第9話
昼を過ぎる頃には、部屋の中の空気まで乾いていた。
暖炉の火は入っているのに、じっとしていると足先から冷える。王都の屋敷なら、そろそろ侍女が茶を運んでくる刻だった。けれど、ここでは誰も来ない。
催促するほどのことでもない。
そう思って待っていたが、気づけば窓の外の光が少し傾いていた。
エレノアは立ち上がり、自分で廊下へ出た。
東棟は本邸の端に近いせいか、人通りが少ない。たまに下働きや侍女が通っても、皆きちんと立ち止まり、頭を下げ、それで終わる。
「お茶をいただけるかしら」
通りかかった若い侍女へ声をかけると、その子は驚いたように目を見開いた。
「は、はい。確認を」
「確認?」
「え……あの、女中頭へ」
ほんの一言で、その子が何かを怯えているのが分かる。
エレノアは首を振った。
「大げさなことではないわ。手が空いた時でいいの」
「ですが」
「忙しいのでしょう」
「……はい」
侍女は深く頭を下げて去っていった。
お茶一つにも、誰かの許しが要る。
夫人だからといって、好きに命じていいとは思わない。けれど、ここでは頼むことさえ流れの外なのだと分かった。
そのまま部屋へ戻る気になれず、エレノアはゆっくり廊下を歩いた。
西棟へ近づくにつれて、人の気配が増える。洗った布を抱えた女中、薪を運ぶ下男、帳面を持って足早に行き来する侍従。皆、止まらない。誰もが自分の持ち場を知っている足取りだった。
その中でだけ、エレノアの歩みが浮く。
どこへ向かうでもなく、何かを運ぶでもなく、呼ばれてもいない。
ふと、角を曲がった先で、小声のやり取りが聞こえた。
「そこ、先に乾燥庫へ」
「でも、こっちは?」
「副家令様が今夜の分を優先しろと」
「女中頭には?」
「もう通してある」
足を止める。
半開きの扉の向こうは、布の仕分け部屋らしかった。厚手の布や毛織物が棚に積まれ、二人の侍女が慌ただしく手を動かしている。
エレノアが見ていることに気づいた途端、二人とも口をつぐんだ。
「……奥方様」
慌てて頭を下げる。
「続けて」
「いえ、その」
年上のほうの侍女が、ちらりと奥を見る。誰かに聞かれていないか確かめるような目だった。
「何か、足りていないの?」
「そういうわけでは」
「今夜の分を優先と聞こえたけれど」
「いつものことですので」
答えたのは若いほうだった。だがそのすぐあとで、年上の侍女に袖を引かれ、はっと口を閉じる。
ここでも同じだ。
答えたくないのではない。答えていい立場ではないのだ。
「奥方様のお茶なら、すぐにお持ちします」
「ありがとう。でも、それだけでいいわ」
それ以上いると、仕事の手を止めさせるだけになる。
エレノアは扉から離れた。歩き出した背に、すぐまた布の擦れる音が戻る。自分がそこへいなかったみたいに、仕事は元の流れへ戻っていく。
中庭へ面した回廊に出ると、向こうからアグネスが来た。
女中を二人従え、何かを指示しながら歩いている。女中たちは彼女の声に一度も聞き返さない。短い言葉だけで足が揃っていた。
エレノアに気づくと、アグネスは立ち止まった。
「奥方様」
「お忙しそうね」
「ええ」
それだけで終わりそうになったので、エレノアは聞いた。
「お茶を頼んだのだけれど、誰かを困らせてしまったかしら」
「困らせた、とは」
「確認が必要だと言われたの」
「そうでしょうね」
あまりにあっさりしていて、少し言葉が詰まる。
「この屋敷は、誰が何を運び、どこへ回すかが細かく決まっております。奥方様のお部屋へ人を出せば、そのぶん別の手が減りますので」
「お茶一つで」
「お茶一つ、です」
その言い方に棘はなかった。だからこそ痛い。
