第13話
その日の朝は、風が強かった。
まだ雪にはならない。けれど、洗い場へ続く石畳の上を歩くと、外套の裾まで冷えが入り込んでくる。東棟の窓から見ていた時より、地面に近い空気はずっときつい。
エレノアはわざと遠回りをして、裏手の回廊を抜けた。
誰かに呼ばれたわけではない。ただ、部屋にいると、昨日書きつけた言葉ばかりが頭の中で重くなる。だったら、もう一度この目で見たほうがましだった。
洗い場の手前で、小さく咳き込む声がする。
二人、三人。どれも短い。喉の奥だけが擦れるような咳だった。
大きな桶のそばでは、下働きの娘たちが湯と水を分けている。手元は速いが、指の動きがぎこちない子が何人かいた。水仕事のせいだけではない。冷えで節が固くなっている手だ。
その中の一人が、布の束を持ち上げたところでふらついた。
「危ない」
声が出るより早く、布束が片側へ傾く。娘は踏みとどまろうとして、膝から崩れた。
周りの子たちが息を呑む。
エレノアは駆け寄った。肩を支えると、娘の体は思った以上に軽い。熱はない。額は冷たく、頬だけが赤い。
「聞こえる?」
「……すみ、ません」
掠れた声だった。
息は乱れていない。意識もある。けれど指先が冷えきっていて、唇の色が少し悪い。
エレノアは娘の手首に触れた。脈は速い。熱で上がっている速さではなく、体が冷えを無理に回そうとしている時の速さに近い。
「朝は何を食べたの」
「パンを、少し」
「部屋は寒かった?」
「平気、です」
その答え方で分かる。平気ではなかったのだ。
背後で足音が鳴る。振り向かなくても誰か分かった。
「何をしているの」
アグネスの声は低かった。
女中たちが一斉に背を伸ばす。
エレノアは手を離さずに言った。
「この子、倒れたの」
「見れば分かります。ミア、立てるなら立ちなさい」
「待って」
思ったより強く言ってしまって、場が静まる。
アグネスの目が細くなる。けれど、今日はすぐ切ってこなかった。倒れた娘の顔色を見たからかもしれない。
エレノアは落ち着いて言い直す。
「熱ではないわ。冷えと、寝不足と、喉の痛み」
「医師を呼ぶほどではありません」
「呼ばなくていい。でも、このまま戻せばまた倒れる」
ミアと呼ばれた娘は、必死に起き上がろうとしていた。迷惑をかけたくないのだろう。その気持ちは分かる。分かるからこそ、今すぐ働かせたくなかった。
「少し座らせて、温かいものを飲ませて。洗い場の風の当たらないところで」
「手が足りません」
「だから今倒れたのよ」
言った瞬間、自分でも少し息が詰まる。
アグネスは黙った。怒っているというより、こちらの言葉を測っている顔だった。
エレノアは続ける。
「この子だけではないわね」
「……」
「咳をしている子が何人かいた。手も荒れている。夜の火が足りていない部屋があるのでしょう」
アグネスの視線がかすかに動く。
否定しない。
エレノアはそこで確信した。
悪意で削られているのではない。忙しさの中で、大きな場所から守られ、下のほうへ冷えが残っている。
「一つだけ、試させて」
「奥方様」
「全部変えるとは言わないわ。使用人区画の北側四部屋だけでいい」
「何を」
「夜の火と、厚布の回し方」
アグネスの目が鋭くなる。
エレノアはその視線を受けたまま、言葉を選んだ。
「表の客間を削れとは言わない。使っていない北の客間、三つあるでしょう」
「……あります」
「そこは夜の火を一段落としても死なないわ。そのぶん、北側の使用人部屋へ少し回す」
「少し、では済みません」
「だから四部屋だけ」
アグネスは返さない。
エレノアは洗い場の隅に寄せられた薪箱へ目をやった。
「薪も布も、足りないと言い切る前に、どこで止まっているか見たいの。増やすのではなく、夜だけ回す。朝に戻す。それなら表は崩れないでしょう」
「朝に誰が戻すのですか」
「戻す人が迷わないように、印をつける」
「印?」
エレノアは自分の袖口の内側に縫い込んであった、細い青い紐をほどいた。荷の包みを留めるために余らせていたものだ。
「箱と布に。今夜だけ回すものが一目で分かれば、いちいち聞かなくていい」
青い紐を、薪箱の取っ手へ一つ結びで留める。次に古い厚布の端へ、二つ結びで留めた。
「一つ結びは薪。二つ結びは布。色まで揃えなくても、結び方だけなら覚えられるわ」
洗い場にいた年上の女中が、思わずという顔で口を開いた。
「それなら……」
すぐにアグネスの横顔を見て、声を引っ込める。
だが遅かった。言葉はもう落ちている。
エレノアは続けた。
