第12話
翌朝、窓を開けた瞬間に分かった。
空気が違う。
痛いほどではないが、頬に触れる冷たさが一段深い。石の手すりには白く霜が張りつき、屋根の影になった場所だけ、薄く凍っている。
エレノアは窓を閉め、昨夜書きつけた紙を見た。
使用人区画。
夜の火。
手の荒れ。
咳。
子どもの走り書きみたいに、脈絡もなく並んでいる。それでも、頭の中でほどけかけていたものを留めるには足りた。
朝食のあと、茶器を下げに来た侍女が、盆を持ち上げたまま小さく咳をした。
乾いた咳だった。喉だけが擦れるような、熱のない咳。
「風邪?」
「いえ、大丈夫です」
反射のように返して、侍女は目を伏せる。
「夜が少し寒かっただけで」
「部屋の火が持たなかったの?」
「そんなことは」
言いかけて、侍女は唇を閉じた。
何でもありません、と言い直して頭を下げる。その耳が、少し赤い。
エレノアはそれ以上追わなかった。
追えば、また困らせる。
だが扉が閉まったあとも、その咳が耳に残る。
昼前、東棟の回廊を歩いていると、今度は縫い物部屋の前で二人の女中が言い争う気配を聞いた。大きな声ではない。聞かれてまずいことを知っている声だ。
「これじゃ指がかじかんで針が進まないわ」
「でも厚布は上へ回せって」
「上って、奥の客間なんて昼しか使わないじゃない」
「聞こえるわよ」
三人目の声で、ぴたりと止む。
角を曲がったエレノアの姿が見えたらしい。扉の内側で布が擦れ、慌てて椅子を引く音がした。
まただ、と指先に力が入った。
人の手が荒れている。
咳が出る。
夜の火が足りない。
それなのに厚布は別へ回っている。
一つ一つは小さい。けれど小さいものばかりが、立場の低い者のところへ寄っている。
部屋へ戻る途中、中庭を横切るマルタが見えた。
大きな籠を片腕で抱えたまま、下働きの少年に何か言っている。少年は首を縦に振り、すぐ駆けていった。
エレノアは少し迷ってから、階段を下りた。
マルタはすぐに気づいたが、足を止めない。
「奥方様」
「少し」
「何でございましょう」
歩調を崩さないまま聞かれる。完全に拒まれているわけではないが、悠長に立ち話をする気もないのだろう。
エレノアは横に並ぶ。
「使用人たちの部屋は、夜になると冷えるのね」
「冷えます」
「薪が足りていないの?」
「足りない、で済めば楽でしょうね」
マルタはそれきり黙った。
その沈黙に、エレノアは少し目を細める。
「済まないの」
「火は薪だけでは保ちません」
「どういうこと?」
「焚き方、部屋の向き、布の回り方、人の出入り。少しずつの積み重ねでございます」
籠を持ち替えながら、マルタはようやく足を止めた。
「誰かが悪さをしているわけではありません」
「そう」
「忙しい時ほど、目の前の大きいところへ厚く回ります。表の暖炉、客間、主の通る場所。そうして残ったものが、下へ落ちる」
理屈としては分かる。
だが分かることと、見過ごせることは違う。
エレノアは聞いた。
「それで、皆あれだけ手を荒らしているのね」
「水仕事も多うございますし」
「咳も」
「乾いた咳なら、風邪と決まったわけではありません」
マルタの目が、かすかにこちらを見る。
「ただ、冷える部屋で寝れば、喉も荒れます」
その言い方は曖昧だった。断定はしない。けれど否定もしない。
「見ておいでになるだけなら、どうぞ見ていてください」
「……」
「ただ、今はまだ、誰の持ち場もひっくり返せません」
その言葉は拒絶ではなかった。
ひっくり返せない。なら、別のやり方で触れるしかない。
午後、エレノアは部屋でじっとしている代わりに、窓辺の椅子を廊下に近い位置へ動かした。扉を少し開けておけば、人の流れと音が拾える。
みっともないかもしれない。けれど、何も分からないままよりましだ。
廊下を通る侍女たちの会話は短い。
「薬草箱、どこへ回すの」
「軽い咳なら後。先に消毒の分」
「でも洗い場の子が」
「後だってば」
その声に、エレノアの手が止まる。
薬草箱。
軽い咳は後。
消毒の分が先なのは当然だ。重い怪我に必要なのだから。だが、“後”へ回された先がどうなるのか、昨日までの自分は考えなかったかもしれない。大きな不足ではないからだ。小さく我慢できる不調は、簡単に後回しになる。
その小さな不調が、下働きの手と喉に溜まっていく。
夕方前、アグネスが東棟へ上がってくるのが見えた。
部屋の前を通り過ぎるところで、エレノアは扉をもう少し開いた。
アグネスは足を止める。
「何か」
「一つだけ聞いてもいいかしら」
「お返事できることでしたら」
「軽い咳や手荒れに回す薬草や膏は、いつも後になるの?」
アグネスの目が、かすかに動いた。
「誰からお聞きに」
「聞いたのではなく、通る声が耳に入ったの」
「……そうですか」
アグネスはしばらく黙っていたが、やがて言う。
「重いものから先です」
「それは分かるわ」
「でしたら」
「でも、軽いものが溜まれば重くなるでしょう」
ぴたりと空気が止まった。
言ってしまってから、指先に力が入る。
アグネスは怒らなかった。ただ、じっとこちらを見る。
「奥方様」
「勝手に口を出したいわけではないの」
「そうでしょうね」
「でも、見えるの」
膝の上の手を握る。
「下の者ばかりが、少しずつ足りていない」
アグネスは返事をしなかった。
その沈黙は、否定ではなかった。認めもしない。ただ、簡単に言葉へ乗せられない沈黙だ。
やがて彼女は静かに言う。
「それでも今は、全体を止めて組み直すほどの余裕がありません」
「止めなくても、見直せる場所はあるはずよ」
「奥方様」
そこで初めて、アグネスの声に疲れが混じった。
「皆、それぞれに持たせております」
その一言だけで、分かった。
足りていないことを、現場の上にいる者たちも知らないわけではない。知っていて、どこを削るか、どこを我慢させるかで回しているのだ。
だから簡単には責められない。
だから余計に、綻びになる。
アグネスは頭を下げる。
「失礼いたします」
それだけで去っていく。
扉を閉めたあと、エレノアはしばらく動けなかった。
見つけてしまった。
誰か一人の悪意でも、分かりやすい怠慢でもない歪みを。忙しさと慣習の中で、立場の低い者から順に冷えていく形を。
窓の外では、日が落ちかけている。
このまま見ているだけでは、また夜が来る。手の裂けた子がいて、喉を痛めた子がいて、火の細い部屋で眠る。
何もしないほうが賢い。
まだ受け入れられてもいない。
それでも、机へ向かった時にはもう、手が紙を引き寄せていた。
使用人区画の部屋割り。
火の持ち。
厚布の流れ。
軽症用の薬草。
書きつけながら、頭の中で少しずつ順番が立つ。
全部は無理だ。
けれど、一つずつなら。
誰の持ち場もひっくり返さず、止めずに、今あるものの置き方だけを直せば。
筆先が紙を擦る音だけが、静かに続く。




