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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第3章 飾り妻は歓迎されない

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第12話

翌朝、窓を開けた瞬間に分かった。


空気が違う。


痛いほどではないが、頬に触れる冷たさが一段深い。石の手すりには白く霜が張りつき、屋根の影になった場所だけ、薄く凍っている。


エレノアは窓を閉め、昨夜書きつけた紙を見た。


使用人区画。


夜の火。


手の荒れ。


咳。


子どもの走り書きみたいに、脈絡もなく並んでいる。それでも、頭の中でほどけかけていたものを留めるには足りた。


朝食のあと、茶器を下げに来た侍女が、盆を持ち上げたまま小さく咳をした。


乾いた咳だった。喉だけが擦れるような、熱のない咳。


「風邪?」

「いえ、大丈夫です」


反射のように返して、侍女は目を伏せる。


「夜が少し寒かっただけで」

「部屋の火が持たなかったの?」

「そんなことは」


言いかけて、侍女は唇を閉じた。


何でもありません、と言い直して頭を下げる。その耳が、少し赤い。


エレノアはそれ以上追わなかった。


追えば、また困らせる。


だが扉が閉まったあとも、その咳が耳に残る。


昼前、東棟の回廊を歩いていると、今度は縫い物部屋の前で二人の女中が言い争う気配を聞いた。大きな声ではない。聞かれてまずいことを知っている声だ。


「これじゃ指がかじかんで針が進まないわ」

「でも厚布は上へ回せって」

「上って、奥の客間なんて昼しか使わないじゃない」

「聞こえるわよ」


三人目の声で、ぴたりと止む。


角を曲がったエレノアの姿が見えたらしい。扉の内側で布が擦れ、慌てて椅子を引く音がした。


まただ、と指先に力が入った。


人の手が荒れている。


咳が出る。


夜の火が足りない。


それなのに厚布は別へ回っている。


一つ一つは小さい。けれど小さいものばかりが、立場の低い者のところへ寄っている。


部屋へ戻る途中、中庭を横切るマルタが見えた。


大きな籠を片腕で抱えたまま、下働きの少年に何か言っている。少年は首を縦に振り、すぐ駆けていった。


エレノアは少し迷ってから、階段を下りた。


マルタはすぐに気づいたが、足を止めない。


「奥方様」

「少し」

「何でございましょう」


歩調を崩さないまま聞かれる。完全に拒まれているわけではないが、悠長に立ち話をする気もないのだろう。


エレノアは横に並ぶ。


「使用人たちの部屋は、夜になると冷えるのね」

「冷えます」

「薪が足りていないの?」

「足りない、で済めば楽でしょうね」


マルタはそれきり黙った。


その沈黙に、エレノアは少し目を細める。


「済まないの」

「火は薪だけでは保ちません」

「どういうこと?」

「焚き方、部屋の向き、布の回り方、人の出入り。少しずつの積み重ねでございます」


籠を持ち替えながら、マルタはようやく足を止めた。


「誰かが悪さをしているわけではありません」

「そう」

「忙しい時ほど、目の前の大きいところへ厚く回ります。表の暖炉、客間、主の通る場所。そうして残ったものが、下へ落ちる」


理屈としては分かる。


だが分かることと、見過ごせることは違う。


エレノアは聞いた。


「それで、皆あれだけ手を荒らしているのね」

「水仕事も多うございますし」

「咳も」

「乾いた咳なら、風邪と決まったわけではありません」


マルタの目が、かすかにこちらを見る。


「ただ、冷える部屋で寝れば、喉も荒れます」


その言い方は曖昧だった。断定はしない。けれど否定もしない。


「見ておいでになるだけなら、どうぞ見ていてください」

「……」

「ただ、今はまだ、誰の持ち場もひっくり返せません」


その言葉は拒絶ではなかった。


ひっくり返せない。なら、別のやり方で触れるしかない。


午後、エレノアは部屋でじっとしている代わりに、窓辺の椅子を廊下に近い位置へ動かした。扉を少し開けておけば、人の流れと音が拾える。


みっともないかもしれない。けれど、何も分からないままよりましだ。


廊下を通る侍女たちの会話は短い。


「薬草箱、どこへ回すの」

「軽い咳なら後。先に消毒の分」

「でも洗い場の子が」

「後だってば」


その声に、エレノアの手が止まる。


薬草箱。


軽い咳は後。


消毒の分が先なのは当然だ。重い怪我に必要なのだから。だが、“後”へ回された先がどうなるのか、昨日までの自分は考えなかったかもしれない。大きな不足ではないからだ。小さく我慢できる不調は、簡単に後回しになる。


その小さな不調が、下働きの手と喉に溜まっていく。


夕方前、アグネスが東棟へ上がってくるのが見えた。


部屋の前を通り過ぎるところで、エレノアは扉をもう少し開いた。


アグネスは足を止める。


「何か」

「一つだけ聞いてもいいかしら」

「お返事できることでしたら」

「軽い咳や手荒れに回す薬草や膏は、いつも後になるの?」


アグネスの目が、かすかに動いた。


「誰からお聞きに」

「聞いたのではなく、通る声が耳に入ったの」

「……そうですか」


アグネスはしばらく黙っていたが、やがて言う。


「重いものから先です」

「それは分かるわ」

「でしたら」

「でも、軽いものが溜まれば重くなるでしょう」


ぴたりと空気が止まった。


言ってしまってから、指先に力が入る。


アグネスは怒らなかった。ただ、じっとこちらを見る。


「奥方様」

「勝手に口を出したいわけではないの」

「そうでしょうね」

「でも、見えるの」


膝の上の手を握る。


「下の者ばかりが、少しずつ足りていない」


アグネスは返事をしなかった。


その沈黙は、否定ではなかった。認めもしない。ただ、簡単に言葉へ乗せられない沈黙だ。


やがて彼女は静かに言う。


「それでも今は、全体を止めて組み直すほどの余裕がありません」

「止めなくても、見直せる場所はあるはずよ」

「奥方様」


そこで初めて、アグネスの声に疲れが混じった。


「皆、それぞれに持たせております」


その一言だけで、分かった。


足りていないことを、現場の上にいる者たちも知らないわけではない。知っていて、どこを削るか、どこを我慢させるかで回しているのだ。


だから簡単には責められない。


だから余計に、綻びになる。


アグネスは頭を下げる。


「失礼いたします」


それだけで去っていく。


扉を閉めたあと、エレノアはしばらく動けなかった。


見つけてしまった。


誰か一人の悪意でも、分かりやすい怠慢でもない歪みを。忙しさと慣習の中で、立場の低い者から順に冷えていく形を。


窓の外では、日が落ちかけている。


このまま見ているだけでは、また夜が来る。手の裂けた子がいて、喉を痛めた子がいて、火の細い部屋で眠る。


何もしないほうが賢い。


まだ受け入れられてもいない。


それでも、机へ向かった時にはもう、手が紙を引き寄せていた。


使用人区画の部屋割り。


火の持ち。


厚布の流れ。


軽症用の薬草。


書きつけながら、頭の中で少しずつ順番が立つ。


全部は無理だ。


けれど、一つずつなら。


誰の持ち場もひっくり返さず、止めずに、今あるものの置き方だけを直せば。


筆先が紙を擦る音だけが、静かに続く。

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