「人が足りないなら、考える時間を減らせばいい。誰がどこへ持つか迷うたびに、細いところから冷えるわ」
「奥方様」
アグネスの声は相変わらず硬い。けれど、最初の拒絶だけではなくなっていた。
「厚布を下へ回せば、上の部屋の支度が足りなくなる時もあります」
「夜だけでしょう」
「急な来客が」
「この風の日に、使っていない北の客間へ?」
「……」
アグネスはそこで言葉を止めた。
エレノアは一歩だけ近づく。
「表を削れとは言わないわ。誰にも見えないところの熱が足りていないだけ」
「皆、それぞれに持たせております」
「ええ。だから全部ではなく、今夜は北側四部屋だけ」
ミアが洗い場の椅子に座ったまま、じっとこちらを見ている。他の娘たちも同じだ。誰も口を挟まない。けれど視線だけが集まっている。
「ひと晩試して、朝に火が残らなければやめればいい」
「……」
「咳が減らなければ、私が引く」
「そこまで」
「引かないと、あなたは試さないでしょう」
風が吹き込み、洗い場の桶の縁が鳴った。
アグネスは目を伏せるでもなく、しばらく動かなかった。やがて息をひとつだけ吐く。
「今夜だけです」
洗い場の娘たちの空気が、目に見えないほどかすかに動く。
「北側四部屋。夜の火と厚布だけ。薬棚には触れません」
「触れなくていいわ」
「薬草の話まで広げないでください」
「今日は広げない」
「今日、は?」
アグネスの目が細くなる。
エレノアは一瞬言葉に詰まり、それから正直に言った。
「……必要なら、相談するわ」
「勝手に、ではなく?」
「勝手に、ではなく」
アグネスはそれ以上追わなかった。
そこへ、低い声がした。
「何の騒ぎだ」
振り向くと、オズウィンが立っていた。
帳面を抱えたまま、洗い場の様子を見ている。目に入ったのは倒れたミアか、結び紐か、それともエレノアか。たぶん全部だ。
アグネスが先に口を開く。
「北側四部屋の夜の配分を、今夜だけ調整します」
「誰の判断で」
「私の」
「女中頭」
「私の責で行います」
オズウィンの視線が、ゆっくりエレノアへ向く。
冷たい目だった。だが、すぐに何かを言うわけではない。そのかわり洗い場の椅子に座るミアを見て、娘の顔色と、巻かれた指の布、それから薪箱を見た。
「理由は」
「軽症者が下から崩れ始めています」
アグネスの声は短い。
「火の持ちが悪く、手の荒れと咳が増えている。このままなら、数日で洗い場と下働きが鈍る」
「今さらか」
「今だからです」
二人の間に張るものは、個人の感情ではなかった。現場をどう守るか、そのやり方の違いだけがある。
オズウィンは少し黙ったあと、薪箱の一結びの紐を見た。
「子どもの遊びのようだ」
「迷うよりはましです」
答えたのはエレノアだった。
オズウィンの目が上がる。
エレノアはまっすぐ見返した。
「帳面を作る余裕がないなら、一目で分かる形にするしかないでしょう」
「持ち場へ口を出すなと申し上げたはずですが」
「ええ」
「では」
「倒れる子が出ても?」
言ってしまってから、洗い場の空気がひやりとした。
オズウィンは目を細める。
怒るかと思ったが、違った。感情より先に、こちらの言葉の重さを測っている顔だった。
「今夜だけだ」
「……」
「結果が出なければ戻す」
意外だったのは、反対ではなく条件を出したことだった。
アグネスも少し目を上げる。
オズウィンは帳面を抱え直した。
「北側四部屋。洗い場と下働き部屋を優先。明朝、火床と体調を見ます」
「承知しました」
「帳面へは私が付ける。紐の意味を勝手に増やさないように」
最後の一言は、エレノアへ向けられていた。
拒絶の色はまだ濃い。けれど、完全には閉じなかった。
オズウィンが去ったあと、洗い場には再び仕事の音が戻る。だがさっきまでとは少し違う。娘たちの手が、急ぎすぎるのをやめた。
アグネスがエレノアを見る。
「奥方様」
「なに」
「今夜だけです」
「ええ」
「結果が出るまでは、余計なことは増やさないでください」
「分かってる」
「本当に?」
思わず、少し口元が緩みそうになった。
「たぶん」
「困ります」
そう言いながら、アグネスは端切れ籠から紐になりそうな布を選り分けはじめている。言葉より先に手が動いていた。
エレノアはしゃがみ込み、黙ってその端を裂いた。
アグネスは止めなかった。
布がまっすぐ裂ける音が、洗い場の冷えた空気の中で小さく響く。
小さなことだ。
北側四部屋だけ。
それでも、自分の手がこの屋敷で初めて受け取られたと思った。