ここでは、温かい茶も、厚い布も、誰かの手の上で動く。余裕があれば自然に差し出される王都とは違う。
「では、私は後回しなのね」
「今は」
また、その言葉だった。
今は。まだ。いずれは。
形だけは先へ含みを持たせるのに、目の前には何も渡さない。
「皆、その“今は”で壁を作るのね」
「壁ではありません」
「違うの?」
「持ち場です」
言い切ったアグネスの目は揺れない。
「崩せば困る者が出ます。奥方様に悪意があるとも、遊び半分だとも思っておりません」
「でも、信用はしていない」
「しておりません」
間を置かずに返された。
女中を従えたまま、アグネスはまっすぐ立っている。その姿は冷たいというより、固い。簡単に折れてはいけない場所の人間の立ち方だった。
エレノアは目を伏せそうになるのをこらえた。
「分かったわ」
それしか言えなかった。
アグネスは一礼する。
「お茶はすぐに」
「ええ」
部屋へ戻ると、確かに茶は運ばれていた。湯気は立っている。手抜きではない。けれど添えられた菓子はなく、茶器も客用ではなく実用品だった。
公爵夫人への嫌がらせではない。
足りるぶんだけを、足りる形で出しただけだ。
茶を飲み終えてからも、じっとしていられず、夕刻前にもう一度廊下へ出た。今度は西棟の階段近くで、下働きの娘たちが薪束を抱えて行き来しているのが見えた。
一人、抱え方の危うい子がいる。肩に力が入りすぎて、歩幅が狭い。このままだと角でぶつける。
声をかけかけて、エレノアは止まった。
かければ、またアグネスに止められる。
かけなくても、その子はたぶんどこかで困る。
迷った、その一瞬のうちに、別の手が出た。
薪束をひょいと支えたのはマルタだった。
「肘を上げな。腰で持つんだよ」
「は、はい」
「二度目で覚えりゃいい」
娘は真っ赤になって頷き、薪束を抱え直す。マルタはその背を見送り、ふとエレノアに気づいた。
「奥方様」
「今の、助かったわ」
「私は見慣れておりますから」
そう言って、マルタは近くの窓辺に薪の粉を払った。
エレノアは声を落とす。
「皆、あなたの言うことは聞くのね」
「長くおりますから」
「私は長くいれば、聞いてもらえるのかしら」
「さあ」
即答ではなかった。だが慰めもしなかった。
そのかわり、マルタはこう続ける。
「ここの者は、誰が上かより、誰が冬を越させてくれるかを見ます」
その一言で、息が浅くなる。
王都では、長女であることも、婚約者の隣にいることも、役に立つ手であることも、全部いつの間にか誰かに奪われた。けれどここでは違う種類の値踏みがある。
名ではなく、結果。
ただし、今の自分にはその結果を出す場所すら与えられていない。
マルタはそれ以上何も言わず、薪束の端を足で寄せた。
「冷えます。お部屋へ」
追い払うでも、誘うでもない言い方だった。
エレノアは頷いて、その場を離れる。
夕方の鐘が鳴る頃には、屋敷じゅうの空気がまた変わった。人が増えたわけではないのに、動きが速くなる。暖炉の火、夕食の支度、夜具の運び込み。寒くなる前に終えるべきことが一斉に押し寄せるのだろう。
その流れを見ているうちに、エレノアはようやく理解した。
この屋敷で自分だけが、何も背負っていない。
背負わせてもらえていない。
それが、想像していたよりずっと苦しかった。
部屋へ戻ると、窓の外はもう群青だった。
机の上に手を置く。冷えた木の感触が掌に移る。
お茶は届く。
食事も届く。
眠る場所もある。
けれど、それだけだ。
窓の外で、どこかの戸が閉まる音がした。
そのあと、低い声が一つだけ響く。短く、よく通る。ヴィクトルの声だと分かった。
それに応じて、人の足音が一斉に動く。
夫の一言で流れが変わる。
その中に、自分の居場所はまだない。




