第7話
翌朝、目が覚めた時には、部屋の火はほとんど落ちていた。
北辺の朝は遅いのかと思っていたが、違った。窓の外はまだ白んだばかりなのに、中庭にはもう人の気配がある。薪を運ぶ音、馬の鼻を鳴らす声、桶の水が揺れる音。屋敷そのものが、夜の続きのように動いていた。
寝台を出た途端、足元から冷えが上がってくる。
エレノアは外套を羽織り、昨夜自分で留めた窓金具を確かめた。紐はほどけていない。けれど硝子の向こうはうっすら曇り、石の手すりには細い霜がついていた。
扉が叩かれたのは、身支度を半ば終えた頃だった。
入ってきたのは、昨日とは別の侍女だった。まだ若い。だが目だけは妙に用心深い。
「朝食をお持ちしました」
「ありがとう」
盆には湯気の立つ粥と、塩気の強い肉の煮込みが少し、それに黒パン。王都なら朝から出ない重さだが、この土地ではそれが普通なのだろう。
侍女は盆を置くと、それ以上の世話はしないまま立ち去ろうとした。
「あの」
呼び止めると、侍女の肩がぴくりと動く。
「昨夜、見つからなかった小箱のことだけれど」
「確認中と聞いております」
「そう」
「見つかれば運ばれます」
「見つからなければ?」
「……」
侍女は一拍だけ黙った。
「その時は、改めて家令へ」
それだけ言って礼をし、今度こそ出ていった。
見つかれば運ばれる。見つからなければ、改めて。
悪意があるわけではない。ただ、優先されていないのだ。
エレノアは椅子に座り、粥を口へ運んだ。温かい。塩も濃い。昨日の食事と同じで、味付けはきついのに、食べれば体の奥へ落ちていく感じがある。
半分ほど食べたところで、再び扉が叩かれた。
今度はアグネスだった。
「おはようございます、奥方様」
「おはようございます」
「公爵様がお時間を取られます。お食事が済みましたら、西棟の小応接間へ」
食事が済みましたら。
催促でも遠慮でもない、事務の声だった。
「分かりました」
「ご案内は不要ですか」
「場所が分からないわ」
「では、後ほど迎えを寄越します」
それだけ告げて、アグネスは扉へ向かった。
「あの」
また呼び止めると、今度はすぐに足を止めた。
「昨夜の方は」
「峠は越えました」
「そう」
ほっと息が抜けそうになり、こらえる。
アグネスはその気配を見たのか見ないのか、表情を変えなかった。
「ですが、奥方様が気に病まれることではございません」
「気に病んだのではなく、気になったの」
「……でしょうね」
わずか、声の角が変わった。けれど次の瞬間には消える。
「お支度を」
扉が閉まる。
食器の音だけが部屋に残った。
西棟の小応接間は、本邸の中心に近い場所だった。昨日通された東棟より廊下の行き来が多く、暖炉の熱もましだ。だが、そのぶん人の視線もある。
案内の侍女について歩く間、出会う使用人たちは皆きちんと頭を下げる。それ以上はない。花嫁に向ける華やぎも、好奇心も、見当たらなかった。
応接間の前には、オズウィンが立っていた。
「奥方様」
一礼の角度は正しい。
「公爵様がお待ちです」
「ありがとう」
扉に手をかけたオズウィンが、開ける前にひと言だけ添えた。
「公爵様はお忙しい方ですので」
返事を求めない言い方だった。
長く話すな、と受け取れなくもない。
エレノアは何も言わず、開かれた扉の向こうへ入った。
小応接間は広くなかった。暖炉の火は入っているが、装飾は少ない。壁に掛けられた地図と、低い書棚、机の上に置かれた書類の束。客をくつろがせる部屋ではない。短く話を済ませるための場所に見えた。
窓際に立っていた男が振り向く。
ヴィクトル・ノルデンフェルト公爵は、今日は血のついていない上着を着ていた。
それだけで別人のように見えるはずなのに、そうはならない。静かな圧は昨日のままだ。背が高く、肩が広い。髪は暗い色で、きれいに整えているのに隙がない。顔立ちは整っているのに、柔らかさに結びつくものが一つもないせいで、美丈夫という言葉が先に浮かぶより、近寄り難さが勝つ。
そして、噂で聞くより若かった。
王都で囁かれていた「年かさの戦傷持ち」めいた噂は、半分ほど外れていたらしい。
だがその若さも、目が合った途端に意味を失う。
薄い色の目が、昨日と同じように余計なものを削ぎ落とした温度でこちらを見た。
「座れ」
それが最初の言葉だった。
エレノアは一礼して、勧められた椅子に腰を下ろす。ヴィクトルは向かいではなく、机を挟んだ正面に立ったままだ。座る気はないらしい。
沈黙が落ちる。
気まずさより、測られている感覚のほうが強い沈黙だった。
先に口を開いたのは、ヴィクトルだった。
「道中、問題は」
「ございません」
「そうか」
短い。
そのまま終わりそうな間を置いてから、彼は机の上の書類へ一瞬視線を落とし、また戻した。
「話しておく」
それだけで、空気が少し硬くなる。
エレノアは背筋を伸ばした。
「お前は今日からこの家の夫人だ。必要な体面は整える」
「はい」
「不足があればアグネスか家令へ言え」
「承知しました」
そこで終わるかに見えたが、ヴィクトルは続けた。
「ただし、私に夫としての情を求めるな」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
王都の噂を思い出すまでもなかった。はっきり言われると、かえって胸は静かだった。
