第11話
朝のうちに、その小さな火はすぐ冷えた。
返ってきた壺を布ごと引き出しへしまい、エレノアは少し迷ってから部屋を出た。昨夜のことを誰かに言うつもりはない。ただ、ミナの手がどうなったのか、ひと目見たかった。
東棟の裏階段を下りると、ちょうど下働きたちが洗い場へ向かうところだった。桶を抱えた娘たちの中に、ミナもいる。指には布が巻かれていた。
目が合う。
その瞬間、ミナの肩がびくりと揺れた。
礼をしようとしたのだろう。けれど、すぐ後ろから年上の女が低く言った。
「前を見な」
ミナは顔をこわばらせ、そのまま足を速めた。
エレノアはその場に立ち尽くす。
無視されたわけではない。昨夜の布切れを思えば、むしろ逆だ。分かっているのに、手の中の壺だけがやけに冷たい。
洗い場のほうでは、もう次の指示が飛んでいる。桶の並べ方、湯の順番、布の振り分け。誰も止まらない。自分が一人立ち尽くしていることだけが、ひどく浮いて見えた。
「奥方様」
振り向くと、アグネスがいた。
いつもの無駄のない顔。けれど今日は、視線が少し硬い。
「こちらへ」
「……ええ」
連れて行かれたのは、女中たちの出入り口脇にある細い廊下だった。人通りはあるのに、誰もこちらを見ない。見ていないふりをしている。
アグネスが立ち止まる。
「昨夜、東棟の薪に手を入れられたそうですね」
「聞いたの」
「東棟の夜番が、補充の数が違うと申しました」
責め立てる声ではない。だからこそ逃げ場がなかった。
「細薪ばかりだったの。あれでは朝まで持たないわ」
「持つように回しております」
「実際には持っていなかったでしょう」
「それでも、勝手に変えてよい話ではありません」
ぴたりと返される。
その言葉のあとの沈黙が長かった。アグネスは怒鳴らない。けれど、ただ叱るより重い。
「ミナの手も裂けていた」
「冬前は皆そうなります」
「だからって、そのままでいいはずが」
「いいとは申しておりません」
初めて、アグネスの声が低く沈んだ。
「ですが、誰に何をどれだけ回すかは、ここでは一つずつ繋がっております。奥方様が一人に膏を渡せば、次は別の者が欲しがる。薪を二本動かせば、どこかで帳尻を合わせねばならない」
「二本くらいで」
「二本だからです」
その言い方に、エレノアは言葉を失う。
アグネスは一歩だけ近づいた。
「王都では、“これくらい”で済んだのでしょう。けれどここでは、これくらいの綻びから崩れます」
「……私は崩したいわけではないわ」
「分かっております」
「だったら」
「だから困るのです」
その一言が、静かに刺さった。
悪意があるなら、切り捨てるだけで済む。善意で動かれるからこそ、現場を乱されたくない。そういう困り方だと分かる。
エレノアは指先を握った。
「もうしないわ」
「そうしていただけると助かります」
アグネスは礼をした。言葉は丁寧なのに、まるで扉を閉める音みたいだった。
昼まで部屋から出られなかった。
出ようとすれば出られる。閉じ込められているわけではない。けれど廊下へ出たところで、自分の足がどこにも向かわないのが分かっている。
机の上には本が二冊置かれていた。誰かが気を利かせて運んだのだろう。どちらも北辺の歴史と薬草の簡単な覚え書きだった。
追い払う代わりに、部屋で読んでいろということかもしれない。
窓辺の椅子に座って頁をめくる。乾いた紙の匂い。書かれていることは興味深いのに、文字は目の前を滑るばかりだった。
外では人が動いている。
その音だけが、ずっと聞こえていた。
夕方、ようやく茶が運ばれてきた。若い侍女は盆を置く時も、目を合わせなかった。昨日よりさらに丁寧で、さらに遠い。
「何かほかに」
「……いいえ」
「では」
閉まった扉を見つめる。
何も変わっていない。むしろ、少し後退したのかもしれない。
昨夜の布切れ一枚で、ほんの少し近づけたと思ったのは、自分だけだったのだろうか。ミナは感謝していた。けれど、感謝したまま近づける場所ではないのだ。
ここでは、個人的に救われることが、そのまま立場を危うくする。
食後、息が詰まって中庭へ面した回廊へ出た。
夕闇の底で、使用人たちがまだ動いている。薪の束、布籠、湯桶。誰もがどこかへ向かっている。その先がある足取りだ。
その流れの端に、ヴィクトルの姿が見えた。
外套も着けず、兵と二言三言交わしている。話は短いのに、相手の背筋がすっと伸びる。すぐ隣に立つオズウィンも、アグネスも、彼へ向ける時だけ間合いがかすかに変わる。
この屋敷はあの人を中心に回っている。
そして、その輪の外に自分がいる。
ふいに、咳き込む音がした。
回廊の下、薪置き場の陰で、若い下働きの娘が肩を丸めている。昼に見た子とは別だ。抱えた布籠の中には、洗い終えたばかりらしい薄手の布が山になっていた。頬が赤い。息も少し荒い。
目が合いかけて、娘は慌てて顔を伏せた。そのまま籠を抱えて足早に去っていく。
止められなかった。
止めても、今は何もできないと分かっているからだ。
けれど、去っていく背を見ているうちに、喉の奥にざらりとしたものが残る。
咳。
裂けた指。
細薪ばかりの薪箱。
全部ばらばらのようで、同じところから来ている。
部屋へ戻り、机に向かう。
紙を一枚引き寄せ、何となく書きつける。使用人区画、夜の火、手の荒れ、咳。思いつくままの言葉だけだ。整理にもなっていない。
けれど書いているうちに、呼吸が少し深くなる。
誰にも見せるつもりはない。今はまだ。
それでも、何もせずに部屋の中で冷えていくよりはましだった。
窓の向こうで、風が石壁を擦る。
エレノアは筆を置き、薄く目を閉じた。
この屋敷で息をするには、ただ善意で手を出すのでは足りない。
受け取られる形を見つけなければならない。




