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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第3章 飾り妻は歓迎されない

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第11話

朝のうちに、その小さな火はすぐ冷えた。


返ってきた壺を布ごと引き出しへしまい、エレノアは少し迷ってから部屋を出た。昨夜のことを誰かに言うつもりはない。ただ、ミナの手がどうなったのか、ひと目見たかった。


東棟の裏階段を下りると、ちょうど下働きたちが洗い場へ向かうところだった。桶を抱えた娘たちの中に、ミナもいる。指には布が巻かれていた。


目が合う。


その瞬間、ミナの肩がびくりと揺れた。


礼をしようとしたのだろう。けれど、すぐ後ろから年上の女が低く言った。


「前を見な」


ミナは顔をこわばらせ、そのまま足を速めた。


エレノアはその場に立ち尽くす。


無視されたわけではない。昨夜の布切れを思えば、むしろ逆だ。分かっているのに、手の中の壺だけがやけに冷たい。


洗い場のほうでは、もう次の指示が飛んでいる。桶の並べ方、湯の順番、布の振り分け。誰も止まらない。自分が一人立ち尽くしていることだけが、ひどく浮いて見えた。


「奥方様」


振り向くと、アグネスがいた。


いつもの無駄のない顔。けれど今日は、視線が少し硬い。


「こちらへ」

「……ええ」


連れて行かれたのは、女中たちの出入り口脇にある細い廊下だった。人通りはあるのに、誰もこちらを見ない。見ていないふりをしている。


アグネスが立ち止まる。


「昨夜、東棟の薪に手を入れられたそうですね」

「聞いたの」

「東棟の夜番が、補充の数が違うと申しました」


責め立てる声ではない。だからこそ逃げ場がなかった。


「細薪ばかりだったの。あれでは朝まで持たないわ」

「持つように回しております」

「実際には持っていなかったでしょう」

「それでも、勝手に変えてよい話ではありません」


ぴたりと返される。


その言葉のあとの沈黙が長かった。アグネスは怒鳴らない。けれど、ただ叱るより重い。


「ミナの手も裂けていた」

「冬前は皆そうなります」

「だからって、そのままでいいはずが」

「いいとは申しておりません」


初めて、アグネスの声が低く沈んだ。


「ですが、誰に何をどれだけ回すかは、ここでは一つずつ繋がっております。奥方様が一人に膏を渡せば、次は別の者が欲しがる。薪を二本動かせば、どこかで帳尻を合わせねばならない」

「二本くらいで」

「二本だからです」


その言い方に、エレノアは言葉を失う。


アグネスは一歩だけ近づいた。


「王都では、“これくらい”で済んだのでしょう。けれどここでは、これくらいの綻びから崩れます」

「……私は崩したいわけではないわ」

「分かっております」

「だったら」

「だから困るのです」


その一言が、静かに刺さった。


悪意があるなら、切り捨てるだけで済む。善意で動かれるからこそ、現場を乱されたくない。そういう困り方だと分かる。


エレノアは指先を握った。


「もうしないわ」

「そうしていただけると助かります」


アグネスは礼をした。言葉は丁寧なのに、まるで扉を閉める音みたいだった。


昼まで部屋から出られなかった。


出ようとすれば出られる。閉じ込められているわけではない。けれど廊下へ出たところで、自分の足がどこにも向かわないのが分かっている。


机の上には本が二冊置かれていた。誰かが気を利かせて運んだのだろう。どちらも北辺の歴史と薬草の簡単な覚え書きだった。


追い払う代わりに、部屋で読んでいろということかもしれない。


窓辺の椅子に座って頁をめくる。乾いた紙の匂い。書かれていることは興味深いのに、文字は目の前を滑るばかりだった。


外では人が動いている。


その音だけが、ずっと聞こえていた。


夕方、ようやく茶が運ばれてきた。若い侍女は盆を置く時も、目を合わせなかった。昨日よりさらに丁寧で、さらに遠い。


「何かほかに」

「……いいえ」

「では」


閉まった扉を見つめる。


何も変わっていない。むしろ、少し後退したのかもしれない。


昨夜の布切れ一枚で、ほんの少し近づけたと思ったのは、自分だけだったのだろうか。ミナは感謝していた。けれど、感謝したまま近づける場所ではないのだ。


ここでは、個人的に救われることが、そのまま立場を危うくする。


食後、息が詰まって中庭へ面した回廊へ出た。


夕闇の底で、使用人たちがまだ動いている。薪の束、布籠、湯桶。誰もがどこかへ向かっている。その先がある足取りだ。


その流れの端に、ヴィクトルの姿が見えた。


外套も着けず、兵と二言三言交わしている。話は短いのに、相手の背筋がすっと伸びる。すぐ隣に立つオズウィンも、アグネスも、彼へ向ける時だけ間合いがかすかに変わる。


この屋敷はあの人を中心に回っている。


そして、その輪の外に自分がいる。


ふいに、咳き込む音がした。


回廊の下、薪置き場の陰で、若い下働きの娘が肩を丸めている。昼に見た子とは別だ。抱えた布籠の中には、洗い終えたばかりらしい薄手の布が山になっていた。頬が赤い。息も少し荒い。


目が合いかけて、娘は慌てて顔を伏せた。そのまま籠を抱えて足早に去っていく。


止められなかった。


止めても、今は何もできないと分かっているからだ。


けれど、去っていく背を見ているうちに、喉の奥にざらりとしたものが残る。


咳。


裂けた指。


細薪ばかりの薪箱。


全部ばらばらのようで、同じところから来ている。


部屋へ戻り、机に向かう。


紙を一枚引き寄せ、何となく書きつける。使用人区画、夜の火、手の荒れ、咳。思いつくままの言葉だけだ。整理にもなっていない。


けれど書いているうちに、呼吸が少し深くなる。


誰にも見せるつもりはない。今はまだ。


それでも、何もせずに部屋の中で冷えていくよりはましだった。


窓の向こうで、風が石壁を擦る。


エレノアは筆を置き、薄く目を閉じた。


この屋敷で息をするには、ただ善意で手を出すのでは足りない。


受け取られる形を見つけなければならない。

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