っていった。


お茶一つにも、誰かの許しが要る。


夫人だからといって、好きに命じていいとは思わない。けれど、ここでは頼むことさえ流れの外なのだと分かった。


そのまま部屋へ戻る気になれず、エレノアはゆっくり廊下を歩いた。


西棟へ近づくにつれて、人の気配が増える。洗った布を抱えた女中、薪を運ぶ下男、帳面を持って足早に行き来する侍従。皆、止まらない。誰もが自分の持ち場を知っている足取りだった。


その中でだけ、エレノアの歩みが浮く。


どこへ向かうでもなく、何かを運ぶでもなく、呼ばれてもいない。


ふと、角を曲がった先で、小声のやり取りが聞こえた。


「そこ、先に乾燥庫へ」

「でも、こっちは?」

「副家令様が今夜の分を優先しろと」

「女中頭には?」

「もう通してある」


足を止める。


半開きの扉の向こうは、布の仕分け部屋らしかった。厚手の布や毛織物が棚に積まれ、二人の侍女が慌ただしく手を動かしている。


エレノアが見ていることに気づいた途端、二人とも口をつぐんだ。


「……奥方様」


慌てて頭を下げる。


「続けて」

「いえ、その」


年上のほうの侍女が、ちらりと奥を見る。誰かに聞かれていないか確かめるような目だった。


「何か、足りていないの?」

「そういうわけでは」

「今夜の分を優先と聞こえたけれど」

「いつものことですので」


答えたのは若いほうだった。だがそのすぐあとで、年上の侍女に袖を引かれ、はっと口を閉じる。


ここでも同じだ。


答えたくないのではない。答えていい立場ではないのだ。


「奥方様のお茶なら、すぐにお持ちします」

「ありがとう。でも、それだけでいいわ」


それ以上いると、仕事の手を止めさせるだけになる。


エレノアは扉から離れた。歩き出した背に、すぐまた布の擦れる音が戻る。自分がそこへいなかったみたいに、仕事は元の流れへ戻っていく。


中庭へ面した回廊に出ると、向こうからアグネスが来た。


女中を二人従え、何かを指示しながら歩いている。女中たちは彼女の声に一度も聞き返さない。短い言葉だけで足が揃っていた。


エレノアに気づくと、アグネスは立ち止まった。


「奥方様」

「お忙しそうね」

「ええ」


それだけで終わりそうになったので、エレノアは聞いた。


「お茶を頼んだのだけれど、誰かを困らせてしまったかしら」

「困らせた、とは」

「確認が必要だと言われたの」

「そうでしょうね」


あまりにあっさりしていて、少し言葉が詰まる。


「この屋敷は、誰が何を運び、どこへ回すかが細かく決まっております。奥方様のお部屋へ人を出せば、そのぶん別の手が減りますので」

「お茶一つで」

「お茶一つ、です」


その言い方に棘はなかった。だからこそ痛い。


ここでは、温かい茶も、厚い布も、誰かの手の上で動く。余裕があれば自然に差し出される王都とは違う。


「では、私は後回しなのね」

「今は」


また、その言葉だった。


今は。まだ。いずれは。


形だけは先へ含みを持たせるのに、目の前には何も渡さない。


「皆、その“今は”で壁を作るのね」

「壁ではありません」

「違うの?」

「持ち場です」


言い切ったアグネスの目は揺れない。


「崩せば困る者が出ます。奥方様に悪意があるとも、遊び半分だとも思っておりません」

「でも、信用はしていない」

「しておりません」


間を置かずに返された。


女中を従えたまま、アグネスはまっすぐ立っている。その姿は冷たいというより、固い。簡単に折れてはいけない場所の人間の立ち方だった。


エレノアは目を伏せそうになるのをこらえた。


「分かったわ」


それしか言えなかった。


アグネスは一礼する。


「お茶はすぐに」

「ええ」


部屋へ戻ると、確かに茶は運ばれていた。湯気は立っている。手抜きではない。けれど添えられた菓子はなく、茶器も客用ではなく実用品だった。


公爵夫人への嫌がらせではない。


足りるぶんだけを、足りる形で出しただけだ。


茶を飲み終えてからも、じっとしていられず、夕刻前にもう一度廊下へ出た。今度は西棟の階段近くで、下働きの娘たちが薪束を抱えて行き来しているのが見えた。


一人、抱え方の危うい子がいる。肩に力が入りすぎて、歩幅が狭い。このままだと角でぶつける。


声をかけかけて、エレノアは止まった。


かければ、またアグネスに止められる。


かけなくても、その子はたぶんどこかで困る。


迷った、その一瞬のうちに、別の手が出た。


薪束をひょいと支えたのはマルタだった。


「肘を上げな。腰で持つんだよ」

「は、はい」

「二度目で覚えりゃいい」


娘は真っ赤になって頷き、薪束を抱え直す。マルタはその背を見送り、ふとエレノアに気づいた。


「奥方様」

「今の、助かったわ」

「私は見慣れておりますから」


そう言って、マルタは近くの窓辺に薪の粉を払った。


エレノアは声を落とす。


「皆、あなたの言うことは聞くのね」

「長くおりますから」

「私は長くいれば、聞いてもらえるのかしら」

「さあ」


即答ではなかった。だが慰めもしなかった。


そのかわり、マルタはこう続ける。


「ここの者は、誰が上かより、誰が冬を越させてくれるかを見ます」


その一言で、息が浅くなる。


王都では、長女であることも、婚約者の隣にいることも、役に立つ手であることも、全部いつの間にか誰かに奪われた。けれどここでは違う種類の値踏みがある。


名ではなく、結果。


ただし、今の自分にはその結果を出す場所すら与えられていない。


マルタはそれ以上何も言わず、薪束の端を足で寄せた。


「冷えます。お部屋へ」


追い払うでも、誘うでもない言い方だった。


エレノアは頷いて、その場を離れる。


夕方の鐘が鳴る頃には、屋敷じゅうの空気がまた変わった。人が増えたわけではないのに、動きが速くなる。暖炉の火、夕食の支度、夜具の運び込み。寒くなる前に終えるべきことが一斉に押し寄せるのだろう。


その流れを見ているうちに、エレノアはようやく理解した。


この屋敷で自分だけが、何も背負っていない。


背負わせてもらえていない。


それが、想像していたよりずっと苦しかった。


部屋へ戻ると、窓の外はもう群青だった。


机の上に手を置く。冷えた木の感触が掌に移る。


お茶は届く。


食事も届く。


眠る場所もある。


けれど、それだけだ。


窓の外で、どこかの戸が閉まる音がした。


そのあと、低い声が一つだけ響く。短く、よく通る。ヴィクトルの声だと分かった。


それに応じて、人の足音が一斉に動く。


夫の一言で流れが変わる。


その中に、自分の居場所はまだない。

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