愛されないだろうことなど、ここへ来る前から分かっている。
それでも言葉にされると、線が引かれる音がする。
ヴィクトルの声は変わらない。
「この婚姻は必要があって結んだ。お前に不足がなければ、それでいい」
「……不足、ですか」
「地位、衣食住、名目上の敬意。妻として外聞を損ねる扱いはしない」
侯爵家で曖昧に与えられていたものより、線だけははっきりしていた。
エレノアは膝の上で指を組み直した。
「承知いたしました」
「泣かないのだな」
思わず顔を上げる。
ヴィクトルは不思議そうでも、嘲るようでもなかった。ただ事実として確認しただけの声だった。
エレノアは息をつく。
「泣いて、何か変わるのでしたら」
「変わらない」
「でしたら、泣く意味がございません」
答えると、ヴィクトルの目がかすかに細くなった。
気分を害したのかと思ったが、違った。ただ見直したのでも、興味を持ったのでもない。何か、予定と違ったものを前にした顔に近い。
「そうか」
また短く返される。
エレノアは迷った。
ここで黙って終えれば、それで済む。賢いやり方だろう。着いたばかりで、余計な印象を足すべきではない。
それでも、口が先に動いた。
「では、私からも一つ」
ヴィクトルの視線が動く。
「何だ」
「昨日の方は助かると伺いました」
「……ああ」
「よかったです」
言ってから、自分でも妙なことを口にしたと気づいた。夫への最初の言葉が、それなのかと。
けれどほかに確かめたいことは思いつかなかった。
ヴィクトルは黙っていたが、やがて低く返す。
「お前が気にすることではない」
「そうかもしれません」
「なら」
切るような声だった。
エレノアは頷く。
「失礼いたしました」
もう終わりだと思った時、彼がふいに尋ねた。
「昨日、傷の手当てに口を出そうとしたな」
「……はい」
「なぜだ」
責める声ではない。だが柔らかくもない。答え方を誤れば、出過ぎた女の烙印だけが残る。
エレノアは考えた。
「押さえる位置が違ったように見えました」
「見えた?」
「実家で、軽い怪我人の手当てくらいは」
「侯爵家でか」
その一言に、言葉が詰まる。
貴族の娘がそんなことに慣れているのは、不自然だ。分かっていた。昨日、口を出した瞬間から。
けれど取り繕うのも違う。
「……屋敷の中で、手が足りない時がございましたので」
「侍女の真似事か」
「真似ではなく、必要でした」
答えた瞬間、自分でも強かったと思う。
応接間の空気が静まる。
ヴィクトルはしばらく黙っていた。怒るのかと身構えたが、そうではないらしい。ただ、まっすぐこちらを見ている。
その視線が居心地悪くて、エレノアは目を伏せそうになるのをこらえた。
やがて彼が言う。
「この屋敷で勝手はするな」
「承知しております」
「必要のない無茶もだ」
「……はい」
昨日のあれを言っているのではなく、一般論として釘を刺されたのだろう。だが、少し引っかかる言い方だった。
ヴィクトルは机の端に置かれた書類を手に取る。
話は終わりだと分かった。
エレノアは立ち上がり、一礼した。
「では、失礼いたします」
「待て」
足が止まる。
ヴィクトルは書類から目を上げずに言った。
「小箱が一つ、紛れていたそうだ」
「……え」
「後で部屋へ運ばせる」
肩に入っていた力が抜けた。
表には出さないように気をつけながら、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。荷の仕分けが遅れただけだ」
それも事実なのだろう。
それでも、見つかったとだけ先に告げたのは、この人だ。
エレノアはもう一度礼をして、部屋を出た。
扉の外にはオズウィンがいた。
待っていたのではなく、通りかかっただけという顔をしている。
「お話は終わりましたか」
「ええ」
「では、お部屋へ」
並んで歩く形になる。オズウィンはきっちり半歩前だ。
しばらく無言だったが、階段に差しかかったところで、彼が平たく言った。
「公爵様は多忙なお方です」
「そうでしょうね」
「夫人としてお過ごしいただくぶんには不足のないよう整えます。ですが、この屋敷の実務は複雑です。慣れぬうちは、あまりご心配なさらぬほうが」
丁寧な言葉のかたちをしている。けれど意味は明白だった。
手を出すな。
エレノアは横顔を見る。
若い。整った顔立ちだが、こちらへ向ける目に柔らかさがない。敵意ではなく警戒だ。個人的な好き嫌いではなく、外から来た者を中枢へ近づけないための目だった。
「ご忠告、ありがとうございます」
「いえ」
それで会話は切れた。
部屋へ戻ると、例の小箱が机の上に置かれていた。
ふたを開ける。中身はそのままだ。櫛も、走り書きの紙もある。
エレノアは箱を閉じ、そっと息を吐いた。
愛情は求めるな。
必要な体面は整える。
言われたことは冷たかった。けれど曖昧ではないぶん、まだましだとも思う。期待させるだけ期待させて、最後には何も残さない人間を、エレノアは知っている。
窓の外で、風が強くなる。
この屋敷で自分にできることがあるのか、まだ分からない。歓迎もされていない。夫は線を引き、副家令は締め出す気でいる。
それでも、少なくとも一つだけは分かった。
泣いても縋っても、この土地では何も始まらない。
だったら、始め方は別に探すしかない。




