第8話
北辺へ来て三日目の朝、エレノアは屋敷の流れを掴みかけていた。
夜明け前に厨房の火が大きくなり、その少しあとに下働きが水を運ぶ。日が高くなる前に薪が各棟へ配られ、夕方になると人の流れは表から裏へ寄る。暖炉、食事、寝具、戸締まり。寒さが深くなる前に済ませるべき順番が、屋敷じゅうに染みついている。
王都の屋敷より、人が忙しい。
いや、忙しいのではない。止まらないのだ。誰かが気を利かせて埋めてくれる余白も、立ち話のための隙間もない。ただ必要なことが先に流れていく。
エレノアは朝食のあと、部屋を出た。
公爵夫人として何をどこまで任されるのか、まだ誰からも説明はない。待っていれば、たぶん何も始まらない。
西棟へ向かう廊下ですれ違う侍女たちは、きちんと頭を下げる。礼はある。だがその目は、主人を見るというより、手順の一つをこなしている目だった。
応接間の前にいた若い侍従へ声をかける。
「家令か副家令に、少しお時間をいただけるかしら」
「……確認いたします」
侍従は一礼して去ったが、戻ってくるまでにやけに時間がかかった。
窓辺で待っていると、中庭を横切るアグネスの姿が見える。女中たちへ短く指示を飛ばしながら、振り向きもしない。無駄がなかった。
ようやく戻ってきた侍従が、控えめに言った。
「副家令がお会いになります」
案内されたのは、帳場に近い小さな部屋だった。
扉を開けると、オズウィンが書類に目を落としていた。顔を上げるのは、エレノアが入ってから一拍おいてからだ。
「奥方様」
「お忙しいところをありがとう」
「いえ」
勧められた椅子に腰を下ろす。オズウィンは座らない。机の向こうに立ったまま、必要なことだけ聞く顔をしている。
「ご用件を」
「この屋敷で、私が把握しておくべきことを教えていただきたいの。備蓄のこと、配分のこと、使用人の配置も」
「なぜですか」
あまりに早い問い返しだった。
エレノアは少し瞬く。
「なぜ、とは」
「奥方様が、そこまでを知る必要がどこにあるのかと」
声は丁寧だ。けれどその丁寧さが、壁になっている。
エレノアは机の上に置かれた帳面へ目をやった。表紙の端が擦れ、よく開かれているのが分かる。北辺では帳面も道具だ。
「公爵夫人には、屋敷の実務統率も役目の一つと伺っているわ」
「一般には」
「ここでは違うの?」
「ここでは、必要な者が必要なことをいたします」
切るような物言いではない。ただ、入る隙がない。
エレノアは息をひとつ置いた。
「私は北辺のことをまだ何も知らないわ。だからこそ、まず見たいの」
「見て、どうなさるおつもりですか」
「足りないものがあれば考えます」
「足りております」
即答だった。
それが本当か嘘かではなく、答えを用意していたのだと分かる速さだった。
「では、見せていただいても構わないでしょう」
「混乱はございませんので」
そこでようやく意味がはっきりした。
見せる必要がないのではない。
見せたくないのだ。
「私が南から来たから?」
「……」
「信用できないのね」
オズウィンの目が、初めてかすかに動いた。
「信用の話ではございません」
「では何?」
「この家は、寒さの前で遊べるほど余裕がありません」
静かな声だった。
その一言だけで、個人の好き嫌いではないのだと分かる。彼は本気でそう思っているのだ。南から来た、何も知らない花嫁に、現場を触らせる余裕はないと。
「奥方様に必要なものは整えます」
「私は、整えられるだけでいればいいと?」
「今は」
その二文字がひどく冷たかった。
今は、という形をしているくせに、いつ変わるとも言わない。
エレノアは立ち上がった。
「分かりました」
オズウィンは一礼した。その角度は正しい。だが通された客を送り出すのと同じで、夫人へ権限を預ける気配は一つもなかった。
部屋を出ると、廊下の冷えが身に沁みた。
そのまま部屋へ戻る気にはなれず、エレノアは裏階段の方へ足を向けた。人の流れを見るだけでも違うかもしれない。
厨房の前では、下働きの娘が大きな籠を抱えてよろめいていた。中には根菜がぎっしり入っている。手元が危うい。
「半分に分けたほうがいいわ」
声をかけると、娘はぎょっとして振り向いた。
「お、奥方様」
「そのままだと落とすわ」
「で、ですが」
「そこ、止まらないで」
横から飛んできた声に、娘がびくりと肩を跳ねさせる。
アグネスだった。
いつの間に来たのか分からないほど、足音がない。彼女は娘の籠をひょいと受け取ると、近くの台へ置いた。
「持ち方が悪い。腰で受けなさい」
「は、はい」
「行って」
娘は顔を青くしたまま去っていく。
アグネスはその背を見送ってから、ようやくエレノアを見た。
「こちらへは、何か」
「いいえ。少し見ていただけよ」
「そうですか」
それだけで済ませたが、視線は静かに固い。
エレノアは言った。
「重そうだったから」
「見れば分かります」
「だったら」
「分かる者が直します」
ぴたりと返される。
きつい言い方ではない。だが、入ってくるなという意思だけははっきりしていた。
「ここは、気づいた者が思いつきで手を入れると、かえって崩れます」
「私は崩すつもりは」
「つもりの話ではありません」
初めて、アグネスの声に苛立ちが混じった。
礼を崩すほどではない。けれど、この人は本当に現場を守る側なのだと分かる。
「……ごめんなさい」
「謝っていただくことでは」
言いながらも、アグネスはもう厨房のほうへ体を向けている。会話はそこで終わりだった。
「お部屋へ戻られたほうがよろしいかと」
「分かったわ」
アグネスは一礼だけ残して去った。
その背を見送りながら、エレノアは手袋の指を握った。
露骨に嫌われたわけではない。
怒鳴られたわけでも、侮辱されたわけでもない。
ただ、必要とされていない。
それが、王都で慣れてきた冷たさとは少し違う形で、じわりと痛んだ。
部屋へ戻る途中、廊下の角でマルタとすれ違った。
年の頃はかなり上だろうに、背筋がしゃんとしている。昨日、負傷兵の騒ぎの中で見かけた顔だった。
「奥方様」
「おはようございます」
「ええ」
マルタはじっと一度だけエレノアの顔を見た。
「ここの朝は早うございますでしょう」
「ええ。思った以上に」
「慣れるまでは、無理をなさいませんよう」
優しい声ではなかった。けれど追い返す声でもない。
エレノアは小さく頷く。
「ありがとう」
「礼を言われるほどのことでは」
マルタはそう言って歩き出しかけ、ふと思い出したように足を止めた。
「この屋敷の者は、皆せっかちです。冬が来る前に終えねばならぬことが多いものですから」
「……私のことも、急いで値踏みしているのかしら」
「しておりましょうね」
あまりにあっさり言われて、エレノアは目を見開く。
マルタは口元も動かさないまま続けた。
「ただ、嫌っているのと同じではございません」
その言葉だけ残して、今度こそ去っていった。
廊下に一人残される。
嫌っているのと同じではない。
慰めには、まだならなかった。




