表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第3章 飾り妻は歓迎されない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/15

第8話

北辺へ来て三日目の朝、エレノアは屋敷の流れを掴みかけていた。


夜明け前に厨房の火が大きくなり、その少しあとに下働きが水を運ぶ。日が高くなる前に薪が各棟へ配られ、夕方になると人の流れは表から裏へ寄る。暖炉、食事、寝具、戸締まり。寒さが深くなる前に済ませるべき順番が、屋敷じゅうに染みついている。


王都の屋敷より、人が忙しい。


いや、忙しいのではない。止まらないのだ。誰かが気を利かせて埋めてくれる余白も、立ち話のための隙間もない。ただ必要なことが先に流れていく。


エレノアは朝食のあと、部屋を出た。


公爵夫人として何をどこまで任されるのか、まだ誰からも説明はない。待っていれば、たぶん何も始まらない。


西棟へ向かう廊下ですれ違う侍女たちは、きちんと頭を下げる。礼はある。だがその目は、主人を見るというより、手順の一つをこなしている目だった。


応接間の前にいた若い侍従へ声をかける。


「家令か副家令に、少しお時間をいただけるかしら」

「……確認いたします」


侍従は一礼して去ったが、戻ってくるまでにやけに時間がかかった。


窓辺で待っていると、中庭を横切るアグネスの姿が見える。女中たちへ短く指示を飛ばしながら、振り向きもしない。無駄がなかった。


ようやく戻ってきた侍従が、控えめに言った。


「副家令がお会いになります」


案内されたのは、帳場に近い小さな部屋だった。


扉を開けると、オズウィンが書類に目を落としていた。顔を上げるのは、エレノアが入ってから一拍おいてからだ。


「奥方様」

「お忙しいところをありがとう」

「いえ」


勧められた椅子に腰を下ろす。オズウィンは座らない。机の向こうに立ったまま、必要なことだけ聞く顔をしている。


「ご用件を」

「この屋敷で、私が把握しておくべきことを教えていただきたいの。備蓄のこと、配分のこと、使用人の配置も」

「なぜですか」


あまりに早い問い返しだった。


エレノアは少し瞬く。


「なぜ、とは」

「奥方様が、そこまでを知る必要がどこにあるのかと」


声は丁寧だ。けれどその丁寧さが、壁になっている。


エレノアは机の上に置かれた帳面へ目をやった。表紙の端が擦れ、よく開かれているのが分かる。北辺では帳面も道具だ。


「公爵夫人には、屋敷の実務統率も役目の一つと伺っているわ」

「一般には」

「ここでは違うの?」

「ここでは、必要な者が必要なことをいたします」


切るような物言いではない。ただ、入る隙がない。


エレノアは息をひとつ置いた。


「私は北辺のことをまだ何も知らないわ。だからこそ、まず見たいの」

「見て、どうなさるおつもりですか」

「足りないものがあれば考えます」

「足りております」


即答だった。


それが本当か嘘かではなく、答えを用意していたのだと分かる速さだった。


「では、見せていただいても構わないでしょう」

「混乱はございませんので」


そこでようやく意味がはっきりした。


見せる必要がないのではない。


見せたくないのだ。


「私が南から来たから?」

「……」

「信用できないのね」


オズウィンの目が、初めてかすかに動いた。


「信用の話ではございません」

「では何?」

「この家は、寒さの前で遊べるほど余裕がありません」


静かな声だった。


その一言だけで、個人の好き嫌いではないのだと分かる。彼は本気でそう思っているのだ。南から来た、何も知らない花嫁に、現場を触らせる余裕はないと。


「奥方様に必要なものは整えます」

「私は、整えられるだけでいればいいと?」

「今は」


その二文字がひどく冷たかった。


今は、という形をしているくせに、いつ変わるとも言わない。


エレノアは立ち上がった。


「分かりました」


オズウィンは一礼した。その角度は正しい。だが通された客を送り出すのと同じで、夫人へ権限を預ける気配は一つもなかった。


部屋を出ると、廊下の冷えが身に沁みた。


そのまま部屋へ戻る気にはなれず、エレノアは裏階段の方へ足を向けた。人の流れを見るだけでも違うかもしれない。


厨房の前では、下働きの娘が大きな籠を抱えてよろめいていた。中には根菜がぎっしり入っている。手元が危うい。


「半分に分けたほうがいいわ」


声をかけると、娘はぎょっとして振り向いた。


「お、奥方様」

「そのままだと落とすわ」

「で、ですが」

「そこ、止まらないで」


横から飛んできた声に、娘がびくりと肩を跳ねさせる。


アグネスだった。


いつの間に来たのか分からないほど、足音がない。彼女は娘の籠をひょいと受け取ると、近くの台へ置いた。


「持ち方が悪い。腰で受けなさい」

「は、はい」

「行って」


娘は顔を青くしたまま去っていく。


アグネスはその背を見送ってから、ようやくエレノアを見た。


「こちらへは、何か」

「いいえ。少し見ていただけよ」

「そうですか」


それだけで済ませたが、視線は静かに固い。


エレノアは言った。


「重そうだったから」

「見れば分かります」

「だったら」

「分かる者が直します」


ぴたりと返される。


きつい言い方ではない。だが、入ってくるなという意思だけははっきりしていた。


「ここは、気づいた者が思いつきで手を入れると、かえって崩れます」

「私は崩すつもりは」

「つもりの話ではありません」


初めて、アグネスの声に苛立ちが混じった。


礼を崩すほどではない。けれど、この人は本当に現場を守る側なのだと分かる。


「……ごめんなさい」

「謝っていただくことでは」


言いながらも、アグネスはもう厨房のほうへ体を向けている。会話はそこで終わりだった。


「お部屋へ戻られたほうがよろしいかと」

「分かったわ」


アグネスは一礼だけ残して去った。


その背を見送りながら、エレノアは手袋の指を握った。


露骨に嫌われたわけではない。


怒鳴られたわけでも、侮辱されたわけでもない。


ただ、必要とされていない。


それが、王都で慣れてきた冷たさとは少し違う形で、じわりと痛んだ。


部屋へ戻る途中、廊下の角でマルタとすれ違った。


年の頃はかなり上だろうに、背筋がしゃんとしている。昨日、負傷兵の騒ぎの中で見かけた顔だった。


「奥方様」

「おはようございます」

「ええ」


マルタはじっと一度だけエレノアの顔を見た。


「ここの朝は早うございますでしょう」

「ええ。思った以上に」

「慣れるまでは、無理をなさいませんよう」


優しい声ではなかった。けれど追い返す声でもない。


エレノアは小さく頷く。


「ありがとう」

「礼を言われるほどのことでは」


マルタはそう言って歩き出しかけ、ふと思い出したように足を止めた。


「この屋敷の者は、皆せっかちです。冬が来る前に終えねばならぬことが多いものですから」

「……私のことも、急いで値踏みしているのかしら」

「しておりましょうね」


あまりにあっさり言われて、エレノアは目を見開く。


マルタは口元も動かさないまま続けた。


「ただ、嫌っているのと同じではございません」


その言葉だけ残して、今度こそ去っていった。


廊下に一人残される。


嫌っているのと同じではない。


慰めには、まだならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