第14話
翌朝、エレノアはまだ空が白みきる前に目を覚ました。
気になって、というより、眠りが浅かったのだと思う。夜のあいだに何度か風の音で目が覚め、そのたびに北側四部屋の火が落ちていないかを考えてしまった。
外套を羽織って廊下へ出る。
東棟の朝は薄暗い。けれど裏階段のほうからは、もう人の足音が上がってきていた。桶の水が揺れる音、薪箱の擦れる音、短い咳。昨日までと同じはずなのに、今日はその一つ一つへ耳が向く。
洗い場へ近づくと、ミアがいた。
昨日倒れた娘だ。顔色はまだよくはないが、少なくとも昨日みたいに唇が白くない。手元も、完全ではないにせよ動いている。
エレノアに気づくと、ミアはびくりと肩を揺らした。だが今度は目を逸らさなかった。
「……おはようございます」
「おはよう。立っていられるのね」
「はい。昨夜は、その……」
言いかけて、ミアは周りを見る。誰かに聞かれるのを確かめるような目だった。
「火が、朝まで残ってました」
「そう」
それだけ返したつもりなのに、息が少し楽になった。
ミアは続けていいものか迷った顔をしていたが、結局、声をひそめた。
「部屋の子たちも、いつもより咳が少なかったです」
「よかった」
「……ありがとうございます」
その言葉は小さかった。けれど昨日の布切れより、ずっとはっきり届いた。
そこへアグネスが来た。
女中たちが一斉に動きを正す。アグネスの視線はまず洗い場の火床へ落ち、それから薪箱、ミアの顔、最後にエレノアへ向いた。
「早いですね、奥方様」
「気になって」
「でしょうね」
皮肉ではなかった。
アグネスは火床の灰を火ばさみでそっとかき、底に残った赤を確かめる。昨日ならここで、ほとんど白くなっていたのだろう。今日はまだ芯が残っていた。
「……完全には落ちておりません」
「ええ」
「北側の下働き部屋も同じでした。女中部屋も、二つは火が残っていたと」
「二つは?」
「夜更けに、前の焚き方で細薪ばかり足したようです」
エレノアは思わず息をつく。
まだ慣れていないのだ。配り方が変わっても、焚き方が昨日のままなら崩れる。
アグネスもそれは分かっているらしい。怒るより先に、少し考える顔になった。
「板に簡単な印を描きましょうか」
「板?」
「読めない子がいるのでしょう。細い薪と太い薪の順だけ、絵で」
「子どもではあるまいし」
「夜番で眠い時のためよ」
アグネスは否定しなかった。
その代わり、洗い場の端に置かれた湯桶へ目をやる。昨日指示した喉用の湯気のためのものだ。桶のそばにいた年上の女中が、気づいて口を開いた。
「咳のある子を、仕事前に少し寄せました」
「どうだった」
「ないよりは、まし、かと」
「誰が言ったの」
「洗い場のエマと、縫い場へ回るルナです」
二人とも立場の低い子だ。大げさに具合が悪いとは言い出せない種類の不調だろう。
アグネスはまた黙る。
アグネスは火床から湯桶へ、湯桶から娘たちの足元へ視線を移した。
すぐに退けるつもりなら、そんな見方はしない。エレノアはそこで口を閉じ、返事を待った。
「湯桶の場所、少し奥がいいわ」
「なぜです」
「入口で手を温めても、桶まで歩く間に冷える。奥なら仕事へ入る直前に使えるでしょう」
年上の女中が、思わずという顔で言う。
「それなら、子を呼び戻さなくて済みます」
「でも朝の仕分けが」
「台を半歩だけずらせば通れるわ」
口にしてから、エレノアは仕分け台の脚元を見た。桶を抱えた娘が一人通れるだけの幅はある。戻る子の肩も、壁に当たらない。
アグネスはその顔をじっと見ていた。
やがて、短く言う。
「仕分け台をずらして」
年上の女中がすぐ動く。
「湯桶は奥へ。咳のある子は先に通して、手を温めさせる」
「はい」
「洗い場の出入りは右から左へ一方に。戻る子とぶつけないように」
最後の一言は、エレノアのものではなかった。
アグネスはもう、エレノアを見ていない。湯桶の位置を確かめ、娘たちの足元を見て、次の指示を出している。
エレノアの言葉は、そこで初めて彼女の手つきに混じった。
仕分け台がぎいと音を立てて動く。湯桶が奥へ運ばれる。娘たちが戸惑いながらも並びを変える。さっきまでごちゃついていた入口が、少しすっきりした。
小さな変化だ。
桶を抱えた子と戻る子が、ぶつからない。湯桶に寄った子の肩から、余計な力が抜ける。
それだけのことが、目の前で起きる。
ミアが奥の湯桶に手をかざし、ほっとしたみたいに息を吐いた。
「奥方様」
アグネスが呼ぶ。
振り向くと、彼女は一拍だけ言葉を選んでから口を開いた。
「今夜も、北側四部屋は同じ配分で見ます」
「……ええ」
「ただし、広げるかどうかはまだ決めません」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
昨日と同じ返しをすると、アグネスは眉をひそめた。呆れたようにも見えたが、完全な拒絶ではない。
「では、たぶん、で結構です」
そう言って、すぐに女中たちのほうへ向き直る。
「ミア、今日は桶二つ分で下がりなさい。無理をしてまた倒れたら、明日から寝かせます」
「は、はい」
「エマは縫い場へ行く前に手へ膏を。塗ってから布を触りなさい」
「はい」
指示が飛ぶたび、人が動く。
その流れの端に、今日の自分の言葉が少し混じっている。
エレノアは洗い場の隅で息を吐いた。
勝ったとは思わない。
でも、何もできないわけではなかった。
この手はまだ、誰かの冷えへ届く。
洗い場の窓の向こうで、空が少し明るくなった。




