第10話
その夜は、なかなか寝つけなかった。
暖炉の火は落ち着いている。毛布も薄いなりに整えた。窓の金具も昨夜よりはましだ。それでも目を閉じると、昼のやり取りが何度も浮かぶ。
今は。
持ち場です。
足りております。
頭の中で言葉だけが冷えていく。
エレノアは寝台から起き上がった。喉が少し渇いていた。水差しの水はまだ冷たくなりきっていない。半杯だけ飲んで、もう一度横になろうとして、廊下の向こうで何かが落ちる音を聞いた。
高い音ではない。木箱か桶の類が、床に角をぶつけたような鈍い音だ。
一拍遅れて、小さく息を呑む気配がした。
エレノアは外套を羽織り、扉を開けた。
東棟の夜は静かだ。灯りは絞られ、昼よりもいっそう人が少ない。音のしたほうを見ると、廊下の端で若い下働きの娘がしゃがみ込んでいた。手元には細長い薪箱。ふたがずれ、中の細薪が何本か床へ散らばっている。
娘は顔を上げ、エレノアを見るなり青くなった。
「お、奥方様」
「大丈夫?」
「申し訳ありません、すぐに」
慌てて薪を拾おうとして、娘の手が止まる。
指先が赤い。いや、赤いだけではない。節のところが白くひび割れ、一本だけうっすら血がにじんでいた。
「その手で運んでいたの」
「平気です」
「平気ではないわ」
「でも、今夜の分を」
「どこへ」
「使用人区画です」
娘はそう答えてから、言いすぎたと思ったのか唇を結んだ。
エレノアは床に落ちた細薪を二、三本拾って箱へ戻す。娘がぎょっとした顔をした。
「お、お手を汚しては」
「薪で汚れる手なら、もう慣れているわ」
言ってから、自分でも妙だった。侯爵家の娘が言うにはおかしい台詞だ。けれど娘はそこを気にする余裕もないらしい。
薪箱は大きくないが、細薪がぎっしり詰まっている。東棟の女中一人が夜に一度運ぶには、少し重い。
「一人で?」
「今日は人が足りなくて」
娘はそこまで言って、また口をつぐむ。
足りております、ではなかったのだと、昼の言葉が耳の奥でかすかに軋む。
エレノアは箱の中身を見た。細薪ばかりで、火を長く保たせる太い薪が入っていない。火起こしには向くが、夜通し持たせるには弱い配分だ。
「これだと、すぐに火が落ちるわ」
「……は?」
「誰に言われたの」
「決まりです。夜は細いものを多めにって」
娘の声には迷いがある。言われた通りにしているだけで、自分でも理由までは分かっていないのだろう。
エレノアは箱の脇にしゃがみ、細薪を少し端へ寄せた。
「下働き部屋なら、先に細いもの。火が落ち着いてから太いもの。細いものだけ足し続けると、朝まで持たないでしょう」
「でも、太い薪は居間のほうへ回せと」
「そうね」
ここで勝手に薪の配分を変えれば、またアグネスに叱られる。それは分かっている。けれどこの子の手を見てしまったあとで、何も言わず部屋へ戻ることもできなかった。
エレノアは廊下の隅に積まれていた補充用の太薪を見た。
「二本だけ、箱の底へ入れて。使い切らないように」
「そんなことをしたら、怒られます」
「見つからないように、ではなく、朝まで火を残すためよ」
「……」
「もし怒られたら、私が言ったと」
「それは、もっと怒られます」
思いがけず返されて、エレノアは目を瞬いた。
娘は慌てて口を押さえる。
「す、すみません」
「いいえ。たぶん、その通りね」
こんな時なのに、息が抜けた。
エレノアは自分の部屋へ戻り、机の引き出しから小さな軟膏壺を取ってきた。王都を発つ前、自分用に紛れ込ませておいたものだ。香りも強くない、ごくありふれた保湿の膏。
娘はそれを見て、さっと首を振った。
「そんな高いもの、いただけません」
「高くないわ」
「でも」
「明日の朝に返して。少しでいいから、今だけ塗りなさい」
差し出すと、娘は恐る恐る受け取った。
ひどく軽い壺なのに、受け取る手つきは重い。
「お名前は?」
「……ミナです」
「ミナ。誰かに見つかる前に行ったほうがいいわ」
「はい」
それでも娘はすぐ動かず、箱を抱えたまま立ち尽くしている。
「どうしたの」
「奥方様は、どうして、その……こんなことを」
こんなこと。
薪箱の中を少し触り、下働きの手に膏を渡すことが、この屋敷では“こんなこと”になるのだと、エレノアは少し苦く思う。
「寒いと分かるから」
「……」
「それだけよ」
ミナは唇を結んだまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだよ。朝まで火が残ったら、その時に言って」
娘はまた目を丸くしたが、今度は慌てたように頷いた。
箱を抱え直して去っていく背を見送る。
角を曲がる前に、一度だけ振り返りかけて、やめた。その迷い方が、いかにもこの屋敷らしかった。
エレノアも部屋へ戻ろうとして、廊下の先に人影を見つけた。
マルタだった。
いつからいたのか分からない。灯りの薄い場所に立ち、こちらを見ている。
見られていた。
叱られるだろうか。明日にはアグネスへ伝わり、また勝手をするなと言われるかもしれない。あるいはオズウィンに。
マルタは近づいてきた。足音は静かだが、隠す気もない。
「お休みになっておられぬのですか」
「少し喉が渇いて」
「そうですか」
それ以上、薪のことにもミナのことにも触れない。
だが、何も知らない顔でもない。
エレノアは先に口を開いた。
「勝手をしたわ」
「そう思っておられるなら、もうなさるまい」
「……そうでもないかもしれない」
自分でも呆れる返事だった。けれど嘘ではない。
マルタはかすかに目を細める。
「難儀なお方だ」
「よく言われるわ」
「よく言われて、直らぬのでしょう」
「ええ」
そこで初めて、マルタの口元がかすかに動いた。
「火は、人を見ます」
「火が?」
「慌てて焚けばすぐ痩せる。手を抜けば消える。持たせる者は、よく見ております」
言い終えてから、マルタは階段のほうへ視線をやった。
「ただ、ここで人の持ち場を越えるのは嫌われます」
「知っているわ」
「嫌われるより先に、止められます」
「それも知ってる」
マルタは小さく頷いた。
「なら、奥方様も少しはお分かりでしょう」
何が、とは聞かなかった。
たぶん、見つけた綻びをすぐに全部直せるわけではないこと。ここでは順番を間違えれば、それだけで外へ出されること。そのくらいの意味だ。
「ミナのこと、言わないでいただける?」
「私が?」
「見ていたのでしょう」
「見ておりました」
あっさり認められて、少し肩の力が抜ける。
マルタは続けた。
「明日の朝、あの子の部屋が少し温かければ、それでよいのでは」
「……そうね」
それ以上は言わないまま、マルタは去っていった。
部屋へ戻り、寝台に入る。
さっきまで冷たかった毛布の内側が、今は少しましに感じる。自分の部屋が暖かいからではない。細薪だけでは朝まで持たない部屋が、あの先にあると知ってしまったからだ。
翌朝、朝食の盆と一緒に、小さな壺が戻ってきた。
布に包まれ、何も言葉は添えられていない。
けれど布の端に、ぎこちない字で小さく一つだけ書いてあった。
――あさまで、きえませんでした
その字を見た瞬間、指先に、弱い火が残った。




