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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第4章 この手はまだ、誰かを救える

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第15話

変わったのは、狭い範囲だけだった。


その日の夕方、東棟へ戻る途中で、エレノアは洗い場の前をもう一度通った。朝の慌ただしさは引いている。濡れた床にはまだ冷えが残っていたが、入口のところで人がぶつかることはなくなっていた。


仕分け台は半歩ぶん奥へずれている。


湯桶も、入口ではなく暖炉の熱が少し届く位置に置かれていた。誰かが使ったあとだろう、縁に細い湯気が残っている。


ミアが布を畳んでいた。昨日ほど顔色は悪くない。気づいた瞬間に背を伸ばしたが、前みたいに慌てて頭を下げるのではなく、一拍おいてから口を開く。


「奥方様」

「無理はしていない?」

「今日は、昨日よりは」

「それならいいわ」


ミアは何か言いたそうにしたが、すぐ近くで年上の女中が動いた音に気づいて、唇を閉じた。


無理に続けさせる気はなかった。ここでは、言葉にしただけで、目立ってしまうことがある。


エレノアはそのまま立ち去ろうとして、ふと足を止める。


洗い終えた布の山が二つに分かれているのが見えた。薄い布と、少し厚手のもの。しかも厚いほうは、乾きの早い位置へ先に回されている。


昨日までより、順がいい。


誰かが考えて動かしたのだろう。たぶんアグネスか、年上の女中か。そこへ自分の手柄を探すつもりはなかったが、手の中に小さな熱が残る。


廊下へ出ると、縫い物部屋の前で若い女中が二人、布籠を抱えていた。前を通った時、一人が小さく会釈する。これまでの儀礼的な動きとは、間が違っていた。


その程度の違いに気づく自分が、少し可笑しい。


西棟へ近づくと、空気は元に戻る。


表の廊下は静かで、暖炉の火も十分だ。絨毯は厚く、客間へ向かう侍従の顔には余裕がある。そこでは何も変わっていない。エレノアを見ても、皆きちんと頭を下げるだけだ。


変わったのは現場だけ。


それも、北側の下のほうだけ。


その線引きが、かえってはっきり見えた。


夕食のあと、アグネスが珍しく自分から部屋を訪ねてきた。


「失礼いたします」

「どうぞ」


入ってきた彼女は、いつも通り無駄がない。だが今日は、用件を切り出すまでに間があった。


「北側四部屋の件ですが」

「ええ」

「今夜も同じ配分にしております」

「そう」

「それと……」


アグネスは言葉を選ぶように視線を落とした。


「洗い場の子の手荒れですが、膏を回す順を変えました」

「薬棚から?」

「いえ。端の者に回すときは、裂けの深い者から。浅い者には、湯気のあとで油を薄く」


エレノアは目を見開く。


「よく通ったのね」

「通すも何も、もともと無いわけではありません。ただ、前は皆に少しずつで済ませていたので」

「足りないところへ届かなかった」

「……そうです」


認める声は小さかった。


アグネスは続ける。


「奥方様の言う通り、浅い荒れに同じだけ回しても、深い者は動きが戻りません」

「動けなくなれば、結局もっと手が足りなくなるもの」

「ええ」


そこで会話が切れる。


褒めるでも礼を言うでもない。ただ、今日あった変化だけを確認するみたいなやり取りだった。


けれどエレノアには、それで十分だった。


アグネスが口を開く。


「ただし、表側へはまだ広げません」

「分かってる」

「客間の予備まで動かしていると知られれば、副家令はよい顔をしないでしょう」

「でしょうね」

「ですから、北側だけです」


線を引く言い方だったが、昨日までの拒絶とは違った。閉め出すための線ではなく、守りながら試すための線に近い。


「ねえ、アグネス」

「はい」

「どうしてそこまで表を優先するの」


聞くと、アグネスは少し眉を寄せた。


失礼だったかもしれない。けれど、責める気ではなかった。本当に知りたかったのだ。


しばらくして、アグネスは静かに言う。


「表が乱れると、屋敷全体が乱れたように見えます」

「……」

「北辺では冬前に不安が広がるのがいちばん厄介です。夫人が来た途端に表が崩れたとなれば、下の者も余計に浮き足立ちます」


個人的な好き嫌いではない。


分かっていたことが、改めて形になる。


「だから最初に私を入れたくなかったのね」

「ええ」


否定しない。


アグネスはまっすぐこちらを見た。


「ですが、下が冷えたままでも同じことでした」


その一言が、思ったより深く沁みた。


初めてだ。この屋敷の中の人間が、自分の見た綻びを言葉として置いたのは。


「明日も見る?」

「見ます」

「私も?」

「……洗い場までなら」


許しというには小さい。けれど、たしかに昨日より先へ進んでいる。


アグネスは一礼して部屋を出た。


扉が閉まったあと、エレノアはしばらくそのまま立っていた。


洗い場までなら。


それだけなのに、掌に熱が残っている。


翌朝、洗い場へ行くと、年上の女中が先に口を開いた。


「奥方様、湯桶の位置ですが」


昨日までなら、そんなふうに話しかけられることはなかった。


「入口から二人目の子が、手を温めたあとで戻る時に少し詰まります」

「左へ半歩寄せたらどうかしら」

「やはり、そうですよね」


その「やはり」が、妙に新鮮だった。


自分の意見を待たれている。


ごく狭い範囲でだけ。しかも洗い場の隅だけ。けれど、待たれること自体が久しぶりだった。


ミアが奥から出てくる。今日は咳が少ないように聞こえた。代わりに別の子が鼻をすすっていて、エレノアはそちらへ目を向ける。


「その子は?」

「夜番明けのルナです」と年上の女中が答えた。

「火は?」

「持ちました。でも、布を取りに何度か外へ出たせいで」

「なら戸口の脇へまとめておきましょう。夜の分だけ」

「はい」


返事が早い。


現場だけが先に動き出していた。


午前のうちに一度、公爵の近くへ書類を運ぶ侍従たちとすれ違った。誰も洗い場のことなど知らない顔だ。オズウィンも、階段の上からこちらを一瞥しただけで足を止めない。そこにあるのは、相変わらずの警戒と距離だけだった。


エレノアはそれでいいと思った。


今はまだ。


表まで届かなくていい。届かせようとすれば、きっとまた弾かれる。


そのかわり、洗い場の娘たちが咳き込む回数が少し減り、朝まで火が残り、裂けた指で桶を落とさなくなるなら、それで十分だ。


昼前、部屋へ戻ると、机の上に包みが一つ置かれていた。


薄茶の布で包まれた、小さなものだ。誰が持ってきたのか、札はない。


開けると、中には端の欠けた木の板が二枚と、細く裂いた布紐が束になっていた。


思わず、息が止まる。


洗い場で使う印と、簡単な順を書きつけるためのものだと、すぐ分かった。


いかにも余り物だった。新しいものでも、きれいなものでもない。それでも、わざわざ集めて部屋へ置かれたのだ。


手紙はない。


礼もない。


たぶん、名前も出したくないのだろう。


それでも十分だった。


エレノアは木板を手に取る。ざらついた表面に、指先が引っかかる。


現場だけが先に変わる。


その変わり方は、こんなふうに小さい。誰にも見えないところで、余り物の板と布切れが、そっと部屋へ届くくらいの大きさだ。


けれどそれは、たしかにこの屋敷の中から渡されたものだった。


窓の外で風が鳴る。


エレノアは木板を机に置き、そばの筆を取った。


まずは、洗い場の分からでいい。

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