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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第3章 飾り妻は歓迎されない

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第10話

その夜は、なかなか寝つけなかった。


暖炉の火は落ち着いている。毛布も薄いなりに整えた。窓の金具も昨夜よりはましだ。それでも目を閉じると、昼のやり取りが何度も浮かぶ。


今は。


持ち場です。


足りております。


頭の中で言葉だけが冷えていく。


エレノアは寝台から起き上がった。喉が少し渇いていた。水差しの水はまだ冷たくなりきっていない。半杯だけ飲んで、もう一度横になろうとして、廊下の向こうで何かが落ちる音を聞いた。


高い音ではない。木箱か桶の類が、床に角をぶつけたような鈍い音だ。


一拍遅れて、小さく息を呑む気配がした。


エレノアは外套を羽織り、扉を開けた。


東棟の夜は静かだ。灯りは絞られ、昼よりもいっそう人が少ない。音のしたほうを見ると、廊下の端で若い下働きの娘がしゃがみ込んでいた。手元には細長い薪箱。ふたがずれ、中の細薪が何本か床へ散らばっている。


娘は顔を上げ、エレノアを見るなり青くなった。


「お、奥方様」

「大丈夫?」

「申し訳ありません、すぐに」


慌てて薪を拾おうとして、娘の手が止まる。


指先が赤い。いや、赤いだけではない。節のところが白くひび割れ、一本だけうっすら血がにじんでいた。


「その手で運んでいたの」

「平気です」

「平気ではないわ」

「でも、今夜の分を」

「どこへ」

「使用人区画です」


娘はそう答えてから、言いすぎたと思ったのか唇を結んだ。


エレノアは床に落ちた細薪を二、三本拾って箱へ戻す。娘がぎょっとした顔をした。


「お、お手を汚しては」

「薪で汚れる手なら、もう慣れているわ」


言ってから、自分でも妙だった。侯爵家の娘が言うにはおかしい台詞だ。けれど娘はそこを気にする余裕もないらしい。


薪箱は大きくないが、細薪がぎっしり詰まっている。東棟の女中一人が夜に一度運ぶには、少し重い。


「一人で?」

「今日は人が足りなくて」


娘はそこまで言って、また口をつぐむ。


足りております、ではなかったのだと、昼の言葉が耳の奥でかすかに軋む。


エレノアは箱の中身を見た。細薪ばかりで、火を長く保たせる太い薪が入っていない。火起こしには向くが、夜通し持たせるには弱い配分だ。


「これだと、すぐに火が落ちるわ」

「……は?」

「誰に言われたの」

「決まりです。夜は細いものを多めにって」


娘の声には迷いがある。言われた通りにしているだけで、自分でも理由までは分かっていないのだろう。


エレノアは箱の脇にしゃがみ、細薪を少し端へ寄せた。


「下働き部屋なら、先に細いもの。火が落ち着いてから太いもの。細いものだけ足し続けると、朝まで持たないでしょう」

「でも、太い薪は居間のほうへ回せと」

「そうね」


ここで勝手に薪の配分を変えれば、またアグネスに叱られる。それは分かっている。けれどこの子の手を見てしまったあとで、何も言わず部屋へ戻ることもできなかった。


エレノアは廊下の隅に積まれていた補充用の太薪を見た。


「二本だけ、箱の底へ入れて。使い切らないように」

「そんなことをしたら、怒られます」

「見つからないように、ではなく、朝まで火を残すためよ」

「……」

「もし怒られたら、私が言ったと」

「それは、もっと怒られます」


思いがけず返されて、エレノアは目を瞬いた。


娘は慌てて口を押さえる。


「す、すみません」

「いいえ。たぶん、その通りね」


こんな時なのに、息が抜けた。


エレノアは自分の部屋へ戻り、机の引き出しから小さな軟膏壺を取ってきた。王都を発つ前、自分用に紛れ込ませておいたものだ。香りも強くない、ごくありふれた保湿の膏。


娘はそれを見て、さっと首を振った。


「そんな高いもの、いただけません」

「高くないわ」

「でも」

「明日の朝に返して。少しでいいから、今だけ塗りなさい」


差し出すと、娘は恐る恐る受け取った。


ひどく軽い壺なのに、受け取る手つきは重い。


「お名前は?」

「……ミナです」

「ミナ。誰かに見つかる前に行ったほうがいいわ」

「はい」


それでも娘はすぐ動かず、箱を抱えたまま立ち尽くしている。


「どうしたの」

「奥方様は、どうして、その……こんなことを」


こんなこと。


薪箱の中を少し触り、下働きの手に膏を渡すことが、この屋敷では“こんなこと”になるのだと、エレノアは少し苦く思う。


「寒いと分かるから」

「……」

「それだけよ」


ミナは唇を結んだまま、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」

「まだよ。朝まで火が残ったら、その時に言って」


娘はまた目を丸くしたが、今度は慌てたように頷いた。


箱を抱え直して去っていく背を見送る。


角を曲がる前に、一度だけ振り返りかけて、やめた。その迷い方が、いかにもこの屋敷らしかった。


エレノアも部屋へ戻ろうとして、廊下の先に人影を見つけた。


マルタだった。


いつからいたのか分からない。灯りの薄い場所に立ち、こちらを見ている。


見られていた。


叱られるだろうか。明日にはアグネスへ伝わり、また勝手をするなと言われるかもしれない。あるいはオズウィンに。


マルタは近づいてきた。足音は静かだが、隠す気もない。


「お休みになっておられぬのですか」

「少し喉が渇いて」

「そうですか」


それ以上、薪のことにもミナのことにも触れない。


だが、何も知らない顔でもない。


エレノアは先に口を開いた。


「勝手をしたわ」

「そう思っておられるなら、もうなさるまい」

「……そうでもないかもしれない」


自分でも呆れる返事だった。けれど嘘ではない。


マルタはかすかに目を細める。


「難儀なお方だ」

「よく言われるわ」

「よく言われて、直らぬのでしょう」

「ええ」


そこで初めて、マルタの口元がかすかに動いた。


「火は、人を見ます」

「火が?」

「慌てて焚けばすぐ痩せる。手を抜けば消える。持たせる者は、よく見ております」


言い終えてから、マルタは階段のほうへ視線をやった。


「ただ、ここで人の持ち場を越えるのは嫌われます」

「知っているわ」

「嫌われるより先に、止められます」

「それも知ってる」


マルタは小さく頷いた。


「なら、奥方様も少しはお分かりでしょう」


何が、とは聞かなかった。


たぶん、見つけた綻びをすぐに全部直せるわけではないこと。ここでは順番を間違えれば、それだけで外へ出されること。そのくらいの意味だ。


「ミナのこと、言わないでいただける?」

「私が?」

「見ていたのでしょう」

「見ておりました」


あっさり認められて、少し肩の力が抜ける。


マルタは続けた。


「明日の朝、あの子の部屋が少し温かければ、それでよいのでは」

「……そうね」


それ以上は言わないまま、マルタは去っていった。


部屋へ戻り、寝台に入る。


さっきまで冷たかった毛布の内側が、今は少しましに感じる。自分の部屋が暖かいからではない。細薪だけでは朝まで持たない部屋が、あの先にあると知ってしまったからだ。


翌朝、朝食の盆と一緒に、小さな壺が戻ってきた。


布に包まれ、何も言葉は添えられていない。


けれど布の端に、ぎこちない字で小さく一つだけ書いてあった。


――あさまで、きえませんでした


その字を見た瞬間、指先に、弱い火が残った。

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