第15話
変わったのは、狭い範囲だけだった。
その日の夕方、東棟へ戻る途中で、エレノアは洗い場の前をもう一度通った。朝の慌ただしさは引いている。濡れた床にはまだ冷えが残っていたが、入口のところで人がぶつかることはなくなっていた。
仕分け台は半歩ぶん奥へずれている。
湯桶も、入口ではなく暖炉の熱が少し届く位置に置かれていた。誰かが使ったあとだろう、縁に細い湯気が残っている。
ミアが布を畳んでいた。昨日ほど顔色は悪くない。気づいた瞬間に背を伸ばしたが、前みたいに慌てて頭を下げるのではなく、一拍おいてから口を開く。
「奥方様」
「無理はしていない?」
「今日は、昨日よりは」
「それならいいわ」
ミアは何か言いたそうにしたが、すぐ近くで年上の女中が動いた音に気づいて、唇を閉じた。
無理に続けさせる気はなかった。ここでは、言葉にしただけで、目立ってしまうことがある。
エレノアはそのまま立ち去ろうとして、ふと足を止める。
洗い終えた布の山が二つに分かれているのが見えた。薄い布と、少し厚手のもの。しかも厚いほうは、乾きの早い位置へ先に回されている。
昨日までより、順がいい。
誰かが考えて動かしたのだろう。たぶんアグネスか、年上の女中か。そこへ自分の手柄を探すつもりはなかったが、手の中に小さな熱が残る。
廊下へ出ると、縫い物部屋の前で若い女中が二人、布籠を抱えていた。前を通った時、一人が小さく会釈する。これまでの儀礼的な動きとは、間が違っていた。
その程度の違いに気づく自分が、少し可笑しい。
西棟へ近づくと、空気は元に戻る。
表の廊下は静かで、暖炉の火も十分だ。絨毯は厚く、客間へ向かう侍従の顔には余裕がある。そこでは何も変わっていない。エレノアを見ても、皆きちんと頭を下げるだけだ。
変わったのは現場だけ。
それも、北側の下のほうだけ。
その線引きが、かえってはっきり見えた。
夕食のあと、アグネスが珍しく自分から部屋を訪ねてきた。
「失礼いたします」
「どうぞ」
入ってきた彼女は、いつも通り無駄がない。だが今日は、用件を切り出すまでに間があった。
「北側四部屋の件ですが」
「ええ」
「今夜も同じ配分にしております」
「そう」
「それと……」
アグネスは言葉を選ぶように視線を落とした。
「洗い場の子の手荒れですが、膏を回す順を変えました」
「薬棚から?」
「いえ。端の者に回すときは、裂けの深い者から。浅い者には、湯気のあとで油を薄く」
エレノアは目を見開く。
「よく通ったのね」
「通すも何も、もともと無いわけではありません。ただ、前は皆に少しずつで済ませていたので」
「足りないところへ届かなかった」
「……そうです」
認める声は小さかった。
アグネスは続ける。
「奥方様の言う通り、浅い荒れに同じだけ回しても、深い者は動きが戻りません」
「動けなくなれば、結局もっと手が足りなくなるもの」
「ええ」
そこで会話が切れる。
褒めるでも礼を言うでもない。ただ、今日あった変化だけを確認するみたいなやり取りだった。
けれどエレノアには、それで十分だった。
アグネスが口を開く。
「ただし、表側へはまだ広げません」
「分かってる」
「客間の予備まで動かしていると知られれば、副家令はよい顔をしないでしょう」
「でしょうね」
「ですから、北側だけです」
線を引く言い方だったが、昨日までの拒絶とは違った。閉め出すための線ではなく、守りながら試すための線に近い。
「ねえ、アグネス」
「はい」
「どうしてそこまで表を優先するの」
聞くと、アグネスは少し眉を寄せた。
失礼だったかもしれない。けれど、責める気ではなかった。本当に知りたかったのだ。
しばらくして、アグネスは静かに言う。
「表が乱れると、屋敷全体が乱れたように見えます」
「……」
「北辺では冬前に不安が広がるのがいちばん厄介です。夫人が来た途端に表が崩れたとなれば、下の者も余計に浮き足立ちます」
個人的な好き嫌いではない。
分かっていたことが、改めて形になる。
「だから最初に私を入れたくなかったのね」
「ええ」
否定しない。
アグネスはまっすぐこちらを見た。
「ですが、下が冷えたままでも同じことでした」
その一言が、思ったより深く沁みた。
初めてだ。この屋敷の中の人間が、自分の見た綻びを言葉として置いたのは。
「明日も見る?」
「見ます」
「私も?」
「……洗い場までなら」
許しというには小さい。けれど、たしかに昨日より先へ進んでいる。
アグネスは一礼して部屋を出た。
扉が閉まったあと、エレノアはしばらくそのまま立っていた。
洗い場までなら。
それだけなのに、掌に熱が残っている。
翌朝、洗い場へ行くと、年上の女中が先に口を開いた。
「奥方様、湯桶の位置ですが」
昨日までなら、そんなふうに話しかけられることはなかった。
「入口から二人目の子が、手を温めたあとで戻る時に少し詰まります」
「左へ半歩寄せたらどうかしら」
「やはり、そうですよね」
その「やはり」が、妙に新鮮だった。
自分の意見を待たれている。
ごく狭い範囲でだけ。しかも洗い場の隅だけ。けれど、待たれること自体が久しぶりだった。
ミアが奥から出てくる。今日は咳が少ないように聞こえた。代わりに別の子が鼻をすすっていて、エレノアはそちらへ目を向ける。
「その子は?」
「夜番明けのルナです」と年上の女中が答えた。
「火は?」
「持ちました。でも、布を取りに何度か外へ出たせいで」
「なら戸口の脇へまとめておきましょう。夜の分だけ」
「はい」
返事が早い。
現場だけが先に動き出していた。
午前のうちに一度、公爵の近くへ書類を運ぶ侍従たちとすれ違った。誰も洗い場のことなど知らない顔だ。オズウィンも、階段の上からこちらを一瞥しただけで足を止めない。そこにあるのは、相変わらずの警戒と距離だけだった。
エレノアはそれでいいと思った。
今はまだ。
表まで届かなくていい。届かせようとすれば、きっとまた弾かれる。
そのかわり、洗い場の娘たちが咳き込む回数が少し減り、朝まで火が残り、裂けた指で桶を落とさなくなるなら、それで十分だ。
昼前、部屋へ戻ると、机の上に包みが一つ置かれていた。
薄茶の布で包まれた、小さなものだ。誰が持ってきたのか、札はない。
開けると、中には端の欠けた木の板が二枚と、細く裂いた布紐が束になっていた。
思わず、息が止まる。
洗い場で使う印と、簡単な順を書きつけるためのものだと、すぐ分かった。
いかにも余り物だった。新しいものでも、きれいなものでもない。それでも、わざわざ集めて部屋へ置かれたのだ。
手紙はない。
礼もない。
たぶん、名前も出したくないのだろう。
それでも十分だった。
エレノアは木板を手に取る。ざらついた表面に、指先が引っかかる。
現場だけが先に変わる。
その変わり方は、こんなふうに小さい。誰にも見えないところで、余り物の板と布切れが、そっと部屋へ届くくらいの大きさだ。
けれどそれは、たしかにこの屋敷の中から渡されたものだった。
窓の外で風が鳴る。
エレノアは木板を机に置き、そばの筆を取った。
まずは、洗い場の分からでいい。




